映画「借りぐらしのアリエッティ」

監督:米林宏昌
日本/2010年/94分
原作:メアリー・ノートン『床下の小人たち』


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「人間に見られてはいけない。」  (引用: 『借りぐらしのアリエッティ』公式サイト


見られちゃいけない? でも、やっぱり見られちゃうんでしょ? 


開かずの金庫があれば、開けてみたいと思うもの。だから見られちゃいけないという設定(金庫を置いたら)をしたら、当然のように見られちゃう(金庫が破られる)であろうことを観客は期待します。


そうすると、見られちゃうまでどうやって観客を引っ張るかが大事なポイントとなります。そのテクニックをみてみましょう。


作品の冒頭。病気療養のために、母親が育った古い屋敷にやってき少年・翔。到着してすぐに庭で小人らしきものを目撃した……かもしれない。そんなシーンがあります。


いきなり見られちゃった? ……かもしれないで留めておくのが大事なポイントですね。


小人の少女・アリエッティは、葉に隠れていたから人間には見られていない、と言うけれど観客は翔が「見た」であろうと思うわけです。


冒頭でいきなり、見れたかもしれない、というように、観客の好奇心をあおるチラ見せがあります。これはなかなかの技ですね。


ほかに注目すべきは、物語の前半の早い段階で人間である翔の事情よりも、まずは小人であるアリエッティの生活や事情の詳細が描かれる点です。


これは「人間に見られてはいけない」というキャッチコピーであらかじめ観客の視点を小人側にに合わせておいたからこそできるものです。


もしも「人間に見られてはいけない。」というキャッチコピーがなかったならば、物語の冒頭から前半においては、普通は人間側の視点で描かれるでしょう。だって観客の多くは人間だから(小人もいるかもしれませんが…)。


あくまで小人側から描くことで、人間に見られる決定的瞬間に至るまでじゅうぶんに観客の興味を引きつけつつ、本来はよくわかっているはずの「人間」のほうをミステリー仕立てにできています。


その様子を盛り立てるのが「狩り」です。物語の早い段階で小人・アリエッティの事情を伝え、続けて彼らの「狩り」の様子が緊張感いっぱいに描かれているのです。


狩りとは、小人たちが人間から必要なものだけをそっと借りてくることをいいます。もちろんこれは「狩り」と「借り」がかかっています。


「狩り」には14歳のアリエッティがはじめて参加することになります。このときの父親と母親の会話に、アリエッティも14歳になったのだからこれからはひとりで生きていく術が必要だ、みたいなやりとりがあります。


これはまるで宮崎駿が、米林宏昌監督といった比較的若い世代に今後の作品づくりを期待するかのようなところを彷彿とさせるセリフでもありますね。


されはさておき、こうしてアリエッティは初めての狩りに父親とふたりで夜中に出発します。


ちなみに父・ポッドは口数が少なく、必要なことしかしゃべりません。冷たいわけではなく、アリエッティや妻にやさしいことばをかけることもある。これも宮崎駿をイメージさせる部分かもしれませんね。


そんな父とふたりでの、初めての「狩り」。観客のだれも見たことがないと思えるような小人の大冒険。そしてもちろん、人間に見られてはいけない……。


――でも、当然のようにこの狩りの途中で人間・翔にバッチリ見られてしまいます。


ここまで一気に物語を進めていくテンポの良さはいったいどこで身につけたのだろうと思えるほどですね。


そして人間にバッチリ見られてしまった後に物語の前面に押し出されるのが……「葛藤」です。

■「葛藤」が物語に活力を与える


物語の登場キャラが魅力的かつ立体的であるために必要なこと。それは変化。


物語のはじめと終わりとでは、登場キャラの内面の変化が行動となって表れるのが良い作品の典型です。


変化→行動→結果こそが、作品のエンディングに観客の心に響く余韻を残せる作品にできるかどうかを大きく左右します。


変化をもたらすためには、安定したままではいけません。不安定にしなければなりません。


不安定にするためには「葛藤」が有効です。葛藤の典型的な例には父と子の関係があります。「スターウォーズ」シリーズがその最たるものですね。


「借りぐらしのアリエッティ」では葛藤を生じさせるために、ぱっと見はおなじ世代の少女・アリエッティと少年・翔のふたりに、滅びゆく種族(小人)と、ますます増え続ける種族(人間)との対比や対立といった構造にしていますね。


ここで、ふたりの会話でのお互いの立場に注目してみましょう。


一見するとやさしい翔は、アリエッティに、君たちは滅び行く種族だ、といったように言います。


ずいぶん冷たい言葉のように感じされるそれは、翔が自分に対して言っているとも考えられます。なぜなら彼は近日中に心臓に関する手術を受ける予定で、それが困難なものであると自覚しているからです。


そもそもアリエッティも翔も、年齢からすれば普通だったらまさに「これから」なわけです。


でもお互いに事情があって未来がないかもしれないと感じてもいる。それでもアリエッティは、だからこそ精一杯生き抜いてやると血気盛んです。なぜなら、小人という種族は消え行くかもしれなくても、アリエッティ自身は14歳であり、若さと活力がみなぎっているから。


一方の翔は人間という種族はまだまだ増えていくかもしれなくても、自身は体の調子がよくはないために、血気盛んというわけにはいかない。


ただ、困難であろう手術が成功して元気になれる可能性が全くないないわけじゃないようです。調子が優れないために前向きな気持ちになりにくく、また周囲に彼を精神的にサポートする者(人間)があまりいないことなどから、生きる希望の灯火が消えつつある。


そんなふたりが出会い、対立することでお互いに変化が生まれる。その変化が観客にもわかりやすいよう、アリエッティに対するネコの態度に変化をつけるなど、なかなか細かいアシストもしていますね。


また、変化はふたりだけに生じたものではありません。アリエッティの父ポッドにしても、足を怪我するなど徐々に老いを感じつつも、家族のために住み慣れた家を離れる準備を着々と進めていきます。


母ホミリーにしても、心配性で住み慣れた家を離れたいとは思わないものの、娘のため、夫のため、なんだかんだ言いつつも家族と新天地へと旅立ちます。


これは小人の少年・スピラーに出会ったことで、まだ自分たちと同じ種族がほかにもどこかで生活していることを知って希望を持てたことも大きいのでしょう。


葛藤を通して変化し、その結果として長年住み慣れた家を離れ、新たに旅立つシーンで終わる本作品は、北野武監督の『キッズ・リターン』を思い出させます。


いろいろあったけど、まだ終わっちゃいない。これからだ! という自身を鼓舞するかのようなメッセージですね。


そういった意味で『借りぐらしのアリエッティ』は、まるで宮崎駿のリハビリのようでもあります。

■ やればできるじゃないか


それにしても原作が良いのだろうと思いますが、たとえそうであってもその良い原作を選び取るセンス(何十年も前に企画していたものらしい)もいいですね。


脚本は宮崎駿氏だそうですから、物語に思い入れ過ぎずに素直にやりさえすれば、観客に広く受け入れられやすい作品を作れることを改めて知らしめましたね。


これにはちょっとホッとしました。というのは、宮崎駿監督作品のいくつかは、おそらく本人の思い入れや力(りき)が入りすぎてけっこうはチャメチャになってしまった作品がいくつかあるからです。


また、比較的若い監督に作品を作らせても『ゲド戦記』のように、物語づくりのノウハウを伝えることをしてこなかったのか、またはしようとしないのか? と首を傾げたくなるような例があったからです。


▽関連記事
『ゲド戦記』で露呈か!ジブリの悲劇?
~宮崎駿作品群の「ムラ」のワケ~ver3.0

賛否両論の理由がピクサー短編作品との比較で明らかに!?


まぁ親子(父と子)っていうのはいろいろと難しいところもあるのでしょうけれど『ゲド戦記』でいろいろと学んだのでしょう。もしそうなら『ゲド戦記』にもそれなりの意味があったのではないでしょうか。


あえてエラそうに言えば「やればできるじゃないか」といったかんじです。


より正確には、やればかなりできるじゃないか、ですね。


ジブリ作品には(個人的には)アタリとハズレが大きいですが、宮崎駿個人の天才的(?)才能だけに頼ることなく、それなりの人物なら誰でもヒット作を作れる物語づくりのノウハウの蓄積と若手監督などの育成に今後も力を注いでいってもえたらいいなと思います。


そんなわけで個人的には、ちょっとホッとした作品でした。


<ブブリ関連作品>

▼「ゲド戦記」作品レビュー
  スタジオジブリの「悲劇」を露呈しつつも、名前・言葉・言霊の題
  材が興味深い。必要なのはストーリーづくりのノウハウ。

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  オトン涙!不良家出娘の嫁入り珍道記。キリスト教色をカラフルに
  ベタ塗りか? 実は超ホラー?

▼「千と千尋の神隠し」作品レビュー

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原作:メアリー・ノートン『床下の小人たち』

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『ゲド戦記』で露呈か!ジブリの悲劇?~宮崎駿作品群の「ムラ」のワケ~ver3.0

  
この記事の内容は、あくまで感想・推測・推論の域を出ない。記事を読み、ジブリ作品群をじっくり観てどう感じるかはアナタ次第である。

(この記事は『ゲド戦記』公開当事に書いたものに、一部加筆・編集したものです)

●『ゲド戦記(TALES from EARTHSEA)』

監督:宮崎吾郎
日本/2006年/115分
原作:アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記』

                            
■ バックグラウンドを匂わしただけ


「ゲド戦記」のアレンにしてもハイタカにしてもテナーにしても、彼らのバックグランドはどこにも描かれていない。匂わしているだけだ。


おそらく、日本では原作を読んだことがない人が多いであろう。そんな作品の登場人物のバックグランドをどこにも描かずに匂わすだけというのは……これを斬新というべきか。


「名探偵コナン」の江戸川コナン君が難事件を解決しようとするのはなぜか。それは天才高校生探偵(姿は小学生)だからだ。――探偵だからである。もしふつうの男子高校生が見ず知らずの難事件を解決しようとしたら、観客の頭には疑問が浮かぶ。なぜこの男子高校生は難事件を解決しようとしてるのか――と。


観客が感情移入できるだけの理由を提供する。これが映画に限らず、物語の基本だ。しかしながら「ゲド戦記」ではアレンがなぜ父王を刺して国を出たのかが描かれていない。
                             

満ち足りた環境にありながらなにかが足りないと感じる、だから生きている実感を得るために、父王の世界から自由になりたい。というのがアレンの動機なのだろうが、映像作品ではたとえ短いシーンであってもきっちりと父と子の関係を描かなければならない。


そうでなければ、はじめて登場していきなり父王を刺すアレンにいったい誰が感情移入できよう。ただなんとなくそういう若者の心の闇の一端もわかるような気もするよ、とやさしい人は言ってくれるかもしれないし、はたまた物語の根底にはよく登場する「オイディプスコンプレックス」という言葉を聞いたことがある人には「おそらくこれはオイディプスなんちゃらってことで処理してほしいのだね」と寛大な理解を示してくれるかもしれない。


だが、観客にそんな気を使わせる作品でいいのだろうか? 観客の感情移入が先ず必要だ。感情移入されない主人公がどんなに活躍しようとも観客は応援はできないからだ。残念ながら「ゲド戦記」はこのもっとも大事な部分が抜けてしまっているのだ。


                             
■ スタジオジブリ作品群の「ムラ」のワケ


なにをアタリで、なにをハズレとするかは人それぞれだが、たとえ観客動員数が好調でもスタジオジブリ作品にはその出来においてムラがある。


個人的に好きなのは「天空の城ラビュタ」「千と千尋の神隠し」「魔女の宅急便」といった作品群だ。逆にちょっと首を傾げてしまうのは「もののけ姫」「ハウルの動く城」である。


もちろんどの作品も映像はきれいだし、独特のジブリワールドがあって好きな作品だ。しかし、わかりやすさとストーリーという点からいうと「もののけ姫」や「ハウルの動く城」は奥が深すぎる。


