06/08/2008

「ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛」キリスト教・聖書大解説

「ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛(THE CHRONICLES OF NARNIA: PRINCE CASPIAN)」

監督:アンドリュー・アダムソン
アメリカ/2008/年150分
原作:C・S・ルイス 『ナルニア国物語(The Chronicles of Narnia)』

「信仰」の物語。ナルニア国物語のキリスト教文化を聖書のエピソードを例に大解説。アスランは姿を消したのではない。ダビデにみる物語の定石「王は帰還する」。「少年ダビデと巨人ゴリアテ」でわかるテルマール軍とナルニア軍の戦力差。カスピアンだけではない? イケメン王子は聖書の中にも登場する。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
テルマール王国で摂政ミラースによるカスピアン王子の暗殺未遂が発生。

コウネリウス博士の手引きでかろうじて暗殺を逃れたカスピアン王子は、博士から角笛を受け取って城から脱出するもミラースの部下の追っ手が迫り、とっさに角笛を吹いた。

角笛の音に呼ばれてペベンシー4兄妹が戻ってきたそこは、かつての平和で美しいナルニア国ではなかった。

ペベンシー4兄妹が王と王女になった黄金時代からすでに約1300年の時が経過しており、テルマール人によってナルニアの民は迫害され、生き残った者たちは森の奥深くに隠れ住んでいた。

ペベンシー4兄妹はやがてカスピアン王子と合流。共にミラースの軍と戦う。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ピーター・ペベンシー(一の王)
ペベンシー4兄妹の長男

△エドマンド・ペベンシー(正義王)
ペベンシー4兄妹の次男

▽スーザン・ペベンシー
ペベンシー4兄妹の長女。弓の名手。

▽ルーシー・ペベンシー
ペベンシー4兄妹の次女

-------------------
〔テルマール人(人間)〕

△カスピアン
テルマール王国の王子

△ミラース
カスピアン王子のおじ。亡き王の弟。王位を欲し、カスピアン王子の暗殺を企てる。

△コウネリウス博士
カスピアン王子の家庭教師。禁じられているナルニアの歴史を王子に伝え、角笛を渡す。

△グロゼール卿
ミラースの側近

-------------------
〔ナルニア〕

△アスラン(ライオンの姿)
ナルニアの創造主。ナルニアの民の前から姿を消して数百年経つ。

△松露とり
アナグマ。

△トランプキン(赤ドワーフ)
ペベンシー4兄弟に助けられ、行動を共にする。

△ニカブリク(黒ドワーフ)
トランプキンの親友。ナルニアのために闇の力にすがろうとする。

△アステリウス
ナルニアの戦士。セントール(半身半馬)。ナルニア軍を指揮。

△グレンストーム
ナルニアの戦士。ミノタウロス

△リーピ・チープ
ナルニアの戦士。ネズミの騎士。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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「信仰」の物語。ナルニア国物語のキリスト教文化を聖書のエピソードを例に大解説。アスランは姿を消したのではない。ダビデにみる物語の定石「王は帰還する」。「少年ダビデと巨人ゴリアテ」でわかるテルマール軍とナルニア軍の戦力差。カスピアンだけではない? イケメン王子は聖書の中にも登場する。

■ はじめに

ここでは主に、ナルニア国物語の物語を聖書のエピソードとの対比によってその魅力を浮き彫りにしようと試みます。

映画「カスピアン王子の角笛」を未見の方は、ナルニアの話なのか聖書の話なのかの区別がつきにくくなるかもしれません。

そこで以下の「単語、名称、名前」を含む文については聖書のエピソードだと見当を付けていただければと思います。

「イスラエル」「サウル」「ダビデ」「ヤコブ」「ヨセフ」
「モーセ」「ゴリアテ」「ギデオン」「ヨシュア」「バラム」
「アブサロム」「預言者サムエル」「エリコの城壁」「エデンの園」

また「カスピアン王子の角笛」のレビューの前にこちらを一読することをお勧めします。
▼「ナルニア国物語」に秘められたキリスト教文化を大解説
  ~これを知れば7倍楽しめる~
 「ナルニア国物語 第1章ライオンと魔女」


