10/04/2009

映画「クローズZERO II」


▼「クローズZERO II」
監督:三池崇史
2009年/日本/133分
原作:高橋ヒロシ『クローズ』


「ZERO」なのに「II」ってどういうことやねん!


とおもわずどこぞのお笑い芸人がツッコんだという話題のやんちゃ映画を紹介しよう。


前作「クローズZERO」は、原作の1年前に起きた抗争を描いたもの。だから「ZERO」なわけだ。そしてZEROのその後を描いた作品が「クローズZERO II」というわけである。


「クローズZERO」で滝谷源治率いるG.P.S(ゲンジ・パーフェクト・制覇)が芹沢多摩雄率いる芹沢軍団を僅差で負かした。


不良たちの巣窟でいまだかつてその頂点に立った者がいない鈴蘭高校をついに源治が統一したか! と思われたが「クローズZERO II」ではどうもそうでもない。


相変わらず芹沢軍団は存在するし、他の勢力グループもある。みんな源治の強さは認めるものの、その配下に入ったわけではない。だからG.P.Sは相変わらず鈴蘭高校の一勢力にすぎない。


内部がまとまらないときはどうするか。米国なんかみると典型だが、そういうときの常套手段は外に敵をつくることだ。


そこで登場するのが鳳仙学園である。転校生の源治は鈴蘭高校と鳳仙学園との血の抗争の歴史を知らず、両校の休戦協定を破ってしまう。


鳳仙なめんなよ。ニャー! とばかりに(なめ猫? 映画でニャー!は言ってないぞ)鈴蘭高校と互角かそれ以上のケンカ強さを誇る鳳仙との全面戦争に突入するには、G.P.Sだけでは負けるのはやるまえから目にみえている。なんってたって頭数が足りない。


やるなら鈴蘭高校の全勢力を結集しなきゃならねぇ。


仲間思いの源治だが、もともと人付き合いが苦手で単独行動が目立ことからG.P.Sのメンバー以外にはいまいち慕われていない。源治が全校生徒に鳳仙への殴り込みを呼びかけても、集まったのは一部。


俺たちだけじゃ負けは目にみえてる。どうする源治? というG.P.Sのメンバーの問いに、源治はG.P.Sの解散を宣言する。


あきれるG.P.Sメンバーがいるも、源治の真意を知った鈴蘭高校の漢(おとこ)たちは……。


力だけじゃ人をまとめられない。そこにハートがなくちゃ! というお決まりの典型パターンには安定感がある。


そこに人気若手イケメン俳優を集めて、キャラのバリエーションの広さと、多少無理気味な笑いのジャブ、そして片桐拳というキャラクターのとってつけた感がぬぐえない義理人情コーナーも付ける。


けっしてスマートとはいえないが、そんなちぐはぐさがかえって男っぽい。


手のかかる子ほどかわいいというが、まさにそんな作品だ。


これを狙って作ったのか、たまたまそうなったのかはわからないが、男はなんだかんだいってこういう話が大好きである。


それに、この作品には教師が出てこない。高校生が主役の作品にもかかわらずそのものズバリの学校の先生は、その存在の雰囲気さえ皆無だ。


不良とくれば、そこに熱血教師をぶつけて感動を狙うというのはドラマの世界では定石である。だが映画「クローズZERO」シリーズではそういったことはしない。


高校OBの片桐拳や源治の父親や同じ高校生たちとの関係を通して、主人公は自身の悩みや障害(物語上のコンフリクツ)を乗り越えようともがく。


いうまでもなく、現実には金八先生もラグビー部監督で教師の滝沢賢治(スクール☆ウォーズ)もヤンクミ(ごくせん)も野球部顧問で教師の川藤幸一(ルーキーズ)も存在しない。


存在するのは、それら架空のキャラクターに憧れる者たちだ。


憧れと願望に応えて熱血教師を登場させれば、これほど楽なことはない。


ところが「クローズZERO」シリーズはそのものズバリの教師をぶつけることはせずに、高校OBでチンピラだが熱い魂を持っている片桐拳や、組長の父親や、ライブハウスの女性ボーカリスト逢沢ルカや、同じ高校生たちとの係わり合いで「青春する」。


熱血教師とのぶつかりという「作られた感がベットリの青春」に走ることなく、身近な人々とのさまざまな係わり合いを通して「青春の一ページを作り」あげている。この点がたいへん好感が持てるのだ。


坊主と学ランが入り乱れてひたすら殴り合う映像は痛さが伝わらずにまるでテレビゲーム(ビデオゲーム)のようでもあるが、なるほどこれは野郎共も楽しめるイケメン大運動会ととらえるならば、なかなか飽きさせない催しモノであった。


「クローズ ZERO」からの流れがわからないと「?」なところがあるので、前作を観てからの鑑賞をおすすめする。

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▼映画「クローズ ZERO」作品レビュー

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08/05/2009

映画「容疑者Xの献身」

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▼「容疑者Xの献身」
監督:西谷弘
2008年/日本/128分
原作:東野圭吾『容疑者Xの献身』


「容疑者Xの献身」は東野圭吾の物理学者湯川シリーズ「探偵ガリレオ」「予知夢」のドラマ化で高視聴率を記録したテレビドラマ「ガリレオ」の劇場用映画作品です。


しかし映画作品のタイトルに「ガリレオ」ということばを使っていません。


実際、ドラマと映画ではちょっと違います。


もちろん映画でも天才物理学者の湯川教授役の福山雅治や、刑事役の柴咲コウといったキャストはドラマと同じですが、その内容や雰囲気は別物といってもいいかもしれません。


ドラマのほうがコミカルで明るく、映画のほうがシリアスで暗いといってしまえばそれまでですが、ドラマを見たことがない人でも十分楽しめる映画作品になっています。


ドラマから映画へ、という作品の多くはドラマのファンをメインターゲットとしていますが、映画単体でもじゅうぶんOKな「容疑者Xの献身」は、やはり原作小説がすばらしいからでしょう、ドラマの固定ファンのみならず幅広い層の人々にアピールする力を持っています。


とかいいつつ、私は原作小説を読んでいません。おそらく、原作小説を読んだ観客は、原作のほうがいいと言うでしょう。でも原作のある映画についての原作ファンの感想は、たいがいそんなものです。


文章と映像。それぞれの領域でがんばって作った結果、それ自体でおもしろいかどうかが大事なのです。その点、映画「容疑者Xの献身」はじゅうぶんに観る価値のあるスゴい作品です。


謎解きやトリックを用いるドラマや映画では、その謎の「方法」だけでなく「動機」も重要で、むしろ動機にこそ「人間」が描かれる度合いが大きく、その内容如何によって作品の評価もおおきく違ってくるもの。


「容疑者Xの献身」では、誰が犯人かは初めに明らかにされます。


観客に与えられるのは、殺害という事実の隠ぺい工作にどのようなトリックが使われているかという謎と、隠ぺい工作を行う天才数学者・石神哲哉(堤真一)の動機の謎の解明のカタルシスです。


このうち、観客をミスリードさせる隠ぺい工作の巧みさは見事です。本格推理かどうかという論争(?)もあるようですが、特別な思い入れのあるコアな推理ファンでなければ、そのあたりは気にしなくてOKです。


私は推理モノの作品はあれこれ推理せずに作者のミスリードにも素直にノッて楽しもうとすることが多いのですが、それがミスリードであるとミエミエでない程度にうまくミスリードするあたりは、さすが東野圭吾の原作ですね。


そして天才数学者・石神(堤真一)の動機の謎については、原作ファンたちにとっては物足りなさを感じるようです。どうやら原作ではそのあたりについて納得できる詳細なシーンが書かれているようなのですが、映画では時間の都合上、細部にわたって映像することは難しいとする声があるようです。


具体的には、映画作品では天才数学者・石神役の堤真一が男前であることや、高校教師である彼の職業や生活がそれほどわるい(悲惨)とは思えないところにあるようです。


原作小説では石神がどのように描写されているのかはわかりませんが、たしかに石神役の堤真一は地味なスーツ姿で終始うつむき加減で冴えない中年男を演じています。でも、なにぶん堤真一は「素材」が良くて男前なために、容姿的にイケてないのではなく、服装がイケてないだけという印象を与えやすいでしょう。


さらに映画作品中の、大学の同期生である湯川教授への石神のセリフに「君はいつまでも若々しくていいな」といった意味のものがあり、これが動機に関する重要な点となっているからも「石神の容姿」はもっとみすぼらしいものではくてはならないという声もあるようです。


そういった意味でも、石神役を堤真一にしたことをミスキャストとする意見もあるようですが、むしろリアリティがあると思います。


というのは、ある程度の容姿の良し悪しはパッと見でわかるものの、そうはいっても容姿の良し悪しは好みの問題でることがほとんどだからです。


ずっと自分がイケメンだとおもっている三枚目なんて、世の中には星の数ほどいます。


裏原あたりでオシャレのカリスマといわれている人だって、そこが原宿界隈でファッションが個性的、というか奇抜だからそう自称しているだけで、よく見たら冴えないオッサンだったということは、よくあることです。


他にも、多くの人たちは美人だと言ってくれるのに、自分の鼻の高さが足りないと思っているのでとうてい美人とは思えずに人目をさけるようにしている、なんてこともありがちです。


結局「見せ方」の問題だったり「自分の理想とのギャップ」の問題だったりというのが「美」や「容姿」のリアルなところでしょう。


天才数学者の石神は、それなりの小奇麗な見栄えのいい服を着て堂々としていればかっこいい男性です。腹も出ていませんし、身長もそこそあるし、禿げてもいません。給料や待遇だってけっこう良さそうな安定した高校教師すし、住まいだって都内の2DKぐらいのアパートです。


独身だし、お金のかかる趣味もないようですから、もうちょっと家賃の高い立派なマンションにだってその気になれば住めそうです。


容姿的にも経済的にも世間的にも、わるくありません。というか、婚活中の独身アラサー・アラフォー女性にとっては結婚相手として申し分ないんじゃないでしょうか。


ところが石神は天才数学者でありながら家庭の事情で大学に残ることができなかった。もしも大学で研究を続けていればまちがいなく教授になって数学の研究を続けていたことでしょう。


そもそも数学というジャンルは、数学者の数も少なく、大学以外で活躍できる場はほとんどないと言っていいかもしれません。


化学や物理学なら、企業の研究所で働くという道もいろいろありますが、数学というジャンルは数学者の数もほかの分野に比べると少なくて、活躍できるフィールドも少ないとどこかできいたことがあるように思います。


それに石神はただの数学者ではありません。天才物理学者の湯川教授が認める、天才数学者です。


類稀なる能力を授かったのに、それを発揮する場を得られない。


それは、絶望の中にいることを意味します。


絶望から彼を救ってくれたのは、新たな光。具体的にはアパートの隣の部屋に引っ越してきた花岡親子(母娘)です。


唯一の希望だった数学の道を閉ざされたと感じ、絶望の中にいた石神が数学以外の希望の光をみつけた。


その意義の大きさを想像するならば、石神の容姿や待遇が世間一般的にみて悪くないどころか、良いほうにおもえればおもえるほど、リアリティが増すのです。


昔は数学さえあれば、数学さえできれば良かった。しかしその唯一の数学研究の職の道が閉ざされて絶望の中にいたときに射し込んだ一筋の光。


石神の容姿や待遇が良ければ良いほど、彼の心情のリアリティが浮き彫りになるのです。


だから、原作小説で石神の容姿や待遇がどのように描かれているのかは知りませんが、映画「容疑者Xの献身」で石神役を堤真一にしたのは、それはそれでじゅうぶんに「アリ」だと思います。


花岡靖子役の松雪泰子もスゴくいい芝居をしていますヨ。


なにはともあれ「容疑者Xの献身」は、心の琴線に触れる作品です。


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04/21/2009

映画「ICHI」

B001Q2HO46ICHI スタンダード・エディション [DVD]
綾瀬はるか, 大沢たかお, 中村獅童, 窪塚洋介, 曽利文彦
ジェネオン エンタテインメント 2009-04-03

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監督:曽利文彦
日本/2008年/120分

コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
かつて「ジャックナイフ芸人」「2丁目劇場の黒いナイフ/黒いバラ」と呼ばれた男がいたことをご存知だろうか。

「ジャックナイフ」と呼ばれ、近づく者を怪我させそうな危険な香りを漂わせた男が、今では「バターナイフやないか」と言われて笑いをとっている。

それは千原兄弟の千原ジュニアというお笑い芸人である。

いまや売れっ子お笑い芸人となった千原ジュニア。ジャックナイフ芸人と呼ばれたのは、切れ味の鋭い芸風のみならず、どこかしら近づく者を片っ端から傷つけかねないような危険な香りを放っていたからかもしれない。

さて、女座頭市こと市のセリフに「なに斬るかわかんないよ、見えないんだからさ」というのがある。

それはまさに市の生き方を表している。育った境遇やさまざまな出来事の重なりによって、市は生きていく指針がわからなくなっているのだ。

「見えない」は市の目が見えないことだけでなく、生きていく道が見えなくなっていることを表している。

だから市は居合い斬りの技を持っていても、それをだれかを助けることに使おうとはしない。あくまで自分に関わってくるよくないと判断したものを、まるでゴミ掃除でもするかのように淡々と斬り捨てるのだ。

そんな市はあるとき、刀を抜くことができない侍の藤平十馬の命を助ける。

近づく者を斬り捨ててきた市が、人を助けるために剣を振るったことで出会いが生まれる。

近づく者を斬り捨ててきた市と、刀が抜けないのにおせっかいに人を助けようとする藤平十馬。

相反するようなキャラクターのふたりが出会うことで物語が動き出す。

そんなわけで、これはただのチャンバラ(斬り合い)映画ではない。

もしも女座頭市の居合い斬りシーンだけを期待して観るなら、作品を堪能することはできないだろう。

そもそも市の居合い斬りは迫力があるが、そうはいっても超達人技で完璧というわけではないない。木刀を持った。藤平十馬にはけっこうあっさり負かされてしまう。

それでも市の居合い斬りはスゴいのだが、悪人雑魚キャラを斬れば斬るほど市の生きることへの不器用さと孤独がどんどん積み重なっていくかのようなのだ。

それはまるで「ジャックナイフ芸人」と呼ばれて周囲を凍りつかせていた千原ジュニアの、さびしさを感じさせる背中のようでもある。

急性肝炎とオートバイ事故で2度生死の境をさまよった千原ジュニアが周囲の芸人仲間たちに支えられ、東京進出後は特に丸くなって「バターナイフ」とまで言われて笑いを取って売れっ子芸人になったように、市も藤平十馬と出会ったことで何を斬るべきか、つまりどう生きていくかの指針を得ることができるようになるのだ。

このように人生のドラマをしっかり描くことができたのは、やはり市を演じた綾瀬はるかによるところが大きい。

市のような影(立体的なキャラクター)を演じることができるかどうかは、役者としての力量と、持って生まれた容姿を含めた才能がものをいう。

その点で綾瀬はるかは、コメディからシリアスまで幅広い役をこなすことができるし、さらに「影(立体的なキャラクター)」も付けられる女優だ。

そんな綾瀬はるかを盛り立てるかのように藤平十馬役の大沢たかおもいい味を出しているし、宿場町を取り仕切る組の若頭役の窪塚洋介や、年老いた組頭の柄本明なんかもスパイスがピリリと効いている。

ところが、そんな程よい按排も強盗団の頭の中村獅童が映るたびにチープぽっくなってしまう。

ゴディバのチョコ類にチロルチョコがひとつ混じっているようなかんじだ。

もちろんチロルチョコだっておいしいが、レダラッハやヴァローナにもチロルチョコが混じっていたら、それはちょっと違うだろう、といいたくもなる。

悪役というのはたいへん難しいことは皆わかっているが、日本映画だけでなく海外の映画でも日本人の悪役の親分クラスといえば中村獅童というキャスティングは、ちょっと考えたほうがいいだろう。

悪役の親分クラスよりも、愛嬌のある下っ端チンピラ役のほうがよっぽど役者として輝けるのではないか。

悪役の親分クラスなら中村獅童にしなければならないようなシステムや慣習や圧力みたいなのがあるのか、それとも悪役は中村獅童でいいんじゃねぇ~的な安易なキャスティングなのか……。

悪役は主役以上にその作品の雰囲気に大きな影響を与えることにもうちょっと配慮してほしかった。

中村獅童は役者としてはいいが、どうも彼に合わない役どころが多すぎるようだ。宮崎あおいほどまでとはいわないが、そこそこ名のある俳優なら、役(仕事)をそこそこ選ぶことも必要だろう。

「ICHI」は人間ドラマである。チャンバラだけを期待しないように。

デート      △
フラッと     ○
演出       ○
アクション    ○
キャラクター   ○
笑い       -
映像       ○
ファミリー    -
世界観      ○
奥深さ      ◎

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02/15/2009

映画「椿三十郎」

B0014B89YS椿三十郎 通常盤 [DVD]
織田裕二, 豊川悦司, 松山ケンイチ, 鈴木杏
エイベックス・エンタテインメント 2008-05-23

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「椿三十郎」
監督:森田芳光
日本/2007年/119分

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
――夜。社殿の中。

九人の若侍たちが上役の汚職を暴き出そうと密議の真っ最中に、ひとりの浪人が現れる。

浪人が若侍たちが頼りにする大目付の菊井こそが黒幕だと見抜いた、その矢先であった。

案の定、菊井の手の者たちによって社殿が包囲される。若侍たちは死を覚悟して刀を手に飛び出そうとするが、それを浪人が止める。

命びろいした若侍たちは浪人と共に、とらわれた城代家老睦田の救出に向かう。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△椿三十郎
浪人

△室戸半兵衛
黒藤(次席家老)の部下

△睦田
城代家老

△竹林(国許用人)、黒藤(次席家老)、菊井(大目付)
汚職の中心人物の面々

△井坂伊織
 睦田(城代家老の甥)。9人の若侍のひとり。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――

■ ただただおもしろい

この作品は黒澤明監督の「椿三十郎」のリメイクである。

リメイクするとなれば現代風のアレンジを加えて新ヴァージョンの作品を世に送り出したいと願うのがふつうだろう。

しかし、黒澤明という名に遠慮したのか、オリジナルの脚本そのままにしたことが結果的によかった。

そもそも黒澤明監督の「椿三十郎」の脚本は複数の脚本家たちによって書かれた共同脚本であるから、余分な部分を徹底的に削ぎ落として、だれにでもわかる、だれにでもたのしめる作品になっている。そんな脚本はいじりようがない。

もし脚本をいじろうものなら、観るも無残なリメイクの失敗作の代表になっていたかもしれない。

さて、とにかく黒澤明監督作品を褒めておけばまちがいないと思っている人がいないとも限らないが、なぜ彼が巨匠といわれ、なぜ彼の作品が世界中で愛されているかは、作品を観ればわかる。

「椿三十郎」にしても、ただただおもしろいのである。

人はなぜ映画を観るのか。

ただ単に、楽しみたいから。

そんなことはないという人もいるだろう。だが「ただ単にたのしみたい」という基本をしっかり理解していないと、たいしておもしろくもない作品を作ってる側の人間がおもろがってせっせと作り、ふたを開けてみたら大コケなんてことになってしまう。

その原因のひとつが「ただ単にたのしみたい」というもっとも基本となる観客の願いを忘れてしまうことにある。

黒澤明監督はこのもっとも基本となる観客の願いにどこまでも貪欲に応える。だから、ただただおもしろいのだ。

世界中のだれが観ても、どの時代のだれが観ても、わかりやすくておもしろい。

そんな作品はめったにあるものではない。

最近でいえば、ピクサーのアニメーション作品群がこれに近い。なぜピクサーにそのようなことができるのか。なぜなら、ピクサーも「椿三十郎」の脚本づくりと同じように、複数のストーリーづくりのスタッフたちによって脚本が作られているからであり、なによりストーリーづくりにじっくりと時間が費やされるからである。


■ つまみながら悪事を謀る

竹林(国許用人)と黒藤(次席家老)と菊井(大目付)は悪役である。

悪役の3人は茶室で悪事を図る。なかなか予定どおりに事が運ばないことにイライラを募らせつつ次の悪事の一手を考えるときの描写がいい。

茶室でなにやら「つまみ」を口に運びながら、落ち着かない様子で悪事を謀るのだ。

名探偵金田一耕助はトリックを見抜くべく考えるとき、自分の頭の髪の毛をグシャグシャにしてみせる。

人はなにかまとまらない考えを整理してどうしたらいいか思案するとき、普段よくしていることや、癖や習慣や出るもの。

ものを食べるというのは、人が普段からよくする動作のひとつである。

ものをつまみながら悪事を謀るこのシーンは、なるほどキャラクターに人間性を加味する演出なのだと感心させられた。


■ 主人公の名は

さて、主人公の名は何というであろう。

椿三十郎?

たしかに作品の題名が椿三十郎だから、主人公の名は椿三十郎にちがいない。

だがそれは名をきかれた浪人が庭に咲く椿の花と自身の年齢を合わせてその場で作った名前だ。

武家社会の時代にあって浪人の彼は、名も無きに等しい男であった。

武家社会であろうと現代であろうと、圧倒的多数の人々は名も無きに等しい人間である。

名も無き人間にもドラマがある。

名も無き人間だからこそ、みえることもある、わかることもある、できることもある。

名も無き人間が主人公だからこど、多くの観客は椿三十郎に感情移入する。


■ 架け橋となる男

さらに椿三十郎はその名と、自身がいうところの40前という言葉から、30歳代であることがわかる。

上役の汚職を暴こうとした若侍9人たちは20歳代。

そして汚職の中心人物の3人は50~60歳代といったところ。

このふたつの世代の間をとりもつ30歳代の男。この年頃の男で才覚と腕に覚えがある者は、室戸半兵衛のように悪に組することはたやすい。たやすいどころか、裏で藩政をあやつることだってできる。

実際、物語の中で室戸半兵衛はそれを画策しており、自分に匹敵する才覚と腕の持ち主の椿三十郎と手を組んでその計画を万全なものにしようとしていた。

椿三十郎はその誘いにはのらなかった。だが椿三十郎も室戸半兵衛の能力を高く買っており、自分とそっくりなことにも気づいていた。

だからこそ藩の汚職事件が一件落着したのちに、椿三十郎は室戸半兵衛と斬り合いたくないなかったのだ。

観客はふたつの世代や時代をとりもつ男が、容易に室戸半兵衛にもなれることを知っている。それにもかかわらずその男は、たいして自分の益になりそうもないのに若侍たちを命がけで助けようとする。

人は得意なことをして私腹を肥やしたくなるもの。

得意なことをして有利に楽しんで生きていったい何がわるい? と思いがちだ。

しかし、名も無き男はそれをしなかった。人として越えてはならない線をしっかり見極め、自分の信念を貫いた。自身の良心に従ったのだ。

だから、将軍様でも天下の副将軍(副将軍ていうポストあったっけ?)でもない、名も無き男の生き様に観客は心打たれるのだ。

ほんとうにおもしろい作品は、場所や時代が変わっても、そのおもしろさは色あせることはない。

まさに、そのとおりですな。

デート      ○
フラッと     ○
演出       ○
キャラクター   ○
笑い       ○
映像       ○
ファミリー    -


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04/19/2008

映画「Sweet Rain 死神の精度」

監督:筧昌也
日本/2007年/113分
原作:伊坂幸太郎「死神の精度」

「死なない=生きること」を知らない死神が、対象の人物の才能に触れて人生をみつめる良作。光っているのは「こにたん」と「金城武」だけじゃなく他の俳優たちも。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
死神の千葉の仕事は、不慮の事故で亡くなる予定の人間の近くに現れ、7日間観察して「死を実行」するか「生の見送り」するかを決めること。

千葉は3つの時代でそれぞれ対象となった人間の前に現れて、その判定をする。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△千葉
死神。おだやかな性格で天然。

▽藤木一恵
OL

▽かずえ
理髪店店主。

△藤田敏之
ヤクザ

△阿久津伸二
チンピラ。藤田の舎弟。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
「死なない=生きること」を知らない死神が、対象の人物の才能に触れて人生をみつめる良作。光っているのは「こにたん」と「金城武」だけじゃなく他の俳優たちも。

■「浮いてる」死神

死神と聞けば、大きな鎌を持った骸骨というイメージを思い浮かべるでしょう。

しかし、今作の死神の外見は普通の人間と同じです。

たとえば葬儀の参列者の中に、見知らぬ人がいとしてもたいして不思議には思わないでしょう。

人生。どこでどんな人に出会い、どんなひと時を過ごしたかのすべては、故人にしかわかりません。

葬儀に見知らぬ人が参列しても、黒っぽい服装をしていれば故人となんらかの付き合いがあった人だとみなされるのが普通です。

でも、故人が亡くなる数日前からその見知らぬ人をちょくちょくみかけるようだと……。

その見知らぬ人は、もしかしたら「死神」かもしれません。

死神が現れたら近いうちに死ぬ。

そう思われているけれども、かならずしもそうともかぎりません。

死神は不慮の事故で死ぬ予定(不慮なのに予定? というツッコミは無しで)の人物の近くに現れて、その「死」を実行するか見送るかの最終判断を任されています。

とはいえ、ほとんどの場合は「実行」であるけれどれども……。

電器製品を販売している会社の苦情処理受付係の女性・藤木一恵の前にその男が現れたのは、ある雨の日でした。

主人公の死神・千葉は雨男です。いまだかつて青い空をみたことがない死神です。

千葉の口癖は「君は死ぬことについてどう思う?」というもの。

そんなことを唐突に訊かれても……。

そんなことを出会って間もない相手に尋ねるなんて、ちょっと変わっている人だと思われることでしょう。

そのとおり。変わっています。なぜなら、死神ですから。それも天然のオマケ付の死神です。

死神だから天然なのかと思いきやそうではありません。なぜなら他の死神たちはけっこう割り切って普通(?)に仕事をしているからです。

おそらく対象者に「君は死ぬことについてどう思う?」なんて尋ねません。

だだし、死神たちには共通点があります。

それは音楽が好きなこと。千葉は音楽のことを「ミュージック」と言います。ちょっと「浮いてる」言い方ですが、千葉は天然の死神ですから、そのぐらい「浮いている」ほうがいいんですね。


■ 塩忘れるな?

ラテン語で「メメント・モリ」。

塩重ぇ。塩忘れるな。

そんな訳は誤りで、より正確には「死を想え」「死を忘れるな」。

(↑またダジャレかいッ!)

キリスト教では主に、死を意識することによって生きているときによい行いをして天国に宝を蓄えるように、という意味で使われます。

つまり、人間はいつか死ぬのだから、生きている間に好き勝手思う存分楽しめ、というとらえ方をすべきではないということです。

「Sweet Rain 死神の精度」の原作は日本人作家、伊坂幸太郎の「死神の精度」です。原作者がキリスト教と関連がある人物かどうかは不明ですが、死を想うことは生を想うことでもあり「生と死は表裏一体」であることについては誰しもうなづくでしょう。


■ 数歩離れて人生をみつめる

死神の対象となる人物は、近いうちに自分が死ぬとはおもっていません。不慮の事故によって亡くなる予定だからです(不慮なのに予定ってやっぱおかしくねぇ?笑)。

私たちのうち、多くの人もそうです。

病気でもなく、自殺を考えているわけでもない自分がまさか近日中に死ぬことになるなんて思ってもいないでしょう。
でも、生きることは死を想うことと一体なわけです。

意識・無意識の違いこそあれ、人は死と隣り合わせで、死と共に歩んでいます。

人間にとってもっとも身近な死。避けられない死。

そこに焦点を合わせる作品は数多いけれども、どこかしらユーモラスでありつつ、じっくりと人生に向き合うかのような作品はまだまだ少ないですね。

「Sweet Rain 死神の精度」は死神という視点で数歩離れたところから「人生」を見つめる作品です。


■ その他

3つの時代のパートから構成されています。

主題歌を歌う歌手役でもある「こにたん」こと小西真奈美さんは、1番目のパートに出演します。

こにたんファンのハートをまずはがっちりキャッチする狙いもあるのですが、各パートの順番には意味があります。

皆さんの予想どおり3つのパートは別々の時代の別々の物語であるようで、ラストへ向かって収束していく構造になっています。

そういった物語構成法はけっしてめずらしいものではなく、どちらかといえばよくあるもの。

ですから謎解きや意外性を期待するような作品ではありません。

作品の魅力は「雰囲気」と、それを作り出す役者さんたちにあります。

こにたんのキュートさのほかに天然の死神役の金城武に注目が集まりがちですが、2番目のパートに登場するチンピラ阿久津伸二役の石田卓也さんもいい味をだしています。

阿久津と千葉がはじめて出会う土砂降りのシーンはそこらへんの漫才よりも数倍面白くて笑えます。いま思い出したただけでも笑えます(^^)。

3番目のパートで千葉は老女に会いにいきます。老女は町はずれの海沿いで、家事手伝いのロボットを使いながら理髪店を経営しています。

老女は千葉に願いことをします。ある期日に小学生の男の子たちを店にたくさん呼んでほしいというのです。

なぜ子供たちを呼んでほしいのか?

その謎の答えを知ったとき、あなたは心を揺さぶられるでしょう。

映像をみるかぎりではところどころ学園祭の劇の大道具を使ったみたい(例:ロボット充電装置)だと思われるかもしれません。でもそれはおそらく意図的でしょう。凝るべきところにはしっかり映像効果をきかせています。

そうそう「わたしって醜いですから」という藤木一恵。それに対して千葉は間近でまじまじと彼女の顔をみつめ「しっかり見えていますよ」というボケのシーン。

ボケがどうのこうのよりも、こにたんが醜いって説得力ありませんからッ!

……オホン。つい個人的な感情がこもってしまいました。

ええ、そうです。私も「こにたん」きっかけで映画館に足を運んだひとりです。

ってそれだけじゃないですよ。ストーリー構築上の着眼点とキャラクターのインナーコンフリクツ(内的葛藤)が……。って必死にフォローしようとするほど……ですよね。

「こにたん」だけでなく、出演している役者さんたちは皆どこか憎めないというかあいくるしい感じなんですよね(富司純子さんには貫禄もあります)。

「役者さんたち」と「雰囲気」を期待して観る。すると、じわぁ~と人生に思いをはせることができる。そんな作品です。

いかにもなお涙頂戴っぽくないところがいいですヨ。

ちなみに千葉の上司という黒い犬は、実際にはメス。女の子だそうです。雨にずぶ濡れのシーンがあって、風邪をひかないかと心配になってしまいました。


デート      ○ 
フラッと     ○
演出       △ 
キャラクター   ◎ 
映像       ○
ボケ       ○
ファミリー    △
アクション    -
感慨       ○
人生       ○


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映画「ガチ☆ボーイ」

監督:小泉徳宏
日本/2007年/120分
原作:モダンスイマーズ「五十嵐伝 ~五十嵐ハ燃エテイルカ~」(作・演出:蓬莱竜太)

☆青春はガチンコだ☆欲をいえば優等生的で上手な出来を突き抜ける、いい意味での灰汁がほしい。人生はプロレス。ときにガチでいこう!チャットモンチーの主題歌がすばらしい。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
ひと眠りすると目が覚めていたときのことをほとんど忘れてしまう高次脳機能障害を負った青年・五十嵐良一が、大学のプロレス研究会に入部する。

プロレスの段取りを覚えられない五十嵐は、デビュー戦でガチンコ(本気で戦う)に突入。それが観客に大ウケして、五十嵐(マリリン仮面)は人気レスラーになる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△五十嵐良一(マリリン仮面)
大学生。

▽朝岡麻子
大学生。プロレス研究会マネージャー。

△奥寺千尋(レッドタイフーン)
大学生。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
☆青春はガチンコだ☆欲をいえば優等生的で上手な出来を突き抜ける、いい意味での灰汁がほしい。人生はプロレス。ときにガチでいこう!チャットモンチーの主題歌がすばらしい。

■ 青春世代による青春映画

青春映画の多くはオジさんやオバさんが作っている。

ところが「ガチ☆ボーイ」の小泉徳宏監督は1980年生まれ。主演の佐藤隆太と同い年の27歳。脚本家も30代前半だ。

青春を10代後半から20代に特有のものとするなら、ドンピシャリの青春映画をつくれるとみられているのが小泉監督というわけだ。

小泉徳宏監督といえば「タイヨウのうた」で劇場長編映画デビューした若手監督だ。作品の主要登場人物と歳が近いためか、彼が撮る青春映画はナチュラルな作風という印象がある。

自分たちの世代の話という感覚で映画をつくるので、肩肘張らずに青春の1ページを自然に切り取ってみせることができるのだろう。

いうまでもないが映画はつくりものだ。だが「つくりもの感」が出すぎるとワザとらしくなる。

だから、オジさんやオバさんが観客に自然だと感じてもらえるよう苦心するよりも、青春そのものである若いスタッフが映画をつくるほうが、より自然に近くなるというわけだ。

青春の中の青春。それを得意とするのが小泉監督だ。


■ 身体は記憶する

記憶の積み重ねによって、人は生きている実感を得る。

写真を撮ったり、写真アルバムをつくったり、ブログ記事を更新したりすること。それらは自分が生きてきた「記憶」を「記録」によって補完する作業でもある。

ひと眠りすると、目が覚めていたときの記憶をほとんどを失う五十嵐は、生きている実感を得ることができないと感じる。

そこでプロレスにのめり込む。たとえ記憶には残らなくても、プロレスで受けた傷や全身の筋肉痛は、自分が生きてきた証になるからだ。

「メメント」の主人公レナードは10分しか記憶が保てない。ポラロイド写真を撮ってメモを書き込み、追っている事件の大事な事柄を自分の身体にタトゥーで彫り込んでいる。

「ガチ☆ボーイ」の五十嵐も「メメント」のレナードも、一番確実なのは自身の身体に刻み込むものだというのを実感しているのだ。

歳をとってからスキーをはじめても、うまく滑れるようにはなかなかならない。もしも若いときにスキーが滑れるようになっていれば、歳をとってからもそこそこ滑れる。

このように、身体は慣れ親しんだ動きを記憶しているのだ。

身体に記憶させるものが多ければ多いほど、記憶の量は増える。脳に刻まれる記憶は、記憶違いや記憶の薄れなどによよってときに「ウソをつく」が、身体の記憶は驚くほど正直だ。

だから五十嵐はプロレスをつづけるのだ。


■ ガリガリ五十嵐は日本の姿?

現代日本社会は「身体」を感じることが難しい。日本のみならず、世界中の映画の世界でもCG技術を用いてどんなアクションシーンもコンピューターで作れてしまうことから「身体」を感じる作品はますます少なくなっている。

コンピューターを駆使した、脳にとって気持ちいい映画作品といえば「スター・ウォーズ」シリーズだが、マヤ文明を題材に身体を感じさせる映画作品といえば「アポカリプト」だ。

世界の国々の人々にとっての日本は、アキハバラに代表される電脳社会をイメージを喚起する。「脳で作り出した世界」を想像させる。

しかし日本も「アポカリプト」といった、身体を感じさせる作品をつくりだせる可能性がある。なぜなら、脳に支配された社会の特徴が日本には顕著だからだ。

その特徴とは、脳に支配された反動による「身体への渇望」である。

日本はいまや格闘技大国といわれている。世界中の格闘家たちが日本の格闘技トーナメントでの優勝をめざす。

五十嵐もまた、身長はそこそこあるものの、その身体はガリガリだ。とてもプロレスをやるような身体にはみえない。それにもかかわらず、マリリン仮面としてリングに上がり、体格のいいプロレスラーを相手に戦う姿に、現代日本の姿が重なるかのようだ。


■ 人生はプロレス。ときにガチでいこう!

ストーリーアナリシス(物語分析)や物語構造がどうのという話をしている割には、いままでほとんど語らなかったことがある。

それはプロレスだ。

プロレスの歴史はけっこう複雑なので詳細は避けるが、たとえばアメリカのプロレス団体のWWEは、シナリオがあのショープロレスであり、物語に重点が置かれれいるといっていい。

WWEほどまでとはいかなくても、日本でプロレスというときは、学生プロレスもふくめて段取りがあるのが基本だ。つまりガチンコではない。

「ガチ☆ボーイ」のプロレス研究会もガチンコではない。安全第一をモットーにしているので、レスラーたちには段取りをきっちり覚えてもらわなくてはならない。

仮にプロレスを人生に例えてみよう。

人生には段取りがある。みんなが段取りを守ることで社会が存続していく。だがときに段取りに縛られるあまりに、自分らしさを見失ってしまうことがある。

ときにはガチでいこう!