もし、子供も大人も楽しめるのがアニメーション作品の成功だとするならば「もののけ姫」と「ハウルの動く城」はかならずしも成功とはいえない。


それでも人気があって観客動員も好調なのはジブリブランドのおかげだ。スタジオジブリの代名詞にもなっており、ジブリブランドの象徴の巨匠がいるのはいいことだが、もし巨匠が作品を作らなくなったらどうなるのだろうか。
 
                            
そのあたりをプロデューサーの鈴木敏夫氏は考えてのことだろう、後継者を育てはじめた。それは宮崎駿氏の長男の宮崎吾郎氏のことだ。


父親の宮崎駿氏は「ゲド戦記」製作においては原案に名があるだけで、直接の制作には関わっていないようだ。


親子というのはいろいろとあるだろうが、息子にさえ作品づくりのイロハを手取り足取り教えてあげないのはたいへんもったいない。とはじめは思ったのが、どうやらそうでもないかもしれないと思いあたった。


というのも、そもそもスタジオジブリの映画作りの方法に、そのヒントがるように思うのだ。


スタジオジブリの映画作りの多くは、宮崎駿監督がおおまかな全体像をすべてひとりで決めて、スタッフにそれぞれ仕事を振り分けるというやり方だという。宮崎駿監督は、だれかからヒントを得てそれがいいと思ったら、それまで1年ほど準備していた企画をすぐにやめて、一気にストーリーの全体像を作り上げてしまう、そんな人らしい。

                             
直感と思いつきを一気に物語にできる瞬発力を持った宮崎駿監督の作品は、みんなでアイデアを出し合ってストーリーを作り上げるといった性格のものではないのだろう。宮崎監督の想像力で構築された世界を表現したものだ。


そういうわけで、スタジオジブリ作品の出来のほとんどは宮崎駿氏にかかっているのであって、ストーリーづくりのノウハウが蓄積されてはいないのではないか、と思う。


天才のひらめきと猛烈な仕事量ですばらしい作品を作りつづけてきたスタジオジブリには、優秀なアニメーターが集まった。しかしひとりの天才が引っ張るが故にストーリーづくりという意識は薄く、そのためストーリーづくりのノウハウも蓄積されない。


ノウハウがないのでそれを共有・強化していくこともできない。それを決定的に露呈したのが「ゲド戦記」だ。


コンテンツ作りにおいても「背中を見ろ」なんてことを言ってる場合でも時代でもないことは誰の目に明らかである。息子にさえ伝えるノウハウがないとするならば、これをカーレースで例えるならば、最高のエンジンが載ったF1マシンがありながら、レースでの運転テクニックを知らない新人ドライバーがひとり誕生した、といったところだ。
                             

「ゲド戦記」を観て、宮崎吾郎監督の人柄や気持ちは伝わってきた。優秀なアニメーターたちという、レースでいれば優秀なメカニックがそろっているだけに、もしほんとうに運転テクニックのノウハウが蓄積されていないのだとすれば、それはまさに悲劇としかいいようがない。


メカニックのためにも、一輪車にエンジンを積むことなく、せめてぜひストーリーとの二輪車にエンジンを積んでカッ飛ばしてもらいたい。


スタジオジブリのブランドは強力だ。だが強力だからこそ一度信用・信頼を失うと、そのダメージははかりしれなく大きくなる。


宮崎吾郎監督の登場で踏み出した新たな一歩を、大いに応援したい。まずはピクサーが技術の実験・検証の場としてはじめて、その後に新人の力試し・育成の意味あいが大きくなってきた短編部門をおおいに参考にしてほしい。


特に「カーズ」と同時上映の短編映画「ワン・マン・バンド(One Man Band)」に最近のアニメ作品を取り巻く状況が風刺的かつ魅力的に描かれている。ここからはすこしCGも含めたアニメーションの話になっていく。

                             
「ワン・マン・バンド」では、ふたりのストリートミュージシャンが、少女ティッピーのもつ一枚のコインを得るために演奏で競い合う。ふたりとも多くの楽器で音楽を奏でることがでるのだが、その目的はコインだ。一枚のコインを得るためにがむしゃらにがんばって演奏する。

■ こう考えてみよう(「ワン・マン・バンド」)


ストリートミュージシャンは映像制作会社。楽器は映像表現技術、ここではCGとする。そして楽器の数や種類はCGをはじめとするビジュアルエフェクト技術の数々としよう。


多くの楽器(CG技術)を駆使して次から次にライバルと競い合ってがむしゃらに演奏(CG作品制作)するワンマンバンドがいるとする。


コイン1枚というご褒美をめぐって過熱する演奏(CG作品制作)対決がはじまる。対決は激しさを増し、ついにはふたりのワンマンバンドが同時に演奏(作品制作)をはじめる。


すると演奏(CG作品)は騒音(駄作)へと変わり、おもわず両耳をふさぐ少女ティッピー。……すると小さな手からこぼれたコインは地面に落ちてコロコロと転がっていく……。
                             


■ 少女ティッピーの願いはなんだろう(「ワン・マン・バンド」)


CGという新しい表現技術を手に入れ、年々高性能になっていくコンピュータによって、それまで不可能とされていた映像をつくれるようなるにつれて、我先に最新のCG技術を使って作品を作りつづけてきたCG業界(みたいなもの)の有様を風刺的にあらわしたワンマンバンドの対決は、観客(少女ティッピー)がはたして何を求めているのかを読み取る作業を忘れているのでないかという大事なことに気づかせてくれる。


そもそも、少女ティッピーは1枚のコインをもって広場になにをするためにやってきたのだろうか。


ストリートミュージシャンの演奏を聴きにきたのではない。広場の噴水にコインを投げ入れて願い事をしようとやってきたのだ。少女ティッピーの願いごとはなんなのかと想像することもなしに、コイン目当てに少女の気を惹くために演奏合戦を繰り広げるワンマンバンドの姿はあなたの目にどのように映るだろうか。
                             


■ ちょっとした演奏なら誰でもできる(「ワン・マン・バンド」)


少女ティッピーは小さな弦楽器のひとつを手にとると、さっさとチューニングを済ませてすぐに演奏をはじめる。なかなかの腕前だ。すると見知らぬ通りすがりの人がコインがぎっしりと入った袋をドサッと置いていく。


これはシャレのきいたシーンだ。楽器の演奏、つまりCGを使った映像制作にかぎらず、アニメ制作もちょっとの手間とパソコンとCGソフトさえあれば小さな子供だってはじめられる。子供が作ったにしてはスゴい! 未来のCG作家・アニメ作家現る! などととりあげられて、それを観た投資家が融資してくれるなんてちょっとアリそうと思わせるところがシャレている。

■ 結婚式で例えるなら(「ワン・マン・バンド」)


どっさりとたくさんのコインを手に入れた少女ティッピーが2枚のコインをちらつかせてワンマンバンドたちの注意を惹き付ける。はたしてワンマンバンドたちは念願のコインを手に入れることができるのか。
  
                           
そして作品のラストシーンでワンマンバンドたちがとった行動こそが、結婚式で例えるならケーキ乳頭(ナイティナイン岡村さんのギャク)、あ、いやケーキ入刀(はじめての共同作業)だ。


ワンマンでがむしゃらに演奏(CG)技術を競い合ってきたきた者同士のはじめての共同作業とは?ひとついえることは、とってもオチャメで、江戸っ子でいうなら「粋」な風刺画といったところだ。

■ 「ワン・マン・バンド」のメッセージとは?


「ワン・マン・バンド」という作品を、CG作品として作る。これこそピクサーのメッセージなのだ。


CG技術(多数の楽器と演奏技術)をがむしゃらに競い合って一枚のコイン(数字上だけの作品順位トップ)を手に入れる競争を続けていくことの滑稽さをCG作品で描いたピクサーの思いやメッセージはどんなものなのか。


それは、ストーリーの重要性だ。

                             
ピクサーの作品づくりでは通常、台本や絵コンテを作成しながらはじめにストーリーを組み立てる。ピクサーがひとつの作品を完成させる期間は4年間。そのうち半分の2年間をストーリーとキャラクターづくりに費やすという。作品のはじめにするのはストーリーづくり。それも2年。


「ワン・マン・バンド」のメッセージとはズバリこれだ。「ピクサーはCG屋ではない。ストーリーテラーである」


そしてこのメッセージをCGを使った物語で伝えていることが、作ればヒット!の常勝軍ピクサーのチョットばかり、いや、かなり超越しちゃった感アリのオチャメさも忘れない貫禄といったところなのだ。


さて、スタジオジブリは何屋なのか? 


真似をしようとはいわないが、スタジオジブリも短編部門を作って優れたストーリーテラーを発掘してはどうか。それがいずれストーリーづくりのノウハウを蓄積していくことにつながり、スタジオのためにもなるにちがいない。
                             

個人的には「ゲド戦記」はかなり楽しめた。だからこそ、ノウハウがないかのような部分がもったいなくてしょうがなくなってしまうのである。


スタジオジブリが宮崎駿という屋号かのように思われている現状から脱却するために踏み出した新たな一歩を、ぜひとも応援したい。

 
そこでもう少し踏み込んで、どうすればもう少し良くなるのかを考えていきたいと思う。

■ アレンの旅立ち


作品の冒頭、父王を刺したアレンはすぐに旅に出ている。って早ッ!思い出してほしい。スターウォーズシリーズエピソード4でルークは田舎の星で叔父夫婦と暮らしている。


すぐにでも冒険に出たいと思っているが、なかなかそんなチャンスがない。ロボットを買ったことがきっかけでオビ=ワンに出会い、やっとのことでレイア姫救出のために星を出ることができる。


スターウォーズシリーズが古今東西の神話の形式を取り入れているのは有名だ。ということは、あらゆる神話・物語の基本においては、主人公はすぐには旅立たないのである。

                             
すぐにでも旅立ちたいと思っていても、なんらかの設定上の障害(コンフリクツ)があってそうもいかない。


そこへ外部からってきたある人物がきっかけで、障害(コンフリクト)またはカセといわれるものを取りはらい、やっと主人公が旅立つ。


このように、旅立つまでをきちんと描かなくてはならないのだ。なぜなら、主人公がなぜ旅に出たいと思っているのか、旅にでてどうするのかがわからなければ観客は主人公を応援できないからだ。


主人公が旅立つ動機と目的をはっきりさせて、それがいかに大事かを伝え、旅立つ前の困難を一緒に乗り切って魅せる(魅力的にみせるの意味)ことで観客は主人公を応援したいと思うのだ。これを観客による主人公への感情移入という。


アレンがなぜ旅立たったのか(動機)


アレンはどこへなにをしにいここうとしているのか(目的)


まずはこれをじっくり描くべきなのだ。
 

                            
■ やさしさをにじませよう


クライマックスで少女テルーは、魔法使いクモ(いわゆる悪役)に、闇は闇に帰れ、といった意味のことをいう。


これには驚いた!