■ 第1章からおよそ1300年後のお話
  ~ほんとうはスーザンの角笛!?~

「カスピアン王子の角笛」の舞台となる時代は、ナルニアの歴史のどのあたりでしょうか。

映画化第1作「第1章ライオンと魔女」においてペベンシー4兄妹が衣装タンスからナルニア国にやってきて白い魔女を倒したのはナルニア暦1000年。

これによりペベンシー4兄妹はナルニアの王と王女になり、黄金時代が訪れます。

それからの後のナルニア暦1998年。テルマール人(人間)がナルニアに侵攻・征服。テルマール人によってナルニアの民は迫害され、生き残った者たちは森の奥深くに隠れ住みます。

自然や魔法の力をおそれたテルマール人は、ナルニアの歴史を語ることを禁止します。

時は流れ、ナルニアの存在はお伽話として囁かれる程度のものになっていました。

そしてテルマール人によるナルニア征服から約300年後のナルニア暦2303年。

テルマール王国でミラース摂政によるカスピアン王子の暗殺未遂が発生。カスピアン王子はコウネリウス博士の手引きでかろうじて暗殺を逃れ、博士から角笛を受け取って城から脱出します。

ほんとうにピンチのときに使ってください、と渡されたこの角笛こそ、1300年前にペベンシー4兄妹の長女スーザンがサンタクロースから贈られた「魔法の角笛」であったのです。


■ アスランの姿を見たルーシー

ナルニア国にやってきたペベンシー4兄妹たちが深い谷を挟んだ向こう側へ渡ろうと道を探しているときのことです。

ペベンシー4兄妹の末っ子ルーシーだけが、ナルニア国で数百年姿を見せないといわれるアスランの姿を、深い谷を挟んだ向こう側に見たといいます。

アスランの姿を見たその場所から谷を下って向こう側へ行こうと提案するルーシーですが、他の兄妹たちも含めて誰もその姿が見えなかったため、深い谷を避けて川の浅瀬のある場所へと迂回することになります。

思い出してください。「第1章ライオンと魔女」で衣装タンスからナルニア国にはじめてやってきたのはルーシーです。

新約聖書マルコによる福音書10章13節には「神の国は、このような者(幼な子)の国である」とあり、15節には「だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」とあります。

そのためでしょう、ナルニア国物語においてもアスラン(イエス・キリスト・神)のことを最も慕っており、より深い絆で結ばれているとされているのはルーシーとなっています。

だからルーシーだけが深い谷を挟んだ向こう側にアスランの姿を見ることができたのです。


■ アスランは姿を消したのではない
  ~信仰~見ないで信じる者はさいわいである

ナルニアからアスランが姿を消して数百年。ナルニアの民でさえアスランの存在を実感できなくなっていた時代。
ナルニアの民はアスランが姿を消したと思っていました。けれども、アスランは姿を消したわけではないのです。
いったいどういうことなのでしょう。

それを説明するにはまず「信仰」について話さなければなりません。

新約聖書の4福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のうちマタイ、マルコ、ヨハネそれぞれの福音書に「水上を歩く」というエピソードが記されています。

湖に漕ぎ出した舟に乗ったイエスの弟子たちに逆風が吹きつけます。一生懸命に漕いでも舟は進みません。その様子を見たイエスは、夜明けの4時頃に弟子たちのところに向かいます。

月光の中、湖の上を歩いてこちらにやってくる人影を見た弟子たちは、それを幽霊だと思って恐れます。しかしそれがイエスだとわかると、弟子のペテロは「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」と願います。

イエスに「おいでなさい」と言われたペテロは舟から降りて水の上を歩いてイエスのところに行きます。しかし風に恐れをなしておぼれかけます。

ペテロはイエスに手をつかまれて救われ「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われます。

そしてふたりが舟に乗り込むと風はやんでしまいます。

ちなみにペベンシー4兄妹の長男ピーターは、新約聖書に登場するイエスの12弟子のひとり、ペトロ(ペテロ)に由来する英語圏の人名です。ペテロはイエスの12弟子のリーダー格で、本名はシモン。自分も水の上を歩かせてくださいとイエスにお願いしたのはこのペテロです。

水の上を歩くというのは、常識では考えられません。でもこれは、信じる者にはそれができるということを伝える「信仰」についてのエピソードなのです。

もうひとつ「信仰」に関する聖書のエピソードをご紹介しましょう。

これは、末っ子ルーシーがアスランを見たと言ったときに、それを信じることができなかった兄妹たちの様子を彷彿とさせるエピソードです。

十字架にかかり亡くなって後によみがったイエスの姿を見た弟子たちがいる一方で、未だその姿を見ていない弟子がいました。――彼の名はトマスといいます。

他の弟子たちがイエスにお会いしたと言ってもトマスは信じません。

それから8日の後、トマスを含めた弟子たちが鍵のかかった家の中にいると、イエスが姿を現して言われました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。