たとえそれにリスクがあるとしても、ときに人はリスクを承知で「愛すべきバカ」をしたくなるもの。そんなバカをすることを「青春を謳歌する」ともいう。

段取りを覚えようとしても覚えられない五十嵐(マリリン仮面)は、青春を謳歌しようにもなかなかできない観客たちに代わって、ひたむきにガチでリングに上がる。

毎日を生きた証を筋肉痛や傷として身体に刻み、たとえ自分の記憶に残らなくても他人の記憶に残る男になる五十嵐(マリリン仮面)は、こうしてヒーローになるのだ。


■ その他

親子、仲間、恋愛、青春、笑い、汗、涙。……よくまとまっているなぁ。上手だわ、コレ。

期待を裏切らない。でも、できることなら期待を裏切ってほしかった。

組み合わせは上手だけど、どこかで観たことがあるシーンを上手につなぎ合わせたようでもある。

欲をいえば、優等生的で上手な出来を突き破るような、いい意味での灰汁がほしい。

なにをどこまで期待するかは人によってだけど、予告編を見て予想したとおりのままを好印象として良しとするか、またはもうひと味ほしいと思うか。

私は佐藤隆太くんがお気に入りの俳優なのでけっこう楽しめた。けれど、もしも主人公が他の俳優さんだったらどうだろうと思ってしまう。

それに、テレビのスペシャルドラマでこれが放映されていたら、もっと満足度は高くなっていたと思う。

記憶を題材にした物語はたくさんあるなかで「記憶」と「青春」と「プロレス(身体)」という組み合わせは、なかなかグー!(エド・はるみ)。

「タイヨウのうた」とは違って「キャラクターが作られすぎた感」があるのは、プロレス研究会のマネージャー役のサエコさんの演技に顕著に出ている。

観ているこっちがハズカしくなる演技だが、男はああいうキャラクターに弱いんだよね。それを見透かすかのような素振りの演技を得意とするサエコさん。ハズカシさが青春につきものだとしたら……。サエコさんは青春映画に貢献しているということになる。

青春ばんざい!(なんのこっちゃ)。

おっと。書き忘れるところだった。主題歌はチャットモンチーの「ヒラヒラヒラク秘密の扉」。

この曲を小耳に挟むどころか、この局が小耳に突き刺さり、さらに佐藤隆太くんが主演と小耳に挟んで、映画を観にいく決心をした。

それほど耳に残る曲だ。もしかしたら作品よりも主題歌のほうがインパクトが強いかもしれない。

映画を観て作品レビューをいろいろ書いていると、映画の予告編や作品の冒頭を観ただけで、なんとなくだけど「これはスゴいぞ」というオーラのようなものを感じとれるようになる。

音楽でもそういうことがあるもので、チャットモンチーはすでに人気のガールズロックバンドだけど、彼女らの曲には、JUDY ANDMARYの曲をはじめて聴いたときのようなオーラを感じるヨ。

主題歌に惹かれて映画を観にいくのは稀だけど、それもまたいいものだネ。


デート      ○ 無難
フラッと     ○ めっけもん
演出       △ 
キャラクター   △ 
映像       △
笑い       △ 程よいがキレはイマイチ
ファミリー    △
アクション    ○ 
青春       ○ 青春の教科書みたい
主題歌      ◎ チャットモンチーはホンモノ!


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02/18/2008

映画「KIDS」

監督:荻島達也
日本/2007年/109分
原作:乙一『傷 -KIZ/KIDS-』(「失はれる物語」「きみにしか聞こえない」角川文庫収録)

原作の良さに映画化が追いつけていないのに、けっこうイイ作品にみえるのは、原作がスゴすぎるから。頼むからフツーにカレーを作ってMr.オクレ。再びもったいないお化けが! ホントウにもったいない……。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
工場で働くタケオは、街の食堂で不思議な能力を持つアサトと出会う。
食堂の店員シオも含めた3人は仲良くなるが、アサトの能力をめぐってそれぞれに変化が起き、試練が立ちふさがる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△アサト
男性。

△タケオ
男性。工場の工員。

▽シホ
女性。アメリカンダイナーの店員。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
原作の良さに映画化が追いつけていないのに、けっこうイイ作品にみえるのは、原作がスゴすぎるから。頼むからフツーにカレーを作ってMr.オクレ。再びもったいないお化けが! ホントウにもったいない……。

■ 翻訳家になろう

乙一さんの『傷 -KIZ/KIDS-』を読んだのはいつだったろう。原作の細部は思い出せない。

しかし短編にもかかわらず、いや短編だからこそ凝縮された内容とテーマの深さをヒシヒシと感じたことだけは覚えている。

その『傷 -KIZ/KIDS-』の映画化ときいて、今度こそは! と期待した。

というのは、あの映画作品を思い出したからだ。

乙一さん原作というすばらしいモノのみならず、成海璃子さんという魅力的な女優さんをキャスティング、さらには主題歌にDREAMS COME TRUEという好材料が揃ったにもかかわず、それらの魅力を映像でじゅうぶんに発揮できなかった映画「きみにしか聞こえない」を思い出したからだ。

誤解のないようにいっておきたいが、映画「きみにしか聞こえない」はいい作品だ。観ようかどうか迷っている人がいたら、ぜひ観るようオススメする。

とはいえ、小説と映画では表現形式が違うことを改めて意識させられたのが映画「きみにしか聞こえない」だ。

優れた原作小説を映画化するとは、表現形式の違いをしっかりとふまえたうえで本質を正確に伝えることが大事だ。言葉でいうところの翻訳作業が必要なのだ。

直訳ならだれでもできる。大事なのは翻訳元言語のいわんとする本質を、翻訳先言語できちんと伝えることだ。

元言語→●→先言語

この「●」の部分が翻訳作業である。翻訳ではたしかな技術を持った翻訳家が必要だ。

原作小説→●→映画

この場合の「●」部分はいうまでもなく監督だ。原作小説がある作品を映画化する場合、監督は小説と映画の間を取り持つ、いわば優れた翻訳家にならなければならない。

カレーライスをつくるとしよう。だれが作ってもけっこうおいしくできるのがカレーライスだ。

普通に作りさえすれば、ふつうにおいしい。いや、かなりおいしいカレーライスができるだろう。

もしも、なんじゃこりゃぁぁ、というカレーライスが出来上がったら、逆に聞いてみたい。どうやったらカレーライスでこんな味になるのか? ――と。

新鮮な野菜。高級肉。大好評ロングセラーのカレー粉。炊きたてふっくらご飯。

これらをどうやったらこんな味(あんな味)にできるのか。

原作はすばらしい。キャスティングもすばらしい。主題歌だってイイ。

これらをどうやったらこんな作品(あんな作品)にできるのか――。


■ だれでもカレーならおいしく作れそうなものだが

誤解のないようにいっておきたいが「KIDS」はいい作品だ。小池徹平くんと玉木宏くんが出演とあって、劇場も制服姿の学生や大学生ぐらいのワカモノがけっこうたくさん観にきていた。

それはけっしてアイドルを「見たい」だけでなく、作品を「観たい」という思いがあってのことだろう。そうでなければ、劇場を後にする観客たちの、あのような満足気な空気を感じられないだろう(←KYじゃないといいたい?)。

だからこそだ。

だからこそ、フツーにカレーライスを作りさえすればなぁ、と思わずにはいられない。

フツーにとはいえ、どんな作品を作るにせよ知的・肉体的にもたいへんな労力を要する。作品を作るだけでもスゴいことだ。だからけっしてフツーではないのだが、作品を作ろうとする人はどんなたいへんな労力も覚悟の上で挑むのであろうから、あえてフツーにという言葉を使わせてもらおう。

そんなこんなで、フツーにカレーライスを作ってくれればいいのだが……この監督……もしかして、天然なのか?


■ 天然なのか?

天然の監督がもっとも威力を発揮できる分野がある。

それは、おバカ作品だ。

天才とは究極の天然ともいわれる。天然はけっして悪いことではない。むしろ、一般人が喉から手が出るほどほしくても手に入らないものだ。

最近になって天然(天才)監督ではないかといわれはじめたのが映画「XX エクスクロス 魔境伝説」の監督だ。

それはさておき「KIDS」の監督は、映画「きみにしか聞こえない」の監督でもある。

映画「きみにしか聞こえない」では、映像の特性をよぉくわかっているかのような演出を施してみたりする一方で、せっかく映像の特性を活かせるところなのにそれをまったく使わなかったりもする。観ているほうとしては頭の中が「??????」でいっぱいになってしまった。

映画「きみにしか聞こえない」を観ている最中は、もしかしたらとんでもない演出を用意しているのでは? とも思ったが、なぁんにもなかった。ならばそれまでの意味不明に思える部分は、特になにも考えていなかったのかと思わずにはいられない。

――天然なのか?

いや、ちょっと慣れていないだけ。もしくはたまたま制作関係者のだれも指摘してくれなかっただけ。そう思いたかった。

そして今回も乙一作品を映画化する監督に選ばれたということで、原作者乙一さんは映画「きみにしか聞こえない」を観ただろうから、それなりの映像化作品としては満足されているのかもしれない。

とはいえひとりの観客としては、もう少しなんとかできたんじゃないかと思ったのが映画「きみにしか聞こえない」であった。


■ そのわざとらしさはなに? 

では次に映画「KIDS」について。

映画「KIDS」は、全体的にはいい意味でフツーに撮っている。だが、やはり気になる点はある。2つに絞って話そう。

ひとつは音楽。

作品のセットアップ。アサトはさびれた工場地帯にほどちかい道を走っている路線バスに乗っている。タケオは廃材置き場のような場所で街のゴロツキと喧嘩をはじめる。

そんな映像に「スタンド・バイ・ミー」の曲が流れる。

物語の主要登場キャラクターのシホが働く店がアメリカンダイナーとはいえ、なぜスタンド・バイ・ミーなのか?

「KIDS」の主なロケ地は千葉・木更津。

さびれた街の象徴として木更津でロケします。はいどうぞ。そんなやり取りがあったかどうかはわからないが「木更津キャッツアイ」をはじめ「気志団」などで文化活動(?)に積極的な姿勢を見せている木更津には、いい味わいがある。

その味を、なぜメリケンの歌で薄めてしまうのか?

原作に登場するのがアメリカンダイナーかどうかは忘れてしまったが、たとえそうだとしてもせっかくの木更津の味を無理矢理気味にメリケンの田舎の味にしまうかのようで、たいへんもったいない。

日本のちょっと(?)さびれた風景をしっかり描くことで、主人公たち、とくにタケオの心の風景を浮き彫りにすることができたのに……。

ふたつめは演出。

例によって原作はどうだったか忘れてしまったが、映画でタケオがアサトの不思議な能力に気づくきっかけが、塩の小瓶を念力で引き寄せるというものだ。

ちょっと手を伸ばせば届く塩の小瓶を、わざわざ念力を使ってテーブル上を滑らせるアサト。

フツーなら、どうしてもあとほんのちょっとだけ届かないから、だれにも気づかれないように念力を使うのを、偶然タケオに見られたとするのがよくある。

ほんのちょっとだけでいい。「どうしても届かない状況」を作ってほしかった。

ほかにもこんなシーンがある。

人の気配がまったくない住宅地の、長い間だれにも利用されずにゴミが散乱して草も伸び放題の荒れ果てた公園をきれいに掃除し終わったアサトとタケオとシホ。満足気に公園をみつめる3人。

そこへ「今だ!」と待ち構えていたかのように子供たちが、わぁ~いきれいな公園だぁ~、といったふうに喜んで遊具で遊びはじめる。

そのわざとらしさはなに? 

せめて、主要キャラクターの誰かが通勤・通学などの帰り道に子供の楽しそうな声がしてふとみると、例の公園で子供たちが遊んでいた、ぐらいのシーンを別に用意してはどうだろう。

ほかにもこんなシーンがある。

タケオがアサトに、子供のころに親父に付けられたアイロンの火傷痕が肩の後ろにあると話すシーンがある。ひと通りその話が終わると、アサトがふざけた様子を装ってその火傷痕にタッチする。

シーンが切り替わって翌朝。タケオは朝の着替えのときに、鏡に映った自分の肩にあるはずの火傷痕が消えていることに気づく。

いやいやいや。火傷の痕が消えていることに気づくのは、フツーにもうひとつふたつシーンをはさんだ後にしてはどうだろう。そうすれば場面転換に使えるから、わざとらしくなくスムーズに物語をつなげていくことができると思うのだが……。

公園に駆け寄って遊ぶ子供たちにしても、火傷の痕が消えていることに気づくタケオにしても、わざとらしさが出てしまっている。

そんなわざとらしさは、フツーに取り除くことができる。

それをしていないのは、フツーなら特別にワケや狙いがある場合に限られる。だが、結論からいえばそんな特別なワケや狙いはなかった……!

またしても頭の中に「?????」が浮かぶ。

監督はテレビの演出家出身らしいから、小説や映画では勝手が違うのかもしれない。

そうだとしても監督は映画「きみにしか聞こえない」を撮って何を得た(学習した)のだろう?

せめて、天然でなければ怠慢か、と思われないことを願う次第である。

映画「きみにしか聞こえない」にしても今回の映画「KIDS」にしても、F1に例えるなら、こんな会話が聞こえてきそうだ。

最高の整備チームスタッフをそろえたF1カーのドライバーが「ひとりじゃ運転できない」と言う。

「ラリーカーじゃないんだから、助手席もないし、ナビゲーター乗せるわけにもいかないからひとりで運転しろよ」

「できましぇん」

よくよくきいたら仮免中だっていうじゃないか。

「オイオイ。芸人じゃないんだから、笑えんよ。おいだれか、フツーのF1ドライバーを手配してくれ。フツーに運転できるならテストドライバーだっていいぞ」


■ 原作のスゴさ 

アサトは特別な能力を持っている。物体を動かすことができるという能力だ。

それを応用すると、人の傷を移動させることができる。それは外傷としての傷を引き受けるだけなく、傷に付随する心の傷をも受け止めることを意味する。

タケオの肩の火傷痕は、ただの火傷ではない。父親に受けた虐待の痕である。それでも父親を憎むことはできずにむしろ……という心の葛藤を含んだ父親とのつながりがその傷痕に込めらている。

だからタケオは火傷痕をアサトが取り除いたと知ったとき、怒ったのだ。

それでもタケオはアサトが自分が背負ってきた傷を肩代わりしようとしてくれたことに、心のどこかではうれしくも感じていた。

だからタケオは後にボロボロになった瀕死の状態のアサトに、負傷したうちの半分をよこせと言ったのだ。

傷を分かち合うことは、他人の傷に深く関わることを意味する。

そこにはリスクがつきまとう。だれも他人の傷をいくらかでも背負おうとはしないもの。

なぜなら、他人の傷を背負うことで、自分が傷つくことがあるからだ。

深く心が傷ついたアサトは、死にたいと願う。それでもただ死ぬではなく、死ぬなら他人の傷をできるだけ背負って死にたいと願う。そうして瀕死の重傷を負うアサト。

そこにタケオが駆けつける。かつてアサトが自分の火傷という心の傷を癒そうとしてくれた。だからタケオは、今度はアサトの傷の半分を引き受けようと申し出る。

こうして、お互い友によって生きる道をみつけたふたり。

はっきりいって、ちょっとやそっと物語づくりを勉強したからといって、こんな短編は書けない。技術がスゴいことはいうまでもないが、もちろん技術だけでは無理だ。そこに「魂」が入っていなければ書けない作品である。


■ その他

もったいない――。原作も配役もいいのに、ホントウにもったいない。

またしても、もったいないオバケが出てしまいました。

原作小説が深すぎるのかもしれません。深すぎるがゆえに、原作が良ければ良いほどに映画化は難しいのだから、なるべく厳しいようなことは書きたくはないのですが、たぶんそこそこフツーにちゃんとやればそんなもんフツーにおいしいカレーライスできるでしょ、ってなカンジなのでちょっと(カレーだけに)辛口にしました。

ジャガイモの芽をきちんと取る。ジャガイモを均等の大きさに切る。その程度のことを当たり前にちゃんとやるだけでいいんです。そうやってフツーに作ればおいしいカレーライスができるのは間違いないんだからサ。

父と息子。母と息子。友情。恋。

傷つけ合い、傷を分かち合う、人間の弱さと強さ。

切なさの達人と言われる原作者乙一さんは、人間の負の部分もしっかりと見据え、計り知れないあたたかさで包み込む。だから、ホラーでも切なさを醸し出せるのですね。というかホラーだからこそというのが正確かもしれないですね。

「KIDS」も、ある意味で『Yeah! めっちゃホリディ』(松浦亜弥)ならぬ「めっちゃホラー」ですから!

繰り返しますが映画「KIDS」はけっこうイイ作品ですヨ。小池徹平くんも玉木宏くんも栗山千明さんも適役だと思います。主題歌も耳に残りやすいイイ曲ですね。ロケ地も今をときめく(?)木更津です(病院の屋上のシーン。あれは木更津市役所の屋上ですね)。

ワカモノ向け映画というと、なにかと東京を舞台としたおしゃれ風な作品にしたがたるところを、いい意味でビミョーな辺りを舞台にするのはGOODですね。

なぜって、日本の9割以上は田舎ですから。身近なところにこそドラマがある。

アメリカ映画だって、田舎を舞台にした映画作品に名作が多いのはそのためです。

ちなみに、乙一さん原作小説の映画化作品では「暗いところで待ち合わせ」が特にオススメです。
(「↑田中麗奈さんが主演だからでしょ」「ギグッ。てそれだけじゃないよー」)


映画「きみにしか聞こえない」作品レビューもったいないお化け一族総出じゃ。

▼映画「暗いところで待ち合わせ」作品レビュー他者とのコミュニケーションを欲する者たちが「変化という恐怖」に立ち向かい、一歩を踏み出す物語。常人では考えつかない設定と、それを形にする技術と勢いに原作者のホンモノの力量さえ感じる。


デート      ○ 
フラっと     ○ 
原作       ◎ 
演出       △ チョイとわざとらしさが目立つ
キャラクター   ○ 栗山さんはマスクしても美人
映像       △ 
お涙       ◎ 
笑い       - 
ファミリー    -
アクション    △
人間ドラマ    ◎


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02/06/2008

映画「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」

監督:北村拓司
日本/2007年/109分
原作:滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』

魂の叫びを聞き取れるかどうかが分かれ道の現代版青春物語。心の内に秘められた葛藤をビジュアル化。耳を澄ませばきっと聞こえるはず。キミはシンクロできるか。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
高校生の山本陽介はある日、公園にひとりでいる女子高生雪崎絵理に出会う。すると天からチェーンソー男が降ってくる。絵理とチェーンソー男は超人的な身体能力で死闘を繰り広げる。陽介は毎夜、チェーンソー男と戦う絵理に付き添うことにする。

主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△山本陽介
男子高校生。寮生活をするふつうの高校生。

▽雪崎絵理
女子高校生。毎夜チェーンソー男と戦う。

▽渡辺
男子高校生。陽介の友人。

△能登
男子高校生。陽介の友人。バイク事故で亡くなった。

∵チェーンソー男
チェーンソーを持った大柄の男。毎夜、雪崎絵理の前に現れ、死闘を繰り広げる。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
魂の叫びを聞き取れるかどうかが分かれ道の現代版青春物語。心の内に秘められた葛藤をビジュアル化。耳を澄ませばきっと聞こえるはず。キミはシンクロできるか。 

■ ある教師のヒトリゴト

私は高校教師。(森田童子「ぼくたちの失敗」が頭の中で流れたキミはおそらくR35世代)

担任のクラスの生徒たちもそうだが、最近のワカモノはどうにもやりにくい。

昔はわかりやすかった。教師に突っかかってくるような骨のある熱~いワカモノがいたからだ。

ところが最近のワカモノは叱っても、場合によっては叱る前から空気を察して「すみません」とすぐに謝る。反抗どころか弁解しようとさえしない。そんなことをしても無駄だとわかっているから、何を言ってものらりくらりと受け流す。そんなヤツラばかりだ。

山本陽介。

この生徒もいまどきのワカモノらしく、呼び出して説教しようにも暖簾に腕押しだ。
仲のよかった友人の能登がバイク事故死したことだって、山本にショックを与えただろう。だから多少のやんちゃぶりはわからんでもない。俺だって若いときは無茶もしたさ。バイクが好きで今でも乗ってる。もちろん安全運転でな。
とはいえ山本は下宿先の学生寮にはいつもおらず、噂では毎夜のように他校の女子生徒と出歩いているらしい。

ほんまに最近のワカモノは何を考えてるんやら……。いうてもわるい輩やないんやけどな……。


■ ある男子高校生のヒトリゴト(1)

写真、絵描き、小説、バンド活動、作曲。

どれをやっても中途半場。いろいろと手を出してみても、そこそこやるとわかっちまう。自分にはたいした才能もないってことが――。

どこかに自分の居場所があると信じたい。だからいろんなものに挑戦する。挑戦すればするほど、あれもダメ、これもダメと現実を突きつけられる。それでもやりつづけるしかない。止まってしまうのがこわいから。


■ ある男子高校生のヒトリゴト(2)

なんだかわからねぇけど、俺は焦ってる。

高級肉をいくら万引きしたところで、能登との距離は縮まらねぇ。

そんなことはわかってる。けれど、なにかをしてなくちゃ気がおかしくなりそうだ。

能登の野郎。俺より先に逝っちまいやがって。完全に先を越された。死んじまったら追いつけねぇじゃねぇか。

それにしてもあの絵理ってコ。カワいかったな。

絵理ちゃんはひとりで必死に戦っていた。毎晩ひとりで。1ヶ月前からずっとだ。

俺はやっとみつけたんだ。能登に追いつく方法を。能登を追い越す方法を。

ひとりで戦う女の子を助ける。最高に格好よく意味のあることをして死ねたら、能登を越えられる。

だから俺は今晩も絵理ちゃんと共にいる。どこまでも一緒に戦うぞ。


■ ある女子高校生のヒトリゴト

毎夜、ひとりで戦ってきた。

彼が現れたときには、邪魔しないでって思った。

けれど、いつの間にか彼……山本陽介がいてくれるだけで、夜を乗り切れるようになった。

陽介がいなかったら、きっと私はずっと前に朝日を見ることはできなくなっていたかもしれない。

けれど、陽介が離れて行ってしまう。

陽介にはひとりで戦って勝つと強がってみせたけど、きっと今夜でわたしの戦いは終わる……。


■ シンクロ

毎夜、ふたりは思い出の地をめぐります。公園。プール。水族館。遊園地。時代劇テーマパーク……。

楽しい思い出が蘇ると同時に、それが二度と手に入らないという現実を突きつけられるたびに絵理は、生きる希望を見出せないまま迫りくる衝動との戦いを余儀なくされます。

あの日から毎夜、孤独な戦いを続けてきた絵理。ひとりで戦いつづけなくてはならないと思っていた。そこへ陽介が現れます。

陽介もまた、ひとりで戦いつづけていました。

絵理の戦いは生死を賭けたものです。陽介の戦いも生死を賭けたものです。

今夜死ぬかもしれない。明日をどう迎えたらいいのか。そんな思いでひとりで毎日を過ごしてきたふたり。

だからふたりはシンクロします。

もし、ある教師がふたりを見かけたら「こんな夜更けにふたりでおる。青春やなぁ。ってあの若い男のほうはウチの生徒やないか。なんや毎夜他校の女子生徒と逢引してるって噂はホンマやったんか」と思うかもしれません。

端から見れば夜の公園でなにをするわけでもなくふたりでいるワカモノ。そんな景色はありがち。そんな景色の数だけ戦いが行われています。

将来の不安。自分の居場所。愛する者を失った悲しみ。生きる意味……迫りくる苦悩という敵に押しつぶされそうになりながら日々戦いつづけています。

今夜で終わりにしよう。

そう思いながら毎日をなんとか生き抜いている若者たち。

彼らは特別ではありません。どこにでもいる普通の若者なのです。


■ ベースがあるのでぶっ飛べる

若者だったころの気持ちを忘れてしまった人には、当然ながらシンクロしません。

なんでチェーンソー男が空から降ってくんねん。なんでチェーンソー男と絵理は超人的な身体能力発揮して戦ってんねん。わけわからん。そう思ってはシンクロできません。

でも、若者や若者だった頃を思い出せる人は、チェーンソー男との死闘が何を表しているのかすぐにわかります。

若者の心の葛藤や心の叫びをチェーンソー男との戦いを通して描き出す発想は、あっぱれなぶっ飛び具合でGOODです。

題名に「ネガティブ」とありますね。人間の頭の中って若者にかぎらずたいていネガティブ思考になりがちです。みんなネガティブ。だからといってネガティブな内容をそのまま作品化してもますます暗く内(INにIN)に入っていきがち。

そういう作品が持てはやされた時代もありました。私小説が人気だったときみたいに。いえむしろ現代のほうが私小説は人気かもしれません。

若者の心境を綴ったとされるケータイ小説が次々にヒットする時代ですから。

「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」の原作は小説です。現代の私小説でもありますが、心境を表現するためにチェーンソー男を登場させるところに妙味があります。

チェーンソー男といえばジェイソン。毎夜現るというと、夢に出てくるフレディが思い起こされます。また、雪が降ると時間と空間が止まった異次元世界になるかのようなところは漫画「ウィングマン」(桂正和)で登場人物がディメンジョンパワーで異次元空間を作るところを彷彿とさせます。

いろいろな作品からヒント得て、戦いをどんなビジュアルで表現するか考えた。その結果、かなりぶっ飛んだ設定にしています。

これは若者の心の葛藤を、陽介の男性担任教師の視点を挟んで、ありがちな日常の風景と対比させるためにぶっ飛んでみせているのですね。

どこにでもある日常がしっかりとベースにある。だからチェーンソー男が空から降ってくるビジュアルでも、シンクロできる人にはかえってピンとくる、という仕掛けなのです。


■ 耳を澄ませば

若者の心の叫び。魂の叫び。

昔はバンドしたり、ツッパリしたり、大学に集まって機動隊とおしくらまんじゅうしたりと、たいへんわかりやすかった。

でも現代は特に若者の声を聞きとりづらいと感じる人たちが増えてきたのは間違いなさそうです。

……耳を澄ましてみてください。

ちょっと耳を傾けてみるだけで、若者や若者だった頃の心を持っている人の心の叫びは聞こえてくるはずです。

空からチェーンソー男が降ってきて女子高校生と戦う? 意味不明だな……と処理してしまっては時代の声は聞きとれません。

最近のワカモノはのらりくらりと覇気がなく何を考えているのかさっぱりわからんと感じるのもいたしかたないかもしれません。

現代は多種多様の分野に枝分かれして、昔ほどストレートでわかりやすくはありませんから。

現代の若者は、群れて暴走をしたり、みんなでおしくらまんじゅうをしたりといった「集団ごっこ」をほとんどしません。

個々で戦っているのです。それにシンクロするのはひとりやふたりぐらいかもしれません。集団といえるものまで大きくなれる時代ではないのです。

個々で戦うのは、昔の集団よりもたいへんかもしれません。集団であれば、それに容易に気づいた大人たちがそれとなく不安や葛藤を解消する助け船を出してくれます。

ところが現代は個々で戦わなければなりません。だから、ひとりひとりの心の叫びにそっと耳を傾けてください。

そうやってたとえひとりでもシンクロすればふたりになります。たとえふたりだけでも、乗り越えられる強さを最近のワカモノは持っていますから。


■ 実は真っ直ぐわかりやすい

あらゆる物語の主人公は葛藤を通して成長します。

葛藤こそがキャラクターに深みを与え、立体的にします。

まさに、葛藤と戦う主人公たち。

「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」はシンクロできない人に与えてしまいかねない「わかりにくさ」と反比例しているかのように物語の大通りをわかりやすく真っ直ぐに突き進んでいます。


■ その他

特殊映像効果もけっこうありますよ。

プールでの戦いのシーンの水の描写がみどころかな。

それと、セットアップがいいですね。

アレレ劇場間違えちゃったかな、と一瞬思っちゃいましたヨ。そんなちょっとしたハズし具合もわるくないですよ。むしろ惹きつける小技としてオモシロイ。

戦う女子高校生役の関めぐみさんは、どうしても「モー娘。」初期の頃の飯田佳織さんに見えてしまいます。関さんも飯田さんもただの美人さんではなく、得たいの知れないインパクトがあります。そうでなければ飯田佳織さんはとんねるずのタカさんに「ジェイソン」なんておいしい呼び名を付けてもらえなかったでしょう。

そうそう、飯田佳織さんは男児を出産されたそうですね。おめでとうございます☆

映画作品としてはもうひとつふたつ物語を煮詰めてグツグツさせてほしいですが、わるくないですよ。原作がいいからでしょうか「気持ち」が伝わってきます。

アクションだけを期待して観にいくと(アクションシーンもがんばってますが)ちょっと違うなぁと感じるでしょう。

これは青春物語です。

だれもが苦悩するあの頃のお話です。

青春作品は、多少無理をしてでもシンクロしなければ楽しめません。

たとえば、少年・少女の心を持って素直な気持ちで「現役」の空想に共振できればその波にノレる青春物語といえばこれです。
▼「キャッチ ア ウェーブ(CATCH A WAVE)」作品レビュー

そうそう、タイトルが長いカタカナで一度見ただけでは正確に言えないので何度も音読したくなるのがまたいいですネ。
ほら、チェーンソーの、えっとネガティブなんだけどハッピーみたいな作品あったやん。

なーんやそれ! と気になるでしょ☆


デート      ○ 若者(と若者の心を忘れない人)向き
フラっと     △ 
脚本勉強    ○ 
脚本       △ 主人公と能登との関係が描ききれてない
演出       ○ セットアップは意外性アリ
キャラクター   △ 130R板尾さんに味アリ
映像       ○ 
お涙       ○ 感受性による
笑い       △ 
ファミリー    -
アクション    △ アクション作品じゃないけどイイ線いってる
シンクロ     ○ きみはシンクロできるか
青春       ◎


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01/20/2008

映画「銀色のシーズン」

監督:羽住英一郎
日本/2007年/108分

ホイチョイのスゴさをあらためて認識させる作品。牧場の魚もおだてりゃ雪山滑る!? 漠然とした題名で30点取り損ねてる。赤点突破の攻略法を活用しよう。挑戦する箇所や焦点がズレてるゾ。ひとりだけ光ってる田中麗奈さんはゴーグル必須のまぶしさ。でも、もっと輝けたハズ。もったいナイ。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
スキー客が減った白馬・桃山町営スキー場で、雪山の何でも屋をやっている若い男3人。

好き放題やっている彼らは地元住民たちからは雪山のバカ3人組といわている。

町営スキー場再興のための雪山ウェディングのプロジェクト第1号として、3日後の結婚式の準備で桃山町営スキー場にやってきた花嫁の綾瀬七海は全くスキーができない。

そこで七海は銀にスキーレッスンをしてもらうことにする。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△城山銀
雪山のなんでも屋。元モーグル全日本エース。

▽綾瀬七海
花嫁。三日後の雪山での結婚式のために、城山銀にスキーレッスンを頼む。

△小鳩祐次
城山銀の友人。元競技スキー選手。世界中の階段の手摺をスキーで滑ることが目標。

△神沼次郎
城山銀の友人。川をスキーで横断することが目標。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
ホイチョイのスゴさをあらためて認識させる作品。牧場の魚もおだてりゃ雪山滑る!? 漠然とした題名で30点取り損ねてる。赤点突破の攻略法を活用しよう。挑戦する箇所や焦点がズレてるゾ。ひとりだけ光ってる田中麗奈さんはゴーグル必須のまぶしさ。でも、もっと輝けたハズ。もったいナイ。

■ アノ名作に挑戦?

「銀色のシーズン」のテーマは挑戦だそうです。

自然環境の厳しい雪山で撮影したり、10トントラック7000台分の雪で撮影用モーグルコースを設営したり、ハリウッドの空中移動撮影カメラを使った「スパイダーカム」クルーが日本映画に初参加したりしたのだとか。

でも、ほんとうの挑戦はこういったことではありません。

では何に挑戦したか。日本映画のアノ名作に挑戦したのです。


■ 題名を聞いただけでヤバイっス☆

「私をスキーに連れてって」

これは1987年公開の、ホイチョイ・プロダクションズ3部作の第1作でスキーブームの火付け役となった作品です。

題名を聞いただけで、ユーミン(松任谷由実)の「サーフ天国、スキー天国」「BLIZZARD」が頭の中に流れ、車の運転前には地面をさわり「凍ってるね」といわずにいられない。写真を撮るときは「とりあえず」と言ってシャッターをきる。久しぶりにスキー場に行ってゲレンデで友人とはぐれて携帯電話がつながらないと「だめだ、あいつら山向こうだよ」といってしまう。

遠距離恋愛をする決心をして告白のために新幹線や車に乗ったら「5時間かけてフラれに行くんじゃバカだよな」とつぶやかずにはいられない。

10代20代の皆様のなかには、私がなぁにを言っているのかサッパリわからん、という人もいらっしゃるでしょう。

でも、30オーバーの方々は、うんうんと頷いているのでは?

さて、数々の名セリフを残した「私をスキーに連れてって」の題名に注目しましょう。

はい、これから今日の大事なポイントをいいます。試験に出ますからしっかり聞いてくださいね(先生キャラ?)


■ 赤点突破の攻略法

情景がイメージしやすく、リアクションしやすい題名をつける。

はい、これだけ抑えればヒット確率3割増しは間違いなし!

試験でこれだけ書ければ30点もらえます。ほか3割30点分はしっかり自分で勉強してください。そうすれば我が校の赤点ライン60点は余裕を持って超えられます。

挑戦するっていうなら、せめて赤点突破を目指さないといけませんよ。みんなやればできる子なんだから、もらえるポイントはしっかりもらっておく。コレ大事です。


■ 30点ちゃっかりしっかりゲットしなきゃ!

「私をスキーに連れてって」

は~い☆喜んで☆

スキー行くならやっぱ4WDだよね。宿はゲレンデ前のプリンスホテルを予約しなきゃ。あと、防水カメラに無線機も用意してと。出発前はユーミンのカセットテープを車のカセットデッキにかけていざ出発!

ちなみに無線とは、ここではアマチュア無線のこと。免許が必要でほかに開局手続きも必要。電磁層に反射して電波を飛ばすため、地球の裏側とも交信できる。「私をスキーに連れてって」に登場したのはパーソナル無線だったのか、そのあたりはよくわかりません。

さらにちなみにカセットテープとは、MD、CDより以前に流行していたオーディオ用磁気記録テープ媒体の規格のの俗称のこと。

スキーに行くなら4WDで、泊まるならプリンスホテルっていうのは映画「わたしをスキーに連れてって」公開とヒットによってできた流行を通り越して、ひとつのお約束となりました。

映画の題名を聞いた(見た)だけで、情景がイメージしやすく、好きな女の子にそんなこと言われたら喜んで連れていってあげちゃうよ、とリアクションをとりやすい。

題名だけで3割30点をチャッカリシッカリ取っちゃってるのが、よぉ~くわかりますネ。


■ ある男女の会話

銀色のシーズンって知ってる?

未来人とか宇宙人とかの衣装やろ? 

それいうなら銀色の「ジーンズ」でしょ!

そうそう、ブルーでもブラックでもない、シルバーのGパンやろ?

Gパンって……。せめてジーンズっていってよ。できればデニムっていってほしいわ。

銀色のGパンを履くと超人になる変身ヒーロー作品なんやな。

違うよぉ。銀色のシーズン。つまり、一面雪景色のウィンターシーズンのこと。スキーやスノボができるシーズンのことよ。

あぁ、そなんや。で、その雪の季節がどないしたって?

えっと、ウィンターシーズンでお客が減った白馬の桃山町営スキー場がもう一度町を盛り上げようと雪山ウェディングを企画して、それでそのスキー場にはバカやってる男3人組がいてさ、そのうちふたりは元競技スキー選手なんだけど、そこに結婚3日前の花嫁がきて……。

「フラガール」みたいな地元復興の感動ドラマなんやな。

違うよぉ。あ、でもそうともいえるかな。でも、主人公たちが華麗なスキーテクニックをみせてくれるのよ。

スポーツ競技アクションなんやな。

違うよぅ。あ、でもそうともいえるかな。でも、結婚前のヒロインが登場するのよ。

結婚前の花嫁に手ぇ出したらアカンやろ。不倫予備軍養成所なんやな。

違うよぅ。あ、でも結果的にそうなるかな。でも、そこにはちょっとした仕掛けというかサプライズがあるのよ。

略奪愛のドロドロ不倫ものなんやな。

だぁかぁらぁ。違うってば! 銀くんがさ、瑛太くんがカッコいいんだってば。

あぁ~いったい何やねん。そんなことより腹減ったわ。なんか食いにいこか。


■ 漠然としている

「銀色のシーズン」という題名からはこんな男女の会話がイメージできますが、それはまさのこの作品のわかりづらさを表しています。

早い話が漠然としているんですね。地域復興感動ドラマなのか、スポ根アクションなのか、恋愛ドラマなのか。題名からイメージできるのは、冬とか雪ぐらいのもの。もしかしたら奇抜なGパンをイメージしてしまうかも。

「私をスキーに連れてって」という題名からは、冬の雪山ゲレンデが主な舞台で、そこに女の子が登場して、おそらく男性にスキーに連れてってといってるぐらいだから、ふたりの関係はいいカンジなんじゃないのぉ~、とイメージが広がります。

スキー場を舞台とした恋愛物語だというのがスグにピンときますね。

題名だけで3割30点チャッカリシッカリ稼いでいるというのは、こういう意味なのです。


■ 必要なリアル

SF作品だって、ひとつのウソをつくために他は徹底してリアルにするもの。

都合良すぎでも、それが恋愛モノなら観客も大目にみてくれます。

でもね。砲台かっ! っていう装置で巨大花火ロケットを撃って雪崩起こしたり(そもそも勝手に雪崩起こしちゃアカンやろ)、悪天候で雪山に取り残された白いロングコートを着た七海を、上空からパラグライダーで降りてきた銀がピンポイントで見つけたり……。せめて、一生懸命に七海を探すシーンをいくつか入れてほしいナ。

探しても探してもみつからない。でも、ちょっとしたキッカケで偶然に七海がみつかった! そんな些細な偶然なら観客だって大歓迎です。

それなのに、悪天候のなか雪山で白いコートを着て横たわる七海を上空からイキナリみつけて降りてくるって。手抜き通り越してこれヤバイっしょ(わるい意味で)。


■ バカさ加減がむずかしい

銀をはじめとする雪山の3人組は、スキー場のレストハウスの屋根をスキー板で滑ったり、パラグライダーで上空から大量の「なんでも屋」のビラを配ったり、道路の上空をスキーで飛んで走行中の車に急ブレーキかけさせたり、町中の手摺をスキー板で滑ったり、滑走禁止コースの看板をスキー板で蹴り飛ばして(当たっちゃっただけ?)滑ったり、スキー場で金持ちそうな人をターゲットに当り屋をしたりと、やんちゃの域を通り越してもはや悪質な犯罪行為を繰り返しています。

そんな銀たちならず者たちを、町民たち(時代劇みたいな呼び方だにゃ?)は大目にみています。その理由は町の人々と銀との両方にある「甘え」に基づくものでした。

そのあたりの話をすると長くなりますのでやめておきますが、同じバカをするにも加減というものが必要です。

「私をスキーに連れてって」では、若者たちのグループの皆はいわゆるサラリーマンです。医者もいますが、ほとんどが会社などに勤めている人たちで、冬に休みがあればすぐにスキーに行っちゃうスキーバカ(ほめ言葉)です。

ゲレンデではトレイン走行(最近みないね)したり、多少スピードを出して滑ったりしてるぐらいなもの。唯一といっていいルール破りは、春まで滑走禁止で夜もダメな志賀万座ルートにやむをえない(と思える)事情で突入したこと。
ほかに車でスキー場をカッ飛ばして走行するイケナイシーンもちょいとありますが、基本的に緊急事態(物語におけるヤマ場)でなければ、皆スキー場のルールや人間としてのルールを守って雪山で楽しんでいる若者たちでありました。

観客としても、なんかいいネ、と思えるやんちゃぶり。それを青春といいます。

しか~し「銀色のシーズン」の銀くんたちの好き勝手し放題の有様は、青春ちゃいますもん。それに、銀たちのバカやってる理由が「甘え」って……気持ちはわからないでもありませんが、チョット主人公を応援しずらいデスね。


■ 無理やり青春か

世界中の階段の手摺をスキーで滑るぞ。川をスキーで横断するぞ。

どちらも無意味っていえばそのとおり。でもそもそもスキーだってゴンドラやリフトで上へ行って滑って降りてきて、またゴンドラやリフトに乗ってまた滑って降りてきて……の繰り返し。

無意味の範疇でいえば、同じようなものです。

無意味こそ人生。無意味こそ青春。

そこで青春の象徴の、仲間とワイワイ騒ぐシーンがあります。

金儲けのために温泉を掘り当てようと雪の地面に鍬みたいのを入れたら液体が頭上高く吹き上がります。

わぁー! わぁー! やったぁ掘り当てたぁ! とシャワーを浴びるようにずぶ濡れになって喜び合う男たち。でも待って。冷てぇぞ。これって水じゃん(出た東京・横浜弁?)