思い出してほしい。「千と千尋の神隠し」で千となった千尋が油屋で働いているとき、フラッと現れたカオナシに千はなんと言ったかを。


油屋の縁側の外の庭にぼぉ~と立っていて一向に中に入る様子を見せないカオナシに向かって、あっちへ行けよ、なんてことは千は言わなかったはずだ。


ここ、開けておきますね。


といった意味のことを言って、縁側の扉を開けたままにして自分の仕事に戻ったはずだ。すなわち受け入れたのである。


「ハウルの動く城」で魔法をかけれておばあさんになってしまったソフィーがハウルの動く城にやってきたとき、ハウルはソフィーを追い返しただろうか。

                             
いやそんなことはない。ソフィーはカルシファーとうまく話をつけて火を使えるようにして卵とベーコンを焼いてみせた。それがきっかけで動く城の掃除や食事づくりなどをするようになったのだ。


ハウルもカルシファーも、ハウルの動く城の住人はソフィーに出て行けなんてことはいわずに受け入れたのである。そしてソフィー自身も、荒地の魔女を受け入れて世話をしたのだ。


闇は闇に帰れ。


このセリフを聞いたときに、これはマズいぞ、と思った。なぜなら、たとえ悪役でもこれを受け入れることで主人公の成長が描けるのに、これをバッサリ切り捨ててしまったのでは、さてほかにどのように成長を描くとっておきのものがあるものやら、と思ったからだ。


実際には「とっておきのもの」は見当たらなかったわけだが……。


悪役はあくまで主人公を引き立たせるためにあるのであって、悪は悪として叩き潰すだけでは物語に奥行きは出せない。ぜひ受け入れる姿勢と心意気を示してほしかった。
                             


■ ゲド戦記の「?」―物語世界における出来事の意味―


ジブリ映画「ゲド戦記」にこんなシーンがある。


ハイタカが町の武器屋かなにかで、店員と話している。そこへ背後から魔法使いクモの手下の男が近づいてきてハイタカに声をかける。


手下の男はハイタカを探しているため、とりあえず魔法使い風の格好をしている人に声をかけて回っているのだ。


背後から声をかけられたハイタカが振り返ると、ハイタカの顔が変化している。さっきまで武器屋の店員と話していたいつもの顔ではなく、魔法かなにかで別人の顔に変わっているのである。


探している男ではないと判断した、クモの手下の男が去っていくと、ハイタカが武器屋の店員のほうに向き直る。――と、そのときは元のハイタカの顔に戻っている。


しかし、武器屋の店員は「あ、あんたいったい……」みたいなかんじで驚いてみせる。


さて、武器屋の店員はいったい何に驚いたのだろうか?


カメラワークとしては、だいたい以下のようだったと思う。


○武器屋の店員と話すハイタカの顔を映す。
 
  ↓

○背後から近づいてきたクモの手下の男を声をかける。

  ↓

○振り返るとハイタカとは別人の顔になっている。

  ↓

○クモの手下が去る。

  ↓

○武器屋の店員のほうへ向き直ると、元のハイタカの顔が映る。


つまり、観客にはハイタカが自分の身元がバレないようクモの手下にだけ別人の顔をつくってみせた(おそらく魔法によって)ことがわかる。


しかし、武器屋の店員にとってみれば、ハイタカはクモの手下の男と話すために向こうに顔をやって、またこちらに顔を戻したというただそれだけのことである。


ということは武器屋の店員が見ることができたハイタカの顔はひとつ(1種類)であったはずだ。


それにもかかわらず、ハイタカの顔が変化したことに驚いているかのようなリアクションをした武器屋の店員のカットには、きっとなにかの仕掛けがあるのか。はたまた私が気付かなかったショットがあったのかと思っていた。


この点についてジブリ映画「ゲド戦記」を観た知り合いとたまたまこの話になったところ、その知り合いも同じように思っていたことがわかった。


そもそもあのシーンは観客が驚くべきところを、驚きようがないキャラクターが驚いてみせてしまっているのではないか。


仮に武器屋がハイタカの顔の変化を知ることができる状況にあったとしても、わざとらしくビックリするのはいかがなものか。


物語づくりの基本テクニックとしては、キャラクターがビックリしたことを「びっくりした」とセリフにしてしまっては台無しになるので、例えば持っていた物を落す、といったアクションで驚いたことを表現する。


ところがジブリ映画「ゲド戦記」の武器屋の店員がびっくりしてみせたところは、観客に驚いて欲しいという作り手の気持ちが出てしまっている。


その気持ちはわからないでもないが、観客の「驚き」という楽しみを取ってしまうかのようで、たいへんもったいない。


そもそも武器屋の店員はハイタカの顔が変化したことを見ていないのだから一体なにを驚いているのかと、一部の観客に不思議に思われてしまっていては「ハイタカの顔変化」というネタの効果が薄れてしまう。


ネタの効果とは「驚き」であるが、顔変化の前フリもなくいきなり顔変化したので、たぶん魔法で都合よく顔を変えたのだろう、と観客は思う程度でそもそも驚きには至らない。


大抵のストーリー作りでは、顔を変える能力だけを持つ者Aがいて、そのAが重要な場面でその能力を活かすシーンを作ることで、観客に小さなカタルシスを与える。


「X-MEN ファイナルデジション」でいうと、壁をすり抜けられる少女がその能力を使ってどんな活躍をするのか、といったところだ。


▼「X-MEN:ファイナル ディシジョン(X-MEN: THE LAST STAND)」作品レビュー


一瞬で顔を変える(または壁をすり抜ける)という「ありえない魔法(能力)」に一連の流れを付けて「ありえない世界」においても、ある一定の制限(Aというキャラクターは顔を変化させるというひとつの能力しかない。または壁をすり抜けるというひとつの能力しかない)があることを示すことによって、観客に物語世界の枠組みを捉えさせることができるのだが、はたしてジブリ映画「ゲド戦記」ではこの効用を意識しているのだろうか。


ちょっと想像してみよう。もしも物語世界に枠組みがなかったら?


魔法使いだからなんでもできるなら、どんな物語構築上の障害を設定しても、どうぜ魔法でどうにでもるんでしょ、と観客に思われたらおもしろみはなくなってしまう。


「ドラえもん」が1話で1個のアイテムしかポケットから出さないのはこのためである。ひとつのアイテムにはひとつの効果がある。1話でいくつもアイテムが登場してはストーリーが破綻してしまうからだ。


そのためドラえもんの映画では、ストーリーを用意して、その目的を果たす為に複数のアイテムを使うという手法を使っている。


ハイタカは大賢人だという。それがどのくらいすごい魔法使いなのか詳細はわからないが、その呼ばれ方からしておそらく使えない魔法はないというぐらいの大魔法使いなのだろう。


では「ロード・オブ・ザ・リング」の魔法使いがあまり魔法を使わずに、その杖で敵をバンバン叩いていたのはなぜか?


魔法ばかりを使っていたのでは、物語世界の枠組みが薄れるからだ。


さてさてジブリ映画「ゲド戦記」のハイタカ顔変化のシーン。武器屋の店員がハイタカの顔変化を知るカットを私が見逃してしまっただけなのだろうか?


こういった「?」のシーンは、推理モノにはよく使われる。


例えば日本テレビで放送された「名探偵コナン」実写版「工藤新一への挑戦状―さよならまでの序章―」では、バスガイドの西田麻衣(水川あさみ)のセリフに「?」というのがあった。


もちろんこの場合はその「?」が重要な手がかりになっていた。


つまり、観客に「?」と思われる部分があるとすれば、そこには必ず意味がなくてはならないのである。


物語世界では意味もなく雨は降らないのである。雨が降るには必ずなにかの意味がある(主人公の心情を表す。足跡を消す……等々)。


ジブリ映画「ゲド戦記」のハイタカ顔変化のシーン。そこにはいったいどんな秘密(意味)が隠されているのだろうか? なにかがあるにちがいない。なにせ天下のジブリ作品なのだから……。

■ 脚本講座の生徒でもふつうはこうする


この際、原作「ゲド戦記」は棚に上げて(まったく関係なく)脚本講座の生徒でもふつうはこうするというのを提示してみることにする。


好き勝手やっているやんちゃ兄王子(長男・主人公)弟王子がすこぶるまじめで人望も厚く次期王にとの声が多い。そのためやんちゃ兄王子は弟王子を憎んでいる。
 
 ↓

遊びたくて、一旗上げたくて無理を言って父王の財産を分けてもらい旅立つ兄王子。
 
 ↓

分けてもらった財産で傭兵団を作り、父王の名を借りずに自分の名を上げようとする。しかし腕は立つが野心が強くて部下の信頼を得られず、大事な戦で部下の裏切りにあって敗戦。やがて資金が尽き、傭兵団は消滅する。
 
 ↓
                             
傭兵団でやんちゃしたツケで首に懸賞金をかけられてひとり逃げる日々。やがて食べるものにも困り、奴隷になる。

 ↓

奴隷の漕ぎ手として商船に乗り込まされた主人公は、それまで偏見を持っていた異国の青年奴隷に助けられ、危険が伴ったいくつもの航海を乗り切る。

 ↓

ある航海で嵐にあい、船もろとも置き去りにされそうになったところで異国の青年奴隷と力を合わせて奴隷見張員から鍵を奪い自由の身になる。このとき他の奴隷も解放する。船は沈没。嵐の海を生き延びて島へ漂着。

 ↓

生き残った元奴隷たちと共に島で暮らす。共同作業を通して異国人への偏見をなくし、友人を得る。島の娘と恋に落ち、愛情を育む。友情と愛情を得た主人公は、遠い噂で弟王子が戦地で窮地に陥っていることを知る。
                             
 ↓

元奴隷で友人になった者のなかには元軍人や没落貴族がいた。そこで船を調達して没落貴族の隠し財産がある島へいき、資金を手に入れ、元軍人たちが声をかけて集めた猛者たちと共に義勇軍を結成する。
 
 ↓

義勇軍を率いた兄王子は、弟王子を救うべく救援に向かう。
 
 ↓

弟王子の軍を助け、大勝利を収める義勇軍。助けてくれた義勇軍の長が兄王子だと知った弟王子は、たいそう喜んで駆け寄る。するとかつてのやんちゃ兄王子(主人公)は弟王子の足元にひざまづいてこう言う。「自分は勝手に国を出た身。あなたの家来にしてください」すると弟王はこう答えた。「父は1年前に亡くなりました」そして主人公を立たせてその手を高く掲げる。「わが兄、わが国王に祝福を! 万歳!」
                             

タイトルは「王の帰還」。


っておもいっきりパクリではないか!(笑)


タイトルだけではない。この展開は主に3つの有名な物語の要素をふんだんに取り入れている。ひとつは「ベン・ハー」。さらに「グラディエーター」。「グラディエーター」は「ベン・ハー」を研究して、ほかに旧約聖書のヨセフの物語なども取り入れた作品であることはピンとくる作品だ。


そして3つめは「放蕩息子の話」である。「いなくなった息子」ともいわれるこの物語は、新約聖書のルカによる福音書第15章にある。


「放蕩息子の話」では弟息子が主人公だ。彼は財産を分けてもらって町に行き、さんざん遊んでいたらお金がなくなり、友達もいなくなり、飢饉になって豚の世話人になった。お腹が空いて豚の餌を食べたいと思ったときにようやく我にかえり、父の家に帰って使用人として使ってもらおうと出発する。
 
                            
父は、息子がまだずっと遠くにいるのにその姿をみとめ、走って迎えにいって、帰ってきた息子のために祝宴を開いた。


こういった有名な物語をつなぎ合わせてみたのだが、いかがだっただろうか? ほかにも奴隷となった主人公が、それまで偏見を持っていた異国の青年に助けられて友人になるというのは、エドワード・ノートン、エドワード・ファーロング出演の映画「アメリカンヒストリーX」に似たようなプロットがあるのを思い出したので取り入れてみた次第である。

■ スタジオジブリの悲劇!?


思いつきでサッと書いてみた「脚本講座の生徒でもふつうはこうする」は、ちょっとでも脚本を読んだことがる人なら、いやちょっとした映画好きならだれでも思いつくことだ。


まして、ヒット作をいくつも制作しているスタジオがこうした物語構築上のお約束(基本形)を全くといっていいほど無視するとは、普通ならば考えられないことだ。


あるとすれば、とんでもないドンデン返しのためにあえて基本をすっ飛ばしたと考えるしかないのだが……どうもそうでもないらしい。これはスタジオジブリの悲劇といってもいいのではないか。
                             


■ スタジオジブリに必要なこと


それは、優秀なアニメーターという腕のいい職人さんたちが存分に力を発揮できる環境を未来にわたって構築していくことを、いますぐにでもはじめることだ。


「ゲド戦記」を観て切にそう思った次第である。


ほか関連記事

▼「ゲド戦記(TALES from EARTHSEA)」作品レビュー


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MC狙いの雛壇芸人監督作「ドロップ」は露骨すぎる!?