トマスはイエスを見てこれに答えて言います。「わが主よ、わが神よ」。

イエスは「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」といわれました。

水の上を歩くことは普通は考えられません。でも目の前でイエスが水の上を歩くのを見たペテロは自分も歩けると信じて一歩を踏み出します。見て信じたペテロも「風」に怯えておぼれかけます。

それほど人間とは弱いもの。

まして亡くなった者が生きかえったと聞いても、それを見るまでは信じられないのは致し方ないと思われるでしょう。

でも、トマスはイエスの弟子です。イエスと共に時間を過ごし、イエスの数々の奇跡を見てきた弟子です。ナルニア国物語でいえば、かつてアスランとともに白い魔女を打ち破ってナルニア黄金時代を切り開いたペベンシー4兄妹でしょう。

そんな弟子(ペベンシー兄妹)でさえ、その姿を見るまでは信じることができなかったのです。

ナルニア暦2303年当時には、アスランの姿を見た者はルーシーだけ。その見たという話を他のペベンシー兄妹たちでさえ信じることができません。

人は目に見えないものを信じることを難しいと感じます。イスラエルの民はその歴史上、幾度も形ある物=偶像を作ってこれを拝みます。

イスラエルに王が誕生したのも、民の強い要望によるものです。他の国に王がいるように、自分たちも王がほしいと望んだのです。目に見えない神では不安で、目に見える王を欲したのです。

王の話が出ところで、次に「カスピアン王子の角笛」のストーリーから想起されるイスラエルの王についての話をしましょう。

(「アスランは姿を消したのではない」については後ほど)


■ 羊飼いの少年が巨人兵を倒す

巨人兵です。巨神兵(「風の谷のナウシカ」に登場)ではありません。

イスラエルの初代の王はサウルといいます。サウル王が神の言葉に従わなくなってきた折り、神の言葉を人間に仲介するた預言者サムエルによって次の王が選ばれます。

選ばれたといってもすぐに王になるわけではありません。選ばれた者は預言者サムエルによって頭に油を数滴落とされて神の旨(次の王となる)をそっと告げられるのです。

次の王となる少年の名をダビデといいます。彼はエッセイという人の息子で末っ子です。

ほら、ここでも末っ子が登場しましたね。旧約聖書の時代も現代の日本も、基本として長男が重んじられるのはよくあることです。

でも神のために働く者として選ばれる人たちには、次男や末っ子がけっこういました。ヤコブは双子の弟。ヨセフは12人兄弟の11番目。イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセにも兄がいました。

ナルニア国物語でもアスランと最も強い結びつきを持っているのは末っ子のルーシーですね。

話を戻しましょう。

ダビデは羊を飼っていました。いわゆる羊飼いです。ダビデの兄たちはペリシテ人の軍隊と谷を挟んで対峙するイスラエルのサウル王の軍にいました。

父のいいつけて兄たちの様子を見に行ったダビデは、敵のペリシテ軍のひとりの大男の兵士・ゴリアテがイスラエル軍に一対一の戦いを挑むのを目の当たりにします。

しかしイスラエルのサウル軍のなかに、完全武装したこの巨人に立ち向かおうという者はだれひとりいませんでした。

さて、この一対一の戦いで軍隊全体の勝敗を決めようという申し出は「カスピアン王子の角笛」では「逆」に使われています。

つまり、川を渡って進軍してきたテルマールの大軍を前に窮地に陥った少数のナルニア軍が、ルーシーを使いに立ててアスランに援軍を求めにいく間の時間稼ぎに「一対一の決闘」を申し出るところです。

聖書では敵軍(ペリシテ軍の巨人ゴリアテ)が申し出た一対一の決闘を、ナルニア国物語では自軍(ナルニア軍)が時間稼ぎのために申し出たのです。

ダビデは神が付いているのだからと、巨人ゴリアテの挑戦を受ける決心をします。ダビデはいつもの羊飼いの格好で巨人ゴリアテに挑みます。持ち物といえば小石5つと革製の投石具と羊飼い用の杖だけです。

