テレビ朝日のドラマ「下北サンデーズ」(原作:石田衣良『下北サンデーズ』幻冬舎)が放送終了した。
全10話の予定が、シンクロナイズドスイミングの放送のため1話繰上げで打ち切りとなったとしている。
――が、視聴率が良ければそんなことはしないだろうから(最終公演、つまり最終回の視聴率は6.3%)、一般的に見ても資料率低迷の影響だと推測される。
そんな全9話になった「下北サンデーズ」をすべて観たという方はいらっしゃるだろうか。
私は第1話だけを見逃しただけで、ほかはすべて観た。
はじめてこのドラマを観たときの感想は、題材(下北沢・演劇)がマニアックで、キャラクターが濃い味で、ノリにくいといったものだった。
早い話が深夜向きだと感じた。深夜枠、例えば23時台や0時台に30分から40分ほどの尺のドラマならば、一部のコアなファンを獲得できたかもしれない。
しかしゴールデンタイムであの作風はツライ。
たかはなんとな~く観つづけているうちに、これをゴールデンで放送する思い切ったジャレンジ精神が、回が重ねるごとにいったいどうなっていくのかちょっぴり興味が出てきて「下北サンデーズ」を観つづけた。
結論からいうと、どうにもならなかった。
ゴールデンらしからぬノリと雰囲気は新鮮味があってよかったが、なぜ下北沢なのか、なぜ演劇なのか、がイマイチ伝わってこなかった。
下北沢がワカモノに人気がある街だから。原作が売れっ子作家の小説だから。そこで上戸彩と藤井フミヤをキャスティングして、勢いだけで走り出してしまったかのようだ。
そもそも、下北沢はなぜ人気があるのだろう。
地方在住の中高生のなかには、吉祥寺、三軒茶屋、下北沢という街に憧れをもっている者がすくなくないという。
ではそれらの街に行ってなにがしたいのかというと、ある地方在住の少女は下北沢に行って道端のガードレールかなにかに一日中腰掛けて道ゆく人々をを眺めているだけで、あぁここが私の居場所なんだなぁ、とホッとするのだというのをテレビのインタビューかなにかで見たことがある。
それって街のホットステーション?
ならば下北沢でなくても、地元にもあるかもしれないぞ(笑)
なぜ下北沢の道端でホッとするのか。それは使い古された言い方をするならば「カタログ文化の申し子」とでもいえよう。
テレビや雑誌でいつも見ている下北沢は、たとえそこに1度も行ったことがなくても、よく知っている馴染みの場所に思えてしまう。
テレビでよく見る芸能人を街で見かけておもわず親しげに話し掛けたAさん。芸能人にしてみれば、当然にAさんのことなど知らない。
これと同じことが下北沢にも当てはまる。
下北沢という街はAさんのことなど知らないが、Aさんは下北沢をよく知っていて(と思っている)、親しみを持っている。
では、なぜ地方のワカモノは下北沢に憧れを持つのだろうか。
自分の地元が、自分がよく見るテレビや雑誌にとりあげられることはめったにないが、下北沢はよくとりあげられる。
つまり、自分の地元にはないものが下北沢にはあるというわけだ。
地元になくて下北沢にあるもの。それが何なのか。
具体的なものである必要はない。地元ではない、他人がうらやむ場所や雰囲気に自分も参加できていると感じるだけで充足感を得られるのである。
だから、下北沢にやってきた地方のワカモノはそこでなにをするわけでもなく街をブラブラする。それでいいのだ。なぜなら彼ら(彼女ら)は、なにかをするために下北沢にやってきたのではなく、下北沢という街にいることが目的なのだから。
それは、ひとむかしもふたむかしまえの「アメリカ合衆国に行ってきました。ニューヨークに住んでいました」というだけで「おぉ!」と思われたあの感覚とたいして変らない。
ニューヨークに、東京に、下北沢にいるだけで自分がなにかすごいことをしている、すごい状況にいると感じることができる。これはある意味で特権である。
ニューヨークで、東京で、下北沢で生まれ育った人にとっては、その街は日常である。
ニューヨークにいるから、東京にいるから、下北沢にいるから、ということは日常であって、そこに特別な意味を見出すことはない。
しかし地方・地元を持つ者は、地方・地元との比較・対比によって下北沢で過ごす時間を特別なものとすることができる。