▼「ドロップ」
品川ヒロシ監督 
2008年 122分 日本
原作:品川ヒロシ『ドロップ』


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Comments(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
(お笑い芸人コンビ「品川庄司」の品川ヒロシが自らの青春時代を元に書いた同名小説を自ら監督〈脚本も〉した作品)

注:品川祐は作家や映画監督では品川ヒロシ名義で活動しているため、本記事においては主に「品川ヒロシ」の表記とする。


以下、映画単体でのレビューである。


不良にあこがれて私立中学から公立中学に転校した信濃川ヒロシ。転校初日に学校の不良グループのリーダー井口達也に呼び出されて喧嘩したことで、その仲間になる。


品川監督は本作を青春映画だと言っている。

「ただの不良映画ではなく、観ていて楽しくなる青春映画に仕上げたかった。」(品川ヒロシ)


不良が主人公というよりも、たまたま趣味が不良だったというようなかんじだ。青春のいちページを描く題材として、より身近な学生時代のエピソードに「不良」を借りてみただけのようにみえる。


東京の調布や狛江あたりに限らず、どこにでもいる少年たちの日常の話である。


不良……。これはなかなか強力な題材である。特に若者である場合には、それは大人社会への反抗の象徴として使える魅力的な題材である。広い意味での青春だ(これをAとする)


それと同時に、男たちの数取り(椅子取り)ゲームとしても需要がある。このゲームは大人の男も大好きだ。社内の派閥争い。業界地図再編。政権交代……等々。これは青春からは距離を置く(これをBとする)


Aでいくのか、Bでいくのか、おもいっきりどちらかに舵取りをしなければ、「不良」は強力ゆえにその扱いがあいまいなまま焦点がボヤけてしまう。


残念ながら映画「ドロップ」はその例に当てはまってしまったようだ。


「ドロップ」が青春に舵をとったのならば、おもいきって「不良」は味付け程度でじゅうぶんであった。極端な話、喧嘩シーンは無くてもいい。


ところが「ドロップ」では不良たちのアクション(喧嘩)シーンがけっこうある。おそらく監督がアクションが好きなのだろう。不良モノだから喧嘩シーンを入れるのはあたりまえという感覚で、好きゆえに力が入っている。


ボコボコにする・されるシーンがけっこうあるため、観客はB(バリバリの数取りゲーム・不良モノ)を目指した作品だと思っていいのか戸惑っていると、物語が中盤を過ぎたあたりから急にBでもなくAでもなく、Cが前面に出てくる。


Cとは、直球のお涙頂戴系をモロに狙いすぎてしまった青春ドラマである。これが監督のやりたかったことなのだろうか。


青春を描く方法にはいろいろある。題材はなんでもアリだ。不良はそのうちのひとつではある。


ならば、徹底的に不良を描くことで青春を浮かび上がらせることもできる。その好例には「クローズ ZERO」シリーズがある。


▼映画「クローズ ZERO」作品レビュー

▼映画「クローズZERO II」作品レビュー


これら「クローズZERO」シリーズの映画では、どんだけ~といわんばかりに登場人物たちはガンガン喧嘩する。痛さはあまり感じられないアクションとはいえ、とにかく殴りあい蹴りあい、吹っ飛びまくる。大乱闘どんちゃん騒ぎである。


そこまでやってはじめて、ジワ~と青春のいちページが浮かび上がってくるのだ。


一方で「ドロップ」は、途中から急に取ってつけたようなお涙頂戴ドラマになってしまっている(具体的には、身近な大事な人の死である)


ただ喧嘩するだけじゃなくてしっかり愛や友情も盛り込んでいるんだよ、と制作者が前へ飛び出してアピールしてしまっているのだ。


物語よりも、その裏側が「狙っている」モノのほうが目立ってしまっているのである。


「ドロップ」を観ると、お笑い芸人の土田晃之が、雛壇芸人のなかでも品川くんはMCがやりたくて雛壇をがんばっている系ですね、といったようなことをコメントしていたことの意味がよくわかる気がする。


狙っているモノが目立ってしまうのは、初の長編監督デビュー作だからしょうがない。まして成宮寛貴や水嶋ヒロといった有名イケメン俳優や名の知られた芸人たちも起用できるとなれば、浮かれるな、というほうが無理ではある。


それらを考慮しても「狙い」や「浮かれ具合」が露骨すぎるのだ。この露骨さが活きるのはお笑いの場合や、学芸会といった場所である。


「ここでお涙いただきます!」「俺ってデキるでしょ!」「こんなに有名な俳優さんを使えてスゴいでしょ!」という声が聞こえたと錯覚しそうになるような、そんな「イタさ」は芸人としてはアリだ。品川ヒロシが有吉弘行に「おしゃべりクソ野郎」とあだ名を付けられたことは、芸人としてたいへんオイシイ。


それでもお笑い以外の領域ではマイナスに働いてしまうことがある。これに見事にハマッてしまったのが「ドロップ」ではないだろうか。


観客の多くは芸人「品川祐」を知っている。雛壇芸人として活躍したり、小説を書いたり、俳優をしたり、歌を歌ったり……。


多才で幅広く活躍する品川ヒロシを知っている。しかも「ドロップ」は彼の青春時代を元にした作品であることも知っている。


これほど「顔」が見られている中でつくる作品は、宣伝としては有効であると同時に「品川祐(品川ヒロシ)」という記号が「物語自体の魅力」を邪魔するリスクもある。


物語よりもその裏側で「狙っている」モノのほうが目立ってしまってることがわかりやすく出てしまっているのはお涙頂戴シーンだけではない。主人公ヒロシがヒロインの女性に告白するシーンも狙いすぎだ。お笑いの技を使ってみました、といわんばかりである。キャラの心情ではなく、制作者の心情が出てしまっている。


もしも、なるべく「品川ヒロシ=我」を抑えて作品づくりに専念できたなら、とんでもなく感動する作品になっていたかもしれない――。


品川ヒロシは多才で、器用で、頭がいいとするならば、それ故にデキる者だからこそ見落としがちな小さな石に躓かないよう気をつけてほしかった。


芸人は「前へ前へ」の強い気持ちが必要だが、物語づくりにおいてはそれを力強く持ちつつも、そっと作品の奥深くに込めなくてはならない。


それをするには「観客第一」を念頭におく必要がある。


品川監督が目指したと言う「観ていて楽しくなる青春映画」は、誰が楽しいのかを考えなくてはならない。制作者ばかりでなく、第一に観客が楽くなければならないのだ。


「ドロップ」を観ると、いったいこれは誰に向けて作られのだろうかと思える。


監督が考える偉い人やスゴい人に褒めてもらいたくて、またはもっともっと自分はスゴいんだとたくさんの人に認めてもらいたくて一生懸命に作りました感が前面に出過ぎてしまっている。


そのため、観客はおいてきぼりに。


それは上映時間にも表れている。このテイストの作品で122分は長い。スパッと90分ぐらいでじゅうぶんだ。


初の長編監督デビュー作であり、自身の青春時代を元にしたことからも思い入れが強くなのはしょうがない。だからこそ他人も「思い入れて」もらえるよう「余計な思い」をそぎ落とせたなら、90分ほどになっていただろう。


たいがいの青春映画はオジさんやオバさんが作っている。だからこそ、青春時代との距離がとれる。それが最大の利点だ。距離とは「我」の抑え具合であり、客観であり、観客目線への想像力である。


品川ヒロシ(品川祐)は1972年生まれの39歳。青春作品を作る一般的な例にもれず立派なオジさんである。最大の利点が活かされるはずが、まるで学生映画研究会での初監督作品のようだ。


ほんとうの学生作品ならば、それが荒削りであっても「青春」に間違いはない。


ちなみに青春の現役がつくった作品を元にした映画はちら↓

▼「キャッチ ア ウェーブ(CATCH A WAVE)」作品レビュー


ずいぶん辛口になってしまったようだが、才能があるといわれるような人がその用い方をうまくできないためにもったいないことになっている例はいたるところに転がっている。そうならないよう願う次第である。


品川ヒロシはかつて「お笑いをやったことがない人にお笑いのことをとやかく言われたくない」といったようなことをテレビで言っていた。(注:発言内容は正確とは限らない)


結論からいうと、それを言ってはおしまいである。


お笑いでも映画でも、呼び名は何でもいいが、そこに観客(や評論家)がいるから評価してもらえる。


例えるならば、サッカーをやったことがないからと日本代表選手たちが活躍するW杯の試合にコメントしてはいけないだろうか?


そんなことはないはずだ。たとえサッカーをやったことがなくたって、そのスポーツを愛する人や、何かに一生懸命にがんばる者を応援したい人は観戦しておおいに語らう。そうすることで盛り上がり、選手もチームも強くなっていく。


この点においては、お笑いも映画も同じである。


自分にとっていいこともわることも、話題にしてもらえることで宣伝にもなるし、それによって支えられるのである。


先の品川ヒロシの発言が本気なのか、現在はどうなのかはわからないが、もしも当時のまま本気でそう思っているなら、もったいないどころじゃない。


多才。器用。頭がいい。そこにスマートさが加わったとき、とんでもないことになる…と期待したい。


ちなみに上記すべてが揃っているお笑い芸人には、劇団ひとりがいる。

▼小説「陰日向に咲く」記事


さらにちなみに、不良モノでもおもいっきり学芸会に徹すると宣言することで、かえってエンタメを加速させている作品に「マジすか学園」シリーズがある。ここまで出来るのはさすがは秋元康。ホンモノの玄人技とはこういうことをいう。

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そのほか不良青春作品のおすすめを紹介しておこう。女性目線の「不良モノ」の金字塔だ。もちろん男性もおさえておくべき作品である。その世界観と読者の心の琴線に触れる手法は一読の価値がありすぎる。

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映画「告白」は正真正銘のジャパニーズホラー

「告白」
中島哲也監督 2010年 日本
原作:湊かなえ『告白』双葉社
 

Comments(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
【これは中学生の話ではない。正真正銘のジャパニーズホラーだ。なぜ人気なのか? なぜ衝撃的なのか? 予想外の方向から押し寄せる共感の波とは?】

はじめに言っておこう。独白は極めて小説に向く。映像には不向きだ。

ナレーションやセリフで説明すればするほど、作品はどんどんチープになっていく。

そんなことは百も承知。ならば逆におもいきって独白ばかりの映画を作ってやる! と思ったかどうかはわからないが、あえて映像でやってやろうという心意気がハンパなく伝わってくる。

そんな映画『告白』の話をさっそくはじめよう。


■ 独白に聞こえる語りが人間関係を表す

終業式後のホームルーム。まるで本を淡々と朗読するかのように話し続ける女性教諭・森口悠子。

彼女が担任する1年B組の37人の生徒たち(13歳)は、ほぼだれも真剣には聞いていない。

つけっぱなしのラジオの音声にときおり生徒がバラバラに反応するかのような時間が流れていく。

これは、森口悠子はこれまで生徒たちの親身になりながら親しみを込めて話しかけてきたが、生徒たちと心が通い合うことはなかったことを表している。

少しでも心が通い合っていれば、いくら浮かれているとはいえ終業式後のホームルームである。今学期最後の担任教師の話をたとえ形だけでも聞く姿勢をみせるだろう。

だが、森口悠子の話はまるでそれが独白かのように淡々と続く。

その淡々とした様子が、頑張れば頑張るほど空回りしつつもそれでも健気にがんばってきたにもかからず数ヶ月前に学校のプールで一人娘が死亡したことで森口悠子が復讐を決意したという「告白」への前フリとなってジワジワとカウントダウンを促すかのように観客に迫るのだ。