対するゴリアテは鎧に巨大な盾に刀と槍と完全武装しています。

この二人の武装の差はそのまま、少数のナルニア軍とテルマールの大軍を、さらにその強大な軍事力を背景とした年配のミラースと、ロンドンでは学生である若いピーターとの一対一の決闘の構図を表しています。

つまり、ダビデもナルニア軍も圧倒的に不利なのです。とうてい勝ち目はないと思える状況です。

ちなみにテルマール軍に一対一の決闘を申し込みに行ったのは次男のエドマンド(正義王)です。

敵の大将ミラースと決闘するのはエドマンドではなく、その兄のピーターです。それにもかかわらず決闘の申し込みのために敵陣に行ったのはピーターよりも若いエドマンドです。

一対一の決闘の申し出があればミラースは断らないだろうという計算があるにしても、念には念を入れて年長のピーターではなく、もっと若い次男のエドモンドを申し込みに行ったのは、相手の自己顕示欲と虚栄心を突いて決闘の申し出を断らせないためであると同時に、相手を油断させる狙いもあるのです。

巨人ゴリアテもテルマール人のミラースも、その軍事力の優位性から隙が生じます。

ゴリアテはダビデを見くびり、兜のフェイスガードを使いませんでした。そのため、ダビデが投石具を使って頭上でぐるぐる回して放った小石は巨人ゴリアテの額に命中。ゴリアテはばったりと地面に倒れます。

ではナルニア軍のピーターはテルマール軍のミラースを打ち破れるのか。それは観てのお楽しみに。


■ イケメン王子といえば

カスピアン王子はイケメンですね。実は聖書にもイケメン王子が登場します。アブサロムという王子です。

テルマール人の国の王位継承者であるカスピアン王子が、身内のごたごたで城を追われることになったのと同じように、イスラエルのダビデ王の家庭にもごたごたがありました。

旧約聖書の時代、たいていは長男が家督を継ぎますが、王の場合はそのときの王が望むようにすることができました。

そのため、ダビデ王の息子たちの間に次の王にだれがなるのかという「競争心」と「ねたみ」が生まれて渦巻いていたのです

ダビデの息子たちの間でごたごたがあり、ついに兄弟間で殺人が起こります。そのため、殺人の首謀者アブサロム王子はイスラエルから逃れます。

このアブサロム王子は姿かたちが良く、長い金髪を自慢にしていました。王座への野望を強く持ち続けており、逃亡中も立派な馬車を買い、立派な身なりをして民たちに親しく話しかけ、困っている人がいれば助けて人気上昇を図ります。

テルマールのカスピアン王子はおじのミラースに暗殺されかけるのでアブサロムとは事情が違いますが、自国や自分の城から逃れなくてはならない状況になるのは同じです。イケメンであることも共通しています。そしてなにより、どちらも王座を狙っています。

カスピアン王子は正統な王位継承者のように描かれていますが、どの時代のどんな国の王家でも、だれが王にふさわしいとか、だれが正統な王位継承者かというごたごたは、よくあることです。

ダビデさえ、かつてはゴリアテを倒してイスラエルの民の英雄となったことから、サウル王に妬まれ、命の危険に晒されて逃亡したことあります。その後いろいろあってサウル王の死後にダビデはイスラエルに帰還します。

ナルニア国物語の原作者C・S・ルイスの知り合いのJ・R・R・トールキンの「指輪物語」3巻のうちのひとつが『王の帰還』というタイトルからもわかるとおり、物語の定石に「王や王子がやむをえず逃亡したら、やがては帰還する」というのがあります。

ダビデ王が逃亡して後に帰還したように、カスピアン王子も逃亡した後に帰還する。そういった定石どおりの物語構造のなかに「信仰」をテーマに数々の聖書のエピソードを散りばめた作品。それが「カスピアン王子の角笛」なのです。


■ 吹けば「何か」がおきるラッパ

カスピアン王子の角笛をラッパと置き換えてみれば、聖書にはラッパを吹いて圧倒的多数の敵を撃破したエピソードが思い当たります。

イスラエルの指導者ギデオンは、土器のつぼとたいまつと雄羊角でつくったラッパを使い、わずか300人の軍隊でミデアン人の大部隊に勝利しました。

イスラエルの指導者ヨシュアは、エリコという町の堅固な城壁を打ち破るために祭司たちを集め、そのうち7人にラッパを持たて吹かせ、そのうしろに押し黙った兵士たちを行進させて城壁の周りを回るよう指示します。