――無理やり青春。……寒っ。風邪ひくぞぃ。

観客は、かぁなぁり置いてきぼりをくらいます。


■ 挑戦する箇所や焦点がズレてる!?

監督は「LIMIT OF LOVE 海猿」でヒットを飛ばし、その勢いにのって今度は山猿だぁ! と意気込んで、名作「私をスキーに連れてって」に挑戦したのでしょう。

結果は「銀色のシーズン」を見てもらえれば一目瞭然です。

ヒットして資金が増えてズレちゃたんですね。なにがズレたかというと、挑戦するためにやるべきことの焦点がズレちゃったんです。きっと。

自然環境の厳しい雪山で撮影というのは、雪山を舞台にした作品ですからそういうものです。

熱帯雨林のジャングルを舞台にした作品だったら、暑いジャングルで撮影といわれればそういうものです。

だから場所は気候は別にしても、10トントラック7000台分の雪で撮影用モーグルコースを設営したり、ハリウッドの空中移動撮影カメラを使った「スパイダーカム」クルーが日本映画に初参加したりというのは、金をかけたというのであって、挑戦ではありません。

挑戦というのは、名作「私をスキーに連れてって」を研究して物語をしっかりつくることです。フィクションの割合とリアルさの割合を検証する。観客に納得してもらえるような登場人物の内的葛藤を絵(画)で表現し、それを克服するプロットをつくる。物語展開のテンポを調整し、粋な演出を施す等々。ほかにもやることはいっぱいあります。

ピクサーは作品をつくるのに、その多くをキャラクターづくりとストーリーの検証に費やすといいます。

名作に挑戦するには、そういった物語づくりに精を出さなければなりません。お金を費やすのは、物語づくりの結果として必要だということで、それを挑戦とはいいません。

挑戦したといえるレベルにあるかないかは「銀色のシーズン」を観た観客が判断することですが、タカは作品を観て、挑戦する箇所や焦点がズレていると思いました。

ちなみに同じ監督作の「海猿 ウミザル」はなかなかよかったです。それもそのはず、原作漫画がすばらしいからですね。

そのすばらしい原作漫画があったにもかかわらず同じ監督作「LIMIT OF LOVE 海猿」をコントにしてしまったのはスゴい!(皮肉ですヨ)。

それでも「海猿ブランド」のおかげで「LIMIT OF LOVE 海猿」はかなりヒットしました。

じゃぁ今度はオリジナルストーリーでやってやろうじゃないの。やるならあの名作に挑戦しておもいっきりぶつけてやろうよ。

――で、ぶつかってどうなったかは、観てのおたのしみ。

牧場の魚もおだてりゃ雪山滑る!?


■ 最大にして唯一(といっていい)のすばらしいみどころ

田中麗奈さんを観にいく。そのためだけにあってもいいと思える作品です。

もしも綾瀬七海役が他の女優だったら。いったい何を期待して観にいけばいいのかわからなくなってしまうでしょう。
3日後に結婚式をひかえた花嫁役の田中麗奈さんの出番が多いのがいいですね。

温泉入浴シーンがある(ナヌッ!)。雪山に映える白いコート姿がある。もちろんスキーウェア姿もある。彼女がスクリーンに映っただけで画面が華やかになり、深みも出る。

そんな魅力的な女優さんだからこそ、もしも物語がもっとしっかりしていたら? もしもヒロイン田中麗奈バージョンの「私をスキーに連れてって」があったら? もしも彼女が水着にきがえたら?(笑)と考えると、もっともっと魅力的な作品にできたであろうに。田中麗奈さんをせっかくキャスティングしたのに、もったいナイ。

そもそも七海は、かなり不安定な精神状態にあった超お騒がせなキャラクターとも受け止められられかねない設定になっています。

きれいでかわいい人じゃなかったら、現実ならいくら事情が事情でもブーブー非難ゴーゴーですよ。そんな中途半場な役どころになってしまったのも、俳優の魅力を活かせない力量の表れなのでしょう。

けれど、そんなの関係ねぇとばかりに田中麗奈さんは魅力的でしたけどネ。

ちなみに田中麗奈さんの魅力を堪能できるのがコチラ。どちらもオススメです。

「夕凪の街 桜の国」作品レビュー

「暗いところで待ち合わせ」作品レビュー


■ その他

普通に観れば、そこそこ楽しめる作品です。

欲をいえば、雪山が舞台とはいえ要所で雪山をはずしてくるテクニックやセンスがほしいですね。

「私をスキーに連れてって」のセットアップはたしか会社のオフィス。隠れるようにスキー板を持って出勤する主人公が現れるところだったように思います(違ったかな?)。ほかにもスキー場ではないシーンが挟み込まれていました。

あえて雪山以外のシーンを入れれば、ゲレンデの雰囲気を際立たせて、ストーリー展開にもメリハリを出せます。空間的な奥行きも出せます。

そんな技術やセンスが「銀色のシーズン」には見当たらない。

「銀色のシーズン」の狙いや、やりたいことはなんとなく伝わってきます。

スノボじゃなくてあえてスキーっていうのも、意気込みを感じます。

でも、元競技スキー選手の小鳩祐次のエピソードも知りきれトンボだし、銀と七海の心の交流を描くシーンも停滞気味だし。

記憶に残るシーンやセリフや音楽(曲)がないんですよね。

こうしたい、ああしたいという気持ちはあるんでしょうけれど、それが空回りしている印象を受けました。

お金のかけ方はオトナレベルでも、物語のつくり方は映画研究会の習作ガクセイレベルですね。

また辛口になってるぅ。

それもしかたないか。あの名作に挑戦しようっていうんだから。ハードルは当然高くなりますヨ。

もしか、あの名作に挑戦する気はまったくなかったらチンプンカンプンなレビューになってしまいますが、スノボじゃなくてスキーをメインにした雪山青春モノとくれば、あの名作を思い出さずにはいらませんよね。

「私をスキーに連れてって」をもう一度観たくなったちゃったナ。指で作ったピストルでバーン! で優(原田知世)の気持ちを表現する演出。ニクイですねぇ。実生活でもされてみたいですなぁ。

ホイチョイ・プロダクションズがなぜ映画作品を立て続けに量産しないのか。なぜなら、良作をつくろうと思ったら、ストーリーづくりにある程度の時間がかかるからです。

ホイチョイのスゴさをあらためて認識させられました。


〈ホイチョイ関連作品〉

▼「私をスキーに連れてって」

▼「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」作品レビュー
題名だけで60点超えてるヨ!


デート      × 彼氏が田中麗奈に夢中になってしまう(>_<)
フラっと     × 物足りない
脚本勉強    ○ よい教材に。名作と比較しよう。
脚本       × 
演出       × 
キャラクター   × パンチがほしい
映像       △ 
お涙       △ 
笑い       △ 
ファミリー    × 
アクション    △
挑戦       × 挑戦箇所がズレてる
田中麗奈ファン ○ もっと活かせるハズ

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01/19/2008

映画「武士の一分」

監督:山田洋次
日本/2006年/121分
原作:藤沢周平『盲目剣谺返し』(『隠し剣秋風抄』収録)

またまた出た! 骨抜き侍見参! 真タイトルは「怨み屋本店復讐編」!? 似てそうで本質が違う「モンテ・クリスト伯」と観比べよう。名作と一般作・駄作との違いとは? めざせ100作! ガス抜き用水戸黄門系作品。っていうてる場合か(笑)テレビ時代劇でじゅうぶん。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
海坂藩の下級武士である三村新之丞は気のすすまない毒見役をしている。
そんなある日、貝の毒にあたって失明する。

道場を開く夢を絶たれ、絶望に打ちひしがれるも、妻・加世の支えで生きる気力を取り戻す新之丞。

そんな折り、加世と番頭・島田藤弥との不貞を知る。さらに島田が卑怯な手を使ったことが判明し、新之丞は武士の一分をもって島田に果たし合いを挑む。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△三村新之丞
海坂藩の下級武士(30石)。藩主の毒見役。剣術は城下の木部道場の免許皆伝の腕前。
 
▽加世
三村新之丞の妻

△島田藤弥
海坂藩番頭。三村新之丞の上司。剣の使い手。

△徳平
三村新之丞に仕える中間。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
またまた出た! 骨抜き侍見参! 真タイトルは「怨み屋本店復讐編」!? 似てそうで本質が違う「モンテ・クリスト伯」と観比べよう。名作と一般作・駄作との違いとは? めざせ100作! ガス抜き用水戸黄門系作品。っていうてる場合か(笑)テレビ時代劇でじゅうぶん。

■ 不運な男

剣の腕がたち、勉学も秀才。そんでもって男前。

能力は高くとも一族・親戚に有力武士がいないため30石取りの平侍。

そんな三村新之丞のお役目は藩主の毒見役。台所の隣の部屋で殿様に出される料理の毒見をする日々だ。

自分の能力を活かせる仕事がしたいと思いつつも、どうでもいいような、つまらないと感じる仕事をしなければならない。

新之丞は思う(たぶん)。――おれはなんと不運な男よ。

とはいえ愛する妻もいるし、早く隠居して、剣の腕を活かせることをしたい。暮らしは厳しくなるかもしれないが妻の加世と助け合って自分の道場を持ちたい。そんな夢を持っていた。

その新之丞が毒見で貝の毒にあたって失明する。

同僚たちはいう。――三村殿はなんと不運な男よ。

不運な男(女)……それって僕(私)のこと? と観客は思わずにはいられない。

傍から見ればなんとラッキーで幸せな人だと思われていても、当の本人は「自分はなんて不運なんだ」と思っていることはよくある。

ラッキーかアンラッキーかは当人の感じ方次第だからだ。


■ 限りなく高くできるハードル

そもそも人間は幸せのハードルをいくらでも高くできる。

一流ブランドバッグを10個しかもっていない。最低でも50個持っていなければ不幸だと思えば、その人は自分はなんと不幸だろうと思っている。

50個持っても、次には100個持たなければ幸せではないと思いはじめる。

不幸や不運を考えはじめたらキリがない。

50石取りの平侍。お役目は単調。やりがいを感じない。自分の能力を活かせる仕事をしたい。だが、それができずにいる。

それは三村新之丞だけのことではない。多くに観客にあてはまることだ。

観客は新之丞の境遇に自分を容易に重ね合わせることができる。

そこへ、貝の毒にあたるというさらなる不運が襲う! 


■ 似ているが本質は違う「モンテ・クリスト伯」

貝の毒で失明して絶望した新之丞に自害を思いとどまらせたのは妻・加世の存在だ。

その加世が番頭・島田藤弥に騙され、弄ばれた。

新之丞は武士の一分をもって島田藤弥に果し合いを挑む。

果し合いを挑むといえば格好いいが、要するに復讐である。

これに似ているが本質は違う話に「モンテ・クリスト伯」がある。

「モンテ・クリスト伯」の悪役的な役割をもつキャラクターのフェルナンは伯爵子息だが長男ではない。爵位を正式に継ぐことはできず、愛する女・メルセデスも手に入れることができない。

フェルナンは愛する人を手に入れたいと思いながら、現状ではかなわぬ愛の悲しみはやがて友人エドモンへの憎しみに変わっていく。

フェルナンの√二乗、って違った。フェルナンの事情だってわからんでもない。

一方の主人公エドモンは愛する人メルセデスを取り戻したい(=自分を取り戻すため)。愛を失ったことで、愛を奪った者=フェルナンへの憎しみが生じる。

フェルナンとエドモンは、どちらも愛の力で動いている。違うのはその作用の方向であり、たどり着くのはかつての友人への憎しみの感情だ。

元友人同士。愛の力によって引き裂かれ、憎しみが生じる。

フェルナンとエドモン。どちらの気持ちも理解できるからこそ観客はいたたまれない。物語はエドモン(モンテ・クリスト伯)寄りで進むので、感情移入の割合は主人公側が大きくなるが、仇役のフェルナンだって只の悪者とは思えない。それが「モンテ・クリスト伯」が名作といわれる所以のひとつだ。

では「武士の一分」はどうか。

主人公・三村新之丞はもちろん愛の力で生きる気力をとりもどしたのだが、その愛の源である妻の加世を離縁する。

侍の風習や当時の考え方や武士の面子、愛してるが故にとはいえ、愛する人を遠ざけてしまう。

仇役の島田藤弥はどうか? 島田の事情だってわからんでもないと思えるだろうか?

そもそも、島田の事情なんて描かれない。加世が新之丞に嫁ぐ前からの知り合いで、今でいえば学生時代に学校の帰り道で見かけて一方的に恋心を抱いた島田。その後、親や親戚のコネで入社して重役に。部下の妻となった加世の不運に、権力をチラつかせて付け込んで手篭めにしてしまおう、イヒヒッ。

ってそんな男にいったい誰が、島田の事情だってわからんでもない、と思えるだろうか?

はじめから、島田の事情を描こうなんて気はさらさらないのだ。悪役が必要なだけ。復讐すべき相手を作り上げただけである。

悪役がいると楽だ。悪としての存在があれば、主人公はそれを倒すことだけに専念すればいい。だが、楽であるかわりに、深みはなくなる。

物語には悪役が必要な場合がある。とはいえ、悪役にも事情があるところをいかに丹念に巧く織り交ぜるか。それが名作と一般作・駄作との違いだ。

だから「武士の一分」は「モンテ・クリスト伯」と似ているようで、全く違う。

「モンテ・クリスト伯」作品レビュー

次に「復讐」について考えてみよう。


■ 武士道とは? そんなのわかるワケねぇ!?

武士道とは? 

現代に生きる日本人だって、それにはっきり答えられる人は少ない。なんとなく武士の精神、侍の気質といったものがぼんやりと浮かぶぐらいだ。

「武士の一分」といわれれば「あぁそういうことね」となんとなぁ~くうなづいてしまう。

では「武士の一分」とはなんなのか。それは新之丞の行動から推測するしかない。

新之丞がしたのは愛する人を遠ざけて、怨む相手に復讐したことだ。

新之丞はこんな意味のことをいっている。「島田に俺の怨みの一太刀をあびせてやりたいんだ」(台詞は正確ではありません)

はっきり「怨み」といっている。

やったことは「怨みによる復讐」。それを「武士の一分」という、なんとなく格好よさげで致し方ない事のように思わせる言葉にすりかえてみせる。

作品のタイトルが「怨みます。復讐します」「怨み屋本店復讐編」だったらどうだろう? それじゃぁ格好つかない。そこで「武士の一分」ときた。どうなんだ? このタイトル……。


■ げにおそろしきは……いつのまにか骨抜きに

「モンテ・クリスト伯」は憎悪にとりつかれそうなった男が寸でのところでとどまり、再び愛に生きようとする話だ。
「武士の一分」は、怨みと復讐にとりつかれた男の話だ。

「スパイダーマンシリーズ」や「ゲゲゲの鬼太郎」が復讐を重要なキーワードに新時代のヒーローを必死に描こうとしているのと正反対に「武士の一分」は実直なまでに庶民のガズ抜き用水戸黄門系作品の道を忠実に歩んでいる。

日本にかぎらず復讐モノは庶民の願望を形にしたポピュラーなもので、古今東西で娯楽としての需要がある。

日本では平日の夕方や毎週どこかの曜日のゴールデンタイムに「水戸黄門」を放映しつづけているのがその証だ。いうなれば鉄板である。

そんな鉄板作品があったっていい。だが、そういうガス抜き用鉄板作品は、それが「ガス抜き用鉄板作品」だとはっきりその姿を晒していなければいけない。

「武士の一分」は、ヘタこくと「愛のすばらしさを謳う感動作品」と思われてしまいそうである。

なぜなら、日本で生まれ育った人たちの涙腺を刺激するツボを知り尽くし、最も効果的にツボを押す技術を持ったベテラン職人が監督だからだ。

この監督にかかったら、どんな日本人も骨抜きにされてしまう。例えるなら歴代にわたり宮廷に仕える特別な専属料理人みたいなものだ。この料理人は王のために料理をつくるのではなく、庶民にどんな料理を作ってやればいいかを知り尽くしていて、庶民のために料理をつくる。たとえ王が交代しても、この専属料理人がいればしばらく国は安泰だと思わせられる。そんな料理人だ。そうこうしている間に国の政治は腐敗しつづけ、気がついたときには手のつけようがない状態になってしまった……なんてことにも。

げにおそろしきは……本質を巧みな技ですりかえようとすること。そしていつのまにか骨抜きにされてしまうことかもしれない。


■ その他

これもヤバイ(上記の意味で)。

「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」「武士の一分」……。

このまま100作めざすのかな?

キムタクは三村新之丞役が一番合っているようにみえました。

一番合っている役がコレって! キムタク主演の「HERO」も似たようなものだし、彼は新時代のヒーローにはなれそうにありませんね……。

「武士の一分」を観終わって、あぁスッキリしたぁ、といって3歩あるくと、さて何食べようかな、と切り替えが早くて済みます。

「モンテ・クリスト伯」を観終わると……深いのぉ、といろいろ思いをめぐらして考えさせられる。これを「余韻が残る」といいます。

私は日本人ですから「武士の一分」を観ているときはけっこうハマッてるんですヨ。だからこそオソロシくもなる。

観終わると、マジこれ(パリコレではない)ヤバイっしょ。ってことになる。だってこういうのは、平日の夕方や週に1度、テレビでさんざん放映してるやん。そんなの皆わかってる。まぁたまにはいっか。っていいながら映画でも同じことずぅっとやっていくつもり……なんだろうなぁ。その予算の10分の1でもいいから若手監督に与えて好きにやらせてあげてほしいナ。

テレビ時代劇でじゅうぶん間に合って……というか間に合わせてほしいものデス。

デート      △ 
フラっと     △ 
脚本勉強    × パターンはどれも同じ
演出       ◎ 職人技アリ
キャラクター   ○ 定番キャラ
映像       ○
お約束      ◎ 
安心       ◎ 期待どおり予定どおりで安心
お涙       ○ 狙いすぎちゃう?
おバカ      × まじめ
笑い       △ チョイあり
ファミリー    - 
アクション    ○ 
ワクワク     × お約束の展開
びっくり     × 
余韻       ×
時代       × 時代劇だけに時代におもいっきり逆行!?
ガス抜き用   ◎

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11/22/2007

映画「クローズ ZERO」

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監督:三池崇史
日本/2007年/130分
原作:高橋『クローズ』

男って、いくつになっても子どもよね。男子高校生もおっちゃんもジィちゃんも、みんな大好き「数のゲーム」。いつものことながら山田孝之が存在感アリアリ。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
不良学生が集まる鈴蘭高等学校。鈴蘭制覇を目的に転校してきた源治は、めっぽう強い。
やがて源治は鈴蘭高校で一大勢力をつくりあげ、最大規模を誇る芹沢グループに戦いを挑む。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△滝谷源治
男子学生。

△片桐拳
鈴蘭OBのチンピラ。

▽逢沢ルカ
八百屋の娘。

△芹沢多摩雄
男子学生。芹沢軍団のボス。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
男って、いくつになっても子どもよね。男子高校生もおっちゃんもジィちゃんも、みんな大好き「数のゲーム」。いつものことながら山田孝之が存在感アリアリ。

■ 鈴蘭制覇がみんなの願いになるまで

鈴蘭時代には名も無き男だった片桐。鈴蘭卒業後、組に入っても後輩に顎で使われる名も無き(に等しい)チンピラ。
どの世界でも名を轟かすことができない男。それが片桐だ。

小栗旬くんのカッコいいところが見たぁ~い、という黄色い声援のなか、片桐というキャラクターの出番は源治(小栗旬)の次に多いぐらいだ。

腕っぷしも弱く、才覚もない。そんな片桐に唯一あるもの。それは、人情と男気だ。

怪我をしている源治と、逢沢ルカが不良たちにからまれたとき、片桐はふたりを安全なところへ逃がし、自らは盾になってみせる。

もちろん喧嘩は弱いのでボコボコにされる。

腕っぷしがめっぽう強い、ボーン。

腕っぷしがめっぽう弱い、片桐。

そんな正反対のようにみえるふたりに共通しているのは、大事な人を守るという男気だ。

源治にしても、片桐の自分に対するおもいやりを深く感じ入る。そして、片桐が託してくれた夢でもある鈴蘭のてっぺん目指して走り出すのだ。

そもそも、源治が鈴蘭のてっぺんを目指す動機は、親父を超えたいからというありがちなもので、イマイチ共感しづらい。

不良高校の番長になったからってそれがどうした? と思ってしまいがちだが、山があれば頂上を目指したくなるもの。それがどんなに小さく、たとえ丘だったとしてもだ。

そこで、人情キャラ片桐を登場させ、鈴蘭のてっぺんを獲るのが源治だけの願いではなく、友情や人情に裏打ちされたみんなの願いだと思わせるよう工夫している。

ところで鈴蘭のてっぺんから見える景色ってどんなかんじだろう?


■ 数のゲームを楽しむ

あの山のてっぺんに登ったら、向こう側になにがみえるんだろう?

そんなことを思いながらてっぺんにのぼってみたら、向こう隣の山のてっぺんから自分と同じような顔してこっちを見てる冴えない奴がいた……。

それでもてっぺんに登りたがるのは、純粋に登山が好きだからというのに加えて、数のゲームを楽しめるからだ。

民主躍進。衆参ねじれ現象。党首会談。大連立構想。

芹沢軍団。GPSグループ。バイク武装集団。

どちらも基本はおなじようなものだ。

源治がどんなに腕っぷしが強くても、ひとりでは鈴蘭のてっぺんには登れない。人数を集めて芹沢グループに対抗しなければならないからだ。

三国志で例えるなら、関羽と張飛がどんなに強くても、劉備玄徳たちは群雄割拠の中では強い一集団にすぎない。そこに軍師・諸葛孔明を迎えて天下三分の計を立てると、蜀漢建国への具体的な歩みがはじまる。ただ強いだけでは一匹狼でしかない。いつまでたってもてっぺんは狙えないのだ。

そんな典型が源治だ。

けれども源治には、劉備玄徳がそうであったように、人を惹きつける魅力を持っていた。だから片桐と仲良くなった。学校ではクラスのボスを倒し、徐々に源治に付く中ボスたちが増えていく。やがては芹沢グループの次に大きなGPSというグループを形成するようになる。

こういうゲーム。なんだかんだいって、男はけっこう好きである。

3分映画中学の間宮兄弟っていやぁ、泣く子も黙る最恐コンビだぜぃ。

3分映画商事の間宮さんといえば、業界でも知らぬ人はいない敏腕部長じゃないか。

3分映画党の間宮幹事長といえば、党の中でも最大派閥をとりしきる人物で、財界にも顔がきく大物ですね。

どれもこれも、只野、あ、いや「ただの間宮さん」ではイマイチなのだ。

3分映画中学だったり、3分映画商事だったり、3分映画党だったりといった、どこかのグループの一員であることが「数のゲーム」のおもしろさの醍醐味なのだ。

そんなゲームの魅力を存分に楽しみたいなら「クローズ ZERO」はうってつけだ。

若者向けの作品のようでありながら、政治家と呼ばれる人たちや政治に興味ある人たちも、口では不良学生の話などくだらんというかもしれないが、作品がDVDになったら秘書に買ってこさせて夜中にこっそり妻子に隠れて観てみるか、などと思っていてもなんら不思議はない。

男って、いくつになっても子どもよね。そこがかわいいんだけどネ。

そんなお姉ぇサマもクラブのママも楽しめる、それが「クローズ ZERO」である。


■ キャラクター設定はご愛嬌

綺麗で、男に守られる役割だけのキャラクター、逢沢ルカ。

病気で手術が必要な、芹沢軍団の幹部で芹沢のマブダチの男子学生。

卑怯な手を使うヤクザの親分も、なぜか片桐には人情深い。

そんな、とってつけただけのキャラクター設定はご愛嬌。

数のゲームをより一層楽しむための、鈴蘭のてっぺんを目指す男たちに観客が少しでも共感できるような動機を与えることが目的の、こういったキャラクター設定は、かるく右から左へ(笑)受け流しておくのが正解です。


■ その他

前半の生徒たちの殴り合いのアクションシーンは「痛さを伴わない迫力映像」としてはイイ線いってるんじゃないかな。

さらに前半は笑いも多いですね。多少無理して笑いをとろうとしている感はありますが、お笑い芸人バッドボーイズのふたりが出てきたあたりで笑いはピークを迎え、しばらくは「鈴蘭的お笑いワールド」に浸たれます。

しかし後半、笑いは影をひそめ、それと呼応するかのように「痛さを伴わないアクション迫力映像」もみられなくなっていきます。

後半からラストに芹沢軍団とGPS軍団の大乱闘シーンがありますが、そこはけっこう普通っぽいアクションになっています。フルマラソンでいえば35キロ地点で失速してしまったかのようで残念!

主人公源治役は小栗旬さん。これまで、やさしい男前高校生という印象が強かった俳優さんですが、体も大きそうですし、けっこう不良っぽい格好が似合います。

しかし共演の山田孝之さんが存在感ありすぎて、小栗旬さんは少し薄まってしまった感じですね。

ちなみに、吉本興業所属のお笑い芸人コンビ「バッドボーイズ」の佐田正樹さんは、福岡で最大勢力を誇っていた暴走族の元総長。佐田さんの相方、大溝清人さんは元暴走族の連絡隊長です。


デート       △ 
フラっと      △ 原作漫画未読でもオッケー
脚本勉強    △ 原作を元にオリジナルストーリーにしたのはGOOD
演出       △ 
キャラクター   △ 
映像       △ 
笑い        ○ 人間ボウリングの球デカッ!
ファミリー     - 
アクション     △ 痛くない殴り合い
やんちゃボーズ ◎ 
政治家      ◎
男子諸君     ◎ 

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11/08/2007

映画「クワイエットルームにようこそ」

監督:松尾スズキ
日本/2007年/118分

内田有紀なしには成立しない、ミステリー仕立ての「女性の自分さがし物語」。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
フリーライターの明日香が目覚めると、知らない部屋で体を拘束されていた。
そこは女子だけの閉鎖病棟内にある保護室「クワイエットルーム」だった。
どうしてそこへ運び込まれたのか記憶がない明日香だったが、しばらく閉鎖病棟に入院することになる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
▽佐倉明日香
女性。28歳。フリーライター。

△焼畑鉄雄
男性。放送作家。明日香の同棲相手。

▽ミキ
女性。入院患者。

▽江口
女性。看護士。

▽西野
女性。入院患者。

△コモノ
男性。鉄雄の子分。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
内田有紀なしには成立しない、ミステリー仕立ての「女性の自分さがし物語」。

■ シフトする雰囲気

前半はかなり笑えます。笑えるように作ろうとしているのが伝わってきます。

もちろん、その笑いの質が合うかどうかは人それぞれだと思いますが、作り手の狙いとしては観客を笑わせようとしています。

その狙いは、観客の間口を広げることにあります。

閉鎖病棟内にある保護室「クワイエットルーム」に収容された女性ライターが主人公と聞いて、明るく楽しいイメージを持つ人はそう多くないでしょう。

どうしても暗い話になりがちな設定の物語に、どうやったら客が呼べるか――。

そこでコメディっぽい匂いを嗅がせて、気軽に楽しめるかのような印象を持ってもらおうとしたのでしょう。

作品の予告編を観るかぎりでは、仕事がいそがしくてたまたま深酒と睡眠薬が重なって意識不明になって、たまたま病院のベッドが空いていなかったから精神科の閉鎖病棟内にある保護室「クワイエットルーム」に収容されてしまったかのようにみえるでしょう。

主人公・明日香もそのように話すので、観客もたまたまクワイエットルームに収容されてしまったお気楽ドタバタおバカコメディだろうとリラックスして前半は観ていられます。

ところが後半。

実は明日香の身に何が起こったのかが徐々に明らかになってくにしたがって、監督がお気楽やドタバタおバカやコメディを目指しているわけじゃないんだな、と感づいていくことになるのです。

こうして作品の雰囲気が「軽」→「重」へシフトします。


■ 失われたウン年?

内田有紀。

ボーイッシュな髪型で人気となり、90年代に大ブレイクしたタレントさんです。94年のテレビドラマ「時をかける少女」では河相我聞と競演。ふたりは似ていて、兄妹かと思うほどでした。

歌手、映画出演、劇団入団と活躍していましたが、2002年に「北の国から」で共演した吉岡秀隆と結婚。芸能活動を休業。

夫の吉岡秀隆は「Dr.コトー診療所」にドラマ出演、そして『ALWAYS 三丁目の夕日』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。俳優としてのキャリアを積みます。

――で、内田有紀は?

内田有紀は2005年に離婚していたことが明らかになり、2006年に芸能活動を再開。

芸能活動を休止していた期間、内田有紀の姿を見ることはできませんでした。これを「失われた年月」といわずしてなんといいましょう。

結婚していた期間にどこに住んでいたのかはわかりませんが、挙式は富良野市でした。まるで北海道で冬眠させられてしまったかのようで内田有紀ファンは残念でならなかったといいます。

内田有紀・吉岡秀隆の夫婦生活がどのようなものだったのかもわかりませんが、それをイメージさせるかのような、明日香の身の上のエピソードの数々が「クワイエットルームにようこそ」に登場します。

こういった映画の内容をOKした内田有紀の根性というか心意気に、俳優としての覚悟と気合を感じます。

実際「クワイエットルームにようこそ」は内田有紀なしには成立しえない、内田有紀あっての作品です。

芸能活動を休止していた期間は「失われた年月」ではなく、俳優として内田有紀が空高く羽ばたいていくための準備・充電期間であったと捉えずにはいられません。

それにしても、内田有紀さんのオーラは衰えるどころか、ますます強くなってますネ。


■ その他

閉鎖病棟内という場所を限定しています。空間的な広がりを、主人公の回想を中心として展開させているので、ある程度作品としてのまとまり感を出すことができています。

監督は芝居系出身ということで、場所を限定したのは不得意な部分の粗を目立たせないためでしょう。

作品のラストで主人公・明日香が閉鎖病院を退院して車で走り去っていくシーンがあるのは、監督自身が映画というフィールドへさらなる一歩を踏み出す心意気を込めたのかもしれないですね。

旅館の女将役に「サラダ記念日」の俵万智。松原医師役に「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明が出演しています。りょうさんの看護士役もハマッてますヨ。

「クワイエットルームにようこそ」は内田有紀なしには成立しない、ミステリー仕立ての「女性の自分探し物語」です。

「自分さがし」はヒットする確率が高いのです。「ほんとうの自分は?」と考えたり思いふけったりするのはだれにでもあるでしょう。そういうのが高尚だったりお洒落だったり格好良かったりする風潮というのも少ながらずありますから。

「ほんとうの自分は?」と考えているのは誰? まさにそれがアナタだよ、と言ってしまえばそれまでですが……。

自分さがしをするには旅に出なくちゃならない。インドへ行くのもありがちですが、閉鎖病棟に入院というのも一種の旅です。

監督としてはおそらく空間を限定したほうがやりやすいでしょうから、インドよりも閉鎖病棟にしたといったところでしょう。

そもそもみんな自分探しがすきですから、その願望に合わせたモノを提供すればヒットするというワケです。つまり、需要がある。だからヒットする確率が高いのですね。特に女性向けでは。

デート      × 無難に初デートなら●丁目の夕日でじゅうぶん
フラっと     ○ 意外と「!」かもよ
脚本勉強    ○ 劇場型監督が映画でうまくやる例
演出       △ 
キャラクター   △ キャラが分散気味
映像       △ 
笑い       ○ 前半はコメディ調
ファミリー    -
ミステリー    ○ ミステリー作品です
アクション    - 
人間       ○ 
ノーテンキ    × けっこう真面目。とくに後半が。
女性       ○
男性       △ クローズゼロにしときぃ
内田有紀    ◎ オーラ出まくり

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10/13/2007

映画「HERO」

監督:鈴木雅之
日本/2007年/130分

もしもクムタクが黄門様だったら? 「LIMIT OF LOVE 海猿」と同じく「ヒットの鉄板方程式」を実践した作品。劇場版をイキナリ観て鮮明になった事とは?

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
検事・久利生公平が傷害致死事件の裁判を任される。
事件の背後には、大物政治家の花岡練三郎が関連していた。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△久利生公平
検事

▽雨宮舞子
久利生公平の事務官。

△蒲生一臣
弁護士

△花岡錬三郎
大物代議士


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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もしもクムタクが黄門様だったら? 「LIMIT OF LOVE 海猿」と同じく「ヒットの鉄板方程式」を実践した作品。劇場版をイキナリ観て鮮明になった事とは?

■ 連続ドラマ未見で挑む劇場版「HERO」

2001年にフジテレビ系列で放映された連続ドラマ「HERO」。2006年7月にはテレビスペシャルも放映されました。

けっこうヒットしたドラマだというのは小耳に挟んでいたけれど、知っていることは主人公の検事が普段着(スーツを着ない)ってことだけ。

そんな折り、ドラマのファンの知り合いから「HERO」の基本情報を仕入れることができました。

(1)主人公・久利生公平は中卒

(2)主人公・久利生公平は通信販売で物を買うのが好き

(3)主人公・久利生公平の行きつけのオシャレ飲食店のマスターは無口で通販好きで料理はなんでも作れる

これだけの予備知識だけでイキナリ劇場版「HERO」を観てしまおうというわけです。

さてさて、どうなることやら……。


■ 離れてみないとわからないことがある

村上龍の小説「半島を出よ」の登場キャラクターに、内閣官房副長官の山際清孝がいます。

北朝鮮の特殊戦部隊員9名が福岡に侵入して福岡ドームを制圧。日本政府に対し福岡上空の航空警戒を解除するよう要求したことに対して、日本政府は安全保障会議を招集します。

閣僚のほとんどは選挙のために地方に行っていたため、内閣官房副長官・山際清孝が主となって対応を検討することになりましたが、有効策はみつからないままでした。

やがて到着した首相に、山際は対応の遅れや有効策を講じなかったことを理由に罷免されます。それでも他へ行くわけにもいかないのでその場に居残っていると、山際にはあることがよくわかるようになりました。

事件に対処するための最優先事項が決まらないまま場当たり的な思考と対応を繰り返していくだけの様子が、罷免されて外から眺めていることで、よくわかるようになったのです。

テレビドラマ「野ブタ。をプロデュース」で転校生の小谷信子がいじめにあい、ペンキで制服に落書きされます。

そこで、同級生で人気者の桐谷修二とその友人・ 草野彰は、自分の制服に自らペンキで落書きをして登校します。
ペンキで落書きした制服がオシャレでカッコイイという風潮を広めて、小谷信子の落書きされた制服を目立たなくする、いやむしろカッコイイものにしてしまおうという作戦です。

こうして学校では「落書き制服」が流行ります。

ペンキで落書きされた制服を着た高校生を見たら、アナタはどう思いますか?

ほかにも「野ブタ。をプロデュース」とは関係ありませんが、もしも、ベルトが切れちゃったの? と聞きたくなるような、ズリ下がって今にも落ちそうで、足が短く見える学生服のズボンを履いた男子高校生を見たら、アナタはどう思いますか?