そしてその復讐のはじまりを宣言するときは刻一刻と近づいていた……。


■ 妄信者たち

さてここで実際の話をひとつ。先日、中学校の男性教諭が自分のいじめ体験を笑われたことに腹を立て「公開処刑だ」と生徒に体罰を加えたと事件があった。

この男性教諭は「伝えたいことが伝わらなかった。感情的になった」と話しているという。

教師を目指す人や、教師と呼ばれる人のなかには、ときに幻想を抱いて現場にやってくる者がいる。

本人はそれを信じて疑わず、情熱を注げば注ぐほど、それが幻想であったと気づいたときに感情的になったり、もぬけの殻のようになったりする。

それを露骨に体現するキャラクターが、後任の熱血男性教師ウェルテルだ。

そんなウェルテルを操るのは、森口悠子にとっては造作もないことである。

なぜなら見た目やスタイルこそ違えどもウェルテルと森口悠子は「幻想」を抱いていた・いるという根本部分において同じだからだ。

ふたりとも、熱意を持って生徒に接すればきっと心を開いてくれると頑なに信じて疑わなかったからだ。

その根底には「わかりあえる」ことが前提にある。わかりあえるはずなのだから、その障害となっているものを情熱で取り除くことができると信じきっている者たちだ。

ところが世の中には「わかりあえない」ことを前提としなければならない場合や、そうしなければならないことがある。むしろ、こういうほうが大部分といってもいいだろう。

わかりあえないからこそ、お互いの価値観をできるかぎり尊重してよりよく共存できる道を共に探ろうとするのだ。

前提の部分に「わかりあえる」とする人は、たいてい自身の価値観に他人を合わせようとする。わかりあえるはずという思い込みがすでに自分の考え以外の存在を認めようとはしないからだ。

これはまさにウェルテルである。そして森口悠子もそうであるからこそウェルテルを操ることができたのだ。


■ 似たもの同士

さて復讐する側(女教師・森口悠子)と復讐される側(犯人A・犯人B)もたいへん似ている。

頑張れど頑張れど振り向いてもらいたい相手には振り向いてもらえない。虚無感に押しつぶされそうになっている者たち。

そこには、教師・生徒という垣根はない。

同じような悲しみを内に秘め、虚無感に押しつぶされそうになりながらもなんとかやってこれたのは、自分だけの「希望」があったからだ。

それは、女教師・森口悠子にとっての一人娘であり、犯人Aにとっての母親であった。

やがて些細ともいえるイタズラをきっかけに、女教師・森口悠子は一人娘を失う。

ただひとつの「希望」が消えたとき、女教師・森口悠子はわずかな良心を残しながらも憎しみの炎を抑えることはできず、復讐を決意して実行する。

一方で、やっと振り向いてくれる相手を見つけたとおもった少女Aも、それが幻想だと気づいたときにはすでに自身の命の灯火が消える寸前であった。

だれもが小さく消え入りそうな「希望」をやっとみつけて大事にしてきたのに、いとも簡単に奪われてしまう……あとに残るのは、復讐心。


■ 実は単純な物語?

人は弱いものだから、だれでも復讐に走りやすい。ただ「告白」以外の物語の多くは、単純な物語を除き、復讐を題材にしながらも復讐以外の道を示して登場キャラクターの成長を描く。

単純な物語とは「ギャングに家族を殺された父親が、たったひとりで復讐を果たす」といった、どこにであるハリウッドのアクション映画の典型である。

そんな復讐劇が痛快になるのは、それが娯楽アクション映画だからだ。

ところが映画「告白」はアクション映画ではない。だから観客は復讐を成し遂げるためにどんどん鬼と化す登場キャラクターに新鮮さを感じ、衝撃を受けるのだ。


■ 救いなき物語

実は映画「告白」は陳腐に思えるほど見飽きてきたお約束の「復讐系娯楽アクション映画」の別バージョンである。

もちろん、ポピュラーな基本型を使っても新鮮に思えるのは、原作者と監督の力量によってである。

そして物語の基本型(復讐劇)を用い、物語の途中で復讐心ををさらに燃やすあたりは、なまじ娯楽としてのアクションを使っていないがためにかえってモロに観客の心に突き刺さる。

例えばヒーローがギャング団のアジトを攻撃して壊滅させるシーンがあれば、その娯楽アクションによって観客はカタルシスを得る。観客の欲求(悪を倒す)が満たされるわけだ。

アクションシーンによって、映画の目的=観客の満足を提供しているのである。

その点でいうと映画「告白」は観客の欲求(悪を倒す)を巧みにズラす。

当事者それぞれに観客は感情移入する部分があるのに加えて、誰の目にも明らかな絶対に倒すべき悪人というキャラクターが決まっていないためにそのようなズレが生じる。

絶対的な「悪」云々ではなく、同じような境遇や悩みや思いをもつキャラクター同士が、些細なきっかけで崩壊していく様子をそれぞれの告白という手法によって神の視点でみるとき、観客はそこに救いを見い出すことができない。

「復讐系娯楽アクション映画」でさえ、カタルシスという救いがある。

だが映画『告白』には、救いがない。

救いがない映画はこれまでにもたくさんあるが、それらはたいがい、救いのなさのなかに少しばかりの救いへの「希望」をいくつか挟み込むことで「救いのなさ」を盛り立てた。中島哲也監督作品の例でいえば映画『嫌われ松子の一生』がそれだ。

どう見ても不幸な松子の一生だが、本人はウキウキバラ色の心の風景がたくさん描かれていたのが印象的な作品だ。

だが映画『告白』には、たとえ悲惨な状況でも気持ちひとつで世界が変わる、といったような救いもない。

希望を挟み込む余地がない。なぜなら、希望が完全に消えた後の物語だからだ。

かろうじて少しだけ残されていた良心でさえ完全に捨て去り、まさに復讐の鬼と化す過程を淡々と描く物語はたいへん珍しい。だから衝撃的なのだ。


■ これは中学生の話ではない

教師、少年A、少年Bといった役割の違いはあれど、彼らは同じである。

森口悠子がクラスでのいじめを狙いどおりにさせることができたのも、彼女が生徒たちと同じ土壌にどっぷり浸かっているからこそできたのだ。

高見広春の小説で映画にもなった『バトル・ロワイアル』は中学生同士が殺し合うという内容で衝撃作といわれたが、映画『告白』でやっていることもほとんど同じである。

生徒、教師という記号には意味がない。「中学生ほどの者たち」がお互いに泥沼の殺し合いをエスカレートさせていく。

『バトル・ロワイアル』にはそれでも生き抜こうとする男女がおり、絶望の中に一筋の希望があった。

だが映画『告白』には、救いがない。

どこまでも救いがない映画がこれほど注目を集めてヒットするのは、これが中学生の話ではないからだ。――日本の話だからだ。

だからこそ日本で生まれ育った多くの人々に衝撃を与える。

少年法が盾になり、なにも怖くないこども同士がどこまでも徹底的にやりあう。

そんな恐怖はおそらく日本にしかないだろう。それを皆なんとなくわかっている。わかっているからこそ、そのモデルが提示されたことに衝撃を受け、共感したのである。

共感という波がとんでもない方向から押し寄せてくる意外性にハッ!とする人が多いのだろう。だから人気なのだ。


■ 正真正銘のジャパニーズホラー

これはジャパニーズホラーである。ホラーはその国や地域や時代を映す鏡ともなる。

映画『告白」という鏡に映し出された日本の姿に共感した人はかなり多いようだ。

おわりに、中島哲也監督作品の最大の旨味を伝えておこう。それはキャスティングである。

松たか子。木村佳乃。岡田将生。

その俳優に最も適した役をやらせるのに中島哲也監督の右に出る者はそうはいない。

それぞれの役者にとってこれ以上ないという適役がみられる、またとないチャンスだ。

そういう意味で作品を観るのもいいだろう。

さぁ、正真正銘のジャパニーズホラーをご堪能あれ。


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映画「クローズZERO II」


▼「クローズZERO II」
監督:三池崇史
2009年/日本/133分
原作:高橋ヒロシ『クローズ』


「ZERO」なのに「II」ってどういうことやねん!


とおもわずどこぞのお笑い芸人がツッコんだという話題のやんちゃ映画を紹介しよう。


前作「クローズZERO」は、原作の1年前に起きた抗争を描いたもの。だから「ZERO」なわけだ。そしてZEROのその後を描いた作品が「クローズZERO II」というわけである。


「クローズZERO」で滝谷源治率いるG.P.S(ゲンジ・パーフェクト・制覇)が芹沢多摩雄率いる芹沢軍団を僅差で負かした。


不良たちの巣窟でいまだかつてその頂点に立った者がいない鈴蘭高校をついに源治が統一したか! と思われたが「クローズZERO II」ではどうもそうでもない。


相変わらず芹沢軍団は存在するし、他の勢力グループもある。みんな源治の強さは認めるものの、その配下に入ったわけではない。だからG.P.Sは相変わらず鈴蘭高校の一勢力にすぎない。


内部がまとまらないときはどうするか。米国なんかみると典型だが、そういうときの常套手段は外に敵をつくることだ。


そこで登場するのが鳳仙学園である。転校生の源治は鈴蘭高校と鳳仙学園との血の抗争の歴史を知らず、両校の休戦協定を破ってしまう。


鳳仙なめんなよ。ニャー! とばかりに(なめ猫? 映画でニャー!は言ってないぞ)鈴蘭高校と互角かそれ以上のケンカ強さを誇る鳳仙との全面戦争に突入するには、G.P.Sだけでは負けるのはやるまえから目にみえている。なんってたって頭数が足りない。


やるなら鈴蘭高校の全勢力を結集しなきゃならねぇ。


仲間思いの源治だが、もともと人付き合いが苦手で単独行動が目立ことからG.P.Sのメンバー以外にはいまいち慕われていない。源治が全校生徒に鳳仙への殴り込みを呼びかけても、集まったのは一部。


俺たちだけじゃ負けは目にみえてる。どうする源治? というG.P.Sのメンバーの問いに、源治はG.P.Sの解散を宣言する。


あきれるG.P.Sメンバーがいるも、源治の真意を知った鈴蘭高校の漢(おとこ)たちは……。


力だけじゃ人をまとめられない。そこにハートがなくちゃ! というお決まりの典型パターンには安定感がある。


そこに人気若手イケメン俳優を集めて、キャラのバリエーションの広さと、多少無理気味な笑いのジャブ、そして片桐拳というキャラクターのとってつけた感がぬぐえない義理人情コーナーも付ける。


けっしてスマートとはいえないが、そんなちぐはぐさがかえって男っぽい。


手のかかる子ほどかわいいというが、まさにそんな作品だ。


これを狙って作ったのか、たまたまそうなったのかはわからないが、男はなんだかんだいってこういう話が大好きである。


それに、この作品には教師が出てこない。高校生が主役の作品にもかかわらずそのものズバリの学校の先生は、その存在の雰囲気さえ皆無だ。


不良とくれば、そこに熱血教師をぶつけて感動を狙うというのはドラマの世界では定石である。だが映画「クローズZERO」シリーズではそういったことはしない。


高校OBの片桐拳や源治の父親や同じ高校生たちとの関係を通して、主人公は自身の悩みや障害(物語上のコンフリクツ)を乗り越えようともがく。


いうまでもなく、現実には金八先生もラグビー部監督で教師の滝沢賢治(スクール☆ウォーズ)もヤンクミ(ごくせん)も野球部顧問で教師の川藤幸一(ルーキーズ)も存在しない。


存在するのは、それら架空のキャラクターに憧れる者たちだ。


憧れと願望に応えて熱血教師を登場させれば、これほど楽なことはない。


ところが「クローズZERO」シリーズはそのものズバリの教師をぶつけることはせずに、高校OBでチンピラだが熱い魂を持っている片桐拳や、組長の父親や、ライブハウスの女性ボーカリスト逢沢ルカや、同じ高校生たちとの係わり合いで「青春する」。


熱血教師とのぶつかりという「作られた感がベットリの青春」に走ることなく、身近な人々とのさまざまな係わり合いを通して「青春の一ページを作り」あげている。この点がたいへん好感が持てるのだ。


坊主と学ランが入り乱れてひたすら殴り合う映像は痛さが伝わらずにまるでテレビゲーム(ビデオゲーム)のようでもあるが、なるほどこれは野郎共も楽しめるイケメン大運動会ととらえるならば、なかなか飽きさせない催しモノであった。