これを6日繰り返し、7日目には城壁を7回まわり、7回目にラッパが響くや兵士たちが腹の底から力強い叫び声を上げると、エリコの城壁が揺れて崩れ落ちました。

ラッパを吹けば何かが起きる。それは勝利への合図といってもいいでしょう。

そういうわけで、カスピアン王子が吹いた角笛の音はナルニアの勝利を予感させるものでもあるのですね。


■ アスランはずっとそこにいた

では最後に、アスランは姿を消したのではないというのはどういうことか、についてお話しましょう。

川を渡って進軍してきたテルマールの大軍を前に窮地に陥った少数のナルニア軍。援軍を求めに森に入ったルーシーはアスランに出会います。

けっこうあっさりアスランがみつかりましたね。

それもそのはず、ルーシーはアスランの存在をずっと信じていたからです。さらにそれまで存在を信じきれていなかった他のペベンシー兄妹たちやナルニアの戦士・民たちも、窮地に陥ってやっとアスランに頼るしかないことを悟り、その存在を強く信じるようになったからです。

「苦しいときの神頼み」とうのは人間の弱さをあわしている言葉でもあるでしょう。

それでも人間(自分)は弱いものと認識して助けを求めさえすれば、湖で溺れかけたペテロを救う手を差し伸べたイエスのように、神は助けの手を差し伸べてくださる。そんなメッセージが「カスピアン王子の角笛」には込められているのですね。

ナルニアの民がほんとうに助けを求めたとき、アスランは助けてくれます。

アスランはけっして姿を消していたわけではなく、ずっとナルニアの民の身近にいたのです。

ほんとうに追い詰められてもう駄目だと思って心から信じて助けを求めたとき、アスランの姿をみることができたのです。

次のような話をきいたことがあります。

人生という名の砂浜を振り返ったとき、一番辛く助けを必要としていた時期にひとつの足跡しかなかったのを見たある人が、神に尋ねました。「私が最も辛くて大変だったときにどうして共にいてくださらなかったのですか」――と。

すると神は、そのひとつの足跡はあなたを背負って歩いた私のものだ、と答えられました。


■ その他

他にも聖書のエピソードを彷彿とさせる箇所やキリスト教文化の片鱗がいくつもありますが、以上の大まかなところを頭の片隅に入れていただければ、きっと作品の魅力をさらに感じてもらうことができると思います。

半身半馬のナルニア戦士が登場したり、ねずみがしゃべったりと、聖書のエピソードがちりばめられれいるというわりには、そのあたりはさすがに子供騙しみたいな登場キャラクターだと思われるかもしれません。

ところが、実は聖書にも動物が話すエピソードがあります。

有名なところではエデンの園で「へび」が女にしゃべり、善悪を知る木の実を食べさせたエピソードがありますね。

ほかにも旧約聖書の民数記には占い師バラムがのった「ろば」がしゃべるエピソードがあります。静かで我慢強い「ろば」が鞭打つ主人バラムにむかって「わたしがあなたに何をしたというのですか。あなたは三度もわたしを打ったのです」と言ったとあります。

ちなみにカスピアン王子が暗殺から逃れて森を馬で走っていたときに、追っ手を確認しようと振り返り、それが原因で前方の木の枝に当たって落馬しましたね。

聖書に登場する例のイケメン王子アブサロムも森を騾馬に乗って走っているときに、垂れ下がっている樫の木の枝に突っ込み、長い髪が枝にひっかかります。騾馬はアブサロムを宙吊りにしたまま走り去ってしまいます。その後アブサロムはどうなったのかは……知りたい人は聖書を紐解いてみましょう。

さて、ファンタジー作品ときくとすぐに「子供だましだ」という人もいるかもしれませんが、有名なファンタジー作品にはたいてい、しっかりしたテーマや力強いメッセージがあります。

そういった作品は子供だましどころか、人生の教科書といってもいいでしょう。

有名ファンタジー作品にかぎらずどんな作品でも、そこから何を感じ、何を学ぶかは人それぞれです。

見ようと思わなければアスランの姿がみえないのと同じように、感じて学ぼうとしなければ作品のテーマやメッセージを知ることはできません。

もちろん、子供だましだと思って映画「ナルニア国物語」観ようと思わなければ「ナルニア国物語」は観ることができません。

あたりまえのように聞こえるでしょうが、これこそ「カスピアン王子の角笛」のメッセージなのかもしれません。

それと、軍隊の戦闘シーンが多めです。迫力がスゴいです。

聖書ときくと「許しと癒しの物語」をイメージされる人が多いかもしれません。たしかにそのとおりなのですが、それは主に新約聖書のエピソードや、イエスの例え話にその傾向が顕著にみられます。