どちらも「その高等学校とその周辺地域の同世代」いう世界にどっぷり浸かっている生徒にとっては、とってもカッコイイ(COOL!)わけです。

でも、他の地域の高校に通う生徒や、高校生以外の人が見れば、きっと違うように感じることでしょう。


■ 俯瞰図を見るように映画を見てみよう

連続ドラマを未見にもかかわらず劇場版作品を観た理由は「離れれば見えることがある」からです。俯瞰図でしか見えてこないことがあるからです。

いったい何が見えたのでしょうか。

――「鉄板」が見えました。

鉄板とは、主にお笑いなどで間違いないことの意味で使われます。

見えたのは、連続ドラマを元にした映画は「ねるとん告白タイム効果」を使って「鉄板」になる様子です。

形式に少し違いはありますが「LIMIT OF LOVE 海猿」も連続ドラマから映画へという流れで作られた作品です。
違いとは、海猿シリーズは「海猿(1)は映画」→「海猿(2)は連続ドラマ」→「海猿3は映画」という連続ドラマを映画ではさんだサンドイッチ型であるということです。(「HERO」は連続ドラマ→テレビスペシャル→映画)

▼「LIMIT OF LOVE 海猿」作品レビュー

さて「HERO」も「海猿シリーズ」も「ねるとん告白タイム効果」という構造が同じです。

「ねるとん告白タイム効果」とはなんぞや? はこちら↓

▼ねるとん告白タイム効果でわかる、海猿人気の秘密

キャラクターへの感情移入はドラマで完了済み。残すは久利生公平と雨宮舞子の関係がどうなるか(告白タイム)。

これが最大にして唯一の関心事といってもいいでしょう。

この関心事だけに焦点を合わせればいいのです。

久利生公平と雨宮舞子の関係にどんな決着をつけるか。それだけでいいのです。

ということは、これは恋愛物語ですね。


■ ワカモノ向け黄門様

そもそも主人公の職業が検事ですが、それは主人公の職業が水戸黄門でも大きな違いはありません。もちろん、小さな違いはあります。

それは出身・学歴が殿様ではなく中卒であることや、服装やアイテムが印籠ではなくノーネクタイ(スーツを着ない)であることなどです。

特に劇場版では大物代議士の花岡錬三郎が登場することから、巨悪は裁かれ罰せられてほしいという庶民の願望を、お上(水戸黄門)が裁くのはでなく、より身近に感じることができる普段着ノーネクタイ中卒の久利生公平が裁くという設定にしているだけで、内容に大きな違いはありません(ほら、黄門さまだって普段はちりめん問屋のご隠居ってことで庶民を装っているでしょ)。

もしも連続ドラマの企画の段階に作られた企画書にプレミス(ストーリーが発展していくための基礎となるアイデア)のようなものを書く欄があるなら、そこには「ワカモノ向け黄門様。もちキムタクで!」と書いてあるかもしれませんね。

水戸黄門が長くテレビで放映されているのは、それが人間の欲望の深いところとつながっているからです。

それを利用しない手はない。だけど、水戸黄門そのままでは10代~30代に観てもらうことは期待できない。だから少しだけ設定を変えよう。

ワカモノ向けのドラマには多かれ少なかれ男女の恋愛という要素を入れるのだから、それで連続ドラマがヒットしたら、あとは「ねるとん告白タイム効果」を使って映画をつくれば鉄板だ!

そんな思惑があったのかもしれません。

ちなみに映画「LIMIT OF LOVE 海猿」も映画「HERO」もフジテレビと東宝が制作です。ヒットの鉄板方程式をきっちり使っているというワケですね☆


■ 人間を描いてほしかった

主人公が検事なので、事件に潜んだ人間の心の内が描かれることを期待してしまいがちですが、そのあたりは期待しないほうがいいでしょう。

例えば、久利生公平が担当することになった傷害致死事件の被告となった青年。

ビルの警備員の仕事中に自分の車で職場を抜け出した金髪の青年が、夜の自動販売機前で会社員の男性とぶつかります。

その拍子に地面に落ちたタバコを踏んだ会社員に対し、青年は殴る蹴るの暴行を加えて死に至らしめます。

この事件が代議士・花岡錬三郎の事件とつながるのですが、巨悪を裁くために用意したものにしては、深みがありません。

少年の心の内を描いていないからです。

たまたま見ず知らずの男性とぶつかって、自分のタバコを踏まれたから殴る蹴るの暴行を加えた。これでは短絡的すぎます。実際にはそういった事件はいくつもあることでしょう。

でも、物語ではそこに「深み」が必要です。

物語には構造上「絶対的な悪」が必要な場合があります。映画「HERO」における悪は代議士・花岡錬三郎というキャラクターが担っています。それだけで十分です。

一見すると「絶対的な悪」でありそうな金髪少年にも実は……というふうに、新たな側面を描き出しつつ、よくよく調べていくと短絡的な「悪い意味でキレて凶暴化するワカモノ」というステレオタイプではなく、その裏には巨悪が聳え立っていたのだ。

こうすれば、久利生公平が「悪い意味でキレて凶暴化するワカモノ」というステレオタイプを打破しつつ真の巨悪を懲らしめるという、ほんとうの意味でのワカモノ向けの黄門様になれたことでしょう。

そうではなく「悪い意味でキレて凶暴化するワカモノ」のままにしたところに「ワカモノ向け黄門様」なのに表題と内実がズレている「ねじれ現象」が生じてしまっているのです。

とはいえ、人間の内面をじっくり描こうという性格・種類の作品でもありませんし、おそらくそんなことはほとんど期待されていないでしょう。

なぜなら劇場版「HERO」は久利生公平と雨宮舞子の関係にどんな決着をつけるかが焦点の恋愛物語だからです。

もしかしたら、人間の深い部分についてはドラマのほうでじっくり描かれているのかもしれません。

だから映画ではあえてそれをしなかったのかもしれません……。


■ その他

木村拓哉さんは、どんな役柄でもすべて「キムタク」になるのは、これはもぉ特技といってもいいでしょう(^^)

ちなみに、ジーンズによれよれのシャッツでカッコがつくのはキムタクだから。素材がキッチリしているから着る物を崩しても様になるんですね。まちがっても普通の兄ちゃんは真似しないように。ただのだらしない兄ちゃん、またはオヤジになってしまいますから(それって私のこと?(T_T))

「LIMIT OF LOVE 海猿」を観たときは、私は第1作の映画も連続ドラマも観ていたので、海猿ワールドにどっぷり浸かっていました。

だから「LIMIT OF LOVE 海猿」の、コントでもあるかどうかというメチャクチャな設定も「そんなの関係ねぇ!」(小島よしお)と思えてしまう部分がありました。

そういう映画の観方も楽しいですが、もしも連続ドラマを未見で劇場版だけを見たらどう感じていただろうと、ふと思いもしました。

今回、イキナリ劇場版を観るという機会に恵まれて、またひとつおもしろい映画の観方ができました。

基本として、キムタクのカッコイイところを見たいという気持ちだけを持って劇場にいけば、きっと劇場版「HERO」楽しめることでしょう。


デート      △ ふたりがドラマファンなら
フラっと     × ドラマファン向け
脚本勉強    - 
演出       △ 
キャラクター   ○  
映像       △
笑い       ×
意外性      ×
内輪       ◎
ファミリー    -
アクション    -
お約束      ○
キムタクファン  ◎
人間       ×

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08/31/2007

映画「ベクシル 2077 日本鎖国」

監督:曽利文彦
日本/2007年/109分

監督への道。ふたりのCG職人が歩む道でわかる「ベクシル」というソフトの成り立ちと歩む方向。だから曽利文彦氏は監督なのだ。国内の評価?「そんなの関係ねぇ(小島よしお)」とばかりに世界への道を歩いていってほしい。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
バイオテクノジーとロボット産業でハイテク技術大国となった日本は世界市場を独占。やがてハイテク技術が規制の対象になると日本は国連を脱退して鎖国をはじめた。
それから10年の間、日本人どころか日本国土の本当の姿を見た者はひとりもいない。
そして2077年。米国特殊部隊SWORD所属の女性兵士ベクシルは、日本への潜入作戦に加わる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
▽ベクシル
女性兵士。米国特殊部隊SWORD所属

△レオン
男性。軍人。米国特殊部隊SWORDのリーダーで中佐。鎖国前の日本で対テロ部隊を指揮。ベクシルの恋人。

▽マリア
女性。日本に潜入したベクシルを助ける。かつて日本でレオンとも面識がある。

△サイトウ
大和重鉱総務局長

△キサラギ
大和重鉱社長


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
監督への道。ふたりのCG職人が歩む道でわかる「ベクシル」というソフトの成り立ちと歩む方向。だから曽利文彦氏は監督なのだ。国内の評価?「そんなの関係ねぇ(小島よしお)」とばかりに世界への道を歩いていってほしい。

■ 監督――それには意味がある

監督の曽利文彦氏は映画「ピンポン」で長編デビューしたCG・VFX(Visual Special Effect 主にコンピュータ・グラフックスの技術を使ったデジタル処理技術)職人。根っからの映像屋だ。映画「タイタニック」にCGアニメーターとして参加もしている。ほかにも原作がある映画「APPLESEED アップルシード」をプロデュースした。

▼「アップルシード(APPLESEED)」作品レビュー

そんな映像職人の曽利文彦監督が今度はオリジナル作品を作った。それが「ベクシル」だ。

こうなると、もうただの映像職人ではない。――監督だ。

なぜ、監督であることをわざわざ強調するのか。それには意味がある。


■ ふたりのCG・VFX職人の歩む道(山崎貴氏の場合)

日本の代表的なCG・VFX(以下CGとする)職人というと、たいていふたりの名が挙がる。

ひとりは山崎貴氏。

伊丹十三監督作品「大病人」「静かな生活」などでSFXをを担当。「ジュブナイル」で映画監督デビュー。「リターナー」そして「ALWAYS 三丁目の夕日」で日本アカデミー賞の最優秀賞発表において13部門中の12部門で最優秀賞を獲得。これによって日本を代表する映画監督になったとされる。

ちょっと待ったぁ~!

おぉ~と、ちょっと待っただぁ!(「なるとん紅鯨団より。とんねるずの貴さん)

すくなくとも、私には山崎貴氏は生粋のCG職人にみえる。

「ALWAYS 三丁目の夕日」において昭和30年代の町並みや建物のミニチュア、それに住宅、商店などのセットとCGを組み合わせたあの映像はなかなかものだった。

だが、監督ではない(と思うヨ)。

山崎貴氏の作品ではたいてい「脚本・監督・VFX 山崎貴」とクレジットされている。これを見ると「脚本・監督もですからね」と必死にアピールしているように見えてしまう。よほど「ただのCG屋」だと思われたくないのかな、と妙な勘ぐりをさせてしまう、そんなクレジットだ。

私は世界で日本映画が広く見られるようになってもらいたいと思っている。だから映像技術を持った山崎貴氏にはある程度注目していた。

「Returner リターナー」は散々だったが、それは致し方ない。はじめは真似ばかりでも、そこで試行錯誤を重ねていけば、きっと世界に見せれる日本のソフトを作れる日がくるだろうと思っていたからだ。

だからこそ「Returner リターナー」のレビューはずいぶんと辛辣な内容になったが、それもこれも次回作への期待度の高さゆえの応援歌であった。

▼「Returner リターナー」作品レビュー

すくなくとも「Returner リターナー」は、なんとかしてソフトを作れるようになろうともがく、がむしゃらな姿があった。

しかし、残念なことに第3作「ALWAYS 三丁目の夕日」で山崎貴氏にはソフトを作るつもりは無く、CG職人として生きるかたい決意をしたことがわかった。なにを目指して何になるかは人それぞれなのでそれまでだが、残念に思う。

このあたりのことは長くなるので、以下のレビューにて。

▼「ALWAYS 三丁目の夕日」作品レビュー

「ALWAYS 三丁目の夕日」みたいな作品があってもいい。なんとなっくジーンとくるシーンもあった。何度も笑った。なにより、マーケティングのツボはうまいこと抑えているなぁと感心した。

だが、テレビに例えるならスカパーの水戸黄門チャンネルみたいなところで一部マニア向けに放送でもしていてくればよかったのに、地上波のゴールデンタイムで放送してしまった。

それがおかしいことだという一部の声さえかき消されているも同然の状況にこそ、閉塞する現代日本が象徴的に表れている。そういう意味では、製作者の意図とはかけ離れているが、極めて風刺的な様相を呈した作品、それが2丁目だか1丁目だかの朝日だか木漏れ日だかである。

とにもかくにも山崎貴氏は世界へ向けて発信できるソフトを作る道とは真逆へ歩きだしてしまった。いや、猛スピードで走りだしてしまった。それが残念だ。


■ ふたりのCG・VFX職人の歩む道(曽利文彦監督の場合)

もうひとりは曽利文彦監督。

先にも話した(書いた)とおり、曽利文彦監督はCG畑を歩いてきて実写「ピンポン」で監督デビューした。

実写映画であったのが重要なポイントだ。実写とCGの融合という作業を通して曽利文彦監督はずっと考えていたのだろう。

実写でできること。CGでできること。そのふたつを考え続けてきたのだ。

そうでなければ「ベクシル」は撮れない。

それは日本に潜入したベクシルが見た東京のシーンに表れている。

そもそもCGは、ロボットや乗り物といったメカや、ビルや巨大建築物といった建物と相性がいい。もちろん「ベクシル」にも飛行機やロボットやファイタースーツといったCGと相性のいいものが登場する。

しかし、実はCGと相性が悪いものがかなりの割合で登場する。それはベクシルが見た東京のシーンだ。ネタバレになってしまうので控えようと思ったが、作品の予告でもたしか東京の町の様子の映像が流れていたのでまぁいいだろう(予告などで東京の様子を明らかにしないほうが宣伝効果はより高かったと思うがそれは置いておこう)。

とにもかくにも、その東京のシーンは、太平洋戦争後間もない日本の町の様子に似ている。寄せ集めの廃材で作った屋台で人々が食事をし、台風がきたら吹き飛ばされそうな平屋の家々で人々は生活している。

それは、ロボット、メカ、ビルといったものとは正反対のアナログ世界とでもいおうか。

CGが苦手とするアナログな題材を、あえてフルCGで描き出す。そんなことしないで得意なところだけCGで作ればいいと思いがちだが、それは職人の発想と感覚と判断だ。

得意なところだけをCGで作っても、それはCG技術の見本市にすぎない

そうではなく、あくまで作品を、物語を、ソフトを世界中の人々に観てもらうために、あえて不得意とされる部分もフルCGで描いている。

CGという、一見すると冷たく無機質な印象を与えがちな技術を用いて、人間らしく生きようと一生懸命に生きようと人々が生活する町――東京――を描いた。ここに、物語の伝えたい事柄とCG技術の融合が図られたのだ。

東京のシーンがあることで、曽利文彦監督がCG技術を使って描きたい(伝えたい)ものが「人間」だというのがわかる。

伝えたいものがあるとはつまり、物語ることであり、ソフトを作ることであり、作品を撮り、映画を作ることである。

だから曽利文彦氏は監督なのだ。優秀なCG職人であると同時に、映画監督なのだ。

だから、世界へ向けて発信するソフトを作るんだ。という揺るぎない意志と、はかりしれない研究と試行錯誤の数々を乗り越えてきたことが、スクリーンからあふれてくる。

そういえば、戦後すぐあたり(「ベクシル」)と昭和30年代(「ALWAYS 三丁目の夕日」)という年代のズレはあるとはいえ、同じく戦後日本の東京を再現したかのような映像を作っても、こうも進む道が違っているのはたいへん興味深く思う。

昔を美化して懐かしむ人々と、たとえヒトのかけらしか残っていなくても最期までヒトらしく生きようとする人々との、いったいどちらが「人間」を描こうとしているかは一目瞭然である。


■ リアルすぎず。デフォルメアニメすぎず

3Dライブアニメという映像表現技術を使って作られているため、登場キャラクターの動きもたいへんナチュラルにみえる。

けれども、顔はどちらかというとアニメちっくである。

これはおそらく狙ってそうしたのだろう。「アップルシード(APPLESEED)」(プロデュース)のときもそうだったが、登場キャラクターの顔はリアルすぎないようになっている。

やはり、リアルすぎるとかえって気持ち悪く感じることがあるからだろう。そんなにリアルにしたいなら、実在の俳優を使えばエエやん、といわれればそれまでだからだ。

そもそもスクウェア(現スクウェア・エニックス)の映画「ファイナルファンタジー」で フルCGでなんでも描けばいいってものではないというのは、記録的な大コケによって、たいへん高価な教材となった教えてくれたのだから、フルCG作品での登場キャラクターの顔をどうするかは大きな悩みどころだったわけだ。

リアルすぎず。デフォルメアニメすぎず。なかなかいいあんばいだと思うゾ。


■ シンプルさで惹きつける

近未来。10年間鎖国してきた日本はどうなってる?

どうなってるか見たい、知りたい、行ってみたい(?)。――と思う仕掛け。これでつかみはOK。CGだからマニア向けと思って食わず嫌いになっている人を少しでも振り向かせたい。なるべくたくさんの人に観てもらいたいという願いがうかがえる。

ただでさえマニア向けと思われがちなCG系作品なのだから「シンプル」であることは観客層の限定を避けるうえで大いに意味がある。

それなのに、たしか予告などで東京の様子をチラッと明らかにしていたと思うのだが、それがもったいない。宝箱は開けないほうがいいのだから。

チラっと見せて興味をあおるのも手だが、ベールに包まれていたほうが興味や期待はより大きく膨らむ。そのぶん、期待していたものと違えば評価もさまざまになるが、それは致し方ないこと。ここは一発勝負! をしてほしかった。


■ その他

巨大生物といったらいいのか、いろんな物体(ガラクタ)が寄せ集まり、長い筒のような形になって他の金属片などを追いかけて食らい、同化しようとする「ジャグ」というものが登場する。

生物風な肉付け(目、口など)はなされていないのが、かえって不気味だ。まるで意志を失った物体が集団で動くものを襲って取り込んでいくというのは、ゾンビを連想させた。

米国のゾンビが、当時のヒッピー文化に対する年配者たちの反応を表していたことは有名だが「ベクシル」における「ジャグ」が日本の何を表しているかを考えてみると、なんともゾッとするホラーにもなるかもしれない。そいういうあたりも日本社会の縮図を垣間見せるという意味で、ソフトとして機能するようになっている。

ちなみにゾンビが当時のヒッピー文化に対する年配者たちの反応を表しているとはどういうことか? これについてはこちらに書いてある。

▼【深夜の課外授業】ゾンビでわかるアメリカ合衆国

それと、私が観たのは日本語版で、字幕版があるのかどうかわからないが、米国特殊部隊員のベクシルは米国人同士で話すときも日本語を話した。東京で出会ったマリアと話すときも日本語だ。

ベクシルが日本語を話せる設定だとしても、米国人同士で話すときは英語で話して字幕を付けてほしかった。こういう細部は意外と大事。

だが「そんなの関係ねぇ(小島よしお)」といってしまいたいほど「ベクシル」にはチャレンジ精神と意欲に満ち溢れている。

ただしストーリーには「奥深さ」と「熱い想い」はあるものの、それを形にするストーリー構築技術がいま一歩ならぬ、いま数歩ほしい。つまり、ストーリーの魅せ方がこれからといったところだ。それは数を重ねていけばうまくなっていくので心配ないだろう。

そもそも、世界が注目するCG・アニメといった分野でソフトを作り出そうという意志と行動だけでもアッパレである。

世界は日本の何に注目するか。なんだかんだいってニンジャ、ゲイシャ、アニメ、ジャパンマネーといったところがリアルなところだ。だから、まずはそういった分野を利用しておもいっきり目立つしかない。話はそれからであるのに「ベクシル」はソフトを作ろうと、CGもストーリーも同時進行で作ろうとした。

その姿勢と行動力だけで、アッパレ3つ! である。

それに脚本には「半田はるか/曽利文彦」のふたりがクレジットされている。少なくとも、ひとりだけでやろうとせず、たとえふたりでも複数の目で脚本を作り上げていこうという姿勢があるようなので、次回作にも期待が持てる。

ちなみに声優として参加の松雪泰子さんは、声だけでも存在感バリバリですな。

「ベクシル」は日本映画では数少ない、世界へ向けて発信できるソフトだ。

世界を意識しているので、日本国内では「?」となってしまうだろう。それは致し方ない。世界へ出て行くときは、国内ではたいていそんなもんである。

国内の評価? それこそ「そんなの関係ねぇ(小島よしお)」とばかりに世界への道を歩いていってほしい。そうすればいずれ国内の評価もそれに続いていくだろう。

曽利文彦監督をおおいに応援したい。


デート       △
フラっと      ◎ 
脚本勉強     △ 
演出       ○ 
キャラクター   △ 
映像       ◎ 
笑い       - 
ファミリー    - 
友情       ○
謎解き      ‐
意欲       ◎
チャレンジ    ◎
将来性      ◎


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08/03/2007

映画「夕凪の街 桜の国」

監督:佐々部清
日本/2007年/118分
原作:こうの史代『夕凪の街 桜の国』

「夕凪の街 桜の国」を観た人は、親しい人や大事な人にこの作品のことを伝えずにはいられないだろう。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
昭和33年。広島市街。
原爆投下から13年。平野皆実は職場の同僚・打越豊と相思相愛だが、被爆体験の心の傷によって愛を受け入れられない。それでも打越豊は平野皆実をやさしく包み込む。しかし、平野皆実の体には原爆症の症状が出はじめていた。

平成19年夏。東京。
最近、退職してしばらくした父親・石川旭がふいに外出したり、長距離電話をかけたりすることがある。そんなある晩、父親が何もいわずに家を出ていこうとしているのに気づいた七波は、そのあとを追う。
駅でそっと父親を見張る七波の前に、小学生の頃の同級生・利根東子が現れ、共に後を追うことにする。こうしてたどり着いたのは広島だった。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
▽石川七波
女性。石川旭の長女。

△石川凪生
男性。七波の弟。医者の卵。

▽利根東子
女性。看護士。七波の元同級生。凪生の恋人。

▽平野皆実
女性。広島市街で建築事務所に勤務。

△打越豊
男性。平野皆実の職場の同僚。

△石川旭
男性。平野皆実の弟。幼少期に茨城に疎開。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
「夕凪の街 桜の国」を観た人は、親しい人や大事な人にこの作品のことを伝えずにはいられないだろう。

■ ふたつの時代は繋がっている

この物語の時代は大きく2つに分けられる。

ひとつは昭和33年の広島。原爆が投下されてから13年。

もうひとつは平成19年の東京。広島に原爆が投下されてから約60年ほど経った、それも東京の地。

どちらも原爆投下から時間が経っている。一方は場所も違う。

しかしながらどちらの時代も原爆による傷の中にある。


■ 昭和33年 広島

昭和33年の広島に暮らす平野皆実は市街の建築事務所で事務の仕事をしている。同僚の女性たちと洋服のおしゃべりをしたり、同僚の男性・打越豊に好意を持ったりと、ごくふつうの日常をおくっているようにみえる。

しかし、5人家族だった平野家は、原爆投下により父親と妹を失っていた。末の弟は茨城に疎開させたまま向こうで暮らしている。

母親とふたりで住む平野皆実は、自分の幸せへ一歩踏み出そうとすると、原爆投下で亡くなった妹を思い出し、自分だけが幸せになってはいけない思いに押しつぶされそうになる。

そんな平野皆実を打越豊はやさしく包み込んでくれる。しかし、平野皆実の体には原爆症の症状が出はじめており、日に日に弱っていくのだった。


■ 平成19年 東京(広島)夏

平成19年の東京に暮らす石川凪生は医者の卵としてがんばっている。彼は喘息持ちだが、それが原爆の後遺症
に関連するものなのかどうかはわからない。恋人の利根東子の家族からは、被爆者の末裔であることを理由に交際を反対されている。

七波と凪生の祖母の平野フジミは、年老いてから亡くなった。それも原爆の後遺症が関連しているのかどうかは誰も何も言おうとはしなかった。

七波と凪生の母親(太田京花)は、団地の自宅で血を吐いて倒れ、亡くなった。

石川七波は、小さな頃からお転婆で健康そのものだ。


■ 人々の日常に浮かび上がってくるもの

平成19年の東京での石川家の日常。

昭和33年の広島での平野家の日常。

双方は繋がっている。

約60年前の原爆投下と現在(平成19年夏)の東京では、時代も場所もかけ離れているかのように思えるかもしれない。

しかしそうではないんだということを私たちに語りかけてくれる。

日常の中にこそドラマがある。人々の日常に浮かび上がってくるもの。日本でしか描き出せないそれを、世界中の人々に観てもらいたい。


■ 映像における主役とは

昭和20年の原爆投下時の広島市街を再現した映像はない。当時の様子を語るシーンでは、数枚から数十枚の絵が使われている。

厳密には平野皆実が幼い妹を背負って歩き続けるシーンがあるが、それもスポットライトで二人だけを照らしたかのようなものだ。

これは、意図して原爆投下時の広島市街を再現しないのだろう。昭和33年の広島でも、平成19年の広島でも、原爆投下当時の跡は見えにくくなっている。そしてそれは人の記憶からも薄れていきつつある。

しかし、昭和33年であれ平成19年であれ、原爆投下による傷は消えることなく続いている。それを伝えるたに、あえて原爆投下時の広島市街を再現したシーンを作らなかったのだろう。

映画は映像作品だ。CG技術が発達した現代なれば、作ろうと思えば原爆投下時の広島市街のシーンを作ることはできる。だがそれをせずに、昭和33年と平成19年というふたつの時代を生きるふたりの女性の視点を通して、それぞれの時代においても、傷と共に生きる人間の姿を映し出している。

映画は映像作品ゆえに、なにを撮って、なにをスクリーンに映し出すのか、それによって観客の心の中になにを映し出してもらいたいのか、ということを特に意識する必要がある。

映画がスクリーンに映し出す「映像」は、あたかもそれ自体が主役かのように思えるかもしれない。だがそうではない。「スクリーンの映像」は「心の中の映像・感情」のための引き立て役にすぎない。

映画という形式に限らず、あらゆる物語では、観客の心の中に映し出される「映像:感情」こそが、主役なのである。

こんなことをいうと、映画ではなく小説を読んだほうがいいという人もいるかもしれない。しかし、だからこそ、あえて映像作品で「心の中の映像・感情」を作り出そうとする。そこに映画の醍醐味があるのだ。


■ その他

家族愛、きょうだい愛、男女の恋愛。

そういった、人の日常を、日本でしか描けないもので、現在へ繋がるふたつの時代で描出す「夕凪の街 桜の国」を、この夏にぜひ観ていただきたい。

すこし前に「1年に1度でいい。とにかく観てほしい。ただひと言、そういえる作品に出会いたい」と書いて「しゃべれども しゃべれども」という作品をレビューしたばかりだ。それからそんなに経っていないうちに、また同じように言える作品に出会えるとは……。

ほんとうに心に響く作品は、観ているといつの間にか涙が出てくるもの。「泣かそうという商業的意図、つまり、いかにもなお涙頂戴狙い」などとは無縁だ。

昭和33年の東京を舞台にした。CGをたくさん使って「泣かそうという商業意図」だけで作ったかのような作品がある。2丁目だか3丁目だかの朝日だか夕日だか。そんなタイトルの作品だ。そういう作品があってもかまわない。だがそれが第29回日本アカデミー賞を受賞したときいて涙した。嘆かわしさから出る涙だ。

昭和33年の東京の町並みをノスタルジィで涙を誘うためだけに再現することにCG技術を使っている場合ではない。

昭和33年の広島を、日本を含む世界の人々へ伝えるメッセージのために再現することにCG技術を使う。そういう使い方がいい。

日本アカデミー賞なんて世界のだれも注目してくれないかもしれない。それでもなかには、日本人はどんな作品で世界に何を伝えたいのかを知りたくて受賞作に目を通してみようと思う人がひとりでもいるかもしれない。そのひとりはたいへん貴重である。

「夕凪の街 桜の国」をそのひとりに観てもらえるよう、少しでも力になれればと願う。

もちろん日本で生まれ育った方にも、ひとりでも多く観てもらいたい。

こういうときこそ、メルマガを発行していて(ブログをやっていて)よかったと思うことはない。わずか数千名にしか届けられないと言う人もいるかもしれない。しかし、現代では口コミほど大きな力を持つものも、なかなか無い。

アナタが「夕凪の街 桜の国」を観て感じたことを、あなたの家族、友人、知人に伝えてほしい。

とはいえ、私がとやかく言わなくても「夕凪の街 桜の国」を観た人は、親しい人や大事な人にこの作品のことを伝えずにはいられないだろう。


1945年(昭和20年)8月6日 広島市に原子爆弾投下

1945年(昭和20年)8月9日 長崎市に原子爆弾投下


▼広島平和記念資料館 WEB SITE

▼長崎原爆資料館

デート     ○
フラっと    ◎
脚本勉強   ○
演出      ○
役者      ◎
映像      ○
ファミリー   ○
独自      ◎
力強さ     ◎

4575297445夕凪の街桜の国
こうの 史代
双葉社 2004-10

by G-Tools

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07/05/2007

映画「きみにしか聞こえない」

監督:荻島達也
日本/2007年/107分
原作:乙一『きみにしか聞こえない―CALLING YOU―』

出た! もったいないお化け一族総出じゃ~(グスン)中盤までのモノローグ調ナレーションと脳内会話までに仕込むべき「感動増幅仕掛け」を捨てるのみならず、クライマックス感動の炎に事前に水もかけてしまっている。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
クラスでただひとり携帯電話を持っていない女子高生リョウはある日、公園でおもちゃの携帯電話を拾ったことがきっかけでシンヤという男性と脳内電話(テレパシーみたいなもの)で話せるようになる。
話すうちに、横浜のリョウと長野のシンヤの間には1時間の時差があることがわかる。
周りの誰にも気づかれずに話せる脳内電話でのおしゃべりの時間は徐々に増えていき、ふたりは会うことにする。

主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
▽相原リョウ
女性。高校生。横浜在住。

△野崎シンヤ
男性。リサイクルショップ店員。長野在住。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
出た! もったいないお化け一族総出じゃ~(グスン)中盤までのモノローグ調ナレーションと脳内会話までに仕込むべき「感動増幅仕掛け」を捨てるのみならず、クライマックス感動の炎に事前に水もかけてしまっている。

■ 乙一ワールドとは

乙一さんの作品群は一言ではいえない。

乙一作品群は実に様々な顔をみせてくれるからだ。ある作品ではゾンビも真っ青のグロテスクな描写がわんさかあるかと思うと、ある作品では極限状況の中なのに笑わせてもらえる。またある作品では胸が締めつけられそうなほどのせつない気持ちにさせられる。

分類不可能、定義不可能。

ひとつ言えることは、いくつもの乙一作品群を読むと浮かんでくる「乙一ワールド」があるということだ。


■ ホラー作家といわれる所以

乙一さんの作品群は分類不可能、定義不可能と書いたが、一般的にはホラー作家といわれている。

ライトノベル系の文庫から出版されることもあることから、子供向けの物語を書く作家だと思われていることもあるようだ。だが乙一さんは一般向け作品も書く。

いわゆる作家村(そんなもんあるのか?)には、純文学がエラくて大衆文学はまあまあ、ライトノベルは子供向けで鼻にもかけない。みたいな風潮が今でもあるという。

そんなことは読者にしてみればどうでもいいわけで、おもしろければなんでもいい。

賢明な読者はそれが純文学だろうと大衆文学だろうとライトノベルだろうと関係なく、ときにワクワクドキキして、ときに心を揺さぶられる、ページをめくる手を止めることができない小説こそがおもしろい作品だということを知っている。

さて、乙一さんがなぜホラー作家といわれるのか。

それは恐怖こそが人間を描き出すもっとも本質的かつ実用的な題材であり、表面的・直接的恐怖のみならず、潜在的・間接的恐怖を描いてみせるからだ。

ひとつ屋根の下、あんちゃん! イシシシシっ。って違った。それは90年代高視聴率ドラマであった。

そうではなく、ひとつ屋根の下で見知らぬ男女がひとことも言葉を交わずに生活する(「暗いところで待ち合わせ」)。

頭の中に見ず知らずの人の声が聞こえるようになり、一日の大半の時間をだれにも気づかれずにその他人としゃべりつづけられる少女(「きみにしか聞こえない」)。

こういった種類の恐怖を使って物語を構築できるストーリーテラーは、乙一さんだけである。

ワっ! お化けが出たぞ! と驚かすだけなら誰にもできる。それは恐怖というより、びっくり箱だ。

ホラー作品と言われている映像の中に多いのは、幽霊やお化けといった異形のものを登場させ、それを見てこわがる登場人物の姿を映し出すといったものだ。観客はビックリはするかもしれないが……それだけである。

だが乙一作品はビックリ箱だけではない。というかほとんどビックリ箱を使わずに潜在的・間接的恐怖を描きだす。そういった恐怖は人間の心を揺さぶる。心を揺さぶるとはつまり「感動」である。

恐怖が描き出せれば感動を演出することができる。だから乙一作品は、ホラーでありながら多くの人々心の琴線に触れるのだ。

さて、何を怖いと思うかは人それだが、私が超コワ! とチラッとでも思った作品を以下にいくつか紹介しておこう。

「ドッグヴィル(DOGVILLE)」作品レビュー

「マンダレイ(MANDERLAY)」作品レビュー

「アメリ」

「愛してる、愛してない...(A la folie…pas du tout…)」作品レビュー

「レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語」作品レビュー

「暗いところで待ち合わせ」作品レビュー

「輪廻」作品レビュー

「the EYE」作品レビュー


ちなみにビックリ箱の作り方を基本からしっかりと学びたい人は以下の作品を穴があくほど観るべし。職人技の宝庫ぞよ。

「ブギーマン(BOOGEYMAN)」作品レビュー


■ せつない系……実は!

そんな乙一作品群のうちで映画化された作品は過去に「暗いところで待ち合わせ」がある。そして今回の「きみにしか聞こえない」。

どちらもおおざっぱにいうなら「せつない系」だ。いろんな顔を持っている乙一作品のうち、映画化した2作品がどちらが「せつない系」なのはなぜか。

もしも乙一作品のグロテスクホラー系を映像化したら、乙一作品のせつなさは見た目のグロテスクにとらわれて観客には届かないだろう。

たからパッと見は「きれいなせつない系」の作品を映像化するのだ。

これは巧妙な仕掛けなのだと思う。

せつない感動作品を期待してやってきた観客に、潜在的な恐怖を提供する仕掛けなのだ。

アナタが町を歩いていてこんな人をみかけたらどうだろう。独り言をブツブツ言ったかと思うと、不意にニヤリとする。そんな人をみたらアナタはきっと近づかないでおこうと思うだろう。そういった気味悪さは表面的なものである。


■ 真に怖いのは

深層的に怖いのは、学校の昼食時間や体育の時間に、まわりのだれにも気づかれずに脳内電話で会話できるということだ。

それはつまり昼食時間や体育時間にまわりのクラスメイトたちのだれども話さないで過ごしているということだ。その恐怖をより具体的にしたのが、携帯電話を持ちたいと望みながらも携帯電話を持っていないということである。


■ リョウは特殊ではない

コミュニケーションを欲しながらも願いどおりにならない日々をおくるリョウ。

彼女は端からみれば普通の高校生だ。両親も妹もいる。横浜に一軒家もある。家で家族が食卓に集まって家族団らんもある リョウは言葉少なめだが、家族はそれをとがめるふうもなく、かといって放っておくわけでもなく見守っているといったかんじだ。

だが彼女はひとりで悩み、なんとかしたいと思いつづけている。これってだれかに似ていないだろうか? そう、彼女はどこでもいる。アナタかもしれないのだ。

携帯電話を持っていて、アドレス帳は一杯で日に100通以上メールのやりとりもしているしマイミクだって何百人もいて毎日家のパソコンからだけじゃなく携帯電話からもSNSにアクセスしてコメントを数百と返し続けている。

それなのになんだか心にポッカリと穴が空いたようだけど、そんなことを考えると自分がどうにかなりそうで、それを振り払うかのようにメール送り続け、コメントを書き込み続ける。

そんなとき、携帯電話を持っていない人がいるときくと、なんて強い人だろうと思ってしまう。だって自分はたとえ心の空洞を埋められないとわかっていても、携帯電話を手放すことはできないからだ。

クラスでただひとり携帯電話を持っていないリョウ。彼女は携帯電話を持ちたいと望んではいるが、それでさびしさを紛らわしたいのではない。

冗談やジョーク(どちらも同じかな)やうわべだけのおしゃべりではなく、言葉に真剣に向き合い、言葉を真剣に使いたい。つまり、真剣にコミュニケーションを欲しているのである。

だれもが心の奥底では欲していることを、ごまかさずに真正面から取り組もうとしている。

そんなリョウの背中を観客はヒーロー(ヒロイン)視するのだ。


■ ヒロインが美少女

映像作品で主要登場人物がふたり。ほぼスクリーンに出ずっぱりの主演女優を誰にするか。もちろん若くて綺麗な女優さんがいい。

ところが「きみのしか聞こえない」の主人公リョウは、友達がひとりもいない。学校ではいつもひとり。携帯電話を持っていない。

あんな美少女なのに女友達がひとりいないばかりか、男子生徒のひとりさえも言い寄らないなんて……あ・り・え・ねぇ~(>_<)

ベタな設定では、美少女だけど眼鏡をかけているので地味に見えるというのがある。それはいかにもなので避けたとしても、超の付く美少女に恋人はおろか友達がひとりもいないという設定に観客が納得できるようなエピソードを付けてほしい。

美少女なんだけど親が街を暴力で牛耳る恐ろしい権力者のためにだれも近寄らないとか、美少女なんだけど中学時代の黒い噂(関東レディース連合総長)がひとり歩きしているために高校では誰も近寄らないとか、とにかくなんでもいい。

ただ内気なだけでは、ぜんぜん物足りないのだ。

映画作品中では、国語の授業中に教科書を朗読するシーンがある。リョウは朗読の声げとても小さくて教師に注意される。

このシーンは後にリョウがシンヤと出会う(脳内電話で会話する)ことで変化していく過程を表わすための前フリなのだが、それだけではもったいない。

もうひとつ役割を付け足してはどうだろう。例えばリョウは帰国子女のため朗読のときの日本語の発音が他のクラスメイトとはちょっと違うために笑われた。おまけにまだ早口の日本語や難しい日本語は聞き取れない、といったものだ。

こうすると設定がずいぶんと変わってしまうのでいけないが、つまりはなにかしら観客を頷かせるセッティングをもうひとつぐらいしてはどうかとうことだ。

ひとつの設定シーンに(1)リョウに友達がいない理由(2)現状(3)シンヤと出会っての変化、の3つの役割を持たせてほしかったということだ。


■ おもちゃの携帯電話

原作小説ではおもちゃの携帯電話は登場しない。頭の中に自分が持ちたい携帯電話をいつもイメージしていたら、ある日その脳内携帯電話に電話がかかってきた、となっている。

小説ならそれでOKだ。文字で作り上げていく小説という世界では、脳内携帯電話が機能する過程をイメージさせる筆力というものが発揮されるからだ。

ところが映像作品ではそうはいかない。イメージをアクションで喚起しなければならないからだ。

リョウが公園でおもちゃの携帯電話を拾う。そのアクションを映像として観せなければならない。

おもちゃの携帯電話はあくまできっかけだ。リョウが脳内電話で話せるというSFを観客に受け入れてもらうためのアクションによる視覚的きっかけである。

だからおもちゃの携帯電話を登場させたのは正解だ。作り手が小説と映像作品の違いをきちんと認識していることがわかる。


■ 原田をおもいきって切り捨ててみては?