「クローズ ZERO」からの流れがわからないと「?」なところがあるので、前作を観てからの鑑賞をおすすめする。

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▼映画「クローズ ZERO」作品レビュー

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こちら↑は女性におすすめの「不良もの」です。
少女の心の機微を描くことに定評のある作者の渾身の一作。
女性目線の「不良もの」の金字塔です。もちろん男性もおさえておくべき作品です。

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映画「容疑者Xの献身」

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▼「容疑者Xの献身」
監督:西谷弘
2008年/日本/128分
原作:東野圭吾『容疑者Xの献身』


「容疑者Xの献身」は東野圭吾の物理学者湯川シリーズ「探偵ガリレオ」「予知夢」のドラマ化で高視聴率を記録したテレビドラマ「ガリレオ」の劇場用映画作品です。


しかし映画作品のタイトルに「ガリレオ」ということばを使っていません。


実際、ドラマと映画ではちょっと違います。


もちろん映画でも天才物理学者の湯川教授役の福山雅治や、刑事役の柴咲コウといったキャストはドラマと同じですが、その内容や雰囲気は別物といってもいいかもしれません。


ドラマのほうがコミカルで明るく、映画のほうがシリアスで暗いといってしまえばそれまでですが、ドラマを見たことがない人でも十分楽しめる映画作品になっています。


ドラマから映画へ、という作品の多くはドラマのファンをメインターゲットとしていますが、映画単体でもじゅうぶんOKな「容疑者Xの献身」は、やはり原作小説がすばらしいからでしょう、ドラマの固定ファンのみならず幅広い層の人々にアピールする力を持っています。


とかいいつつ、私は原作小説を読んでいません。おそらく、原作小説を読んだ観客は、原作のほうがいいと言うでしょう。でも原作のある映画についての原作ファンの感想は、たいがいそんなものです。


文章と映像。それぞれの領域でがんばって作った結果、それ自体でおもしろいかどうかが大事なのです。その点、映画「容疑者Xの献身」はじゅうぶんに観る価値のあるスゴい作品です。


謎解きやトリックを用いるドラマや映画では、その謎の「方法」だけでなく「動機」も重要で、むしろ動機にこそ「人間」が描かれる度合いが大きく、その内容如何によって作品の評価もおおきく違ってくるもの。


「容疑者Xの献身」では、誰が犯人かは初めに明らかにされます。


観客に与えられるのは、殺害という事実の隠ぺい工作にどのようなトリックが使われているかという謎と、隠ぺい工作を行う天才数学者・石神哲哉(堤真一)の動機の謎の解明のカタルシスです。


このうち、観客をミスリードさせる隠ぺい工作の巧みさは見事です。本格推理かどうかという論争(?)もあるようですが、特別な思い入れのあるコアな推理ファンでなければ、そのあたりは気にしなくてOKです。


私は推理モノの作品はあれこれ推理せずに作者のミスリードにも素直にノッて楽しもうとすることが多いのですが、それがミスリードであるとミエミエでない程度にうまくミスリードするあたりは、さすが東野圭吾の原作ですね。


そして天才数学者・石神(堤真一)の動機の謎については、原作ファンたちにとっては物足りなさを感じるようです。どうやら原作ではそのあたりについて納得できる詳細なシーンが書かれているようなのですが、映画では時間の都合上、細部にわたって映像することは難しいとする声があるようです。


具体的には、映画作品では天才数学者・石神役の堤真一が男前であることや、高校教師である彼の職業や生活がそれほどわるい(悲惨)とは思えないところにあるようです。


原作小説では石神がどのように描写されているのかはわかりませんが、たしかに石神役の堤真一は地味なスーツ姿で終始うつむき加減で冴えない中年男を演じています。でも、なにぶん堤真一は「素材」が良くて男前なために、容姿的にイケてないのではなく、服装がイケてないだけという印象を与えやすいでしょう。


さらに映画作品中の、大学の同期生である湯川教授への石神のセリフに「君はいつまでも若々しくていいな」といった意味のものがあり、これが動機に関する重要な点となっているからも「石神の容姿」はもっとみすぼらしいものではくてはならないという声もあるようです。


そういった意味でも、石神役を堤真一にしたことをミスキャストとする意見もあるようですが、むしろリアリティがあると思います。


というのは、ある程度の容姿の良し悪しはパッと見でわかるものの、そうはいっても容姿の良し悪しは好みの問題でることがほとんどだからです。


ずっと自分がイケメンだとおもっている三枚目なんて、世の中には星の数ほどいます。


裏原あたりでオシャレのカリスマといわれている人だって、そこが原宿界隈でファッションが個性的、というか奇抜だからそう自称しているだけで、よく見たら冴えないオッサンだったということは、よくあることです。


他にも、多くの人たちは美人だと言ってくれるのに、自分の鼻の高さが足りないと思っているのでとうてい美人とは思えずに人目をさけるようにしている、なんてこともありがちです。


結局「見せ方」の問題だったり「自分の理想とのギャップ」の問題だったりというのが「美」や「容姿」のリアルなところでしょう。


天才数学者の石神は、それなりの小奇麗な見栄えのいい服を着て堂々としていればかっこいい男性です。腹も出ていませんし、身長もそこそあるし、禿げてもいません。給料や待遇だってけっこう良さそうな安定した高校教師すし、住まいだって都内の2DKぐらいのアパートです。


独身だし、お金のかかる趣味もないようですから、もうちょっと家賃の高い立派なマンションにだってその気になれば住めそうです。


容姿的にも経済的にも世間的にも、わるくありません。というか、婚活中の独身アラサー・アラフォー女性にとっては結婚相手として申し分ないんじゃないでしょうか。


ところが石神は天才数学者でありながら家庭の事情で大学に残ることができなかった。もしも大学で研究を続けていればまちがいなく教授になって数学の研究を続けていたことでしょう。


そもそも数学というジャンルは、数学者の数も少なく、大学以外で活躍できる場はほとんどないと言っていいかもしれません。


化学や物理学なら、企業の研究所で働くという道もいろいろありますが、数学というジャンルは数学者の数もほかの分野に比べると少なくて、活躍できるフィールドも少ないとどこかできいたことがあるように思います。


それに石神はただの数学者ではありません。天才物理学者の湯川教授が認める、天才数学者です。


類稀なる能力を授かったのに、それを発揮する場を得られない。


それは、絶望の中にいることを意味します。


絶望から彼を救ってくれたのは、新たな光。具体的にはアパートの隣の部屋に引っ越してきた花岡親子(母娘)です。


唯一の希望だった数学の道を閉ざされたと感じ、絶望の中にいた石神が数学以外の希望の光をみつけた。


その意義の大きさを想像するならば、石神の容姿や待遇が世間一般的にみて悪くないどころか、良いほうにおもえればおもえるほど、リアリティが増すのです。


昔は数学さえあれば、数学さえできれば良かった。しかしその唯一の数学研究の職の道が閉ざされて絶望の中にいたときに射し込んだ一筋の光。


石神の容姿や待遇が良ければ良いほど、彼の心情のリアリティが浮き彫りになるのです。


だから、原作小説で石神の容姿や待遇がどのように描かれているのかは知りませんが、映画「容疑者Xの献身」で石神役を堤真一にしたのは、それはそれでじゅうぶんに「アリ」だと思います。


花岡靖子役の松雪泰子もスゴくいい芝居をしていますヨ。


なにはともあれ「容疑者Xの献身」は、心の琴線に触れる作品です。


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映画「ICHI」

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綾瀬はるか, 大沢たかお, 中村獅童, 窪塚洋介, 曽利文彦
ジェネオン エンタテインメント 2009-04-03

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監督:曽利文彦
日本/2008年/120分

コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
かつて「ジャックナイフ芸人」「2丁目劇場の黒いナイフ/黒いバラ」と呼ばれた男がいたことをご存知だろうか。

「ジャックナイフ」と呼ばれ、近づく者を怪我させそうな危険な香りを漂わせた男が、今では「バターナイフやないか」と言われて笑いをとっている。

それは千原兄弟の千原ジュニアというお笑い芸人である。

いまや売れっ子お笑い芸人となった千原ジュニア。ジャックナイフ芸人と呼ばれたのは、切れ味の鋭い芸風のみならず、どこかしら近づく者を片っ端から傷つけかねないような危険な香りを放っていたからかもしれない。

さて、女座頭市こと市のセリフに「なに斬るかわかんないよ、見えないんだからさ」というのがある。

それはまさに市の生き方を表している。育った境遇やさまざまな出来事の重なりによって、市は生きていく指針がわからなくなっているのだ。

「見えない」は市の目が見えないことだけでなく、生きていく道が見えなくなっていることを表している。

だから市は居合い斬りの技を持っていても、それをだれかを助けることに使おうとはしない。あくまで自分に関わってくるよくないと判断したものを、まるでゴミ掃除でもするかのように淡々と斬り捨てるのだ。

そんな市はあるとき、刀を抜くことができない侍の藤平十馬の命を助ける。

近づく者を斬り捨ててきた市が、人を助けるために剣を振るったことで出会いが生まれる。

近づく者を斬り捨ててきた市と、刀が抜けないのにおせっかいに人を助けようとする藤平十馬。

相反するようなキャラクターのふたりが出会うことで物語が動き出す。

そんなわけで、これはただのチャンバラ(斬り合い)映画ではない。

もしも女座頭市の居合い斬りシーンだけを期待して観るなら、作品を堪能することはできないだろう。

そもそも市の居合い斬りは迫力があるが、そうはいっても超達人技で完璧というわけではないない。木刀を持った。藤平十馬にはけっこうあっさり負かされてしまう。

それでも市の居合い斬りはスゴいのだが、悪人雑魚キャラを斬れば斬るほど市の生きることへの不器用さと孤独がどんどん積み重なっていくかのようなのだ。

それはまるで「ジャックナイフ芸人」と呼ばれて周囲を凍りつかせていた千原ジュニアの、さびしさを感じさせる背中のようでもある。

急性肝炎とオートバイ事故で2度生死の境をさまよった千原ジュニアが周囲の芸人仲間たちに支えられ、東京進出後は特に丸くなって「バターナイフ」とまで言われて笑いを取って売れっ子芸人になったように、市も藤平十馬と出会ったことで何を斬るべきか、つまりどう生きていくかの指針を得ることができるようになるのだ。

このように人生のドラマをしっかり描くことができたのは、やはり市を演じた綾瀬はるかによるところが大きい。

市のような影(立体的なキャラクター)を演じることができるかどうかは、役者としての力量と、持って生まれた容姿を含めた才能がものをいう。

その点で綾瀬はるかは、コメディからシリアスまで幅広い役をこなすことができるし、さらに「影(立体的なキャラクター)」も付けられる女優だ。

そんな綾瀬はるかを盛り立てるかのように藤平十馬役の大沢たかおもいい味を出しているし、宿場町を取り仕切る組の若頭役の窪塚洋介や、年老いた組頭の柄本明なんかもスパイスがピリリと効いている。

ところが、そんな程よい按排も強盗団の頭の中村獅童が映るたびにチープぽっくなってしまう。

ゴディバのチョコ類にチロルチョコがひとつ混じっているようなかんじだ。

もちろんチロルチョコだっておいしいが、レダラッハやヴァローナにもチロルチョコが混じっていたら、それはちょっと違うだろう、といいたくもなる。

悪役というのはたいへん難しいことは皆わかっているが、日本映画だけでなく海外の映画でも日本人の悪役の親分クラスといえば中村獅童というキャスティングは、ちょっと考えたほうがいいだろう。

悪役の親分クラスよりも、愛嬌のある下っ端チンピラ役のほうがよっぽど役者として輝けるのではないか。

悪役の親分クラスなら中村獅童にしなければならないようなシステムや慣習や圧力みたいなのがあるのか、それとも悪役は中村獅童でいいんじゃねぇ~的な安易なキャスティングなのか……。