一方の旧約聖書は戒めとそれを破った者への罰といったエピソードがけっこうあります。

旧約聖書を少しでも紐解けば、イスラエルの歴史は軍隊による戦いの歴史といってもいいことがおわかりいだけると思います。

「カスピアン王子の角笛」は、こういった聖書に記述された戦いの凄まじさといったものも併せてイメージさせるものとなっています。

親子連れでご覧になる方はそのあたりもお知りおきを。


デート      ○ イケメンはなぜか長髪。でも彼氏は短髪?
フラッと     ○ キリスト教文化関係なしでもOK。話はシンプル。
演出       ○ 
キャラクター   ○ ねずみ戦士が人気?
映像       ○ 
ファミリー    ○ 戦闘シーンが多めを知りおきを
アクション    ○ 一対一の決闘をはじめ戦闘シーンが迫力アリ
歴史       ○ 
社会       ○
文化       ◎ キリスト教文化。聖書のエピソード多数織り込み。


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03/04/2008

映画「ライラの冒険 黄金の羅針盤(THE GOLDEN COMPASS)」

監督:クリス・ワイツ
アメリカ/2007年/112分
原作:フィリップ・プルマン『黄金の羅針盤 Northern Lights』

白クマ版「王の帰還」。「ダスト」と「真理計」が象徴するアノ木とソノ実。「ナルニア国物語」の少女とは対照的なライラ。彼女の外見のアンバランスさの意味とは? 雪を溶かすほどの熱戦「白クマ横綱決定戦!」が最大のみどころ。

ストーリー(概要)
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すべての人間に「ダイモン」という守護精霊がいる世界。

子どもの誘拐事件が多発するイギリスで、オックスフォードの寄宿生の少女ライラの親友ロジャーが行方不明になる。

誘拐された子供たちは北の大地に連れて行かれるとの情報を得たライラの前にコールター夫人が現れ、一緒に北の地へ行こうと持ちかけられる。

コールター婦人と共に出発する直前にライラは、学寮長から黄金に輝く真理計「アレシオメーター」を手渡される。

コールター婦人としばらく生活するうちにライラは誘拐事件の首謀者を知る。それはコールター婦人だった。

ライラはコールター婦人から離れ、親友のロジャーを助けるためにジプシャン族の船で北の大地をめざす。


主な登場人物の紹介
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▽ライラ・ベラクア
少女。12歳。オックスフォードの寄宿生。ダイモンはパンタライモン。

▽コールター夫人
上流階級に属する女性。教権とのコネクションを持つ。ダイモンはゴールデンモンキー。

△アスリエル卿
冒険家。学者。ライラの叔父。北の大地に空から舞い降りる「ダスト」を調査する。ダイモンはステルマリア(豹)

▽セラフィナ・ペカーラ
魔女。魔女一族の女王。ダイモンとの距離が離れても行動できる。

△リー・スコーズビー
飛行船乗り。ダイモンはヘスター。

∵イオレク・バーニソン
よろいグマ。元よろいグマの王。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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白クマ版「王の帰還」。「ダスト」と「真理計」が象徴するアノ木とソノ実。「ナルニア国物語」の少女とは対照的なライラ。彼女の外見のアンバランスさの意味とは? 雪を溶かすほどの熱戦「白クマ横綱決定戦!」が最大のみどころ。

■ 第1作の舞台とは

「ライラの冒険」シリーズは3部作から成ります。

第1作の舞台は、すべての人間に守護精霊「ダイモン」がいるパラレルワールド

第2作の舞台は、わたしたちが生きる世界。

第3作の舞台は、パラレルワールドとわたしたちが生きる世界とを行き来します。

まずは第1作「ライラの冒険 黄金の羅針盤」の世界がどのようなものかを簡単にご紹介しましょう。

私たちが生きる世界と似ているけれども、ちょっと違います。

違うのはすべての人間に「ダイモン」が付いているところです。これは守護精霊で、動物や昆虫などの生き物の姿形をしています。「ダイモン」が亡くなると、そのダイモンを持つ人間も亡くなります。他人のダイモンを許可なく触ることは無作法とされています。