リョウはシンヤ以外とも脳内電話で話す。その相手は原田という年上の女性だ。

(原作ではユミとなっている)原田は、小説の中ではSF要素の確認と作品の余韻を残すための役割を持っている。

しかし映画作品においては、ばっさり切り捨ててしまっても良かったと思う。

なぜなら映画作品で原田はクライマックスへ向けて盛り上がる炎めがけて水をかけてしまうのだから。

お笑いでいうと、これからみんながびっくりするような超おもしろいギャグをこれからこちらの芸人さんが披露しますよ~と、おもいっきりハードルをあげてしまっているといったところか。

または黒柳徹子さんが「徹子の部屋」でゲストに向かって、あなた映画の撮影初日の収録に、間違って2日目の台本を覚えてきて撮影がはじめられなくて、あなたが台詞を覚えるまでの半日、撮影がストップしてたいへんだったんですってねぇ、そのお話をしてくださる? などというかんじで話のオチをすべてしゃべっちゃってるやん! といったところか。

「お笑いのハードルを上げてどぅすんねん」という笑いになることもある。「黒柳さんだから」という笑いになることもある。

けれど真面目な映画作品でクライマックスへ向けてますます勢いをつけるべき炎に水をさしてはいけない。

原作ではさりげなぁ~く、気づくか気づかない程度にサラッと匂わすほど良い程度なのに、映画作品では節操なくモロズバリといってもいいほどの水さし具合にはビックリした。そんなビックリ箱はいらない。


■ 出た! もったいないお化け!

映画作品ではシンヤはしゃべれない。たぶん耳も聞こえない。これは秘密でもなんでもなく、映画作品の前半にごくあたりまえのように提示される。

……出た! もったいなお化け!

実はシンヤがしゃべれないという設定は、クライマックスの感動ポイントになる……はずだった。

もしも、クライマックスのここぞ! というときまでシンヤの耳が聞こえないことを観客に秘密にしておけば、感動は何倍にも膨れ上がったことだろう。


■ スローテンポはクライマックスのためでは?

はっきり言って前半から中盤にかけてはあくびが出る。

いくら美少女が出ているからといっても、脳内電話で話してる登場人物は日常の生活をしているだけである。しかもリョウもシンヤも他の登場人物とはほとんど接触がない。

だからふたりの日常をたんたんと映し出し、脳内電話の内容は登場人物のナレーション風でなされる。

延々とモノローグが続くこれら前半から中盤にかけては、スローステンポである。

しかしこれもすべてクライマックスを盛り上げるためのこと。――そう思えるには、やはりシンヤがしゃべれないということは秘密にしておいてほしかった。

脳内電話というSF設定をもってすれば、モノローグ調のナレーションにシンヤの日常生活映像を付けるという中盤までの作り方であれば、シンヤがしゃべれないことをじゅうぶんに秘密にしていくことができただろうに……。


 サプライズにできたものを

シンヤが耳がきこえないとう設定は映画版に追加されたものだ。その設定を思いついたのはマジで凄い。なのに、なぜそれを最大限活かさないのか……。

クライマックスのここぞ! というときになってはじめて「えッ、シンヤってしゃべれなかったの?」とビックリさせつつ感動を誘うという、涙を誘う仕掛けになぜしなかったのか?

もったいないお化けが一族総出でやってくるぞぃホンマに。


■ その他

他にはない発想と設定。小説と映像の違いをしっかり認識している部分もある。

にもかかわらず、クライマックスの盛り上がりの災に水をさしたり、前半から中盤にいたる脳内電話によるモノローグ調の作風を活かした絶好のサプライズと感動を仕掛けなかったり……。

う~む。チョイ意味不明。ただ単に小説原作から映像作品への作り変えにムラがあったということか。「観客に知らせる項目カード」と「登場キャラクターが知っている項目カード」の配置をうっかり間違えてしまったのか。

もしか「観客に知らせる項目カード」を用意していなかった……なわけないか。

原作小説が魅力的だと映像化は難しいという意味で、よいお手本となったのかもしれないが、それにしても勿体無い。

これらもったいない要素はあるものの、それでもクライマックスには「鳥肌ジ~ン」モノである。

主演女優の成海璃子は松下奈緒に匹敵するかもしれない大物の匂いがするゾ。演技はもぅちょいがんばってほしいがオーラがある。

ちなみにリョウがおもちゃの携帯電話を拾ったのは横浜山手公園だろう。

横浜山手テニス発祥記念館があることでも有名なこの公園は、日本初の西洋式公園ともいわれている。

携帯電話を拾ったり、シンヤと脳内電話で話したりしたときに乗っているブランコに私も乗ったことがある。ブランコもシーソーもいいかんじに年季が入っていて落ち着いた雰囲気のある公園だ。

テニスのクラブハウスは外国人住宅として建てられた建物なので風情があるぞぃ。

デート     ◎ 
フラっと    -
脚本勉強   ○小説と映像作品の違いが勉強になる
演出      △もったいない
笑い      ×
役者      ○成海璃子ファンにはたまらない
映像      △
アクション   -
ファミリー   -
お気楽     -
SF       ○
ホラー     ◎

4044253021きみにしか聞こえない―CALLING YOU
乙一
角川書店 2001-05

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06/05/2007

映画「しゃべれども しゃべれども」

監督:平山秀幸
日本/2007年/109分
原作:佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』

1年に1度でいい。とにかく観てほしい。ただひと言、そういえる作品に出会いたい。今がまさにそのときだ。なんとかしたいと願い、その方向を模索すると見えてくることがある。葛藤こそが物語に深みを与え、葛藤こそが人を成長させる。水上バスのシーンに集約させるその物語構成や演出に注目だ。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
いまひとつ腕が上がらない二つ目の落語家・今昔亭三つ葉。
彼に話し方や落語を習いたいという3人が現われる。ひとりは無愛想で口下手な美人。ひとりは、大阪からやってきた関西弁の小学男児。そしてもうひとりは下手な解説で有名なプロ野球解説者。
こうしてはじめた教室もうまくいかず、密かに想いを寄せる相手にはフラレ、落語の腕も上がらない三つ葉だったが、そんな折、一門会で「火焔太鼓」をすることになった。
教室の生徒・十河と村林は「まんじゅうこわい」の発表会をすることになった。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△今昔亭三つ葉(外山達也)
二つ目の落語家。 

▽十河五月
無愛想で口下手。

△村林優
男児。小学生。
大阪から引っ越してきた、クラスに馴染めないでいる関西弁の男の子。

△湯河原太一
いかつい面相で毒舌の元プロ野球選手。プロ野球解説者。
野球解説が下手。

△今昔亭小三文
落語家。三つ葉の師匠


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
1年に1度でいい。とにかく観てほしい。ただひと言、そういえる作品に出会いたい。今がまさにそのときだ。なんとかしたいと願い、その方向を模索すると見えてくることがある。葛藤こそが物語に深みを与え、葛藤こそが人を成長させる。水上バスのシーンに集約させるその物語構成や演出に注目だ。

■ 切実な一歩

あの人はなんであんなに上手に話ができるのだろう。

すぐに誰とでも話せて、仲良くなって、みんなの人気者になれるあの人。

自分はしゃべれどもしゃべれども気持ちや想いは相手に届かない。

そんなことを一度でも感じたことがある人なら、きっと心に響くだろう。


「みんな、
 なんとかしたいって思ってる
 今のままじゃ、だめだから」
「しゃべれども しゃべれども」公式サイトより引用

 
「ありのままの自分でいよう」「自然体がいちばん」

そんなコピーが巷に氾濫している。それも一理アリだが、ほんとうは「なんとかしたい。今のままじゃ、だめだから」と思っている。なんとかしたいんだけど、どうしたらいいかわらない。そんなことを考えるのもしんどいなぁと心のどこかで思っている。そんなときに「ありのままの自分でいよう」なんてコピーを読むと、なんだか楽になる。それが一時の誤魔化しにすぎない安易なコピーだとわかっていてもだ。

でも、ほんとうはなんとかしたい。

そんな思いはだれにでもあるだろう。安楽なコピーに身をゆだね、ほんとうはなんとかしたいと思いながらも、一歩踏み出せないままでいる。そんな人がほんどだ。もちろん私も含めて。

だが十河は一歩踏み出した。


■ 気持ちがわかる人に教わりたい

十河はなんとかしたいと思っている。だからカルチャースクールの「話し方教室」に参加した。しかし落語家の小三文の話の途中で教室を出てしまう。

人を馬鹿にしている。

そう感じたからだという。

弟子の三つ葉に言わせれば、師匠の小三文はいつもああいう話し方で、それは相手がどんなに偉い人であっても同じだという。

十河は話し方がうまい人の話を聞きたいのではなく、自分と同じ悩みを持った人がいかにして上手に話せるようになったのかを知りたい。だから、話がとても上手い小三文は自分とは違う世界の住人であるかのように感じて教室を後にした。

これは、映画をはじめとするあらゆる作品にも当てはまる。

どんなにすごい能力を持ったキャラクターがいても、それだけではヒーローにはなれない。

自分(観客)と同じだと思える部分がなくては、そのキャラクターを応援することはできない。だからヒーローは必ず「弱さ」を持っている。

三つ葉は、客席の最前列の真ん中に十河が座っているの見た瞬間、まくら(噺の本題に入るまえの時事ネタや関連した話などのこと)を飛ばしてしまい、うまく噺ができない。まさか十河が来ているとは思っていなかったからだ。

出番が終わった後、三つ葉は十河から、話し方や落語を教えてほしい、と頼まれる。

二つ目とはいえ一人前の噺家である三つ葉も、うまく噺ができない。そんな姿に十河は自分の「痛み」や「弱さ」をこの人なら理解してくれるんじゃないかと思ったのだろう。


■ その人に合った道がある

元プロ野球選手の湯河原は、プロ野球の解説者をしている。しかし、その解説下手ぶりは有名だ。ほんとうはスラスラと毒舌でしゃべるのだが、まさかプロ野球解説でそれをやるわけにはいかず、野球専門用語を使ってそれらしく解説すればいいとわかっていても、性に合わずに、自分の考えていることをどう伝えればいいか考えているうちに「あー、えーとですね、それはですねー」といったようなまどろっこしい解説しかできないでいる。

解説の仕事がないときは、親戚の飲食店を手伝って、無愛想ながらも慣れない接客もしている。

彼もなんとかしたいという願いを持って三つ葉の教室にやってきた。

十河や村林が「まんじゅうこわい」を覚えて発表会をすることになり、その成り行きを見てきた湯河原もプロ野球解説が上手くなるかというと、そうではない。

それがいい。

なんとかしたいと願い、その方向を模索すると見えてくることがある。なんとかしたいのであって、話が上手くなることはそのうちのひとつの結果である。

結果的に湯河原はプロ野球解説はうまくはならない。でも、三つ葉や十河や村林と交流することで、なんとかした(なんとかしようという道をみつけた)のだ。


■ 一次的な障害(オブスタクル)が解決しないのがいい

大阪から引っ越してきた関西弁の村林は、クラスに馴染めないでいる。クラスメイトとの野球対決で勝つために湯河原にバッティングの特訓をしてもらうのだが、結果は願いどおりにはならない。

村林の野球対決にしても、湯河原のプロ野球解説にしても、一次的な障害(オブスタクル〈物語構成上の用語〉)は解消されない。

それがいい。

一次的な障害(オブスタクル)がなかなか解消されないのは、私たちの日常にもよくあることだ。日々の事柄がうまくいかない。がんばってもがんばっても、どうにもならない。

でも、自分が真っ先になんとかしたい障害を解消することが、真の葛藤や問題を解消することにつながるとはかぎらない。

違う方法を行うことや、違う道に一歩踏み出すことが真の葛藤や問題を解消することにつながることもある。

それを教えてくるのは村林の野球対決であり、湯河原のプロ野球解説なのだ。

ちなみに、村林の野球対決のシーンがないのがとてもいい。肝心だと思われるシーンを撮るのではなく、その「事後」を撮るほうが、イメージが浮かびやすく、作品が間延びせずにメリハリを出せるからだ。


■ 葛藤を抱えている

三つ葉にしろ十河にしろ村林にしろ湯河原にしろ、皆がインターナル・コンフリクツ(Internal Conflicts)(内的葛藤。矛盾または未解決な問題)を抱えている。

そんなキャラクターたちが、落語を通して交流することで、見事なキャラクター・アーク(Character Arc)(ストーリーの中でのキャラクターの経験を通して起こる、キャラクターの性格や価値観の変化)を魅せてくれる。


■ 水上バスのシーンがスゴい理由

小三文家は佃にある。三つ葉はよく上野の鈴本演芸場や浅草演芸場へは隅田川を運航する水上バスを使っているようだ。船の上でひとりつぶやくように落語の練習をしながら、ながれゆく町を眺める三つ葉であった。

さて、作品のラストに水上バスの展望デッキにいる三つ葉のもとへ、十河がやってくるシーンがある。

私は浅草~日の出桟橋ライン(東京観光汽船)の水上バスに乗ったことがある。作品で使われているのは、越中島発着場のシーンがあったので東京水辺ラインの水上バスだ。とにもかくにも、隅田川にはいくつもの橋がかかっていて、水上バスの展望デッキに出て、おもいっきり手を伸ばせば橋に手が届きそうだ。もしかしたら頭が当たりそうな気もする橋もある。それがなかなか楽しい。

作品において、そんな橋の下を通り過ぎる瞬間には、太陽の光が遮られて水上バスの展望デッキへ出る階段付近がになる。その時である。

フッと十河が現われ、階段をあがってくる。展望デッキへ出たときには水上バスは橋の下を通り過ぎて、再び太陽の光がパッと十河を照らす。

それはまるで、なんとかしたいと思いつつもどうしていいかわからなかった日陰から、スッと日向へ出ることができた十河の心情を表しているかのようだ。

十河は無愛想で口下手な美人という設定なので、作品中ではほとんど笑顔を見せない。しかし、この水上バスのシーンで十河は笑顔をみせる。これには鳥肌が立った。この笑顔を最大限活かした、抑えつつも見事な物語づくりには、ただただ上手いとしたいいようがない。

ちなみに十河の笑顔には、それを予感・期待させるシーンがある。三つ葉と出会って間もないころに、浴衣にまつまるシーンでふと、はにかんだような笑顔を一瞬だけみせている。

観客は、普段は無愛想で怒っているかのように見える十河の笑顔をもっと見てみたいと無意識のうちに思ってしまう。そんな仕掛けが施されている。これを勝手に名づけるなら「期待のペイオフ(Pay off 初めに提供されて後に劇的に使われる情報)」としておこう。

ちなみにラストに登場する東京水辺ラインの水上バスの名前は「あじさい」。十河五月の五月から、一足先の6月のアジサイの季節へと水上バスの「あじさい」に乗って進んでいく。これも、一歩踏み出したことを表しているのかもしれない。


■ 違和感を作り出す視線

ラストの水上バスのシーンが印象的であるのには、もうひとつ仕掛けがある。それは視線だ。

十河は話すときに相手と視線を合わせない。少し視線をずらして話す。口下手だと自覚しているため、どうしても目を合わせてしゃべることが苦手なのだ。

それを強調するかのように、十河がしゃべるシーンではカメラは彼女をほぼ正面から捉える。十河はこちら(カメラ)に向かってしゃべっているが視線を横に逸らすので、なんともいえない違和感がある。

そうしたシーンを続けてきたからこそ、ラストの水上バスのシーンでの三つ葉に向かってまっすぐに伝えようとする十河の姿に心を動かされるのだ。


■ 落語

落語についてくわしいことはわからないが、古典落語の噺の定番はいくつもあって、それを噺家がライブと同じようにその場の客と空気に合わせてその都度に、ただひとつしかないバージョンで披露する。だから聞くたびにおもしろいという。

私は新宿の末広亭に行ったことがある。落語というものを初めて生(ナマ)で見たわけだが、午後に聞きはじめて、末広亭を出るときには既に外は暗くなっていた。

iPodをはじめとする携帯音楽プレーヤーが人気だが、そういった機器のイヤホンを耳にしている若者すべてがヒップホップやロックなどの音楽を聴いているとはかぎらない。

実はけっこうな割合で落語を聴いている者はいるんじゃないかと思う。そういえば映画「GO」の主人公の青年も、ウォークマンかなにかで落語を聴いていた。

落語のテンポと間を音楽を聴くかのように楽しむ。何度も聴くうちに耳で覚え、ふとしたときに口ずさむ。

辛いときや悲しいときに、ふと口ずさむ落語。体がそれを覚えているかのように次から次からに口から出る落語。そんな落語がひとつでもあれば、人生もまんざらわるいもんじゃない、と思えそうだ。

私は中学校の国語(古文)の時間に暗唱させられた平家物語、那須与一の「扇の的」の一節をたまに口ずさむことがある。また詩篇23編をはじめとする聖書の有名な聖句もけっこう覚えている。

落語でも平家物語でも聖句でも、慣れ親しんだものというのは、それだけ皆に愛されてきたものだ。

たとえば古典落語の数はどのくらいあるかわからないが、それらをすべて知って暗唱できたとしても、噺家によっても、話す場所や客層によっても、ひとつとして同じバージョンは存在しない。

噺家の数だけ、聞く人の数だけ、物語は存在する。

いろんな人生があると人はいう。けれど、一見すると他の人と同じような、たいして見栄えもしないありきたりな人生を送る人がほとんどだろう。

――がしかし、たとえパッと見は同じに思えても、人の数だけバージョンが違う人生がある。そのひとつひとつがかけがえのない最高の噺である。

アナタの噺はアナタにしかできない。

湯河原が、好きなことから逃げたら一生後悔する、といった意味のことを言うシーンがある。

好きな事(例:野球)とは、野球解説者としてはうまく付き合えないかもしれない。でも、好きな事(野球)から逃げたら一生後悔する。だからなんとか解説をうまくできるようになれないかと湯河原は三つ葉の教室を訪れる。

その一歩を踏み出したことで、湯河原は好きな事(野球)とどのように付き合うことにしたのか。それはぜひ作品を観てたしかめてほしい。


■ その他

1年に1度でいい。

とにかく観てほしい。ただひと言、そう言える作品に出会えたらいい。

そんな作品に出会えました。


「書けども 書けども どんなにいい作品かを伝えられず

 書けども 書けども 作品への想いを伝えられず」


そんな、ふがいない思いをしつつも、また書きつづけようと思わせてくれた「しゃべれども しゃべれども」に、感謝です。


デート     ◎
フラっと    ◎
脚本勉強   ◎
演出      ◎
笑い      ◎
役者      ◎
映像      ◎
ファミリー    ◎
題材      ◎


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05/13/2007

映画「ゲゲゲの鬼太郎」

監督:本木克英
日本/2007年/103分
原作:水木しげる

ありえねぇ~」で読み解くヒーロー・鬼太郎。「反復讐系」「共存系」はスパイダーマンの数歩先をゆく。日米のヒーロー進化論は日本が魁!妖怪塾(なんのこっちゃ)。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
小学生の健太が妖怪ポストに手紙を投函する。

手紙を受け取った鬼太郎は人間を助けるべくテーマパーク建設工事に伴う地上げに利用される妖怪たちを追い払う。

一方、妖怪石を盗み出したねずみ男は換金のため質屋へ。そこへやってきた晴彦は妖怪石に心を奪われそのまま持ち去った。

妖怪石を父・晴彦から託された健太はかたくなにそれを隠しつづける。そのために鬼太郎が妖怪石を盗んだとしされ、満月の夜までに石を取り戻さなければ目玉おやじと砂かけ婆が釜茹でにされる窮地に立たされる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ゲゲゲの鬼太郎
幽霊族の末裔。
 
▽三浦実花
人間。女子高生。現実派。

△健太
人間。三浦実花の弟。

▽猫娘
半妖怪。鬼太郎の幼なじみ。

△ねずみ男
金に弱く、不潔。鬼太郎とは腐れ縁。

△目玉おやじ
鬼太郎の父親。

▽砂かけ婆
妖怪界にてアパート経営している妖怪。

△子なき爺
泣きながら石になる妖怪。

▽天狐
妖怪石を封じ込めた神聖な妖怪。

△輪入道
妖怪。妖怪機関車を動かす。

△晴彦
人間。実花と健太の父親。

△空狐
邪悪な、狐の妖怪。

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★妖怪石
人間たちの邪心と妖怪たちの怨念が宿ったパワーストーン。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
「ありえねぇ~」で読み解くヒーロー・鬼太郎。「反復讐系」「共存系」はスパイダーマンの数歩先をゆく。日米のヒーロー進化論は日本が魁!妖怪塾(なんのこっちゃ)。

■ スパイダーマンと基本は同じ

どちらも、ふつうの人間は持っていない特殊能力みたいなものを持っているが、スパイダーマンと鬼太郎が同じというのはどういうわけか?

実はヒーローが同じというのではなく、テーマがとても似ているのだ。

テーマはずばり「復讐」「許し(赦し)」「共存」「共栄」。

スパイダーマンシリーズの登場キャラクターたちは復讐心を燃やし、他人を許すことがなかなかできないでいる。そのために「心の隙間」につけ込まれて「スターウォーズ風」にいうなら「ダークサイド」へ堕ちていく。

「ゲゲゲの鬼太郎」の、狐の妖怪たちは、テーマパーク建設工事で稲荷神社を破壊され、住処を奪われた。ついで(?)に妖怪石も盗まれた。

だまっちゃいられない。だから妖怪石と住処の奪還のため戦う。

ん? これってアメリカ合衆国の映画に似ていないか。

マフィアに家族を奪われた男が、たったひとりで戦いを挑む。みたいな。

やられたらやりかえす。復讐だ。復讐の物語に観客は拍手喝采を送る。胸がスカッとするからだ。

そんな「復讐系」作品を多量に生産してきたアメリカ映画のなかで、一見するとお気楽ヒーロー映画に思えるスパイダーマンシリーズは明らかに、異質だ。

スパイダーマンシリーズは、よくある「復讐系」ではないからだ。復讐が成功して拍手喝采のハッピーエンドではなく「許し(赦し)」の物語となっている。いわば「反復讐系」。またの名を「共存系」とでもいおうか。

憎しみは憎しみしか産まない。憎しみの連鎖という呪縛にとりつかれた例は世界中のいたるところにある。

それに対して「許し(赦し)」と「共存」を図ろうというのがスパイダーマンシリーズのメッセージであるわけだ。

さて「ゲゲゲの鬼太郎」は、どういったところで「反復讐系」・「共存系」だとみてとれるのだろうか。


■ セリフでわかりやすく提示してくれる

テーマパーク建設工事で稲荷神社を破壊され、住処を奪われた狐の妖怪たち。彼らの大ボスは天狐。まぁ女神さまみたいなものだと思ってもらえればいい。

天狐は「どの世界にも悪い人はいる。住処を奪われたなら他へ移ればいい。人間たちと折り合いをつけよう」といった意味のことをいう。

それに反発する子ボスの空狐は、天狐にエイっ! と骨抜き(無力化)にされてしまう。

仮にスパイダーマンシリーズが制作された国を空狐とするならば、そこに天狐は存在しない。空狐を止める力のある者はいないのだ。

それをエンタメ的かつ風刺的に取り扱って社会を映す鏡としたのがスパイダーマンシリーズだ。だからスパイダーマンはお気楽ヒーロー作品のようで奥が深い。

一方で、天狐の言葉にあるように、やられたからやりかえすのではなく、なんとか折り合いをつけて共存を目指そうというメッセージが直接的なセリフとしてわかりやく出ているのが「ゲゲゲの鬼太郎」だ。

それが「反復讐系」「共存系」たる所以である。


■ 一歩も二歩も先をゆくヒーロー

アメリカ合衆国のヒーロー、スパイダーマンは復讐心から開放されて許し(赦し)の心を持つところで第3作が幕を閉じた。

「ゲゲゲの鬼太郎」のスゴいところは、その先を行っているところだ。

鬼太郎はもうずいぶん昔から、妖怪たちから「妖怪のくせに人間に味方ばかりする野郎だ」と陰口をたたかれながら生きてきた。それを一向に気にするふうもなく、たいてい昼寝をしている。

ふたつの相容れないと思われている世界の橋渡しをするという、まさにこれからのヒーロー像を、ずいぶん昔から鬼太郎は実行してきたわけである。ヒーロー活動履歴が長いのだ。時代がやっと追いついてきたといったかんじかな。

スパイダーマンの「どんだけ~」先を行っているのだろう?

それにもかかわらず、先駆者であると自慢するわけでもなく、のんびり昼寝したり、目玉おやじに湯を注いだり、猫娘とクラブ(サッカークラブとかスイミングクラブのクラブではない)で踊り明かしたりする鬼太郎って、もぅ悟りをひらいているってカンジだ。

そりゃそうだ。スパイダーマン(ピーター)は大学生だから二十歳そこそこ。一方の鬼太郎は三百五十歳ぐらいというから、年季がまるっきり違う。


■ 空気を読める人になろう

健太は父・晴彦から、だれにも秘密にしろと言われて託された妖怪石をかたくなに隠し続ける。

健太が妖怪石を持っていることをわかっている鬼太郎も、無理に石を取ろうとはしない。自分のみならず、父・目玉親父と仲間の砂かけ婆が釜茹で500年(年数違ったかも)の刑になる窮地に立たされようとも。なんとも寛大だ! 
大好きな父親との約束とはいえ、直接関係のない妖怪たちを巻き込んで危険な目にあわせ、あろうことか妖怪石を盗んだ濡れ衣までかけられてしまった鬼太郎を見て、いくら小学生とはいえなんとも思わないわけはないだろう。

いや小学生だからこそ、状況を読んだり空気を読んだりする勘は大人より鋭いはずだ。

子どもだからなんにもわからない、というのは、自分が子供のころのことを忘れたしまった大人がよく言うセリフだ。

実際には子どもほどよく周囲を観察している者はいない。このクラスで力を持っているのは担任の先生ではなく、サッカー部の加藤くんでもなく、図書委員の杉浦さんだ。といったものを感じ取る嗅覚がなければ小学校には一日たりとも通えない。

大人とくらべて子供の自分は比較的無力だと自覚しているからこそ、大人の何倍も周囲の人々を観察する。だから子供はとても勘が鋭くて、敏感だ。そのためにストレスで心身を疲労させてしまうこともある。

というわけで、健太のような振る舞いの小学生はふつうならまずありえない。妖怪の存在(特に目玉おやじの存在)に、ありえねぇ~、といったかんじで小さくつぶやいた三浦実花に、鬼太郎はこう言い返したっていいはずだ。

「健太みたいな小学生って、ありえねぇ~」


■ 生前どんだけぇ~よ晴彦!

人生なにが起こるかわからない。会社のリストラで解雇されることもあるかもしれない。一昔前なら、リストラによる解雇ときくと、かわいそうとかまじめに働いてきたのに、といった同情論が多かった。

しかし時代は変わり、終身雇用制などだれも信じていないようになると、リストラによる解雇に対する同情度はひと昔前とはずいぶん変化している。

「スパイダーマンシリーズ」の悪役たちは、心の隙間につけ込まれたら、とりあえず悪のパワーで好き放題に暴れまくる。

一方、晴彦は心の隙間につけこまれて妖怪石を奪っても、パワーアップするどころか、弱って死んでしまう。

観客に、かわいそうと同情(共感)してもらうには作り手にそれなりの技術が必要だ。同情の余地はあっても、そこにもうひと工夫なければ共感(応援)はしてもらえない。

晴彦がどんなに健太や実花のことを大事に思っているかという涙を誘いたいシーンを用意しても、シラけてしまう。なぜなら晴彦に共感できていないからだ。

晴彦の親類・友人・知人はだれも実花と健太を助けに現れない。やってきたのは妖怪ばかり。

おとんよ、いくら窃盗犯として死んだからって、生前どんだけぇ~信頼されてなかったんや~。

人間たちから見放された姉弟。

それを助けたのは、姉弟にはなんの恩も義理もない妖怪。

オイっ! 鬼太郎、格好よそぎるゾ!(^^)


■ 許す(赦す)鬼太郎

妖怪石を盗んだとしてねずみ男に濡れ衣をかけられた鬼太郎。

ふつうだったらねずみ男とは絶交だ。というか、ねずみ男は復讐すべき敵だ。

それにもかかわらず鬼太郎は、ねずみ男を許す(赦す)。

ありえねぇ~。

アンタ、ただモンじゃないよ。

フッ、ぼくは妖怪。だてに三百五十年生きてないよ。

そんな声がきこえてきそうだ。

まぁ、ありえねぇ~からこそ鬼太郎なのだ。ありえねぇ~からこそヒーローなのだね。

たぶん「スパイダーマンシリーズ」でサム・ライミ監督が描きたかったヒーローの究極形は鬼太郎じゃないだろうか。

まちがいないっ!(←ちょい古?)


■ その他

鬼太郎役のウエンツ瑛士くんは、小池徹平くんとの「WaT」で紅白出場も果たした歌手・俳優・芸人(?)だ。

テレビ番組「うたばん」では「ホラッチョ」と呼ばれている彼は、しゃべりもできるのでバラエティ番組によく出演している。

なんかほうっておけない。ツッコミたくなる色男という「おいしい」ポジションを若くして得たタレントだ。

映画「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌にもなっている「Awaking Emotion 8/5」はウエンツくんが歌っているゾ。

そして全国のお父さんたちよ、おまたせ~。巷で大評判の猫娘のダンスはどうなんや? という声にお答えしよう。

「猫娘ダンス」というタイトルの映画のつもりで観み行ってもいいとだけ言っておこう。

猫娘ダンスはエンドロールに登場するぐらいなのだが、たとえ作品の途中から寝ていても、エンドロールにはばっちり目を覚まして見なければならない(笑)

こういうのを「一見の価値アリ」というのだな。

猫娘役の田中麗奈ファンならば、ぜひ映画「暗いところで待ち合わせ」も観ることとをおすすめする。

映画「暗いところで待ち合わせ」作品レビュー

それにしても猫娘に、パァーと遊びにいこうよぉ、と何度もせがまれているにもかかわらず、ほっといてくれとばかりにゴロゴロしている鬼太郎よ、なんという果報者であろうか(笑)。


デート     △ びみょ~ 
フラっと    △ 
脚本勉強   △ 
演出      △ 
笑い      △ 
役者      ○ イメージどおりのキャスティングを堪能すべし
ダンス     ○ 猫娘のダンスだけでも一見の価値アリ!
ヒーロー    ◎ 数歩先ゆくヒーローなり

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03/03/2007

映画「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」

監督:馬場康夫
日本/2006年/116分

バブルとともに歩み、バブルの中で活躍し、バブル期の文化・流行を作りだしてきたホイチョイ・プロダクションズが「自虐ギャク」的に放つ、エンタテイメント作品。確実に一定以上のエンタテイメント作品に仕上げるその職人技には脱帽だ。小説や脚本をはじめ、映像制作からマーケティングや営業までに関わり、よい結果を出したいという人は10回観るべし!

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
2007年。元カレのつくった借金を肩代わりさせられ、借金取りに追われる田中真弓に、母親・真理子の訃報が届く。
葬儀の後日、下川路が真弓のアパートにやってきて、母親は死んでいないことを明かす。
日本経済を救うべくタイムマシンで17年前に行ったまま行方不明になった母親を救うため、借金を返すため、真弓は1990年4月の日本へ旅立つ。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△下川路功
財務省大臣官房経済政策課勤務の官僚。
タイムマシン極秘プロジェクトのリーダー。

▽田中真弓
キャバクラ勤めのフリーター。
元カレのつくった200万円の借金を肩代わりさせられ、借金取りに追われている。

▽田中真理子
真弓の母親。日立の家電研究所勤務。タイムマシンの開発者。下川路巧とは大学の同級生で、元恋人。

△田島圭一
消費者金融「平成クレジット」の借金取り。借金を取り立てようと、真弓に付きまとう。

△芹沢良道
芹沢ファンド代表。元大蔵省勤務。

▽宮崎薫
テレビリポーター

▽玉枝
真弓が勤める、六本木のキャバクラ「グランデ」のママ。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
バブルとともに歩み、バブルの中で活躍し、バブル期の文化・流行を作りだしてきたホイチョイ・プロダクションズが「自虐ギャク」的に放つ、エンタテイメント作品。確実に一定以上のエンタテイメント作品に仕上げるその職人技には脱帽だ。小説や脚本をはじめ、映像制作からマーケティングや営業までに関わり、よい結果を出したいという人は10回観るべし!

■ ユーロビート、ワンレン・ボディコン、DCブランド

こられのキーワードにピンときたアナタ。「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」(以下「バブルへGO!!」)はまさにそんなアナタのハートを鷲掴みするに違いない。

だからといって、バブルを実体験していない人にはおもしろくないかというと、そうではない。むしろ、バブルを実体験として知らないほうが楽しめるかもしれない。

1985年制作のロバート・ゼメキス 監督作「バック・トゥ・ザ・フューチャー」というのがある。有名な作品なので観た人も多いだろう。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、男子高校生が30年前にタイムスリップするというストーリーだ。1985年頃の一昔といえば30年だった。

しかし時代は変わり、今では「ひと昔」といえば10年前を指すこともある。ならば、17年前というのは、もうとんでもない昔ということになる。

おぃおぃ、いくらんでもたった17年前なんて、つい最近のことで、そんなに大昔じゃないぞ、という人もいるだろう。

そんな人こそ「バブルへGO!!」を観てもらいたい。

「なんじゃこりゃ~!!」「いつの時代やねん!」という声が思わず出てしまう、ユーロビート、ワンレン・ボディコン、DCブランド全盛の「あの時」が、立派(笑)な「ひと昔」といえることが確認できるだろう。

さて、日本で生まれ育った人が、アメリカ合衆国の1985年と1955年の時代ギャップがわかるか? というと、細かいところまではわからないだろう。でも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はそんな日本人でもじゅうぶんに楽しめた。

それはなぜか?

ストーリーがおもしろいからだ。


■ タイムスリップ

古今東西、タイムスリップものは数多い。そこでポイントとなるのは、誰がどこへタイムスリップして、そこで何をするかである。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、男子高校生が30年前にタイムスリップして、壊れかけた両親の仲を修復しようとする。

「バブルへGO!!」は、フリーターの若い女性が17年前にタイムスリップして、危機に瀕している日本経済を救おうと、また行方不明になった母親を探そうとする。

こうしてみると、両作品の基本構造はほとんど同じである。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がヒットしたことから、この構造を使えばヒットする可能性はたいへん高いことは誰の目にも明らかだが、これを日本に当てはめてやってみようとは誰もしなかった。ホイチョイ・プロダクションズ以外は……。

比較的最近のタイムスリップ作品といえば「戦国自衛隊1549」(80年代の「戦国自衛隊」のリメイク)や「時をかける少女」(筒井康隆の名作「時をかける少女」原作の2006年劇場用アニメーション作品)などがある。

どちらも原作がある作品だが、その出来栄えは真逆だ。どちらが優れているかは皆さんもおわかりだろう。もちろん劇場用アニメーション「時をかける少女」であって、その出来栄えはたいへんすばらしい。

とはいえ「時をかける少女」は時代を飛び越えるというより、もっと短い、数日や数時間を飛び越える能力を手にした少女の物語である。

時代を飛び越えるタイムスリップ作品では、なにも戦国時代(16世紀頃)にまで飛ばなくても、ほんの30年、いやほんの17年昔に飛ぶだけでもいい。というよりも、ひと昔前のほうが、その時代を知っている者が多数いることや、その時代の雰囲気を残しているものがまだどこかに存在していることが多々あるため、観客のノスタルジアを誘いやすい。

ここで注意しなくてはいけないことは、あまりに当時と違う描写をすると、総スカンをくらうことがあるので、当時の文化・風習・芸能等について綿密につくり込まなくてはならない。

ちょんまげのお侍さんが刀を右腰に差していても、たいていの人はなんとも思わないが、1990年にワンセグケータイで野球中継を見ている人がいたら、誰だって違和感をおぼえるだろう。

逆にいえば、注意点さえしっかりおさえておけば、ひと昔前を題材にタイムスリップ作品を作ったほうが、旨味が多いわけだ。

それにもかかわらず日本ではだれもやらなかった。いや、やれなかったのか。いやいや、そんな発想さえ出なかったのだろう。ホイチョイ・プロダクションズ以外は……。


■ ホイチョイに脱帽

ホイチョイ……。ってどんな意味?

ホイチョイとは、架空の理想郷を指す、子供たちの造語という。(ユートピアみたいなものかな)

本では「東京いい店やれる店(94年)」他を出版。テレビでは「カノッサの屈辱」他を企画。

映画では「私をスキーに連れてって(1987)」「彼女が水着にきがえたら(1989)」「波の数だけ抱きしめて(1991)」という、いわゆるホイチョイ3部作を企画・制作。さらに「メッセンジャー(1999年)」でもヒットを飛ばしている。

ホイチョイ3部作が作られた1987年から1991年は、ほぼそのままバブルの全盛期だ。

バブルとともに歩み、バブルの中で活躍し、バブル期の文化・流行を作りだしてきたホイチョイ・プロダクションズが、自らの歩みを振り返るかのように、お笑いでいえば自虐ギャクを放つかのようにバブル期へタイムスリップするというアイデアを形にした。

まさにホイチョイ・プロダクションズがもっとも得意とする題材(バブル)で、もっともヒットしやすい仕掛け(タイムスリップ)で、もっとも絶妙なギャップ(ひと昔。17年前)で確実に一定以上のエンタテイメント作品に仕上げるその職人技には脱帽だ。


■ ギャップのつくりかた

では、良質なエンタテイメント作品の作り方を「ギャップ」に焦点を合わせてみていこう。

「キューティ・ブロンド」や「メラニーは行く!」では、地域差がギャップとなって、笑いのポイントになっている。

「キューティ・ブロンド」では西海岸のブロンドお嬢様が東海岸のハーバードロースクールに行き、ファッションの違いや感覚の違いがギャップだ。

「メラニーは行く!」では、北部のニューヨークと南部のアラバマという地域差がさまざまなギャップを生んでいる。

これらが地域差によるギャップの作り方である。

では、「バブルへGO!!」のギャップとはなんだろう。それは、世代差・時代差である。

ここでちょっと考えてみよう。

なぜ、映画はそんなにギャップを求めるのだろうか……?