悪役は主役以上にその作品の雰囲気に大きな影響を与えることにもうちょっと配慮してほしかった。

中村獅童は役者としてはいいが、どうも彼に合わない役どころが多すぎるようだ。宮崎あおいほどまでとはいわないが、そこそこ名のある俳優なら、役(仕事)をそこそこ選ぶことも必要だろう。

「ICHI」は人間ドラマである。チャンバラだけを期待しないように。

デート      △
フラッと     ○
演出       ○
アクション    ○
キャラクター   ○
笑い       -
映像       ○
ファミリー    -
世界観      ○
奥深さ      ◎

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映画「椿三十郎」

B0014B89YS椿三十郎 通常盤 [DVD]
織田裕二, 豊川悦司, 松山ケンイチ, 鈴木杏
エイベックス・エンタテインメント 2008-05-23

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「椿三十郎」
監督:森田芳光
日本/2007年/119分

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
――夜。社殿の中。

九人の若侍たちが上役の汚職を暴き出そうと密議の真っ最中に、ひとりの浪人が現れる。

浪人が若侍たちが頼りにする大目付の菊井こそが黒幕だと見抜いた、その矢先であった。

案の定、菊井の手の者たちによって社殿が包囲される。若侍たちは死を覚悟して刀を手に飛び出そうとするが、それを浪人が止める。

命びろいした若侍たちは浪人と共に、とらわれた城代家老睦田の救出に向かう。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△椿三十郎
浪人

△室戸半兵衛
黒藤(次席家老)の部下

△睦田
城代家老

△竹林(国許用人)、黒藤(次席家老)、菊井(大目付)
汚職の中心人物の面々

△井坂伊織
 睦田(城代家老の甥)。9人の若侍のひとり。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――

■ ただただおもしろい

この作品は黒澤明監督の「椿三十郎」のリメイクである。

リメイクするとなれば現代風のアレンジを加えて新ヴァージョンの作品を世に送り出したいと願うのがふつうだろう。

しかし、黒澤明という名に遠慮したのか、オリジナルの脚本そのままにしたことが結果的によかった。

そもそも黒澤明監督の「椿三十郎」の脚本は複数の脚本家たちによって書かれた共同脚本であるから、余分な部分を徹底的に削ぎ落として、だれにでもわかる、だれにでもたのしめる作品になっている。そんな脚本はいじりようがない。

もし脚本をいじろうものなら、観るも無残なリメイクの失敗作の代表になっていたかもしれない。

さて、とにかく黒澤明監督作品を褒めておけばまちがいないと思っている人がいないとも限らないが、なぜ彼が巨匠といわれ、なぜ彼の作品が世界中で愛されているかは、作品を観ればわかる。

「椿三十郎」にしても、ただただおもしろいのである。

人はなぜ映画を観るのか。

ただ単に、楽しみたいから。

そんなことはないという人もいるだろう。だが「ただ単にたのしみたい」という基本をしっかり理解していないと、たいしておもしろくもない作品を作ってる側の人間がおもろがってせっせと作り、ふたを開けてみたら大コケなんてことになってしまう。

その原因のひとつが「ただ単にたのしみたい」というもっとも基本となる観客の願いを忘れてしまうことにある。

黒澤明監督はこのもっとも基本となる観客の願いにどこまでも貪欲に応える。だから、ただただおもしろいのだ。

世界中のだれが観ても、どの時代のだれが観ても、わかりやすくておもしろい。

そんな作品はめったにあるものではない。

最近でいえば、ピクサーのアニメーション作品群がこれに近い。なぜピクサーにそのようなことができるのか。なぜなら、ピクサーも「椿三十郎」の脚本づくりと同じように、複数のストーリーづくりのスタッフたちによって脚本が作られているからであり、なによりストーリーづくりにじっくりと時間が費やされるからである。


■ つまみながら悪事を謀る

竹林(国許用人)と黒藤(次席家老)と菊井(大目付)は悪役である。

悪役の3人は茶室で悪事を図る。なかなか予定どおりに事が運ばないことにイライラを募らせつつ次の悪事の一手を考えるときの描写がいい。

茶室でなにやら「つまみ」を口に運びながら、落ち着かない様子で悪事を謀るのだ。

名探偵金田一耕助はトリックを見抜くべく考えるとき、自分の頭の髪の毛をグシャグシャにしてみせる。

人はなにかまとまらない考えを整理してどうしたらいいか思案するとき、普段よくしていることや、癖や習慣や出るもの。

ものを食べるというのは、人が普段からよくする動作のひとつである。

ものをつまみながら悪事を謀るこのシーンは、なるほどキャラクターに人間性を加味する演出なのだと感心させられた。


■ 主人公の名は

さて、主人公の名は何というであろう。

椿三十郎?

たしかに作品の題名が椿三十郎だから、主人公の名は椿三十郎にちがいない。

だがそれは名をきかれた浪人が庭に咲く椿の花と自身の年齢を合わせてその場で作った名前だ。

武家社会の時代にあって浪人の彼は、名も無きに等しい男であった。

武家社会であろうと現代であろうと、圧倒的多数の人々は名も無きに等しい人間である。

名も無き人間にもドラマがある。

名も無き人間だからこそ、みえることもある、わかることもある、できることもある。

名も無き人間が主人公だからこど、多くの観客は椿三十郎に感情移入する。


■ 架け橋となる男

さらに椿三十郎はその名と、自身がいうところの40前という言葉から、30歳代であることがわかる。

上役の汚職を暴こうとした若侍9人たちは20歳代。

そして汚職の中心人物の3人は50~60歳代といったところ。

このふたつの世代の間をとりもつ30歳代の男。この年頃の男で才覚と腕に覚えがある者は、室戸半兵衛のように悪に組することはたやすい。たやすいどころか、裏で藩政をあやつることだってできる。

実際、物語の中で室戸半兵衛はそれを画策しており、自分に匹敵する才覚と腕の持ち主の椿三十郎と手を組んでその計画を万全なものにしようとしていた。

椿三十郎はその誘いにはのらなかった。だが椿三十郎も室戸半兵衛の能力を高く買っており、自分とそっくりなことにも気づいていた。

だからこそ藩の汚職事件が一件落着したのちに、椿三十郎は室戸半兵衛と斬り合いたくないなかったのだ。

観客はふたつの世代や時代をとりもつ男が、容易に室戸半兵衛にもなれることを知っている。それにもかかわらずその男は、たいして自分の益になりそうもないのに若侍たちを命がけで助けようとする。

人は得意なことをして私腹を肥やしたくなるもの。

得意なことをして有利に楽しんで生きていったい何がわるい? と思いがちだ。

しかし、名も無き男はそれをしなかった。人として越えてはならない線をしっかり見極め、自分の信念を貫いた。自身の良心に従ったのだ。

だから、将軍様でも天下の副将軍(副将軍ていうポストあったっけ?)でもない、名も無き男の生き様に観客は心打たれるのだ。

ほんとうにおもしろい作品は、場所や時代が変わっても、そのおもしろさは色あせることはない。

まさに、そのとおりですな。

デート      ○
フラッと     ○
演出       ○
キャラクター   ○
笑い       ○
映像       ○
ファミリー    -


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映画「Sweet Rain 死神の精度」

監督:筧昌也
日本/2007年/113分
原作:伊坂幸太郎「死神の精度」

「死なない=生きること」を知らない死神が、対象の人物の才能に触れて人生をみつめる良作。光っているのは「こにたん」と「金城武」だけじゃなく他の俳優たちも。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
死神の千葉の仕事は、不慮の事故で亡くなる予定の人間の近くに現れ、7日間観察して「死を実行」するか「生の見送り」するかを決めること。

千葉は3つの時代でそれぞれ対象となった人間の前に現れて、その判定をする。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△千葉
死神。おだやかな性格で天然。

▽藤木一恵
OL

▽かずえ
理髪店店主。

△藤田敏之
ヤクザ

△阿久津伸二
チンピラ。藤田の舎弟。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
「死なない=生きること」を知らない死神が、対象の人物の才能に触れて人生をみつめる良作。光っているのは「こにたん」と「金城武」だけじゃなく他の俳優たちも。

■「浮いてる」死神

死神と聞けば、大きな鎌を持った骸骨というイメージを思い浮かべるでしょう。

しかし、今作の死神の外見は普通の人間と同じです。

たとえば葬儀の参列者の中に、見知らぬ人がいとしてもたいして不思議には思わないでしょう。

人生。どこでどんな人に出会い、どんなひと時を過ごしたかのすべては、故人にしかわかりません。

葬儀に見知らぬ人が参列しても、黒っぽい服装をしていれば故人となんらかの付き合いがあった人だとみなされるのが普通です。

でも、故人が亡くなる数日前からその見知らぬ人をちょくちょくみかけるようだと……。

その見知らぬ人は、もしかしたら「死神」かもしれません。

死神が現れたら近いうちに死ぬ。

そう思われているけれども、かならずしもそうともかぎりません。

死神は不慮の事故で死ぬ予定(不慮なのに予定? というツッコミは無しで)の人物の近くに現れて、その「死」を実行するか見送るかの最終判断を任されています。

とはいえ、ほとんどの場合は「実行」であるけれどれども……。

電器製品を販売している会社の苦情処理受付係の女性・藤木一恵の前にその男が現れたのは、ある雨の日でした。

主人公の死神・千葉は雨男です。いまだかつて青い空をみたことがない死神です。

千葉の口癖は「君は死ぬことについてどう思う?」というもの。

そんなことを唐突に訊かれても……。

そんなことを出会って間もない相手に尋ねるなんて、ちょっと変わっている人だと思われることでしょう。

そのとおり。変わっています。なぜなら、死神ですから。それも天然のオマケ付の死神です。

死神だから天然なのかと思いきやそうではありません。なぜなら他の死神たちはけっこう割り切って普通(?)に仕事をしているからです。

おそらく対象者に「君は死ぬことについてどう思う?」なんて尋ねません。

だだし、死神たちには共通点があります。

それは音楽が好きなこと。千葉は音楽のことを「ミュージック」と言います。ちょっと「浮いてる」言い方ですが、千葉は天然の死神ですから、そのぐらい「浮いている」ほうがいいんですね。


■ 塩忘れるな?

ラテン語で「メメント・モリ」。

塩重ぇ。塩忘れるな。

そんな訳は誤りで、より正確には「死を想え」「死を忘れるな」。

(↑またダジャレかいッ!)

キリスト教では主に、死を意識することによって生きているときによい行いをして天国に宝を蓄えるように、という意味で使われます。

つまり、人間はいつか死ぬのだから、生きている間に好き勝手思う存分楽しめ、というとらえ方をすべきではないということです。

「Sweet Rain 死神の精度」の原作は日本人作家、伊坂幸太郎の「死神の精度」です。原作者がキリスト教と関連がある人物かどうかは不明ですが、死を想うことは生を想うことでもあり「生と死は表裏一体」であることについては誰しもうなづくでしょう。


■ 数歩離れて人生をみつめる

死神の対象となる人物は、近いうちに自分が死ぬとはおもっていません。不慮の事故によって亡くなる予定だからです(不慮なのに予定ってやっぱおかしくねぇ?笑)。

私たちのうち、多くの人もそうです。

病気でもなく、自殺を考えているわけでもない自分がまさか近日中に死ぬことになるなんて思ってもいないでしょう。
でも、生きることは死を想うことと一体なわけです。

意識・無意識の違いこそあれ、人は死と隣り合わせで、死と共に歩んでいます。

人間にとってもっとも身近な死。避けられない死。

そこに焦点を合わせる作品は数多いけれども、どこかしらユーモラスでありつつ、じっくりと人生に向き合うかのような作品はまだまだ少ないですね。

「Sweet Rain 死神の精度」は死神という視点で数歩離れたところから「人生」を見つめる作品です。


■ その他

3つの時代のパートから構成されています。

主題歌を歌う歌手役でもある「こにたん」こと小西真奈美さんは、1番目のパートに出演します。

こにたんファンのハートをまずはがっちりキャッチする狙いもあるのですが、各パートの順番には意味があります。

皆さんの予想どおり3つのパートは別々の時代の別々の物語であるようで、ラストへ向かって収束していく構造になっています。

そういった物語構成法はけっしてめずらしいものではなく、どちらかといえばよくあるもの。

ですから謎解きや意外性を期待するような作品ではありません。

作品の魅力は「雰囲気」と、それを作り出す役者さんたちにあります。

こにたんのキュートさのほかに天然の死神役の金城武に注目が集まりがちですが、2番目のパートに登場するチンピラ阿久津伸二役の石田卓也さんもいい味をだしています。

阿久津と千葉がはじめて出会う土砂降りのシーンはそこらへんの漫才よりも数倍面白くて笑えます。いま思い出したただけでも笑えます(^^)。

3番目のパートで千葉は老女に会いにいきます。老女は町はずれの海沿いで、家事手伝いのロボットを使いながら理髪店を経営しています。

老女は千葉に願いことをします。ある期日に小学生の男の子たちを店にたくさん呼んでほしいというのです。

なぜ子供たちを呼んでほしいのか?