ライラが生きるパラレルワールドでは教権(マジステリアム)という機関が強大な力を持っています。教権はすべての人間を支配しようとしています。

教権に対抗する勢力には大学などの教育機関、学者、ジプシャン族、魔女たちなどがいます。

そんな対抗勢力に属するアスリエル卿は北の大地で「ダスト」を発見します。

空から舞い降りる「ダスト」はダイモンを通じて人間に吸収される、とアスリエル卿は説明します。「ダスト」は異世界と通じており「ダスト」を知ることは世界の真理を知ることにつながると大学関係者や有力諸侯に呼びかけて、北の大地の探検費用を集めます。

そんなアリエル卿はライラの叔父にあたります。アリエル卿は自分が世界を飛びまわっている間はライラに危険が及ばないようオックスフォードの寄宿寮に入れています。

イギリスの上流階級の子息令嬢はオックスフォードのような全寮制の教育機関で学びますから、ライラもその例にもれず寄宿生活をおくっているというわけです。

そもそもアリエル卿が学者であることや、中世以来のヨーロッパの伝統に学問の自由があり、そこには大学の自治の観念も含まれるとされていることからも、すべての人間の支配を目指す教権からライラを守るには、両親をなくしている彼女にとっての考えられる限り安全な場所は大学なのです。

しかし大学でもライラを守りきれるとはかぎりません。有力者の圧力によってライラは大学を離れることになります。

ライラは北の大地への好奇心によってコールター夫人に付いて行くことにします。このとき大学関係者はライラの身が危険にさらされるかもしれないとわかっているにもかかわらず、コールター婦人の力に屈してしまったのです。

こうしてライラの冒険がはじまります。


■ ボイコットを呼びかけられる「ライラの冒険」

海外では「ライラの冒険」がカトリック教会や信者たちから非難されています。

子供たちに無神論を植えつけるというのがその理由です。

映画作品では宗教に関する部分を控えめにしましたが、それでも北米のカトリック連盟は「ライラの冒険」のボイコットを呼びかけています。

では「ライラの冒険」のどのあたりが問題視されているのでしょうか。

「ライタの冒険」では神や天国への反乱が重要なテーマとなっているあたりに強い非難が浴びせられています。

「ライラの冒険」第1作において神や天国を象徴するものは「教権」です。厳密には神や天国というよりも、カトリック教会ですね。

教権は強大な権力を持っており、人間が世界の真理を知ることをおそれています。なにが正しいかは教権が決める。人間は教権に従えばそれでいい。それが教権の教えとされています。

宗教にかぎらずあらゆる支配階級・支配層は情報をコントロールしようとします。一般人が知ることができる情報を制限できれば、支配に支障をきたす考えを持つ人間の出現を減らすことができると考えるからです。

さすがに現代の多くの国と地域では一般人が知り得る情報を大幅に制限することは困難ですが、世界には国民に知らされる情報が大幅に制限されている国々もあります。

そこで「ライラの冒険」では現代ではなく、古い時代が舞台となっています。馬車が走り、気球が活躍する時代が物語世界として設定されています。

支配のために必要な情報の制限を行いやすい時代背景。それがちょっと昔のイギリスというわけです。

いつの時代にも支配に屈することのない主人公が活躍する物語がつくられます。

それが庶民の願望だからです。庶民の望みを形にしたもの。それが物語の一形態なのです。

「ライラの冒険」では支配層の象徴が「教権」です。教権のモデルとなったであろうものがカトリック教会なのです。

だから海外では「ライラの冒険」がカトリック教会や信者たちから非難されているのですね。


■「ダスト」と「真理計」が象徴するもの

では具体的に「ライラの冒険」のどこがカトリック教会や信者たちに問題視されているのでしょうか。

キリスト教に関連すると思われる箇所をいくつかご紹介しましょう。

「ライラの冒険」で忘れてならないのは「真理計(アレシオメーター)」です。真理計の別名を「黄金の羅針盤」といいます。

真理計を手に入れるだけでなく真理計を読める者は、あらゆる真理を知ることができるとされます。その象徴が「ダスト」であり「ダスト」へ辿り着く道を示すであろうものが真理計です。