これは来週までの宿題。としたいところだが「たか」自身が宿題を出したことを忘れそうなので(笑)、早々に答えを出しておこう。

ギャップを求めるのは、そこにズレが生じるからだ。

たとえば、笑いは「常識と変」のギャップに生まれる。人はギャップをみつけると、そこを埋めたくなる。埋める方法は、お笑いでいうならば「ツッコミ」だ。

映画もこれと同じ技を利用している。地域差や時代差をつかってギャップを生じさせ、ギャップで生じた空間に「笑い」や「驚き」を詰め込んでテンポをつくり、その隙にキャラクターの成長を織り込んでいくのだ。

▼「キューティ・ブロンド(LEGALLY BLONDE)」作品レビュー

▼「メラニーは行く!(SWEET HOME ALABAMA)」作品レビュー


■ 主人公の変化がドラマの肝

ストーリーのはじめと終わりを比べて、主人公がまったく変化していなかったとしたら……それはたぶん、寅さんか黄門様だ。

一部のファン向けではない、一般ウケしたいわゆるヒット作品の多くに共通するのはズバリ!「変化するキャラクター」である。

田中真弓は、はじめとおわりでは変化している。彼女をとりまく環境の変化はタイムスリップものではお約束だが、その変化をもたらしたのはまぎれもなく、17年前にタイムスリップして1990年の人たちと出会い、働きかけた真弓の行動によるものだ。

タイムスリップものではない作品では、主要キャラクターの内面の変化を表すのに苦心する。しかしタイムスリップものでは、時間を飛び越えて、書き換えた過去による新たな未来をみせることで、主要キャラクターの変化を視覚的にもたいへんわかりやすくみせることができる。

だからといって安易にタイムスリップを用いれば、散々たる作品になる。たとえ過去の有名作のリメイクだとしてもだ。(例「戦国自衛隊1549」)

▼「戦国自衛隊1549」作品レビュー

「バブルへGO!!」の主要キャラクターたちの変化の基本は「家族」というキーワードに支えられている。作品のはじめは、いわゆるホームドラマっぽい匂いを感じさせないが、ストーリーが進んでいくうちに、観客はそこに「家族」を意識するようになる。

これは聖書の「放蕩息子のたとえ話」と基本は同じだ。

これは、裕福な家の次男が父親に頼んで遊ぶ金ほしさに財産の分け前をもらい、都会に出て行って遊びまくり、金がなくなるとだれにも相手にされなくなった。しかたなく豚小屋で働き始め、豚の餌で空腹を満たしたいと思うようになってはじめて、実家に帰ろうと思いたつ。実家では父親が放蕩息子の帰りを待っていた、という話である。

真弓は17年前に行って、そこであることをみつけたのだ。気づいたといってもいい。それによって変化が生まれ、それが真弓のまわりにの人たちにも変化をもたらしたのだ


■ 反復効果

2007年の六本木。勤め先のキャバクラから出てきた真弓は、借金取りの田島圭一が待ち伏せしているのに気づき、走って逃げるシーンがある。

1990年の六本木。勤め先のキャバクラはディスコになっていた。ディスコから出てくると、田島圭一がいるのに気づいて、また借金取りかと思った真由美は走って逃げ出す。

このふたつのシーンは、時代の変化をより強調してわかりやすくするために、同じ場所を同じシチュエーションで提示するためにある。

時代の変化とは、街の風景、店内の様子、遊ぶ人たち、そして主要キャラクターの変化(田島圭一)である。

ちなみに田島圭一は、ストーリー構築上の役割でいえばヘルパーだ。時代の変化を説明する案内人である。その具体的な方法が、真弓をバブル全盛のパーティに誘うことに表れている。


■ 10回観るべし

小説や脚本をはじめ、映像制作からマーケティングや営業まで、よい結果を出したいと思っている人たちは、この作品を10回観るべし。

すべてのシーンがなにかしらの役割を持っており、しかも観客が想像力を働かせて息抜きできる、車のハンドルでたとえるなら「あそび」も随所に盛り込まれているからだ。

登場人物のセリフ、行動、アイテム、すべてに注視し、それが物語上でどんな役割があって、どんな効果をもたらすのかをよぉ~く観察しよう。

まずはわかりやすいところから、1990年の真弓が借金取りの田島からお金を借りてハンバーガーを食べたシーンから考えてみるといいだろう。


■ 日立製作所の粋なタイアップと、タイトル

日立製作所の粋なタイアップ(洗濯機)は宣伝効果抜群だ。

なんてったってアイドル~♪ じゃなかった(^^ゞ なんてったって、タイムマシンはドラム式、つまり洗濯機なのだから☆ 

「タイムマシンはドラム式」

これほどインパクトのあるコピーはめったにない。読んだら気になって仕方がなくなるように作られている。

タイムマシンなのにドラム式ってどういうこと? と思い、その答えを知りたくてたまらなくなる。それで、ドラム式とは洗濯機だとわかると、なんでタイムマシンが洗濯機なんだ? とさらなる疑問が浮かび、いったいどうなっているんだと答えを知りたくなる。

う~む……うますぎる。おそるべしホイチョイ!

だってタイムマシンといえばたいていは机の引出しの中とか(←これもスゴい)、車とか、電車とか、いちおう乗り物であろうという固定概念がある。それを粉々に打ち砕くのだから。

ちなみに監督の馬場康夫氏は、元日立製作所宣伝部にいたらしい。


 「一部ウケ」かと思いきや……。

「バブルへGO!! 」はバブル全盛期を体験した世代が主なターゲットだ。

得意な題材でターゲットを絞り込む。これはマーケティングである。

あえて観客層を広げようとしなかった割り切りの良さが、結果的にバブルを知らない若い世代へも口コミでそのおもしろさが広まり、バブルを知らない者なりに楽しみ方を作り出していくこともできる。

そもそも、負のイメージで語られることが多いバブルを、エンターティメントにするという発想と、それを形にする行動力があっぱれだ。


■ キャスティングがモロハマリ

吹石一恵の眉太メイクにボディコン。似合いすぎてるぞ!

森口博子のママぶりが板についているぞ!

飯島愛はいまでもお立ち台イケるぞ!


■ 元カレの存在

真弓は元カレがつくった借金を肩代わりさせられたために借金取りの田島に付きまとわれている。

タイムマシンで17年前にいく決心をした理由の現実的なものは、借金返済だ。
(もちろん、母親を助けたいという思いもある)

――金。

これほど明確な動機はほかにそうはない。

真弓の行動の大きな原動力である借金をつくったのは、真弓の元カレだ。しかし、元カレは登場しない。

下手な作品だと、借金を作った元カレが登場する。そのシーンの分だけ作品は長くなり、なかなか本題に入らない(ストーリーが前へ進まない)ということになる。つまり、元カレを必ずしも登場させる必要はないのだ。

たとえ元カレが登場しなくても、観客の頭のなかには借金を作った元カレがイメージできればいいのだ。真弓の元カレを登場させずに観客にそのイメージを抱かせることができる。

実は、これが「バブルへGO!!」の作り手の力量のすごさをよく表しているもののうちのひとつなのである。


■ その他

リンドバーグにプリンセスプリンセス。懐かしいヒット曲も聞けるぞ。

そういえば「ラブ★コン(LOVELY COMPLEX)」でも、なつかしのヒット曲を上手に使って作品の雰囲気づくりに役立てていたなぁ。

▼「ラブ★コン(LOVELY COMPLEX)」作品レビュー

デート     ○ 
フラっと    ○
脚本勉強    ◎
演出      ◎ 
リアル     -
キャラクター  ◎
笑い        ○
役者        ◎
キャスティング ◎ 
マーケティング ○   


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02/16/2007

映画「どろろ」

監督:塩田明彦
日本/2007年/138分
原作:手塚治虫『どろろ』
PG-12

統一感のないアクションシーンでわかる「線引き」のなさが特徴の、なにがしたいのか不明な、ちゃんぽん作品。総製作費20億円超の内訳表がみてみたい。あんなセットアップはいらない。せめてキャラクターに合った配役を。結局、アイドル映画か。B級モノとわりきればこれもアリ……? 劇団ひとりも出てるゾ。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
戦乱の世。天下統一を願う武将・醍醐景光は、魔物四十八体を封印する地獄堂で、生まれくる我が子を捧げる代わりに巨大な力を手に入れる契約を交わす。
生まれてきた子・百鬼丸は、医師・寿海に育てられる。たがて左腕に妖刀を仕込んで青年となった百鬼丸は、体の四十八ヶ所を取り戻す旅に出る。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△百鬼丸
男性。魔物に奪われた体の四十八ヶ所を取り戻すため旅を続け
ている。

▽どろろ
女性。男装した野盗。

△醍醐景光
男性。戦国武将

△多宝丸
男性。若武者。醍醐景光の息子。

△寿海
男性。医師。百鬼丸の育ての親。

△琵琶法師
男性。妖刀を百鬼丸に授ける。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
統一感のないアクションシーンでわかる「線引き」のなさが特徴の、なにがしたいのか不明な、ちゃんぽん作品。総製作費20億円超の内訳表がみてみたい。あんなセットアップはいらない。せめてキャラクターに合った配役を。結局、アイドル映画か。B級モノとわりきればこれもアリ……? 劇団ひとりも出てるゾ。

■ 深いテーマだが……

父と子。体の四十八ヶ所を取り戻す旅=成長=人生。異形なるもの。疎外。孤独。自我の形成。自分さがし……等、といった深いテーマが満載の原作だと想像できる。それをどう活かすか? それが映画版「どろろ」の注目点だと思ったのだが……。

結論からいうと、深いテーマをバッサリ捨てて、魔物を退治するごとに体のパーツを取り戻していく、ゲーム感覚的な仕掛けのおもしろさを借りてみました、といったところ。


■ 総製作費20億円以上のわりには

安っぽい画があるのはご愛嬌か?

意図して安っぽくしているのかもしれないが、パッと見は、デパート屋上の戦隊怪獣ショーか!?と思わずにはいられないアクションシーンがあったり、CGでがんばって作りました感が出ちゃってるアクションシーンがあったりと、たくさんのアクションシーンを盛り込めば盛り込むほど、どんどんちぐはぐになっていくかのようだ。

ひとことでいえば、まとまり感(統一感)がない。

観客は作品のなるべく早い段階で「物語の約束事」を確認したがるもの。わかりやすい例(「どろろ」の内容とは関係ない)でいえば、主人公は魔法が使えるのか? ということだ。

「どこにでもいる普通の奥様。でも実は彼女は魔法使いなのでした」(←例「どろろの内容とは関係ない」)という世界観(約束事)を受け入れてもらうことがはじまりだ。

百鬼丸は失われた体の四十八ヵ所を取り戻すというのだから、魔物・妖怪といった世界観をあらかじめ受け入れた観客のみとなる。

しかし、その魔物・妖怪にしても「ゲゲゲの鬼太郎」系なのか、「ベルセルク」系なのかといった、ある程度の区分け、つまり分類上の線引きラインがどこなのかを示す必要がある。

ところが映画「どろろ」にはこの「線引き」がない。なんでもあれである。ちゃんぽんである。

そんなわけで観客は、作り手との最低限の「約束事」を確認できないまま、物語は進む。


■ あんなセットアップはいらない

醍醐景光が地獄堂で魔物たちと契約するセットアップはいらない。

なぜなら、百鬼丸が体の四十八ヶ所を魔物に奪われた理由は、作品宣伝で知らしめているからだ。「どろろ」を観にやってくる観客の多くは「すでに知っている」からだ。

さらに、作品の途中でも、醍醐景光が地獄堂で魔物たちと契約するシーンが再び登場する。観ているほうは「もう知ってるよ、わかったよ……」てなかんじである。私はあくびが何度も出てしまった。

百鬼丸が体の四十八ヶ所を魔物に奪われた理由をミステリーとして使わないならば、ストーリー内でサラッと臭わす程度でじゅうぶんだ。

人はなにか新しいこと、ワクワクドキドキするものはないかと映画館に足を運ぶ。特に冒険活劇系の作品を観るときはそうである。

百鬼丸が体の四十八ヶ所を魔物に奪われた理由は、観客に折込済みである。それは既知(すでに知っていること。すでに知られていること)であって、未知(まだ知らないこと。また、まだ知られていないこと)ではない。


■ 登場人物を楽しむだけか……

さて映画「どろろ」のみどころだが……それはズバリ! 劇団ひとりだ。とはいっても、彼の魅力の10分の1も発揮されていないが、町のチンピラ役で好演している。

町のチンピラ役といえば、たいていは名もなき若手の無名役者が演じることが多い。映画を観終わっても、誰も覚えていない。そんな役どころだ。

しかし「おや? このチンピラはどこか味があるなぁ」と思ったら、演じていたは劇団ひとりであった。彼は他の映画にもチョイ役で出演したりしているが、一瞬で雰囲気を作れる数少ない役者でもある。

ほかには、土屋アンナも自身のキャラクターを活かした(?)役どころで、目立っていた。

え? 大事な登場人物を忘れていないかって?

あぁ、妻夫木聡くんと柴咲コウさんのことね。

ふたりとも、がんばっていたように思います。(←ってそれだけかいッ(>_<))

では、少しだけ。
柴咲コウさんのどろろは、彼女のイメージと合わなくて、無理をしているようで見ていて痛々しかった。

柴咲コウさんは映画「嫌われ松子の一生」で川尻笙の連れの女性・明日香を演じていたが、それがモロにハマリ役だ。

どんな役だったかというと、昼間、荻窪あたりのラーメン店でまったりしながら「このまま笙ちゃんといたら私、ダメになっていきそうな気がする……」といった意味のことをうつろな目でつぶやいてみせたり、昼間の街の雑踏で海外ボランティア活動員になる決意して川尻笙の留守電に一方的にメッセージをふきこんでみせたりする。それが「正しい柴咲コウさんのキャスティングの仕方」である。

若手人気俳優は、起用すればいいというものではない。どう使うか、――だ。

どの役者をどう使うかについては、この作品を観て勉強しよう。

映画「嫌われ松子の一生(Memories of Matsuko)」作品レビュー
↑作家の卵役に劇団ひとりさん。彼の魅力が大いに発揮されているゾ。


■ ひとこと

ひさしぶりに辛口になってしまった(>_<)

だって20億も使うなら、もぅちょっとなんとかしてほしかったから。漫画原作を人気若手俳優使って映画にすればヒットするだろうよぉ~的な匂いがプンプンしてるぅぅ。

普段映画をあまり観ない人が、テレビドラマでお馴染みの若手俳優さんが出演しているからと久しぶりに映画館に観に行って「日本映画ってやっぱりこんなもんか」と思われたら、他のおもしろい日本映画が気の毒になってしまうだろうね。

子供向けでもないし、かといって、いい映画を見慣れている人や原作を知っている人には耐えられないものだし、いったい誰に向けて何をいいたいのかさっぱりわからない作品でした。

とにかく、劇団ひとりと土屋アンナしか覚えていられないといったかんじ。

けれど、薬師丸ひろ子 、真田広之出演、深作欣二監督の「里見八犬伝」のおもしろさを今一度思い出させてくれたよ。「里見発見伝」は1983年の作品だけど、この種の作品の中ではバツグンにおもしろいゾ。CGなんてなくたって、真田広之の気合の入ったアクションシーンは今でも記憶に残りつづけているほどですから。


デート     △ 相手に、なにも考えてないと思われるかも
フラっと    × まぁこんなもんかと思えば……
脚本勉強  × 贅肉を落すことからはじめよう
演出     × 
リアル    × 
キャラクター △ 
笑い     △ もぉ笑うしかないか……?
役者     -  妻夫木聡と柴咲コウが映ってさえいれば満足なら    


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02/15/2007

映画「墨攻」

監督:ジェィコブ・チャン
中国/日本/香港/韓国/2006年/133分

標識というおしつけがましさがほとんどない。質実剛健な作風をどう受け止めるかによって評価が分かれる。「墨守」ではなく「墨攻」となっている意味とは?

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
紀元前370年頃の中国春秋時代。趙軍10万が全住民4千人の梁城に攻め寄せていた。梁王は墨家に救援を求めた。やってきたのは革離ひとりだった。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△革離
墨家

△巷淹中
趙軍指揮官

▽梁適
梁王の息子

△子団
弓隊統括

▽逸悦
梁・近衛軍騎馬兵


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
標識というおしつけがましさがほとんどない、質実剛健な作風をどう受け止めるかによって評価が分かれる。「墨守」ではなく「墨攻」となっている意味とは?

■ 20秒でわかる「いきさつ」

ごく簡単に状況を説明しよう。

大国の趙の目的は燕を攻めること。そのためにはまず、趙と燕の中間にある小国・梁を攻め落とさなければならない。

趙10万の大軍にとってみれば、総住民4千人の梁城は、燕攻めへの踏み台に過ぎない。

一方、いま、まさに大軍に攻め込まれようとしている梁にとって、唯一とも思える生き残りの方法は、墨家に救援を求めることだ。

なぜなら墨家は、軍事的な側面としては、優秀な守り専門の戦闘集団だとみなされていたからだ。

しかし、援軍要請からしばらしくしても、墨家は現われない。そこで梁王は趙軍に降伏を申し入れようとする。

――と、そこへひとりの男が梁にやってきた。彼は墨家だという。

そう、救援にやってきたのはたったひとり。防衛専門の戦闘集団のはずが、やってきたのはひとりだ。いうなれば「軍団ひとり」。お笑い芸人でいうならば「劇団ひとり」みたいなものである(笑)

援軍を要請したのに、それに応じたのはひとりだけって……。
しかもやってきた墨家・革離は、梁王から墨家への援軍要請の印となる品を持ってくるのを忘れたという(これには理由がある)。

そんな間抜けに思える男がひとりやってきただけで、はたして10万の敵軍の侵略を食い止めることができるのか。

墨家は思想家なので、人々に語りかける術に長けている。人を説得する方法を知っているともいう。それで梁王は説得されて、近衛軍を除く梁軍すべての指揮権を革離に授けることにした。


■ 淡々とした物語運びがいい

「墨攻」にはおしつけがましさがほとんどない。

他の作品でありがちなのは、主人公の恋人や戦友が亡くなるときや、大事な一戦のときに、シーンを盛り上げようと大袈裟な効果音や音楽を流したり、コマ送りの画面かのようにしたりすることだ。

これらは、物語という道のいたるところに標識を立てているようなものだ。

ここで笑う。ここで悲しむ。ここでくやしがる。そしてここで泣く。

そんな標識は、おおきなお世話である。標識をつくっているヒマがあるなら、内容で観客の感情を動かすにはどうすればいいかを考えよう。

こういった手抜きともいえる「標識」を「墨攻」ではほとんど使っていない(一部アリ)。

そのため、標識に慣れた観客にとっては、物語が淡々と進んで行くかのように感じられ、おまけに墨家とはなんぞや? という説明がほとんどないので、キツネにつままれたかのようにポカンと口を半開きにしたまま観終わってしまうだろう。

だが実は、墨家とはなんぞや? という説明がほとんどないことは、物語内容と関係があるのだ。


■「標識なし」で、感じて考える

漫画の主人公にとってとてもショッキングなことが起こったとき「ガーン!」と書いて表現されることがある。

しかし現実には「ガーン!」なんて音は鳴らない。ショックを受けた本人が「ガーン!」と口に出ぜば別だが……。

「ガーン!」と書いてくれることに慣れてしまうと、ほんとうに自分がショックを受けていなくても「ガーン!」とあったらショックを受けなくてはいけないと思わせれてしまうことにもなりかねない。

これは、自分の感情を他人にコントロールされてしまい、ゆくゆくは判断までも他人に委ねてしまう危険性をはらんでいるといえよう。

標識なしの「墨攻」は、墨家である革離が梁城を守りながらも苦悩するかのように、観客もまた作品を観てどのように感じてどのように考えるかの機会を与えてくれるのであり、観客におしつけがましいことはほとんどない。

というわけで「墨攻」はおしつけがましいことが親切だと捉えている人にとっては、つまらない作品だと感じることだろう。


■ 墨家の説明がほとんどないことには意味がある

作品中に墨家についての説明がほとんどないのは、おそらく意図しているのだ。感じて考えるためには、受身だけではいけない。

必要な情報は自ら手に入れなければならない。とはいってもこれだけインターネットが普及した時代なのだから、わずかの時間で墨家について調べて、必要な知識を得ることができる。

待っている(受身)だけでは、攻め入られるだけである。

墨家は、弱小国といえども大国に攻め入られることのないよう、国内をよく治めて侵攻を断念させる努力の必要性を説く。大国の意のままに攻め入られるだけでは、小国は搾取されるだけに終わると

映画を観るとは、けっして受身だけではないのだ。観客が映画作品の良し悪しを評価するのと同時に、映画作品の側も観客の「物語を楽しむスキル」を試しているのだ。

映画を観てなにかしらを得ようと思うならば、例えるならば大国に攻め入られることのないよう、小国は自国をよく治め、大国の情報を収集して研究しなければならない。

墨家は防衛戦略・戦術・戦闘の専門集団の側面ももっていたため、その守りはたいてい「墨守」といわれるが、守るためにすべきことがすなわち「生き抜く攻め」にもなる。そんな意味でタイトルが「墨攻」になっているのだと思う。


■ ひとこと

渋めなので、いい意味で観客を選ぶ作品だ。


デート     △ 
フラっと    ○  
脚本勉強  △
演出     ◎   
リアル    ◎ 
キャラクター ○
笑い      ‐
ファミリー   ‐ 
雰囲気    ○
奥深さ    ◎
お気楽    ×


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01/19/2007

映画「大奥」

監督:林徹
日本/2006年/126分

表向きの主役と裏向きの主役。アナタはどっち派?(笑)「美味でございますぅ~」の名(?)セリフを聞き逃すな!☆

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
徳川家七代将軍家継の時代。大奥では天英院派と月光院派で対立していた。
そんな折、月光院の信頼厚く、若くして大奥総取締である絵島は、寺社詣の帰りに寄った歌舞伎演劇で役者・生
島新五郎に出会う。
それは、英院が老中が、間部と月光院を陥れるために仕組んだ罠だった。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
▽絵島
大奥総取締。江戸の町人出身。

▽天英院
先代将軍の正室

▽月光院
将軍家継の生母。町人出身。

△生島新五郎
歌舞伎役者

△間部詮房
将軍家継の後見人


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
表向きの主役と裏向きの主役。アナタはどっち派?(笑)「美味でございますぅ~」の名(?)セリフを聞き逃すな!☆

■ 恋愛の圧力釜効果

ドラマシリーズで人気だった「大奥」の映画化で、今回は悲恋物語が中心になっています。

大奥総取締でありながら、歌舞伎役者に恋をする。禁断の愛。制限されるが故に燃え上がる想い。

いうなれば「恋愛の圧力釜効果」が活かされています。


■ 裏向きの主役は

物語の重要な鍵を握る、天英院派の女を演じる杉田かおるさんがセリフのない、いい演技をしています。

もともと杉田かおるさんは存在感もあるので、高島礼子と同じ画面に出ても全く見劣りしないどころか、セリフ少なめな様子がかえってじわじわと彼女の心の内を想像させていいかんじです。

杉田かおるさん演じる女性は、天英院派で大奥の中でもそこそこの地位にいるようです。でも、天英院や月光院や大奥総取締といった地位には就くことができないであろう、そんな絶妙な立場です。上も見えるし、下もみえる。かといってなんでも自分の思い通りにする力はない。

このポジションが絶妙で、観客はそれと意識しなくても、なんとな~く共感していきます。

表向きの主役は仲間由紀恵さんですが、裏向きの主役は杉田かおるさんですね。


■ みどころは

史実を基にした作品なので、脚色や演出はあっても物語に大きなサプライズはありません。

物語の出来を楽しむというよりも、やはり出演者の魅力を堪能するというのが映画「大奥」の楽しみ方でしょう。

なんといっても主役の絵島を演じる仲間由紀恵さん。いま最も注目される旬の女優さんだといわれています。

仲間由紀恵さんにはあまり恋愛の匂いは感じませんが、そこが大奥総取締の絵島の役柄にマッチしていて、違和感無く観ることができました。

また、注目のシーンといえばこのふたつです。

芝居小屋の火事のあと、祭りで混雑する道を手をとりあって進む絵島と生島が、人混みに阻まれるようになって一度手を離してしまいます。

ふたりの距離は2、3メートル。そこで見つめ合い、決心したかのように絵島のほうから生島へ手を差し伸べます。生島はその手を取り、再び人混みの中を歩きはじめます。

後日、生島と過ごしたあの時間があれば、あとは余生と思えます、と月光院に告げる絵島。

ほかにも名場面集に入れたいシーンはいくつもあります。皆さんも自分なりの名場面をみつけてみてくださいね。


■ ひとこと

生島新五郎役の西島秀俊さんも、時代劇もなかなかいいですね。

昨年末にフジテレビで深田恭子主演のドラマ「大奥スペシャル~もうひとつの物語~」が放映されていましたね。これは6代将軍・家宣の時代のお話で、映画「大奥」の時代の3年前という設定です。

このドラマを7割方観たので、映画もその流れで映画を観たのですが、これってまたまた「思う壺夫くん状態」ですね。

だってドラマ「大奥スペシャル」での名(?)セリフ「美味でございますぅ~」が耳に残っていたもので……(笑)

もちろん映画「大奥」でもこの名セリフがきけるシーンがちゃんとありますヨ。

それにしてもドラマ「大奥スペシャル」での深田恭子の女中姿は妙に似合っていました。

一方、映画「大奥」は、豪華なドラマの域を出てはいないかなってかんじはありますね。

ちなみに月光院役の井川遥さんは、ほぼイメージどおりの役どころですが、彼女のイメージを逆手にとったうまいキャスティングの映画はこちら。ネタバレになりますので、以下のレビューに詳しいことは書いてませんが、映画を観ればすぐにわかりますヨ。観た人は、あぁあのシーンね、とすぐにピンとくるはず。

デート     ○
フラっと    △
脚本勉強  -
演出     ○
リアル    -
キャラクター ○
笑い     -
ファン    ○

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12/08/2006

映画「暗いところで待ち合わせ」

監督:天願大介監督
日本/2006年/129分
原作:乙一『暗いところで待ち合わせ』

他者とのコミュニケーションを欲する者たちが「変化という恐怖」に立ち向かい、一歩を踏み出す物語。常人では考えつかない設定と、それを形にする技術と勢いに原作者のホンモノの力量さえ感じる。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
交通事故で徐々に視力を失ったミチルは、父親を亡くしてから駅のプラットホームを見下ろす高台の一軒家に独り暮らしをしている。
ある日、駅のプラットホームから男性が転落。電車に轢かれて死亡する。
同じ日、ミチルの家に青年が忍び込み、息をひそめて暮らし始める。青年は転落死した男性の職場の同僚アキヒロであり、転落死に関係するとみられて追われていた。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
▽本間ミチル
女性。交通事故で視力を失う。父親が他界し、ひとり暮らし。

△大石アキヒロ
男性。日本と中国のハーフ。幼い頃は中国で育ち、その後日本にやってきた。印刷工場で働く。

▽カズエ
女性。ミチルの親友。

△松永トシオ
男性。アキヒロの職場の先輩。

▽ハルミ
女性。ミチルの近所に住む。イタリアンレストランの店員。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
他者とのコミュニケーションを欲する者たちが「変化という恐怖」に立ち向かい、一歩を踏み出す物語。常人では考えつかない設定と、それを形にする技術と勢いに原作者のホンモノの力量さえ感じる。

■ 出会い系!?

出会い系。
そう聞くと、イマドキのあやしげな印象を受けるかもしれない。だが、物語というものは、主人公がだれかと出会うことではじまるのだ。

両親は離婚。交通事故で視力を失い、一緒に暮らしていた最愛の父親も他界したミチルは、駅のプラットホームを見下ろせる高台の一軒家で独り暮らしをしている。

点字の勉強をはじめて徐々に読めるようになってきたミチルだが、杖を使ってひとりで外出しようとはせず家で一日を過ごす事がほとんどだ。

パソコンは苦手で、家では家事をしたり、ピアノを弾いたり、テレビの音声を聞いたりして過ごしている。

おそらく、子供の頃からどちらかというとひとりでいることが多かったであろうミチルにも友人がいる。カズエだ。彼女は活発なイマドキの女の子。ミチルとは正反対のようだが、それだからこそお互いに無いものを持っているふたりは親友として付き合ってきた。

そのカズエと一緒に外出する以外はいつも家にいるミチルには、出会いは訪れようもない。
このように、一度大きく出会いようがないとうところまで振り子を振っておく。

そしてもしそこに出会いを作ることができれば、振り子は反対方向へ大きく動かせる。

物語を推し進める力とは、たとえるならば振り子をどれくらい大きく振ることができるかにかかっている。
だから、振り子をいかに大きく振るか。これに苦心するのだ。

振り子に勢いをつけるきっかけ。それが出会いだ。
たとえばミチルの出会いの相手が、親友カズエの知り合いだったり、いつも食料品や日用品を配達してくれる店の青年であったり、郵便配達員の青年だったりした場合は、いかにもありきたりだ。

ところがこの作品では、普通の出会いとはいえないちょっと変わった『出会い』をさせる。

それは、近くの駅での転落死亡事故・事件の容疑者が家に忍び込んでくるというものだ。


■ グランドホテル型のひとつ

ミチルの生活圏、具体的には家という場所に、なんらかの目的を持ったアキヒロが入ってくる。アキヒロの出現によってその場所にかかわる者に変化が起きる。これはいわば、グランドホテル型である。


■バックグランドを交互に描く

はじめにミチルを紹介。その次にアキヒロを紹介。

作品の前半をこのようにふたつに分けて、それぞれの状況を描いている。ミチルとアキヒロの両方のバックグランドがほぼわかった観客は、ふたりの共通点にすぐに気づくだろう。


■ おひとりさま

ふたりの共通点とはなんだろう。

皆さんは「おひとりさま」というのをきいたことがるだろうか。

これは劇団ひとりをターゲットとした……いや違った。失礼。これは「ひとり」をターゲットとしたマーケティングのひとつである。
おひとり様用「鍋セット」。おひとり様用「ひとりで参加する旅行」。おひとりさま用「ひとりで行くいきつけ
のバー特集」等々。

仕事やプライベートの人間関係のしがらみから、ひとときでも離れてホッと一息入れたい。そんなおひとりさまになれる時間を持つことがステイタスとしてマーケットを広げようという狙いは、マーケティングとしてはおもしろいかもしれない。

おひとりさまがなんとなくカッコよく感じたり、おひとりさまの時間を持つことの有意義さを云々したりというおひとりさまマーケットの根本には、前提として「おひとりではない」というのがある。会社の同僚、仕事仲間、友人、知人・家族などがいることが前提だ。

だがミチルとアキヒロは、まずは前提として「おひとりさま」であるかのように描かれる。

ミチルは一見するとひとりを望んだわけではないようにおもえる。カズエほど活発ではないにしても、目が見えれば外出もするだろうし、学校や仕事をして知り合いや友人も増やすだろう。

だが視力を失い、父親を失ったためにひとりになった。だからミチルはひとりを選んだわけではなく、仕方なくそうなったのだと思える。

しかし実際は、心配してくれる親戚もいるし、ひとりでも外出するよう勧める親友カズエもいるのでひとりではないのだが、ミチルは親類たちに、自分はひとりで暮らすと言ったり、カズエに外出するのは怖いしみんなの迷惑になるから家にいると言ったりする。

一方アキヒロも一見するとひとりを望んだわけではないようにも思える。日本人と中国人とのハーフで、幼い頃は中国で育ったアキヒロは、印刷工場の同僚ともコミュニケーションがうまくいかない。だからアキヒロはひとりをえらんだわけではなく、仕方なくそうなったのだと思える。

しかし実際は、アキヒロは職場の同僚に幾度となく飲みに誘われたりしている。その度に、今夜はちょっと用事があるからと遠まわしに断るのはいいほうで、ときにはまるっきり無視するかのような態度をとることもある。

こうしてみると、ミチルもアキヒロも、一般的な人たちに比べればひとりになりがちな環境にあったが、そのような状況にあっての選択と行動は、ひとりという孤独へ向かうものであった。

これがミチルとアキヒロの共通点である。


■ 経験とイメージのデフレスパイラル

杖を使って外出すれば、慣れていないために他の通行人や車などに迷惑がかかる。自分の身も危険になる。実際に、ひとりで外出したときには、車のクラクションにさらされて身動きがとれなかったり、走ってきた自転車にぶつけられそうになったりした。だからひとりで外出しない。

会社の同僚と飲みに行っても、中国人とのハーフということでばかにされたりからかわれたりしそうだ。実際、高校時代に学校でうまくいかずに、問題を起こしてしまったこともあった。だから仕事場の同僚に飲みに誘われても断る。

どちらも、負の体験によって、正の未来をイメージしにくくなっている様子がうかがえる。

体格や体力の違いによって、同じスポーツをする場合でも他人と自分では条件が違う。Aくんは50メートルほどボールを蹴れたとしても、Bくんは10メートルしかボールを蹴れないことがある。

練習や体調によって飛距離は変わってくるものだが、ボールをうまく蹴れないはじめの頃に、蹴れない理由(体力がAくんより劣る、身長がAくんより低い等)だけを意識すると、練習をする気力をなくしてしまう。

実はこういうときこそチャンスなのだ。
Aくんと比較することでBくんは自分に必要なものや、自分に向いているものを探るチャンスができるからだ。

ボールの蹴り方を練習したり、ボールを蹴るよりも手でとる練習をしたりすることで、Bくんの得意なプレーがみつかるチャンスなのだ。

ミチルは目が見えないとは思えないほど上手に料理を作ることができる。
アキヒロは丁寧で真面目な仕事ぶりで、後輩の面倒を見る立場にもある。

良いところ、得意なところはたくさんある。それにもかかわらず、うまくボールが蹴れなかった(例)という負の経験が、今度もうまくボールが蹴れないだろうという負のイメージを抱かせ、ボールを蹴る練習をする意欲を無くさせてしまう。

こういった状態はだれにも起こりうることだ。経験とイメージのデフレスパイラルに陥ったときに、身近な人のサポートがあれば、そこから抜け出す事ができる。

ミチルにとっては父親。アキヒロにとっては電話で話す母親。
どちらも身近にいたが、いまは遠くにいる。

アキヒロはたまに電話ボックスで母親とおぼしき人と電話で話している。原作を読んでいないので詳細はわからないが、このシーンをみたとき、もしかしたら電話は繋がっていないのかもしれないとも思った。

ミチルが、亡くなった父親の部屋の机の引出しの中の点字カードを指先で読みながら涙するかのように、アキヒロは電話ボックスで遠くの母親と話す。たとえ電話が繋がっていなかったとしても、身近な理解者のサポートを必要としていることはひしひしと伝わってくる。


■似たもの同士

このようにみてくると、ミチルとアキヒロは似たもの同士だというのがよくわかる。境遇は違えども、ふたりには以上のような共通点がある。

そして最大の共通点は「ひとりという孤独」に慣れてしまっていることだ。

だれかと繋がっている気持ちがあれば、たとえひとりでいても、本人は孤独を感じない。ところがミチルもアキヒロも、ひとりで生きていくんだ! と気負い、ある時期からはひとりで生きてきた(と思っている)。

カズエはこんな意味のことを言う。

――わたし、ミチルにはかなわない。だって一日中家でなにもしないでいられるミチルはすごい。自分にはぜったいできないから。(セリフは正確ではありません)

ミチルは家でなにもしていないわけではないが、すくなくともカズエにはそうみえるのだ。

おそらくミチルは視力が弱くなってきたときから、やがてひとりで生きてかなくちゃならないんだという気持ちを持ちつづけてきたのだろう。

ひとりで生きていく強さを求めていたかもしれない。そして、強さをもたらすものが何なのかを知った。


■ 孤独という強さ

孤独は時に力になる。
なにかをしようとおもえば、ある程度の孤独は覚悟しなければならない。

たとえば大学受験で志望校に合格しようとすれば、友達と遊びにいく時間を減らして、ひとりで勉強する時間を増やさなければならない。

ひとりになる。孤独になる。これを上手にできないと、予備校に通って予備校生同士ワイワイやっているうちに受験日になり、結局志望校に合格できなかったということにもなりかねない。

予備校に通っていることと、勉強することは同じではない。ひとりでどれだけ充実した勉強ができるか。それが重要だ。

多くの人は、仲間と思える人たちと一緒にいることを望む。だれかと一緒にいればさびしくないし、安心だ。
だから人は、孤独が必要なときも、ついだれかと一緒にいることを望む。

みんなと一緒にいつづけるには、みんなと一緒であると思えなくてはならならいと感じる。ほんとうはみんなと同じである必要はないのだが、自分だけが他の人と違うことを「浮いている」と定義して恐れるようになる。

ひとりで生きていくと決めたアキヒロは、職場の同僚たちから「浮いている」と思われることをなんとも思っていない。孤独は強さを与えてくれるし、なにより孤独に慣れてしまった。

だからこそ、はじめのうちは同僚に飲みに誘われても、今夜はちょっと用事が、と一応理由をつけて断っていたのが、そのうちあからさまに聞こえないかのように無視するようになったのだ。