だから「下北沢でなにもする必要はない」のである。ましてけっしてもうワカモノとはいえない者が貧乏をしながら演劇を続ける苦労話なんぞに、地方のワカモノは興味がないどころか、そういうものはなるべく見たくはないのだ。
カタログ文化で醸成された、自分によって居心地のいい場所に、泥臭く貧乏く、まるで地元の共同体を彷彿とさせるかのような小さな劇団という集団生活なんぞを混ぜたくはないのである。
六本木や銀座で派手な暮らしをすることははじめからあきらめているが、下北沢あたりの雰囲気を味わいながらまったりのんびりと暮らしたい(とはいっても下北沢あたりは家賃高いゾ)。
そんな夢の世界に、貧乏やしがらみのある小さな共同体はいらないのである。
では、都市部に生まれ育った人たちにとって下北沢はどうかというと、夜遅くまで営業している飲み屋が多いといった利用価値としての評価が多い。
ではでは、下北沢あたりで実際に演劇をしている人たちにとってはどうか。
ドラマのように本多劇場で芝居をできる劇団はそうそうないだろうし、芝居をすればするほど金がかかる。そんな状況をおもしろおかしくテレビドラマ化されたところで、あまりいい気はしないだろう。
小劇団で演劇をするというのは、ある意味お金と時間をかけた趣味ともいえる。趣味についてとやかく言う人はいないのだし、好きでやっていて本人が満足ならそれでいいのである。
趣味の基本は自己満足や自己完結なので、趣味という枠の外のことについては、はっきり言ってどうでもいいのである。
さて、以上のように考察してみてふと思う。
「下北サンデーズ」はいったいだれが観ればいいのだろうか?
テレビドラマ好きだろうか?
しかし、主人公里中ゆいかはテレビドラマというメジャーの世界を選ばずに、劇団というマイナーの世界に戻っていった。
テレビドラマを否定したのである。そして戻っていた先は劇団という小さな世界。
これではテレビドラマ好きな人は、まるで自分を否定されたかのように感じてしまうだろうし「下北サンデーズ」というテレビドラマを作ってるあなたたちは、こうしたテレビドラマの世界の描かれ方が笑いにもなっていないことについてどう思っているのか、自分たちの仕事に誇りはないの? と首を傾げてしまうだろう。
また、夢をかなえるとか夢をあきらめないとか、そういったありきたりなフレーズがたくさん使われた「下北サンデーズ」だが「夢」という言葉さえ連呼しておけばワカモノ向きでいいだろうという安易さが露骨に出てしまったところもイマドキのワカモノを小馬鹿にしているのではいかと思われるリスクがある。
かわいいアイドルとして人気の上戸彩も、前髪そろえたおかっぱ頭にジャージ姿が多い。それもまたかわいいといえばかわいいが、やはりアイドルが綺麗でかわいい服で登場するシーンをある程度用意しておいたほうがいい。
ということで、いったいだれがどこをどう楽しめばいいのかさっぱりわからないドラマになってしまった。
こういったハチャメチャ破滅系とでもいうドラマの味は、深夜でこそ味わい深くなる。
深夜向けのドラマをあえてゴールデンにもってきたところに何か秘策があるのかもと思ったが、どうやらノープランだったようである……。
それで「下北サンデーズ」から学べることはなにかといえば、それは日本のほとんどのワカモノは地方在住であり、進学や就職を機会に都会にやってくるという点をあらためて認識することだ。
地方のワカモノが「カタログ文化」によって地元との対比でで思い描くまだ見ぬ世界(例:ニューヨーク、東京、下北沢)でどうしたいのか? を読み取ることができれば、あとはそれに合致するものをチラ見(下北沢で演劇をみせる必要はない。だた道端に座らせる)させるだけでいいのだ。
ニーズを読み違えるな、ということである。
≪ひとりごと≫
こんな記事を書けるネタを提供してくれたし、個人的にはけっこう楽しめたぞ「下北サンデーズ」!
ちなみに私は駅前劇場では観劇したことがある。劇団新感線の若手の役者さん(中谷さとみ・タイソン大屋)を中心としたユニットの演劇を観た。
そうえば「下北サンデーズ」には劇団新線の所属俳優・古田新太さんが、サンデーズにスタジオを貸しているオーナー・下馬伸朗役で出演していたなぁ。