その謎の答えを知ったとき、あなたは心を揺さぶられるでしょう。

映像をみるかぎりではところどころ学園祭の劇の大道具を使ったみたい(例:ロボット充電装置)だと思われるかもしれません。でもそれはおそらく意図的でしょう。凝るべきところにはしっかり映像効果をきかせています。

そうそう「わたしって醜いですから」という藤木一恵。それに対して千葉は間近でまじまじと彼女の顔をみつめ「しっかり見えていますよ」というボケのシーン。

ボケがどうのこうのよりも、こにたんが醜いって説得力ありませんからッ!

……オホン。つい個人的な感情がこもってしまいました。

ええ、そうです。私も「こにたん」きっかけで映画館に足を運んだひとりです。

ってそれだけじゃないですよ。ストーリー構築上の着眼点とキャラクターのインナーコンフリクツ(内的葛藤)が……。って必死にフォローしようとするほど……ですよね。

「こにたん」だけでなく、出演している役者さんたちは皆どこか憎めないというかあいくるしい感じなんですよね(富司純子さんには貫禄もあります)。

「役者さんたち」と「雰囲気」を期待して観る。すると、じわぁ~と人生に思いをはせることができる。そんな作品です。

いかにもなお涙頂戴っぽくないところがいいですヨ。

ちなみに千葉の上司という黒い犬は、実際にはメス。女の子だそうです。雨にずぶ濡れのシーンがあって、風邪をひかないかと心配になってしまいました。


デート      ○ 
フラッと     ○
演出       △ 
キャラクター   ◎ 
映像       ○
ボケ       ○
ファミリー    △
アクション    -
感慨       ○
人生       ○


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映画「ガチ☆ボーイ」

監督:小泉徳宏
日本/2007年/120分
原作:モダンスイマーズ「五十嵐伝 ~五十嵐ハ燃エテイルカ~」(作・演出:蓬莱竜太)

☆青春はガチンコだ☆欲をいえば優等生的で上手な出来を突き抜ける、いい意味での灰汁がほしい。人生はプロレス。ときにガチでいこう!チャットモンチーの主題歌がすばらしい。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
ひと眠りすると目が覚めていたときのことをほとんど忘れてしまう高次脳機能障害を負った青年・五十嵐良一が、大学のプロレス研究会に入部する。

プロレスの段取りを覚えられない五十嵐は、デビュー戦でガチンコ(本気で戦う)に突入。それが観客に大ウケして、五十嵐(マリリン仮面)は人気レスラーになる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△五十嵐良一(マリリン仮面)
大学生。

▽朝岡麻子
大学生。プロレス研究会マネージャー。

△奥寺千尋(レッドタイフーン)
大学生。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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☆青春はガチンコだ☆欲をいえば優等生的で上手な出来を突き抜ける、いい意味での灰汁がほしい。人生はプロレス。ときにガチでいこう!チャットモンチーの主題歌がすばらしい。

■ 青春世代による青春映画

青春映画の多くはオジさんやオバさんが作っている。

ところが「ガチ☆ボーイ」の小泉徳宏監督は1980年生まれ。主演の佐藤隆太と同い年の27歳。脚本家も30代前半だ。

青春を10代後半から20代に特有のものとするなら、ドンピシャリの青春映画をつくれるとみられているのが小泉監督というわけだ。

小泉徳宏監督といえば「タイヨウのうた」で劇場長編映画デビューした若手監督だ。作品の主要登場人物と歳が近いためか、彼が撮る青春映画はナチュラルな作風という印象がある。

自分たちの世代の話という感覚で映画をつくるので、肩肘張らずに青春の1ページを自然に切り取ってみせることができるのだろう。

いうまでもないが映画はつくりものだ。だが「つくりもの感」が出すぎるとワザとらしくなる。

だから、オジさんやオバさんが観客に自然だと感じてもらえるよう苦心するよりも、青春そのものである若いスタッフが映画をつくるほうが、より自然に近くなるというわけだ。

青春の中の青春。それを得意とするのが小泉監督だ。


■ 身体は記憶する

記憶の積み重ねによって、人は生きている実感を得る。

写真を撮ったり、写真アルバムをつくったり、ブログ記事を更新したりすること。それらは自分が生きてきた「記憶」を「記録」によって補完する作業でもある。

ひと眠りすると、目が覚めていたときの記憶をほとんどを失う五十嵐は、生きている実感を得ることができないと感じる。

そこでプロレスにのめり込む。たとえ記憶には残らなくても、プロレスで受けた傷や全身の筋肉痛は、自分が生きてきた証になるからだ。

「メメント」の主人公レナードは10分しか記憶が保てない。ポラロイド写真を撮ってメモを書き込み、追っている事件の大事な事柄を自分の身体にタトゥーで彫り込んでいる。

「ガチ☆ボーイ」の五十嵐も「メメント」のレナードも、一番確実なのは自身の身体に刻み込むものだというのを実感しているのだ。

歳をとってからスキーをはじめても、うまく滑れるようにはなかなかならない。もしも若いときにスキーが滑れるようになっていれば、歳をとってからもそこそこ滑れる。

このように、身体は慣れ親しんだ動きを記憶しているのだ。

身体に記憶させるものが多ければ多いほど、記憶の量は増える。脳に刻まれる記憶は、記憶違いや記憶の薄れなどによよってときに「ウソをつく」が、身体の記憶は驚くほど正直だ。

だから五十嵐はプロレスをつづけるのだ。


■ ガリガリ五十嵐は日本の姿?

現代日本社会は「身体」を感じることが難しい。日本のみならず、世界中の映画の世界でもCG技術を用いてどんなアクションシーンもコンピューターで作れてしまうことから「身体」を感じる作品はますます少なくなっている。

コンピューターを駆使した、脳にとって気持ちいい映画作品といえば「スター・ウォーズ」シリーズだが、マヤ文明を題材に身体を感じさせる映画作品といえば「アポカリプト」だ。

世界の国々の人々にとっての日本は、アキハバラに代表される電脳社会をイメージを喚起する。「脳で作り出した世界」を想像させる。

しかし日本も「アポカリプト」といった、身体を感じさせる作品をつくりだせる可能性がある。なぜなら、脳に支配された社会の特徴が日本には顕著だからだ。

その特徴とは、脳に支配された反動による「身体への渇望」である。

日本はいまや格闘技大国といわれている。世界中の格闘家たちが日本の格闘技トーナメントでの優勝をめざす。

五十嵐もまた、身長はそこそこあるものの、その身体はガリガリだ。とてもプロレスをやるような身体にはみえない。それにもかかわらず、マリリン仮面としてリングに上がり、体格のいいプロレスラーを相手に戦う姿に、現代日本の姿が重なるかのようだ。


■ 人生はプロレス。ときにガチでいこう!

ストーリーアナリシス(物語分析)や物語構造がどうのという話をしている割には、いままでほとんど語らなかったことがある。

それはプロレスだ。

プロレスの歴史はけっこう複雑なので詳細は避けるが、たとえばアメリカのプロレス団体のWWEは、シナリオがあのショープロレスであり、物語に重点が置かれれいるといっていい。

WWEほどまでとはいかなくても、日本でプロレスというときは、学生プロレスもふくめて段取りがあるのが基本だ。つまりガチンコではない。

「ガチ☆ボーイ」のプロレス研究会もガチンコではない。安全第一をモットーにしているので、レスラーたちには段取りをきっちり覚えてもらわなくてはならない。

仮にプロレスを人生に例えてみよう。

人生には段取りがある。みんなが段取りを守ることで社会が存続していく。だがときに段取りに縛られるあまりに、自分らしさを見失ってしまうことがある。

ときにはガチでいこう!

たとえそれにリスクがあるとしても、ときに人はリスクを承知で「愛すべきバカ」をしたくなるもの。そんなバカをすることを「青春を謳歌する」ともいう。

段取りを覚えようとしても覚えられない五十嵐(マリリン仮面)は、青春を謳歌しようにもなかなかできない観客たちに代わって、ひたむきにガチでリングに上がる。

毎日を生きた証を筋肉痛や傷として身体に刻み、たとえ自分の記憶に残らなくても他人の記憶に残る男になる五十嵐(マリリン仮面)は、こうしてヒーローになるのだ。


■ その他

親子、仲間、恋愛、青春、笑い、汗、涙。……よくまとまっているなぁ。上手だわ、コレ。

期待を裏切らない。でも、できることなら期待を裏切ってほしかった。

組み合わせは上手だけど、どこかで観たことがあるシーンを上手につなぎ合わせたようでもある。

欲をいえば、優等生的で上手な出来を突き破るような、いい意味での灰汁がほしい。

なにをどこまで期待するかは人によってだけど、予告編を見て予想したとおりのままを好印象として良しとするか、またはもうひと味ほしいと思うか。

私は佐藤隆太くんがお気に入りの俳優なのでけっこう楽しめた。けれど、もしも主人公が他の俳優さんだったらどうだろうと思ってしまう。

それに、テレビのスペシャルドラマでこれが放映されていたら、もっと満足度は高くなっていたと思う。

記憶を題材にした物語はたくさんあるなかで「記憶」と「青春」と「プロレス(身体)」という組み合わせは、なかなかグー!(エド・はるみ)。

「タイヨウのうた」とは違って「キャラクターが作られすぎた感」があるのは、プロレス研究会のマネージャー役のサエコさんの演技に顕著に出ている。

観ているこっちがハズカしくなる演技だが、男はああいうキャラクターに弱いんだよね。それを見透かすかのような素振りの演技を得意とするサエコさん。ハズカシさが青春につきものだとしたら……。サエコさんは青春映画に貢献しているということになる。

青春ばんざい!(なんのこっちゃ)。

おっと。書き忘れるところだった。主題歌はチャットモンチーの「ヒラヒラヒラク秘密の扉」。

この曲を小耳に挟むどころか、この局が小耳に突き刺さり、さらに佐藤隆太くんが主演と小耳に挟んで、映画を観にいく決心をした。

それほど耳に残る曲だ。もしかしたら作品よりも主題歌のほうがインパクトが強いかもしれない。

映画を観て作品レビューをいろいろ書いていると、映画の予告編や作品の冒頭を観ただけで、なんとなくだけど「これはスゴいぞ」というオーラのようなものを感じとれるようになる。

音楽でもそういうことがあるもので、チャットモンチーはすでに人気のガールズロックバンドだけど、彼女らの曲には、JUDY ANDMARYの曲をはじめて聴いたときのようなオーラを感じるヨ。

主題歌に惹かれて映画を観にいくのは稀だけど、それもまたいいものだネ。


デート      ○ 無難
フラッと     ○ めっけもん
演出       △ 
キャラクター   △ 
映像       △
笑い       △ 程よいがキレはイマイチ
ファミリー    △
アクション    ○ 
青春       ○ 青春の教科書みたい
主題歌      ◎ チャットモンチーはホンモノ!


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