ミチルも孤独の力を知りつつも、それに慣れてしまった。だから親友カズエの、ひとりでも外出するようにという勧めを、理由をつけて断るのだ。


■ 分身

カズエはそんなミチルを一度突き放す。そんなカズエ冷たい人のようにも思えるが、親友だからこそ、ミチルをおもえばこその気持ちの表れなのだ。

実はカズエにとても似た役割を持つキャラクターがいる。それはアキヒロの職場の先輩・松永トシオだ。

アキヒロは松永トシオに職場でいやがらせを受けており、親友とは真逆なようにも思えるだろう。

しかし、物語における設定上の役割では、ミチルの親友カズエと同じ役割を持っている。

職場でアキヒロにいやがせをする松永トシオ。彼がアキヒロにこんな意味のことを言うシーンがある。

――おまえ、だれも信用していなんだろう? かわいそうな奴だな。(セリフは正確ではありません)

世の中には信用するには値しない人もいる。けれど、まずは自分がだれかに信用されるよう努める。そうそれば信用できる相手にめぐり会えるかもしれない。

松永トシオは同僚によく声をかけている。態度も大きく、他人からみれば印象がいいとはいえないが、他の同僚達にくらべれば年齢もかなり上であるから、自分から声をかけてコミュニケーションをとっている。

いつまでもこんなところでくすぶっていられないよな。といった意味のことを言って、今度海外で事業を興すという松永トシオは、具体的に事業をおこす準備をしているようにはみえず、その容姿の良さや、事業話で景気のよさそうなことを匂わせて幾人もの女性と付き合ったり別れたりを繰り返している。

そんな松永トシオは、アキヒロに自分の姿をみたのだ。
工場の職場は、本来自分がいる場所ではないと思い、いつか海外で事業を、と言ってみせるものの、ここから抜け出す一歩が踏み出せず、女遊びの日々。

それは電車のガード下の安酒場で一杯やりながら、会社の愚痴の合間に、いつかいざとなればデカイことをやってやるぞ、ともう何十年もいいつづけているかのようだ。

そんな自分と同じようなものを、同僚を避けるようにひとりの殻に閉じこもって外に一歩を踏み出そうとしな
いアキヒロに感じたのだ。だからアキヒロをみるとイライラした。まるで自分を見ているかのようであったから。

自分の分身かのようなアキヒロを無視することができなかった。だからアキヒロにいやがらせをした。

一方、カズエは大きな家に生まれ、自由奔放で活発な女の子だが、ひとつのことをやりつづける根気もなく、いっそ結婚しちゃえば楽よね~とも思っている。孤独と向き合ってこれを力として用い、有意義な人生を送ろうという一歩が踏み出せないでいる。

孤独の力を使いこなしているかのようなミチルに嫉妬さえおぼえるカズエは、ミチルに自分の姿をみたのだ。だからこそ、ひとりで外出する練習さえしようとしないミチルを何度も外へ連れ出してみたり、何度も外へ出る練習をするよう促したのだ。

ミチルは家にひとりでいる時間が多いからといって、他人とのコミュニケーションを拒んでいるわけではない。いやむしろコミュニケーションをとりたいと望んでいる。だからこそ杖を取ってひとりで外へ出てみたのだが、なかなかうまく歩けない。その体験から負のデフレスパイラルに陥ってますます外へ出たくない。それはそのままカズエの生き方にもあてはまるのだ。

だからこそカズエはミチルにひとりで外出するよう強く勧める。それをミチルが強く断った時、カズエは一度突き放す。なぜならミチルのことは他人事ではなく、自分の事でもあると感じているからだ。

カズエの突き放し方は他人からみるととても冷たいように見えるのだが、そこには他人事ではない深い思いがあ
るのである。


■ 言葉によらない関係づくり

手紙。はがき。電子メール。歌。

どれも言葉でできている。

言葉はいつも私達の生活の身近なものであり、ときに言葉に傷つけられ、ときに言葉に勇気づけられる。

しかし、小説という言葉で作り上げる作品において、言葉を使わないでふたりが関係を作り上げていくという設定を思いついた作家がいる。

乙一である。

言葉以外ならスポーツを通してだとか、なにかの活動を一緒に行うことで関係を作り上げていくことを思いつくのがふつうだ。

ところが乙一さんは同じ家の同じ屋根の下、全くの他人がひとことも言葉を交わすことなく暮らす状況を作った。
目の不自由が住む家に忍び込んで住み着く男。これだけ聞いたら、身も凍るホラーだ。

ところが乙一さんは、ひとりで生きてきた、似たもの同士のふたりを同じ家で無言で同居させることによってホラーな設定ながらも奇妙な心の交流物語をつくりだした。

まさに脱帽ものである。

人は愛する人を失ったとき涙する。それは、もう愛する人が作り出す空気を感じることができないからだ。

小説や映画でも基本は同じだ。物語の力を使って、いかに愛される「空気」を作り出せるか。

ひとことも言葉を交わさないミチルとアキヒロという状況設定によって「空気」を作り出した乙一さん。その設定を考え付いただけでもすごい。だが思いついたり、考えついたりするだけなら100人に1人ぐらいはけっこうするものだ。

乙一さんがすごいのは、それを物語にしたところだ。思いつく(考え付く)センスと柔軟な思考と、思いつきを形にする技術と勢い。このふたつが揃う人はめったにいない。


■ 恐怖

ミチルとアキヒロにかぎらず、カズエも松永トシオにも共通することがある。

それは「恐怖」だ。

なにに対する恐怖か。――変わることへの恐怖である。

他者とコミュニケーションしたい者たちが、自分の殻を打ち破って一歩踏み出すことへの恐怖。

これはだれにでも経験があることだろうし、だれにでも訪れるであろう感情でもある。

ホラーというジャンルほど人間の感情を描きやすいものはないともいわれる。私もそのとおりだと思う。

ホラーが描き出すもの、それは私たち人間のだれにもある感情だったり、社会の有り様だったりする。

だから私はホラー作品はけっこう好きだ。


■ 光

クライマックスで、ミチルが命の危険に晒されてピンチに陥ったときのこと。
ミチルの視界にボワァとひとすじの光が差し込む。それはわずかな間のわずかな光だが、ミチルが新たに手に入れようとしている未来への光を象徴しているかのようだ。


■ ひとこと

ミチル役の田中麗奈さんがとてもいい。作品の前半で、父親の葬儀にきた母親を自宅の窓から何度も呼ぶシーンがジーンとくる。

田舎の駅。家。工場。

どこにでもある3つの場所で、これほど奥深い作品が作れるとは、原作者の力量はホンモノだ(とかいいつつ原作は未読)。

作品のクライマックスでミチルが謎解きをしたシーンは金田一くんみたいだな、と思ったが、ミステリーの仕掛けだけで終わらせることなく、きちんと謎解きをしたところは好感が持てる(といっても謎解きは基本。だがそれさえしていない作品もある…それはこちら

また、登場人物たちに幸せが訪れたとは一概にいえないエンディングが絶妙だ。

アキヒロは殺人事件の容疑は晴れたが、だからといってヒーローになったわけでもない。むしろ、ますますよくない噂が広まってしまった。

ミチルにしても視力が回復したわけでもないし、すぐにひとりで外出できるようになったわけでもない。

それでも、ミチルとアキヒロはともに一歩を踏み出したのだ。一歩を踏み出す変化への恐怖をともに克服したのだ。

この先のふたりの歩みを知りたいと思わせる余韻を残したエンディングもなかなかうまい。

5分に一度派手なイベントが起こらないと退屈して寝てしまう人や、映画はなにも考えずにぼけぇ~と頭をカラにして笑って観れればいいという人にはまったく向かない。

観ているときも、観終わったあとも、深くいろいろと考えさせてくれる作品だ。

ファミリー -
デート   ○ラブストーリーでもある
フラっと  ◎予備知識なしで観たほうが意外にいいかも
脚本勉強 ◎原作者のセンスと技術はなかなか真似できないが参考に
演出    ○
リアル   △
人間ドラマ ◎
社会    ○
笑い    ―
俳優    ◎佐藤浩市の作業着姿は貴重

4344402146暗いところで待ち合わせ
乙一
幻冬舎 2002-04

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12/02/2006

映画「アジアンタムブルー」

監督:藤田明二
日本/2006年/110分
原作:大崎善生『アジアンタムブルー』

登場人物の心情を反映するカメラ・写真の使い方がいい。若手女優注目度NO.1の松下奈緒松の魅力を堪能し、さらなる可能性と将来を探って楽しむ作品。巷に美男美女のカップルが少ないのはなぜ?

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
編集者の隆二は親友の妻と不倫するなど、投げやりともみえる日々を送っていた。
そんなとき、仕事を通して知り合ったフォットグラファーの葉子と付き合うが、彼女は病に倒れる。葉子の短い余命を共に生きようと、ふたりはニースへ行く。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△山崎隆二
男性。雑誌編集者。

▽続木葉子
女性。フォットグラファー。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
登場人物の心情を反映するカメラ・写真の使い方がいい。若手女優注目度NO.1の松下奈緒松の魅力を堪能し、さらなる可能性と将来を探って楽しむ作品。巷に美男美女のカップルが少ないのはなぜ?

■ 美男美女のカップルが少ないのは

美男美女のラブストーリーって実はむずかしいんです。

ほら、アナタの知り合いのカップルでもいいし、街でみかけるカップルでもいいから思い出してみて。
いわゆる美男美女のカップルって意外と思いだせないものでしょう?

その理由のひとつは「人は自分が持っていないものをほしがる」から。裏をかえせば、人は自分が持っているものはほしくないんです。

だれからも「綺麗だね」と言われ続けてきたAさんにとって「綺麗」は当たり前のこと。なるべく清潔にするよう気づかうことはあったとしても、綺麗になろうと力を入れて努力するなんてことはほとんど必要ないわけです。なぜなら、綺麗は当たり前ですから。

Aさんがたとえ不潔していたとしても、不潔に見えない。不潔でも男ならワイルド系に、女ならカッコいい系だと言われて羨望の的になるんです。

そんなAさんが恋人に求めるものは、自分がもっていないもの。つまり「綺麗」以外のものというワケ。

だから「あんなイケメンに、あの娘ってなんで~??」とか「伊東美咲さんに似ているあの人が、なんで電車男を地でいくような男と??」なんて思ってしまうカップルが実際にいるんですね。

そういった、一見すると不釣合いなカップルというのは、人々の「そうあってほしい」という願望であると同時に「人はないものねだり」の理由によって、けっこうあるものなんですね。

「願望」と「現実」の距離が近く、よりリアルに感じられる「電車男」が人気だった理由はそこにあるのです。


■ 美男美女が付き合うきっかけ

さて「アジアンタムブルー」の課題は、美男美女が惹かれあうきっかけをどうするかです。

葉子は若い美女です。世の中の男は彼女をほおってはおきません。一般の人からは恵まれた条件が揃ったとみなされる葉子がなぜ、かなり年上のエロ雑誌の編集者に惹かれたのか。その疑問を解消してあげなくてはなりません。

そこで、葉子が幼いときに両親が離婚したという、一般的には不幸とみなされるバックグラウンドを持っています。

また、どんどん身長が伸びていったので、子供の頃は「大女」や「デカ女」などと言われて傷ついていたのかもしれません。

そんな葉子が感じている、現実の辛さや空白をよく表したセリフがあります。

「ほんとの世の中よりも、水に映った世界のほうがきれいでしょう?」

そういって葉子は水たまりの写真を撮りつづけます。

辛い現実に直面したとき、人はもうひとつの世界を作ります。それを願望や理想をして持ちつづけることで、逆境や苦境を生き抜こうとするのです。葉子の場合は水たまりの写真を撮りつづけることが、生き抜く手段であったわけです。

その後成長してからは「下心ある親切」には遭遇しても、ほんとうに親切にしてもらったのは隆二さんがはじめて、という葉子。

家庭の事情。身長コンプレックス。かなり年上のエロ雑誌の編集者。これら「隆二に惹かれるための環境づくり」は平均点といったところでしょう。

一方、隆二は親友の妻と不倫しています。エロ雑誌の編集者をしていながら、いま一歩割り切れない。かといって自分の道を切り開いていこうという気迫はない。不倫は別にしても、まぁいわゆるどこにでもいる普通の人です。

どこか人生をあきらめたような無気力系の隆二。そんな彼の生き方になにか理由があるのではないかと探りたくなる人もいるでしょうけれど、容姿にめぐまれた隆二みたいな男性は、そもそも自分が恵まれていることを認識しずらいのです。

テレビのリモコン(松たか子の家庭ではズバコンというらしい)がなくなったら、たいへん不便だと感じるでしょう。人は、失ってはじめてそのありがたみを実感します。

とはいっても、ある程度の経験を積んで人生を歩んでくれば自分が一般と比べてどのような境遇にあるのかはある程度わかるようになります。

隆二もそれはわかっています。でも、他人からみてどんなに恵まれていると思われたとしても、本人にとって大事なものが手に入らなければ恵まれているとは感じられません。

目の前にあるのに、けっして手に入れられない、手の届かない幸せ。

親友。最愛の人。不倫。そんな日々に疲労感が募る隆二。

葉子に癒しを求めた隆二は、いつしか彼女をかけがえのない存在と思うようになります。

隆二が「葉子に惹かれるための環境づくり」も平均点といったところでしょう。

このように葉子には他人と関わりたいという欲求があり、隆二には癒されたいという欲求があるのです。

これが美男美女が付き合うきっかけですね。


■ カメラと写真

水たまりの写真を撮りつづける葉子。それは生き抜く手段であって目的ではありません。

なぜなら、葉子は急遽入ったエロ雑誌の撮影の仕事を喜んで引き受けるからです。

その前にも、はじめてエロ雑誌の撮影現場に見学に行ったとき、自分から写真を撮らせてもらってもいいかと隆二に許可を求めています。

このことから、葉子は水たまりしか撮らないポリシーを持った個性的な作家という地位を求めてはいことがわかります。

はじめて隆二と会って仕事の話をしたとき、葉子は自分の名刺を作っていませんでした。また、写真でお金を稼いだことはありません、とはっきり隆二伝えます。

もちろん、写真の仕事をしたいという願いはあるのだけれど、水溜りの写真を撮ることが目的ではなく、写真という手段で他人と関わりたい、コミュニケーションを図りたいという願いが基本にあるのです。

隆二と付き合い始めた葉子はひとりで地方(松本)へ写真を撮りにでかけたりして写真を撮ることを続けていました。けれど余命1ヶ月とわかってニースにやってきたときは自分のカメラを持ってきていませんでした。

なぜなら、他人とコミュニケーションを持ち、関係を作り上げていくきっかけ・手段として機能したカメラは、隆二という家族を得た葉子にはもう必要ないものだったからです。


■ カメラを手にするのが誰か注目しよう

やがてふたりがニースにやってきたとき、市場で隆二がカメラを手に入れます。ここで注目すべきところは2点です。

ひとつは、ニースでカメラを手にするのは葉子ではなく隆二であること。
なぜなら、葉子は写真を撮るという手段でコミュニケーションを図り、家族を手に入れたのでもうカメラを手にすることはないからです。

ふたつめは、被写体は水たまりではなく人間であること。
「ほんとの世の中よりも、水に映った世界のほうがきれいでしょう?」 と言っていた葉子だけれども、隆二と出会ってからは、水に映った世界よりも隆二がいるほんとうの世の中を精一杯生きるようになったから、もうカメラを手にせずに、水たまりも撮らないのです。


■ 水たまり以外のものを撮るターニングポイント

葉子が水溜り以外のものを撮るようになった瞬間があります。それはひとりで松本に写真を撮りに出かけたときのこと。雨宿りをした軒先に鳥の巣をみつけます。鳥に詳しい隆二を思いながら、鳥の巣とそこにいる鳥たちをファインダーに収めたとき、葉子の身体に痛みがはしり、倒れます。

水たまりに映る世界から「鳥=隆二のいる世界」への転換点で病に倒れる葉子。ここが「病気」と「気持ちのシフト」両方のターニングポイントです。

さて、ニースに来た葉子は、自分が病だとわかったとき、これで隆二さんと一緒にいられると思って喜んだ、という意味のことを隆二に言います。

ということは、病だとわかる前、松本にひとり旅に行った時点ではまだ心のどこかで隆二が去っていってしまうのではないかという不安を持っていたのですね。

だから松本では水たまりの写真も撮っていた。でも隆二への想いがあり、隆二が詳しい鳥をファインダーに収めたのです。


■ 撮る撮られるから、被写体へ

ニースにやってきた隆二と葉子。海が見渡せるベンチに座ったふたりの写真を撮るシーンがあります。

カメラを三脚にセットするのは隆二です。被写体は隆二と葉子のふたり。シャッターはタイマーで切れます。

撮る側と撮られる側の関係ではなく、同じファインダーに収まる関係へ。

関係をつくるために機能したカメラから、関係の瞬間を記録するために機能するカメラへ。

実は、この様子はふたりがはじめて出会うシーンに暗示されています。

葉子が水溜りにカメラを構えシャッターを切る瞬間に、その水溜りを踏んでいく隆二の靴がファインダー内に入ります。その瞬間にパシャリ。

水に「映った世界=内的世界」にいた葉子。その象徴だった水たまりを踏んで葉子の世界に入ってきた隆二。そこに「人との関係=外的世界」のきっかけを得た葉子は、やがて隆二という家族を得ます。

ほかにもこんなシーンがあります。葉子がはじえめて隆二の写真を撮った時のこと。
隆二の背中と水たまりが一緒に映った写真。まだこのときは付き合っていないので、水たまりという葉子の世界に、隆二の後姿が入ってきた状態でした。あくまで水たまりと一緒に映っている隆二。葉子の世界に隆二が入ってきたことを示しているというわけです。

ところがふたりが付き合いはじめ、葉子が病に倒れ、ニースにやってふたりで映った写真もまた後姿(横顔)です。

ほら、あなたが旅行先で写真を撮るとき、たいていは景色を背景にカメラのほうを向くでしょう? それは、カメラの向こう側に、後にこの写真を見るであろう自分や家族や友人や知人を意識しているからです。

でも隆二と葉子はカメラに背を向けてベンチに座っています。

自分がその写真を見ることがないとがわかっていて、見せる相手もこの世にもいないことをふたりは、特に葉子はわかっているから……。でもこの海の先にあるものの方向へ向いているふたりの、ニースの海が見えるベンチのショットは、海外、海、後姿というちょっとオシャレな感じも手伝って、象徴的なものとなっています。


■ 松下奈緒

隆二役の阿部寛さんと葉子役の松下奈緒さんは、ふたりとも日本人にしては背が高いんです。

日本の町をふたりが並んで歩くシーンでは、あたまひとつ飛び出た巨人がいるかのような、ちょっと不思議な映像になっています。

ドラマ「結婚できない男」が阿部寛さんのためにあった作品というならば、映画「アジアンタムブルー」は松下奈緒さんのためにある作品といえるでしょう。

松下奈緒さんはTVドラマ「タイヨウのうた」や「恋に落ちたら~僕の成功の秘密」や「人間の証明」に出演した女優さんで、3歳からピアノをはじめた現役の音大生でもあり、作曲家・ピアニストとしてもデビューしました。

若手女優さんのなかで、松下奈緒さんはズバ抜けています。ちょっとカワイイ、ちょっと綺麗というのではなく、明らかに「素材」が他と違います。

よく100年に一度の逸材といいます。けれど100年なんて大袈裟で、かえって薄っぺらく聞こえます。ほんとうの逸材をあらわすには、リアルに思える数字が威力を発揮します。

リアルな数字とは具体的には「20年にひとりの逸材」というものです。

松下奈緒さんはまさに20年にひとりの逸材です。皆さんも彼女のオーラをひしひしと感じるからこそ、ドラマにCMに作曲に映画に活躍の場がどんどん広がっているのですね。

松下奈緒さんがどのくらいオーラを持っているか。ドラマ「タイヨウのうた」で、いまや飛ぶ鳥を落す勢いのある沢尻エリカさんと共演したときのことです。

ふたりの共演シーンでは、あの沢尻エリカさんが、コンビニに買物に来たジャージ姿のヤンキーおネェちゃんに見えてしまったほどです。ふたりの共演シーンが少なかったのが沢尻エリカさんにとっては幸いでしたね。

つまり、松下奈緒さんが画面に現れると、空気が変わるのです。

「隆ちゃん、松本は田舎じゃないよ」といったような意味のセリフを葉子がいうシーンがあります。このシーンはけっこうシリアスなところなのですが、あえて葉子はこんなことを言って場を和ませたのか、単に天然なのか。
そんな葉子のキャラクターをわずかひとことのセリフで表現することができる松下奈緒さんは、もしかしたらバラエティにも向いているかのかもしれませんね(バラエティ番組「ぷっすま」にゲスト出演していましたネ)。

そんなふうに松下奈緒さんの今後の活躍の場を想像したり、今度はあんな役を演じてみたらいいかもと思ってみたり、といったことができるんですね。

「アジアンタムブルー」は物語を楽しむというより、松下奈緒さんの魅力を堪能し、さらなる可能性と将来を探って楽しむ、そんな作品です。


■ ひとこと

葉子は病気によって信じられないほど痩せていくという設定です。病気が進行してから葉子が服を脱ぐシーンがあります(背中が見えるぐらいですが)。

いやはや、スレンダーというか、ほんとうに痩せていますね。生で見て痩せている人でも、テレビや映画に登場するとちょっとふくよかに見えるといいます。だから、女優さんのなかにはなるべく痩せるようにしている人もいるそうです。

そうすると、松下奈緒さんはスクリーンで観ても、超スレンダーなのですから、実際ははたしてどのくらい痩せているのかと思ってしまいます。

今が旬の昇り調子の若手女優といえば沢尻エリカさんや長澤まさみさんだといわれていますが、松下奈緒の注目度はとても高く、まだまだ未知数の部分も多く、今後の成長が大いに期待されます。

松下奈緒さんにも阿部寛さんにも興味がないという人は、まちがっても観に行ってはいけません。途中で寝てしまうでしょうから。

キャラクターの心情を表すアイテムとしてのカメラ・写真の使い方はいいですね。

カメラ・写真が好きで、主演ふたりに興味ある方にオススメです。

ファミリー -
デート   ○
フラっと  △
脚本勉強 -
演出    ○ 写真の使い方が秀逸
リアル   -
人間ドラマ △
社会    -
笑い    -  
映像    -
俳優    ◎

4048734105アジアンタムブルー
大崎 善生
角川書店 2002-09

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11/23/2006

「交渉人 真下正義」水戸黄門とニンジンとポイでヒットを狙う方法

「交渉人 真下正義」(本広克行監督 2005年 日本 128分)

テレビで放映され、録画しておいた「交渉人 真下正義」(本広克行監督 2005年 日本 128分)を観た。

この作品は「踊る大捜査線」シリーズのキャラクターのひとりを主人公としたスピンオフ作品だ。

ちなみにスピンオフ作品とは、元になる作品があって、その作品の脇役を主人公としたものをいう。

というわけで「踊る大捜査線」シリーズでお馴染みの室井管理官や雪乃も登場する。しかし今回の主人公は真下正義だ。

「踊る大捜査線」シリーズの主人公・青島とは正反対ともいえる、一見すると控えめな真下を演じたユースケ・サンタマリア。

彼は真下役で注目され、いまやドラマにバラエティに活躍する売れっ子だ。

『踊る大捜査線』シリーズで出世したユースケ・サンタマリア演じる真下が、同じく作品内のキャラクターとして出世して(設定ではたしかキャリアだから出世するのはあたりまえ)活躍する姿を見たいという欲求を刺激するというのがこの作品の唯一といっていいアピールポイントだ。

さて、私は「踊る大捜査線」シリーズは、ドラマを観て、映画は1本観たかな、という程度でよく覚えていない。覚えていない、というか覚えていられないというか、つまりそれがこのシリーズの特徴である。

以前にも話したと思うが「踊る大捜査線」シリーズをひとことで言ってしまうと「演歌」だからだ。

仕事を通してわかりあえる男達。平(ヒラ)だけどみんなでがんばっていこう。といった、日本で生まれ育った人々の「ツボ」を刺激しつづけることに特化したこのシリーズは「演歌でワッショイ」な目的を達成したという意味では成功した。

ツボにはまった観客たちがいることでドラマ→映画とシリーズ化させることができたのだから。


さて、シリーズ化の利点と特徴といえば、ズバリ「キャラクター」である。

青島、室井、真下。

これらの名前を見聞きしただけで、彼らがどんなときにどんな顔をして、どんな行動をとるのかが観客の頭の中ではっきりイメージできるようになると、キャラクターは「ひとり歩き」をはじめる。

「キャラクターが確立されれば物語は勝手に動き出す」

たしかにそのとおりだ。キャラクターさえしっかり確立されていれば、とりあえず物語は動き出す。

車の運転に例えるならば、運転の仕方を知っていれば、とりあえずだれでも車を動かせる。

しかし、運転技術がなければ、急ハンドルや急ブレーキによって乗り心地が悪くなってしまう。

また、田舎の、広くて空いている道を走るだけならよくても、都会の、狭く混んでいる道を走るにはそれなりの運転技術が必要だ。

物語作りにおいても似たようなことがいえる。

観客にカタルシスを与えるには、キャラクターを確立させるだけで終わってはいけないのである。

残念ながら「交渉人 真下正義」は、確立されたキャラクターを使って、シリーズの焼き直しをしたに過ぎない作品だ。

またしても金太郎飴である。どこを切っても断面には金太郎の顔があらわれる。同じように「交渉人 真下正義」のどこを切っても「踊る大捜査線」シリーズが現れる。

オチの決まっている「水戸黄門」みたいなものだ。

だからダメかというと、水戸黄門にも需要があるので、そういった意味ではいいのではないかと思う。

しかし、物語づくりという面では……演歌だからそのあたりの意識は低いのかもしれない……。

では、どこにそれが顕著に表れているか?

それは、犯人が誰かわからないだけでなく、その動機もわからないところである。

映画公開当時に噂ではきいていたのだが、まさかほんとうに犯人がわからないまま終わってしまうとは思わなかった。

犯人がはっきり判明しないまでも、観客には目星がつくようにして、余韻を残す方法を選択たのだろうと想像していたのだが……。蓋を開けてみたら……。

蓋を開けなきゃよかった。と思われても致し方ない。

普通は、犯人についての手がかりを、はじめは観客に気付かれないようにさりげなく散りばめておく。それは、中盤に動きがあったとき、なるほどアレは手がかりだったのか、と思えるようなものだ。

中盤を過ぎると犯人はだれの目のも明らかになり、あとは主人公と犯人との攻防を楽しむ。

または犯人候補を数人に絞ったまま、終盤まで犯人がわからないようにしながら盛り上げる。

このような流れを作るのが普通だ。

しかし「交渉人 真下正義」では手がかりを全く散りばめていない。これは、はじめから犯人がだれかを明らかにしようとしていないことを意味する。

ちなみに終盤に、真下が音楽会に出席するために持っているチケットの番号を犯人が言い当てるシーンがある。これが犯人をつきとめる重要な手がかりではないか? ということは犯人は真下の近いところにいる! などと推理した方もいたと思うが、そんなことをしても意味ないじゃーん、である。

なぜなら、作り手はこれを犯人判明の手がかりにしようなんぞ、これっぽちも考えていないのだから。それはラストで犯人が乗っているかもしれないとされる車がどうなったか観れば一目瞭然である。

おそらく、犯人はだれか? を観客の興味をある程度つなぎとめておくオマケぐらいにしか考えておらずに、真下をはじめとするお馴染みのキャラクターを使って、いつもの方法でいつものようにひとつ作っちゃおうよ。ってなノリだったのだろう。

そもそも、犯人はだれか? という要素が少しでも入っている作品は、たとえそれが推理作品でなくても、観客の興味をつなぎとめておく「旨味」の効果の見返りに、ラストにはきちんと観客に謎解きを提供しなければならない。

それが物語作りの基本以前に、観客への最低限の礼儀である。

例えはよくないかもしれないが、目の前にニンジンをぶら下げて延々と走らせ終えた馬に、目の前のご褒美をあげずに放っておいたらどうだろう?

翌日にまた目の前にニンジンをぶら下げて走らせようとしても……馬はかなり賢いゾ。

犯人の手がかりを提示せずに「交渉人 真下正義」が走りはじめたとき、もしや? とイヤな予感がしたのだが、まさかラストで犯人のものとされる車をあのような形で消し去ってしまうとは!

用済みはポイしちゃえ、といわんばかりだ。もぅ笑うしかない。

ほかにも、肝心のキャラクターの用い方もありきたりだ。

まずは地下鉄広報の男性職員だ。普通ならばこの広報職員が犯人だったというのが定石かなと思う。だが、彼には地下鉄のしくみを説明するだけの役割しか与えられいない。

ほかにも、頑固者の地下鉄司令室の責任者や、頑固者っぽいが人情味溢れる線引き屋や、口は悪いがいい奴の木島や、ただ待ちつづけるだけの女性・雪乃が登場する。

どれにも、ひとつの役割しか与えられていない。

キャラクターに深みを持たせるには、一見すると相反する要素を組み合わせる必要がある。それは、頑固者の地下鉄司令室の責任者がクリスマスイヴの音楽会に母親と待ち合わせているといったような、チョイチョイと片手間でできるようなものではない。

普通だったらこのような作品に客が付くなんてことはありえない。だがそもそも「踊る大捜査線」シリーズのスピンオフ作品であるから、ファンは付いている。演歌という需要もある。

作り手も「演歌でヒット」しか頭にないようなので、観客もそれは承知済みでしょ、といったところか。

だとしても「ニンジンぶら下げておいて、用済みはポイ」はどうなんだ……?

ん? いやちょっとまてよ。

「交渉人 真下正義」を、いや「踊る大捜査線」シリーズを、映画として捉えるからいけないのだ。

あくまで「水戸黄門」と捉えるのが正解だ。

演歌も水戸黄門も需要はあるのだから、あとはその需要を拡大すればヒットさせることができる。「交渉人 真下正義」(「踊る大捜査線」シリーズ)はまさにそんなかんじである。

好きなアイドルのイメージビデオを見る(観るではない)かのような、お気に入りのタレントが映っていればそれでOK、またはお約束の展開と雰囲気を味わえればそれでOK、という性質の映像作品といったところである。

B000B5M7T6交渉人 真下正義 スタンダード・エディション
ユースケ・サンタマリア 本広克行 寺島進
ポニーキャニオン 2005-12-17

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11/04/2006

映画「DEATH NOTE デスノート the Last name」

監督:金子修介
日本/2006年/140分
原作:大場つぐみ 作画:小畑健 『DEATH NOTE』

Lの成長と、父子の愛と、究極の愛・自己犠牲の物語。コンソメ味のポテトチップには意味が2つある。重要なのは2つめの意味。ヒントは甘~いお菓子にアリ。変化したLの目的とは? 原作はいいのだろう。だが監督は単に「萌え」なシーンが撮りたかっただけと思われてもいたしかたない。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
デスノートを手にしたライトは、恋人の死をきっかけにキラ事件捜査本部に乗り込む。
すでに捜査本部入りしていた名探偵Lはライトを受け入れつつ、キラとの頭脳戦を繰り広げる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△夜神月(やがみライト)/キラ
男性。大学生。デスノートを拾う。

△L/竜崎
男性。キラを追い詰める名探偵。

△夜神総一郎
男性。キラ事件捜査本部長。夜神月の父親。

▽弥海砂(あまねミサ)/第2のキラ
女性。アイドル。

▽高田清美/第3のキラ
女性。さくらテレビ局報道アンカーウーマン

▲リューク
死神

▲レム
死神


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
Lの成長と、父子の愛と、究極の愛・自己犠牲の物語。コンソメ味のポテトチップには意味が2つある。重要なのは2つめの意味。ヒントは甘~いお菓子にアリ。変化したLの目的とは? 原作はいいのだろう。だが監督は単に「萌え」なシーンが撮りたかっただけと思われてもいたしかたない。

■ はじめに

前編のレビューでも書いたが、私は原作を読んでいない。そのため、映画作品としてレビューする。また、少しネタバレもある(結末が予測できそうな文が一部あるといった程度だが)。以上2点をご了承いただきます。

映画「DEATH NOTE デスノート 前編」作品レビュー

↑レビューをサッと読み返してみると、これを数日前に書いた時点では、夜神月(ライト)を主人公として、これにいかに感情移入できるか? を中心に考察していたのがわかる。しかしこの時点で私は「デスノート」シリーズのより魅力的な「みかた」を見つけられないでいたこともわかる。

これが映画制作側による「映画のみかた」の発見を楽しんでもらうための意図した仕掛けだとしたらあっぱれだが、おそらく原作にその要素が入っていたに過ぎないのではないか。

まずは「より魅力的なみかた」とはなんなのかをご説明しよう。


■ 父と息子の物語

古今東西、あらゆる物語によく登場するのは「父と息子」のテーマだ。オイディプス王からスターウォーズシリーズ、その他多くの物語において「父と息子」は重要なキーワードとして登場する。

L(竜崎)は親というものを知らないという。執事のような役割をしているワタリという年配の男性といつも一緒にいる。Lの身の上は明らかにされないので、おそらくLはワタリを家族のように大事に思いながら、ふたりで生活してきたのだろう。

では、ワタリはLにとっての父親か?
いやそうではない。あくまでLはワタリの家族のように思っていたということであり、そもそもLは親を知らず、家族がどんなのかも知らないのだから、父親がどんなものかもわからずにいた。

そんななか、キラ事件によってLが出会ったのが捜査本部長の夜神総一郎だ。

Lの年齢はわからないが、おそらく彼の父親ぐらいの年齢であろう夜神総一郎は、はじめはLの捜査方法に己の信念と相容れないものを感じながらも、捜査のために彼の力を借りることにした。

だが前編において、やがて捜査が行き詰まり、捜査本部とLの間の信頼関係が崩壊しそうになる。それはLがパソコンを通じて語るだけで、皆の前に姿を現していないからという理由によるものだ。

そこでLは捜査本部員たちと顔を合わせる。これがLと夜神総一郎の初顔合わせだ。

メール → 出会い

なんだか出会い系みたいな流れがイマドキっぽいゾ。


■ きっかけは毛布

前編の内容を思い出してみよう。

Lの捜査と推理によってキラの可能性が最も高い者として浮上したのが夜神月(ライト)だ。そこで彼の家での生活を徹底的に監視することにする。こうして他の捜査員からみれば執拗と思えるほどにLはライトに注目する。

それはなぜか?

もちろんLの推理によるとライトが最もキラの可能性が高いからだ。だがそれだけではない。なぜなら、ライトの父親が夜神総一郎だからだ。

夜神総一郎は自分の息子がキラではないと信じて、自分の家のいたるところに隠しカメラとマイクを仕掛けることを了承する。

父親が子を信じる姿にいくばくかの嫉妬に似た感情を感じていたことも、執拗と思えるほどにLがライトを監視する理由の一部になっていたと思う。

そして寝る間も惜しんで監視モニターに食い入るように見入るLがふと眠りに落ちたとき、それに気づいた夜神総一郎はそっとLの肩に毛布をかけてあげるのだ。

息子(ライト)を信じている父親は、息子を追い詰めようとしている相手(L)にさえ、そっと毛布をかける。

それができるのも、夜神総一郎はライトのことを信用しているからだ。

繰り返しになるが、他の捜査員からみれば執拗と思えるほどにライトに注目する。それはなぜか?

ライトが最もキラの可能性が高いからという理由に加え、はじめは夜神総一郎とライトの親子の愛に嫉妬していたのかもしれない。

Lは類まれなる分析・推理能力と世界の捜査員を動かせる力も持っている。おそらくLは、ライトも自分と同じくらいの能力があると評価しているはずだ。しかしライトが持ってい自分が持っていないものがある。それは親子の愛だ。

はじめは心の片隅にあった、親子愛への欲求と嫉妬。
しかし、毛布をかけてもらったことをきっかけに、父親の息子(ライト)への深い愛に触れたLに、変化が訪れるのだ。


■ Lの変化

Lはいつもお菓子を食べている。他の捜査員にはお菓子を分けることはせず、ひたすらひとりで食べている。しかし、一度だけLはケーキの串刺しを人に差し出したことある。

その相手は夜神総一郎だ。ケーキの串刺しを受け取った夜神総一郎は甘いものが苦手なのか、それを部下の捜査員にあげてしまう。なにはともあれ、串刺しケーキの贈呈が、Lの変化の兆しである。

次に最も重要なLの変化を紹介しよう。
前編のクライマックス。Lは部屋を出て、事件が起きた美術館に姿を現す。いつも自分が食べている甘~いお菓子ではなく、コンソメ味のポテトチップをかじりながら。

Lとライトの初対面のシーンである。
これが映画「デスノート」シリーズ(といっても前編・後編のみだが)で最も重要なシーンだ。すべてはこのシーンのためにあるといってもいい。コンソメ味のポテトチップには意味が2つある。その前にLの行動について考えてみよう。

Lはこれまで自分の家や部屋から出ることはなかったはずだ。世界中の捜査員を使って情報を集め、それを元に分析・推理して世界中の難事件を解決してきたLは、これまでは部屋の外に出る必要がなかったし、本人も外出は苦手なようで、おそらくほとんど外出することはなかったのではないか。

仮にLを「ひきこもり」としてみよう。

外出。ひきこもりにとってこれが意味することとは?

ひきこもりなんて遠い見知らぬ他人の問題、というわけでもない。仮に、ここにAさんがいたとしよう。Aさんの1週間はざっとこんなかんじだ。

日曜は、昼はパチンコ。夜は友人と行きつけの飲み屋で一杯。
月曜~金曜は、昼は会社に出勤。夜はたまに同僚と会社近くの飲み屋で一杯。
土曜は、昼は近所の打ちっぱなしのゴルフ練習場へ。夜は家で晩酌。

こんな1週間が1年、3年、5年、10年と続く。
決まった場所と自宅を行き来する毎日。同じ点を結んだ線をグルグル。
給料は月給30万円。

ある、ひきこもりとされるBさんは、自宅と近所のコンビニ数軒を行き来する毎日。3ヶ月に一度は大好きな沖縄にスクーバダイビングに行く。同じ点を結んだ線をグルグル。稼ぎはネットビジネスと株で月平均300万円

さて「同じ点を結んだ線をグルグル」ということでは、どちらが「ひきこもり」だろうか。

Lが部屋を出て美術館に姿を現したのは「同じ点を結んだ線をグルグル」の外へ出たことを意味する。

Aさんは自分の1週間の枠外に出なくても、だれにも文句をいわれることはない。だれもAさんをひきこもりとはいわないし、少しは外の空気を吸って他の世界を見ること必要よ、なんてことも言われることはない。

Lも世界中の難事件を解決しているのだから、だれも彼に甘いものを控えて外に出て運動しなさいとはいわない。
それにもかかわらず、Lはいつも自分が食べている甘~いお菓子を持たずに、コンソメ味のポテトチップスを持って「外」へ出たのだ。

さきほど、コンソメ味のポテトチップには意味が2つあると書いた。ひとつめの意味はだれにでもすぐわかるであろう。そう「君のトリックに使われた物がコンソメ味のポテトシップスだということはわかっているぞ」というLからライトへの暗黙のメッセージだ。

まぁあれだけバレバレの使い方をしているだから、Lでなくてもすぐにわかる。だからコンソメ味のポテトチップスのひとつめにはたいした意味はない。あるとすれば、ふたつめの意味を御膳たてするスターターのようなものである。

まさに前編の最後に、Lが変化したことを表して、後編への期待感を膨らませる、そんな重要な役割を担っているのがコンソメ味のポテトチップスのふたつめの意味と役割のうちの前半分なのである。

Lとライトの初対面のシーン。そこには親子愛に触れたことによるLの変化が顕著に表れているのである。

それで、肝心の、コンソメ味のポテトチップスのふたつめの意味の後ろ半分の役割とは?
その前に、なぜLはいつもお菓子を食べているのかを考えてみよう。


■ 甘~いお菓子の意味

Lはメッチャ甘いお菓子をいつも食べている。ケーキの串刺しを甘いタレに漬けてベロベロ。砂糖がいっぱい入った紅茶をズルズル。

甘いものという嗜好品に象徴されるものは何だろう。
心理学的にいうなら、それには意味があり、それにはなにかしらの症状名があるのではないか。

皆から愛されるスーパースターだが、タバコがやめられない(http://fm7.biz/8tr)アルコールを絶てない、といった話はどこかできいたことがあるだろう。

偏愛・嗜好に裏には、満たされぬ欲望と不安があるのだと思う。

Lの場合は親・家族の愛情を知りたいと願い、欲している。その表れが甘いお菓子という記号で表されていたと見てとれる。


■ キャラクターが活きるとは? 

Lが外出するようになった。これがどれだけ重要か。

第2のキラは顔を見ただけで死に至らしめることができるとわかっているにもかかわらず、Lはライトが通っている大学に姿を現す。

もちろん、顔が見られないよう万全の対策で(笑)。

Lが大学にやってくる。このシーンが一番おもしろかった。私にとっては。

たか的に楽しめたのは、キャラクター作りの効用だ。
よく、キャラクターがしっかり構築されていれば、彼らは勝手にしゃべって勝手に動き出すと言われる。

こんなときあのキャラクターだったらこんなリアクションをとるにちがいないと観客(読者)がイメージできたとき、キャラクターが一人歩きを始めたといっていい。

そうなれば、あとは物語の筋を大まかに決めるだけで、ある程度物語が進んでいく。

そんな様子を楽しめるがのが、Lが大学に現れるシーンだ。

万が一にも第二のキラに顔を見られないよう「万全の対策」をとったL。ネタバレはなるべくしない方針なので「万全の対策」と表現しているが、そこには「笑い」がある。

この「万全の対策」効果によって、劇場は笑いに包まれ、一番盛り上がった。

さて大学にやってきたLはいつものキャンディーを持っている。外に出るようになってまだ日が浅いLにとって、人が多い大学に行くというのはかなりのストレスだったにちがいない。いつもの甘いお菓子・キャンディーは、小さな子供がぬいぐるみを持つかのように、Lの緊張を和らげるお守りの効果があるに違いない。

そしてライトとのキャラクターの対比で、キャンディーを持ったLの「万全の対策」の効果が増幅され、結果として劇場は大爆笑に近い状況になった。

この「笑い」はキャラクターが活きた瞬間を象徴している。

そしてここに、コンソメ味のポテトチップスのふたつめの意味と役割が明らかになった。

外出が苦手なLが、お守り代わりにお菓子を持っているとするならば、前編の最後に家を出て美術館に現れたLは、できることならいつものキャンディーを持ちたいはずだ。

しかしお守りともいえるキャンディーを持たずに、コンソメ味のポテトチップスを持った。そこにLの決心の大きさと変化が集約されているのだ。


■ デスノートの正しいみかた

正しいみかたといっても、映画はそれを観た人の数だけ物語があるのだが、より楽しめるみかたというのがある。
結論からいうと「デスノート」は「Lの物語」だ。

ライトを中心として、ライトの視点に立って物語が進行するように見せておきながら、実は原作者が描きたいのはLにちがいない。

だからこそ、一見すると主人公だと思えるライトの、キラとしての行動に駆り立てる事情が描かれていないのだ。

ここで、物語に登場する悪者の、一般的な描かれ方を思い出してみよう。

悪者は悪者として描かれる。もし、悪者の事情を描けば、善と悪という強力な構図を崩しかねない。そのため、必要なキャラクターとして悪者が登場する際には、悪役に同情しそうなエピソードや事情はあえて描かないのだ。

映画「デスノート」では、はじめはライトの視点で物語が進行する。そのため、観客はライトを主人公として捉え、彼に感情移入するための「事情」を知ろうとする。まさに私が前編で試みたように。しかしライトの「事情」は描かれない。

第二のキラことミサの事情(バックグラウンド)は提示されるのに、第一のキラことライトの事情(バックグランド)は提示されないのは意味がある。

つまり、ミスリーディング、いわば「引っ掛け」である。作品のエンドクレジットでもたしかライト役の藤原竜也さんが一番はじめにクレジットされるので、当然のようにライトが主人公だと思う。たしかしライトは主人公ではあるのだが、おそらく原作者が描きたいことを担っているのは松山ケンイチさん演じるLである。

ほんとうの主人公はLである。
原作はどうだかわからないが、Lの心情を彼の内語に頼らずに、あくまでキラとの攻防を通して、内面の成長を行動(アクション・美術館へいく・大学へいく)を通して描いているのである。

Lの成長とはなにか?

それこそ、冒頭にいうとおり「父親との遭遇」による変化である。


■ 変化するLの目的

ほんとうの親子ではないが、Lは夜神総一郎を父親とみるようになっていた。それは最後のLの決断によってわかる。

夜神総一郎の父親としての深い愛を垣間見たとき、Lは彼を助けよと決心する。夜神総一郎を助けるとはすなわち、彼の息子であるライトを救うことでもある。

だからある時期からLの目的は変化する。キラ事件を解決することから、夜神親(父)子を救うことに変化するのだ。

親というものを知りません。といった意味のことをLがいうシーンがある。Lは自分に親(父)の愛を教えてくれた夜神親(父)子を救いたいと思っていた。そのために自分の……。

これこそ究極の愛の形である。

これは、死神レムとミサの関係にもみることができる。いつもそばにいて見守っている者。それがたとえ死神でも、そこに自己犠牲の愛がある。

死神の自己犠牲の愛さえも予測して利用するライトも、さすがにLの愛は予測できなかった。

「デスノート」は親子の愛の物語である。


■ 「特殊能力と頭脳戦」の百貨店といえば

「特殊能力と頭脳戦」でいうなら、荒木飛呂彦氏の漫画「ジョジョの奇妙な冒険」というスゴい作品があるので、それと比べてしまうと不利かなと思う。

「ジョジョの奇妙な冒険」パート1、パート2に登場した特殊能力「波紋」は衝撃的であった。その後パート3で、波紋は「幽波紋(スタンド)」となった。

スタンド能力者たちの戦いは、どんでんかえしの連続であり「特殊能力と頭脳戦」の百貨店だ。

「ジョジョの奇妙な冒険」と「デスノート」には共通点がある。

○ジョナサン・ジョースターとDIOの対決。ジョースター家とDIO。特殊能力「波紋」「幽波紋(スタンド)」

○夜神月とLの対決。夜神家とL。特殊能力「デスノート」

「特殊能力と頭脳戦」が好みの方は「ジョジョの奇妙な冒険」を読んでみてはいかがだろう。私のおススメはパート1、2,3、それにパート5だ。


■ ひとこと

監督よ、アンカーウーマン高田清美役の片瀬片瀬那奈さんのセクシーショットの演出に、やたらと力を入れていないかぁい?

高田清美のセクシーショットには物語構築上の意味はない。そもそも自宅の部屋であんな格好をしている人はまずいないので、ただのサービスショットか、単に監督の趣味・好みだろう。

ミサ役の戸田恵梨香さんや、高田清美のライバルのキャスター役の上原さくらさんのシーンも足を強調した撮り方をしている。これでは物語構築上たいして意味もなくそこだけ気合を入れて「浮かせて」しまう。ロマンポルノ出身というから、なるほど上戸彩を撮るのは楽しかったことだろう。だからといって、デスノートという作品にその特技を活かしても意味はないどころか、内容と関係ないところに注目を集めてしまい、足だけに、作品の足を引っ張ることになる。

まぁ、皆さんもそうだと思うが、私もきれいな女の人は好きだから、まんざらでもないが、もっとほかに演出するところがあるのでは? 優香や上戸彩のプロモーションビデを撮っているほうが本人もノリノリなんじゃないだろうか。

ちなみに優香の役者としての可能性と力量がぞんぶんに発揮されているのは「輪廻」だ。

映画「輪廻」作品レビュー

そうそう「デスノート」の映像化なら、連続ドラマがちょうどいい。
映画では細部がおろそかになりがちなので辻褄が合わなくなることも増える。連続ドラマで引っ張って回数を重ねるほうが向いているだろう。

私も日テレで前編が放映されなかったら、後編を映画館で観ることはなかっただろう。

日テレの宣伝にまんまとのせられたわけである。

デスノートが父子の物語であったことがわかり、原作への興味が沸いたのでそれはそれでよしというところか。

デスノートは、「父」との遭遇、葛藤、親の愛に触れ、愛に応える。そんな父子の成長と愛の物語である。


ファミリー  △ 親子愛の物語だが描き方が子供にはどうなのかな。
デート    - お互いに作品が好きなら
フラっと   △ やはり原作読んだほうがいいのか
脚本勉強  × なかだるみ感アリ
演出     × 女の子を撮るときだけ力が入ってるやん
リアル    × ひとりごとの多い人はレムと会話してる?
人間ドラマ △ L/竜崎視点なら
社会     × 
笑い     ○ 意外性を突いた笑いはなかなか
ヒット性   ○ こういうのがウケる時代なのだね
話題性   ○ 話のネタにはなる
父子愛   ◎ 

▼関連記事
ついに出た!飛び級の変化球―映画「デスノート」―

ライトとLの「光と影」―映画「デスノート」-


こちら↓はオススメレビュー
Kinetic Visionさんの「DEATH NOTE デスノート the Last name」

――――

ひさしぶりに長いレビューになった。

ほんとうはほかにも名前や、兄弟と父親の関係でカインとアベルやエソウとヤコブのエピソードも紹介したかったが、それはまたの機会としよう。

いつ、思い立ったときにブログの記事にするかわからないし、もしかしたらメルマガのほうにUPするかもしれない。

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11/01/2006

映画「DEATH NOTE デスノート 前編」

監督:金子修介
日本/2006年/126分

最大の謎はライトの「事情」。まとも(?)な死神リューク目線で「力」を持った人間の成り行きをちょっと悪趣味風に観るのが正解か。擬似作家体験で描かれるのは人間の弱さ。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
デスノートを拾った男子大学生が、自分が思い描く理想的な世の中を作るために次々にノートに名前を書き込んでいく。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△夜神月(ヤガミライト)
男性。大学生。デスノートを拾う。

△L
男性。キラを追い詰める名探偵。


▽秋野詩織
女性。夜神月の恋人。

△レイ・イワマツ
男性。FBI捜査官。

▽南空ナオミ
女性。レイ・イワマツの婚約者。元FBI捜査官。

▲リューク
死神

▽リサ
女性。アイドル。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
最大の謎はライトの「事情」。まとも(?)な死神リューク目線で「力」を持った人間の成り行きをちょっと悪趣味風に観るのが正解か。擬似作家体験で描かれるのは人間の弱さ。

■ プレミス(Premise)はデスノート

プレミス(Premise)とは、ストーリーが発展していくための基礎となるアイデアのと。

そこに名前を書かれた人間は死ぬという「デスノート」はプレミスである。


■ 原作抜きの映画作品のみで

原作がある作品の映画化では、原作との比較というのが楽しみのひとつである。だが私は原作を読んでいないので、当然ながら原作との比較という楽しみ方はできない。

というわけで、ひとつの映画作品をして捉えてコメントする。よって、このレビューは基本として原作漫画を読んでいない人向けであることをご了承いただきたい。


■ 夜神月に感情移入しにくいワケ

物語の主人公は夜神月(以下、ライト)である。物語はライトの視点を軸に進む。

ならば、ライトがデスノートをどのように使うかについて、観客にある程度は納得してもらわなければならない。
「○○なのだから、ライトがあのようなデスノートの使い方をするのはわかる気がする」といった程度の納得は必要だ。

ところが以下(2点)の疑問が沸き起こる。

(1)大学で法学を学び、司法試験にも合格したライトは、法の限界を知って落胆しながらも、なぜ法を学び続けているのか?

推測してみるに、それはデスノートを手に入れてそれを使っていることをバレないよう、普段の生活のリズムを崩さないでいるにすぎないのか。


(2)いくら法の限界を知ったからといって、自分とデスノートの存在がバレるのを阻止するためにノートに名前を書き込み続けるライト。彼をそこまで駆り立てるものはなんなのか?

推測してみるに、それは……力を手に入れた者の驕り・勘違いにすぎないのか。

以上2点の疑問の答えを推測はしてみたものの、それが疑問を解消するじゅうぶんな答えになっておらず、あくまで推測の域を出ていない。

そもそもこのような疑問点を抱かせてしまい、それが作品の最後まで解消されないというのは、主人公ライトの行動に納得がいきにくいということだ。

主人公ライトの行動に納得がいきにくいとはつまり、ライトへの感情移入がじゅうぶんにできていないということである。


■ 秋野詩織の死のはてな

ライトはデスノートを使って恋人の詩織を死に至らしめた。
……ってなぜ恋人を?

詩織は知っていたから。南空ナオミがライトをキラだと確信していたことを。

つまり、詩織は信じている、いないかに関わらず、ライトとキラの関係性を知りすぎていたから殺されたということなのだろうか?

またはライトが告白するように、キラ事件の捜査本部に入るためなのだろうか?

ということは、ライトにとって詩織は恋人でもなんでもなかったということなのだろう。たとえ恋人でなく、普通の人であっても、ちょっとでも自分に疑いを持つ人間の名前を片っ端からデスノートに書き込んでいくライトを、あなたは心の底から応援したいと思いますか?


■ 見える見えないのリューク

リュークは普通の人には見えない。デスノートを触った者だけにみえるのが死神リュークだ。リンゴが大好きでライトの傍を離れない彼は、かといってライトの味方ではない。人間ライトの行動に興味を持っているだけで、中立的な立場を維持している。

デスノートの所有者となったライトは当然にリュークが見える。そしてリュークと会話する。

リュークが見えない普通の人が、ライトがリュークと話している姿を見たとしよう。はたしてどんなふうに思うだろうか。

ひとりごとをブツブツ行っているアブない奴。

さらに、もしライトがこんなことを言ったらどうだろう? 

知っているかい? 死神はリンゴしかたべないんだよ。(映画では文字を使ってこれと似たような内容のことが表現されている)

○ひとりごとをブツブツ

○死神はリンゴがどうのこうの

↑かぁなぁりヤバいね。と思うのが普通だろう。

そうである。ライトは一般的にみれば、かなり「いっちゃってる」のである。

だが、かなり「いっちゃってる」ことを周囲の悟られないよう、ライトはいつもと変らない真面目な大学生を演じている。

よくテレビのワイドショーで聞くことがあるだろう。
「いつも愛想のいい挨拶のする人で、まさかそんなことをするような人には見えませんでしてけどねぇ……」
てなかんじである。

だから、たいていの人はライトの「いっちゃってる」には気が付かない(オヤジさえも)が、名探偵Lはさすがに気付く。

実はライトが「いっちゃってる」度MAXだと一番よくわかっているのはリュークだ。

リュークは死神というぐらいだから、かなりの悪(ワル)だろう。そのリュークが、おまえは死神以上の悪(ワル)だと太鼓判を押したのがライトなのだから。


■ 愛されるダメ人間と、愛されないダメ人間

映画「16ブロック」の主人公ジャックもアル中のロクデナシだが、人間としてのデッドラインを踏み越えてはいなかった。だからこそダメおやじなのに観客に愛されるキャラクターになれたのである。

映画「16ブロック(16BLOCKS)」作品レビュー

ダメ人間というのは、実は愛される第一条件といっていい。

さて映画「デスノート 前編」の主人公ライトはどうだろう?

主人公ライトは若く優秀な学生できれいな容姿をしている。世間一般的にはダメ人間ではなく、優等生だ。

けれどものその内面は、死神にも太鼓判+あきれ驚かれるほどの悪(ワル)である。ダメ人間というレベルではなく、人としてヤバくない? といった次元である。

はたして、そこまでヤバいライトの事情が後編で明らかになるのだろうか?

ライトの事情とは、彼の家庭の事情ともいえとすると……。

「八神くんの家庭の事情」? 

いやちがうがな。「やがみ」違いやん。「八神くんの~」はまったく違う漫画のタイトルやんか。

おほん……。などど遊んでいる場合ではない。

「観客が納得できるライトの事情」が明らかにされない限り、デスノートというプレミスだけでどんどん話が進んでいき、観客は乗り遅れた電車が離れて小さくなっていくのをただ眺めることしかできないままとなってしまう。

私がもっとも関心を寄せる後編でのポイントはこの「ライトの事情」であるが、おそらくそんなことは明らかにならないのではないかとも思っている。

映画「デスノート」シリーズの作り手は、愛される主人公の作り方なんぞに、これっぽちも考えていないように感じる。なぜなら映画「デスノート」シリーズの監督は映画『あずみ2 Deathor Love』と同じ人物だからだ。

映画「あずみ2 Death or Love」作品レビュー


■ トリックになってないし……。

ライトが名探偵Lとその他を欺くために使ったポテトチップスのトリックはわかりやすすぎる。

たとえトリックに使うアイテムはひとつでも、ミスリーディングのためのアイテムをほかに2、3個は散りばめておかなければならない。

そうでなければ、新しく登場したアイテム=ポテトチップスが画面(スクリーン)に映った時点で、手品がはじまるまえに種明かしを見せられたかのようなものとなってしまい、トリックの意外性も驚きもあったものではない。


■ 「しかけ」はひとつにしよう~擬似作家体験付~

そのノートに名前を書かれた者は死ぬというデスノート。

それだけならプレミスとしてはいい。

ところがデスノートに書き込む内容によって、ほぼ書き手の意のままに相手を操ることができるという。多少書き方に工夫が必要だが、ターゲットとする人物の行動をかなり細かく指定できるのだ。

これは、死神の落し物のデスノートというより、ドラえもんのポケットといったほうがいいもしれない。そのノートに書けば、なんでもアリだからだ。

以前にも書いたが、ドラえもんでさえふつうは1話にひとつのアイテムしかポケットから取り出さない。なんでもアリでは物語世界が崩壊するからだ。

デスノートに書けば、ほぼなんでもアリである。
こう考えてみよう。無重力状態を3分体験するのは楽しいかもしれない。だが24時間無重力状態では辛い。

しかけはひとつにする。これが基本である。

ところで、なんでもアリのデスノートを使うライトの体験は、実は作家体験でもある。作家はそのペンひとつで物語世界をどのようにもつくることができる。(実際は確立されたキャラクターによって制限が出てくる)。

デスノートを手に入れたライトは、いわば作家の疑似体験(ドラえもんのポケットを手に入れた)に夢中になってしまったのであり、そういった「力」を手に入れた人間がどのように驕り堕ちていくかを楽しむデュークの視点を通して描く人間の姿というのが、おそらく原作者の描きたいところなのではないだろうか(繰り返すが原作は未読である)。


■ ひとこと

もしも道で100万円拾ったら?

「デスノート」の基本のアイデアはこれと同じようなことである。
シンプルだが強力かつ魅惑的である。

そこから広げていつの間にかドラえもんのポケット状態にしたゾ、といったかんじで「それなり」に観れるのは、人間の弱さを体現するライトがけっして超人でもなく、普通の人間だと思えるからだ。

だからこそ、ライトの事情を丁寧に描けば……と思うのだが、皆さんはどう思われるだろう。

そういうもんだ、と割り切って観ればそれなりに観れる。なにせプレミスはたいへん魅惑的なのだから。
とまぁそんな作品である。

さてさて、原作ではライトの事情をどのように描いているのだろう?

後編の「DEATH NOTE デスノート the Last name」はヒットするだろう。

それだけプレミスの力というのは大きい。

逆をいえば、映画のヒットはプレミスにかかっているといってもいい。

強力なプレミスを持つ映画はヒットの確率も高くなるのである。

ファミリー  -
デート    ×
フラっと   △
脚本勉強  ○ 反面教師として
演出     × すこしは気を使おう
笑い     △ リンゴ好きの死神はイケてます
リアル    × 
人間ドラマ × 
社会     -
アイデア   ○ 

DEATH NOTE (1)DEATH NOTE (1)
大場 つぐみ 小畑 健

DEATH NOTE (2) DEATH NOTE (3) DEATH NOTE (4) DEATH NOTE (5)    ジャンプ・コミックス DEATH NOTE (6)    ジャンプ・コミックス

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10/25/2006

映画「夜のピクニック」

監督:長澤雅彦
日本/2006年/117分
原作:恩田陸『夜のピクニック』

それでいいのか宣伝。「種明かし→手品」の順序では手品師の苦労が水の泡。ちょっと毛色の違う映画を楽しみたい、純な気持ちを味わいたい、純な気持ちを持っていることを思い出したい、そんな需要に見事に応えた作品。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
24時間かけて80キロを歩く、学校の伝統行事「歩行祭」。
甲田貴子は歩行祭で賭けをしようとしていた。それは、一度も話したことがないクラスメイトの西脇融に話しかけるというものだ。
そんな空気を感じ取った友人たちは、ふたりが好き合っていると思い、なにかとふたりを近づけようとする。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
▽甲田貴子
女性。高校生。

△西脇融
男性。高校生。

△戸田忍
男性。高校生。西脇融の親友。

▽遊佐美和子
女性。高校生。甲田貴子の親友。

▽榊杏奈
女性。高校生。貴子と美和子の親友。NYに転校した。

▽内堀亮子
女性。高校生。西脇融に好意を寄せる。

△高見光一郎
男性。高校生。貴子と融のクラスメイト。
ロック好き。昼が苦手。夜が得意。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
それでいいのか宣伝。「種明かし→手品」の順序では手品師の苦労が水の泡。ちょっと毛色の違う映画を楽しみたい、純な気持ちを味わいたい、純な気持ちを持っていることを思い出したい、そんな需要に見事に応えた作品。

■ 基本情報

80キロの行程のうち、60キロまではクラスごとに列を作って一緒に歩く団体歩行。残り20キロは自由に歩く(走る)自由歩行。

歩行祭は24時間かけて歩く。つまり、昼も夕方も夜も朝も歩くのである。


■ え? それでいいの?

このブログのレビューでは基本的にネタバレはしない方向だ。しかし、そんな気を使わなくてもいいらしい。というのは映画「夜のピクニック」は、鑑賞前の基本情報として肝心な点がネタバレされているからだ。

え? バラしちゃってるけど、いいの? というかんじである。

さては、これは表面的なネタバレで、実はもっとスゴい本質的なネタが仕込まれているのかも。と思ったが、そんなことはなかった。

作品の唯一の謎で観客の興味を繋ぎとめておくべき「秘密」を観る前の人々にバラしちゃっていいのだろうか?

いやいいわけがない。人気小説の映画化とはいえ、原作を読んでいない人もたくさんいるのだから、作品の肝となる「秘密」のタネ明しは、作品中で行わなければならない。

どんなに原作者や脚本家が頭をひねって物語を作っても、その宣伝方法によって作品のおいしいところが味わえなくなってしまう。――こんなに悲しいことはない。

例えるなら「手品をみてから→種明かし」と「種明かしをみてから→手品」のどちらがいいだろう?

う~む。宣伝担当者はいったいなにを狙ったのか? 


■ 秘密

甲田貴子が歩行祭で賭けをする。その元になる「秘密」がどれだけ大きなことか。

まずはこれを観客と主人公が共有しなくてはならない。

実のところ、この「秘密」というのは突拍子のないこと、というわけでもない。

「実は私、宇宙人なの」とか「実は私、高校生じゃなくて先生なのよ~!」などというものでなく、まぁそういうことってめずらしけどあるかもね、という程度のものである。

とはいっても甲田貴子にとってはとてつもなく大きなことであり、これまでの人生、とくに高校生活におけるその秘密が占める割合は大きい。なにせ「秘密」の重要な鍵を握る西脇融は同じ学校の同級生であるばかりでなく、クラスメイトであるからだ。

甲田貴子にとって大きな「秘密」が、観客にとってもおおきな「秘密」になったとき、それは登場人物と観客の間に「共有される秘密」となる。

おそらく原作小説では「秘密が共有」されるまでの描写に、かなりのページを割いているのだろう。だからこそ甲田貴子と「秘密を共有」した読者が彼女と共に80キロを歩きつづける(ページをめくりつづける)ことで感動が生まれたのだ。


■ 原作が小説である場合の苦心点とは?

小説は時間旅行が得意だ。

「時間軸A」を過去から未来へ移動している最中でも、主人公はなにかのきっかけでスゥッと違和感なく過去の記憶・場面へ移動できる。

ところが映像作品の場合はそうもいかない。
主人公が過去へ思いを馳せる場合、過去シーンが長いと「時間軸B」におけるメインのストーリー進行を妨げてしまうからだ。

というわけで、映像作品の場合はいかに回想シーンを使わずに、観客に必要な情報を提供するかに苦心するのだ。


■ 賭けをしていることを観客にどう伝えるか

まずは甲田貴子が歩行祭で賭けをしており、それがどんな意味を持つのかを観客に知らせる必要がある。いったいどう知らせるのか。

賭けは親友にも秘密のため、歩きながらの親友との会話を使うわけにはいかない。そもそも親友たちとの会話は、甲田貴子と西脇融が好きあっている同士なのではいかというミスリードを誘う仕掛けの役割を担っているのであるから、そこに作品の肝となる「秘密」を臭わすわけにはいかないのである。

そこで甲田貴子の「想像世界」で伝えることにした。つまり、観客席に自分とクラスメイトたちがいる場所を用意し、舞台上のキャラクターが甲田貴子の賭けを読み取り、それとなく示唆する、といったものにしたのだ。

原作小説ではこのあたりがどうなっているのか(映画と同じようなかんじなのか)わからないが、映画を観る限りでは、かなり苦心している様子が窺い知れる。

とはいってもこうしたシーンで使われるVFX効果の使い方には意味があるのでOKだ。


■ いい仕事をしてるキャラクター

ただ歩くだけ。しかも80キロ中60キロは列を作って一緒に歩く団体歩行だ。そこにイベントを仕込むとなるとかなり苦心する。

ここで助けとなるキャラクターが、高見光一郎と内堀亮子である。

高見光一郎はロック好きで、いわば夜行性。昼は足元がフラフラでいつ歩行祭をリタイアしてもおかしくないぐらいにヘナチョコだ。しかし夜になると一転して元気一杯。今流行り(?)のエアギターテクバリバリ! というかんじで歌い踊りながらのハイテンション。将来は自分のような人たちを勇気づけたりみんなを元気づけたりする仕事をしたい! と夢まで語ってみせるのだ。

内堀亮子はいわゆる学校のマドンナ的存在で、そのかわいらしさによって男子生徒をメロメロにしてしまう。そんな自分の魅力を十分に知っている彼女は、気になった異性に次から次にアプローチしていく。まるで恋という名のゲームを楽しむかのように。

そして内堀亮子の今回のターゲットは西脇融だ。貴子の友人たちからすれば、内堀亮子は恋のライバルというか
邪魔者である。

そのため、高見光一郎を含む甲田貴子の友人たちは連携して西脇融から内堀亮子を引き離そうとする。

この連携プレーによって甲田貴子は賭けに勝つことができるのだ。

逆をいえば、高見光一郎と内堀亮子がいなければ、歩くだけの中に「きっかけ」を作ることはなかなかできない。
高見光一郎と内堀亮子。キャラクターとしてちゃんと役割を果たしている。いい仕事してますな。


■ 絵に描いた餅

10代の若い男女が登場となれば題材は「恋」。そんな期待をやんわりとしなやかにかわしてみせる「秘密」の設定は、原作者の腕のみせどころなのだろう。読者(観客)の期待をスッと外してみせるあたりは「純愛ブーム」と違う己が道をしっかり持っているようで原作者に興味がわいた。

ところが登場人物たちにパンチがない。

多くの宮崎駿関連アニメに登場するキャラクターを思わせるかのような「無菌培養された純粋無垢な少年・少女」ばかりだ。

例えば宮崎駿関連作「千と千尋の神隠し」は、けっして優等生ではないどこにでもいそうな無気力系少女・千尋を主人公としたことで、それまでの優等生キャラクターが多かった作品群とは違ったものとなった。そういう意味で「千と千尋の神隠し」は宮崎駿関連作では節目となった作品だ。

さて「夜のピクニック」ではどうだろう?
登場人物たちにはみな基本的にいい子たちばかりである。

皆さんも自分が10代の頃を思い出してみてほしい。今思えば、おどろおどろしい、とても人にはいえないような闇の面を持っていたと当時を振り返る方もいらっしゃるだろう。それが普通である。

「夜のピクニック」にはそういった生身の生徒は登場しない。どのキャラクターも物語構築上の表面的な役割は持っているが、作品に深みを与える裏面的な深みは感じない。きれいなところだけを掬い取ったかのようである。

もともと、深みのあるキャラクター設定・構築は苦手なのか?

人間の、とくに若者の心の闇をも描けばとてつもなく大化けしそうな予感はあるのだが……。
いや、逆をいえば裏(闇)の部分をばっさり切り捨てたからこそ第2回本屋大賞を受賞することができた、といういい方もできるだろう。


■ ひとこと

おそらく原作者は需要をよぉ~く知っているのだ。懐かしくも胸がキュンとなるような切なく心地よい物語世界を構築することにあえて徹したのだと思う。それも小説という格好の舞台で。

だから、これを映像化するにはいくらか難しいところがある。こうした映像化に多少無理がありことを承知で、さらにアナタが純粋無垢な気持ちをまだ少しでも持っているなら、きっと心がジーンがくるに違いない。

甲田貴子役の多部未華子さんは、ほぼ出ずっぱりである。あまり笑わない役どころだが、それゆえに作品の終盤にみせる笑顔によって一瞬で雰囲気を作り出す力にはハっとさせられた。将来が大いに期待できる女優である。

旬の女優・加藤ローサも出演しているが、NYに引っ越してしまった親友という役どころなので、思ったよりも出演シーンは少なかった。

10代の登場人物たちのセリフやリアクションがリアルちっくで、若者をかなり観察・分析して丁寧に作っているように感じた。

それにしても「秘密」のための「恋」のミスリーディングや仕掛けが、宣伝のネタバレによって台無しになっているのは観ていてツライ(>_<)

たとえどんなにいい作品でも宣伝とうまくリンクさせなければヒットするものもヒットしない。逆をいえば宣伝さえうまくすれば、普通はヒットしないような作品でもそこそこヒットさせることができるのだ。

ちなみに作品と宣伝まで含めた手法でたいへん参考になるのはM・ナイト・シャマラン監督である。

ファミリー  - 
デート    ○
フラっと    △
脚本勉強  -
演出     ×
笑い     -
リアル    △
人間ドラマ △
社会     -
青春    ○

4103971053夜のピクニック
恩田 陸
新潮社 2004-07-31

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10/16/2006

劇場版アニメ「時をかける少女」

監督:細田守
日本/2006年/100分
原作:筒井康隆『時をかける少女』角川文庫

いい意味で敷居が低い、物語づくりにおけるビックキーワードをしっかり練り込んだ「走れ真琴」の良質アニメーション作品。これなら評判がいいのもごもっともだ。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
ある放課後。紺野真琴は学校の準備室で転び、タイムリープ(時間跳躍)できるようになる。

ちなみにタイムリープとは、時間と場所を一気に跳躍して現在とは別の
時間・場所にとんでいく超能力のこと。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
▽紺野真琴
女。高校生。成績は中の下あたり。得意なスポーツがあるわけでもなく、暇つぶしにキャッチボールをするぐらい。

△間宮千昭
男。高校生。紺野真琴のクラスメート。数学だけが得意。

△津田功介
男。高校生。紺野真琴のクラスメート。医学部志望の秀才。スポーツもできて、女子生徒にもモテる。

▽芳山和子
女。紺野真琴の叔母。30代後半未婚。美術館で絵画の修復を担当。真琴いわく「魔女おばさん」。

▽藤谷果穂
女。高校生。紺野真琴の後輩。ボランティア部所属。津田功介に恋心を持つ。

▽早川友梨
女。高校生。紺野真琴のクラスメート。間宮千昭に気がある。

▽紺野美雪
女。中学生。紺野真琴の妹。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
いい意味で敷居が低い、物語づくりにおけるビックキーワードをしっかり練り込んだ「走れ真琴」の良質アニメーション作品。これなら評判がいいのもごもっともだ。

■ 身近な主人公

主人公・紺野真琴は17歳の高校2年生。ごくふつうの高校生だ。そろそろ進路を決めなければならない。けれどもまだ決まらない。

女友達がまだ進路を決めていないのにちょっぴり安心しつつも、いつも一緒にいる秀才の津田功介は医学部進学を決めており、夏休みは勉強するという。けれど、もうひとりいつも一緒にいる千昭はまだ進路が決まっていないみたいだ。

多くの人がこういう時期を経験する。進学か就職か。はたまた留学か。ほかにとりあえず上京して思い描いた自分になるべく歩き出すか。

周りのクラスメートはどんどん進路を決めていく。けれども自分は特に何か得意なことがあるわけでもなく、特にやりたいことがあるわけでもない。

がんばって勉強すればどこかの大学や短大に進学できるだろう。就職を希望して探せばどこかに勤めることもできるだろう。

でも、自分がどうしたいかまだわからない。でも決めなくてはならない。

こういった時期というのは多くの人が経験してきたことである。たとえ端からみれば早々と進路を決めた者であっても、いろいろと考え、悩んだ末の進路だったはずだ。

もしも主人公が14歳からモデルとして活躍しており、高校在学中から週末は新幹線や飛行機を使って東京に飛び、モデルの仕事をバンバンこなしているとしたら? 

高校卒業を機に海外でショーモデルとしてデビューすることが決まっていたら?

そんな主人公は特別であり、とても自分(観客)とは重ね合わせることはできないだろう。

主人公・紺野真琴17歳の高校2年生。ごくふつうの高校生だ。

キャラクター設定ですでに基本をしっかり抑えている。

これが観客の主人公への感情移入の第1段階である。


■ 半径3メートルの世界

タイムリープ能力を身につけた真琴がそれを何を使うか。真琴は自分の欲望と都合のためにこれを使いまくる。

もしも、能力のはじめての使い方が世界を救うだったら?

ふつはありえないことだ。なぜなら、そもそもどうやったら世界を救うことができるのか? と考えるところからはじめなければならないからだ。

たいていは、人が「世界」というときの「世界」とは「自分を取り巻く半径3メートル以内」のことである。

家族・友人・学校・職場・趣味のサークル。これがいわゆる半径3メートルだ。

住んでいる町。これが半径1キロメートル。住んでいる区・市。これが半径100メートル。住んでいる度道府県ともなるといったいどのくらいか。

では半径3メートルの中心はどこか?

世界の中心で「世界の中心はアタイよ~」と叫ぶ、というわけじゃないが、世界の中心は自分である。

身に付けた能力を何に使うか。まずは世界の中心にいる自分のための使うのである。それが最も自然で最も頷きやすい使い方である。

紺野真琴はタイムリープ能力を、多くの人々が頷ける「自分のために使いまくる」のである。

これが観客の主人公への感情移入の第2段階である。


■ 能力を何に使うかを考える

はじめは自分の欲望と都合のために能力を使っていた真琴だが、やがてあることに気づく

自分が能力を使うことによってだれかが損・被害を被っていることに気づくのだ。

そこで今度は自分の行いを修正するために(他人を不幸にしないために)能力を何度も使うが、なかなかうまくいかない。

これを映画「タイムマシン(THE TIME MACHINE)」(サイモン・ウェルズ監督/2002年/アメリカ)作品レビューと比べてみよう。

映画「タイムマシン」では、主人公アレクサンダーは愛するエマを取り戻したいがために、過去だけでなく未来へも旅をする。

アニメ映画「時をかける少女」では、まずは自分のために「時をかけ」て、次に自分の行いを修正するために(他人を不幸にしないために)能力を使う。

時間を旅する能力は同じでも、一方は愛する人を取り戻すために時間旅行をして、やがて大事なことに気づく。

もう一方は自分のために能力を使い続けるうちに、徐々に自分の外へ視野が広がっていき、やがて大事なことに気づく。

時間旅行のはじまりは異なっても、ゴールはほぼ同じだ。


■ いい意味で敷居が低い

注目すべきところは、時間旅行のはじまりとその過程が普通の人の行動っぽいところがアニメ映画「時をかける少女」の、いい意味で敷居が低いという点だ。

いうなれば、タイムリープ能力を身に付けた紺野真琴の目線は多くの観客と同じ目線である。だから、たとえ今は心から愛する人がいないかもしれない人でも、紺野真琴の行動には共感しやすいのだ。

いま愛する人