「ダスト」や「真理計」は聖書のなかに登場する有名なものを連想させます。それは「善悪を知る木」と「その木の実」です。

人類最初の人間はアダムという男性です。アダムはエデンの園に住んでいました。神はアダムのあばら骨を1本取って女性を創りました。それがイヴです

イヴはある日、その実をとってたべてはいけないと神にいわれていた善悪を知る木に近づきます。木にいた蛇にそそのかされ、イヴはその実を取って食べます。そしてイヴはアダムにも実を食べさせます。

実を食べたときからアダムとイヴは自分たちが裸であることに気づき、はずかしくなってそばにあった木の葉で体を隠します。

罪の結果、はずかしさを感じるようになったのです。

ちなみに、は野の生き物のなかで最も狡猾で美しい生き物でしたが、イヴをそそのかしたために地を這う生き物にされました。

このように「ダスト」と「真理計」は、善悪を知る木とその実を象徴していることはおわかりいただけたと思います。


■ ライラは女性

真理計を読む力を持つライラは少女(女性)です。女性であるライラが真理計を手に入れてそれを使い「ダスト」へ近づく。

それはまさにエデンの園のイヴが善悪の知る木に近づく様子を連想させます。

そもそもライラという女性が主人公であることがカトリック教会にとっては歓迎できないでしょう。

「ダ・ヴィンチ・コード」でも「M」、つまりマグダラのマリアという女性が重要なキーワードとなっていたことからも、カトリック教会において女性が中心となって活躍する物語というのは例外中の例外でなければならないのです。

ローマ帝国はキリスト教を弾圧していました。それにもかかわらず313年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世がミラノ寛容令を発してキリスト教を公認します。

なぜキリスト教を公認したのでしょうか。

なぜなら、キリスト教を弾圧するよりも公認したほうが統治しやすいと判断したからです。

ただ公認するのではなく、統治しやすいようアレンジした。そのときに女性に関する部分をごっそり抜かしたという説があります。

「ダ・ヴィンチ・コード」は謎・ミステリーという手法で聖書における女性をクローズアップします。「ナルニア国物語」は児童文学という手法で聖書における女性の偉大さを伝えようとします。

「ライラの冒険」シリーズの著者は宗教に批判的な言及があるそうです。宗教的な意図はさておいたとしても「ライラの冒険」の主人公が少女・女性というのは、それだけでもじゅうぶんにカトリック教会にとっては受け入れられないものなのでしょう。


■ ライラは少女

マルコによる福音書10章13節には「神の国は、このような者(幼な子)の国である」とあります。また15節には「だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」とあります。

「ナルニア国物語」でナルニアに初めて足を踏み入れるのはペベンシー兄妹の末っ子の少女ルーシーです。このように「ナルニア国物語」では少女がナルニアに一歩踏み入れることから物語がはじまります。

一方「ライラの冒険」の少女ライラは幼な子ではあるけれども「ナルニア国物語」の末っ子少女ルーシーとは違います。

ライラが一歩を踏み入れようとするのは北の大地です。

北の大地には世界の真理を示す「ダスト」が舞い降りるとされています。

ダストへの道をも示すであろう真理計を使う幼な子は、神の国を受け入れるような意味での幼な子というイメージではなく、どちらかというと善悪の知る木の実をとって食べ、アダムにもその実をたべさせたイヴのイメージです。

善悪を知る木の実をたべるようアダムに言葉巧みに勧めるイヴ。そこには知略・謀略家のイメージとしての女性が重なります。

原作シェイクスピア、監督黒澤明の「蜘蛛巣城」では女性が重要な役割を担って登場します。武将が森で出会った物の怪は老婆の姿であり、また言葉巧みに武将を動かそうとする妻はもちろん女性です。

「蜘蛛巣城」でも観ることができるように、ときに女性は知略・策略をもって言葉巧みに男性を動かします。ドラマや映画の「大奥」が人気なのも、歴史は女性が動かしてきたとする話に多くの人がうなづく表れではないでしょうか。

こういった女性のイメージを12歳の少女(幼な子)に投影させたのが「ライラの冒険」です。


■ ライラの外見のアンバランスが象徴するもの

ライラは「よろいグマ」のイオレクの命を救う方策として言葉巧みに、よろいグマ同士の1対1の決闘をセッティングします。

イオレクの命を救うためといえば聞こえはいいですが、その(?)にはよろいグマの軍団を味方にしたい思惑も当然あるでしょう。

見た目は少女(幼な子)でも、ライラの知略・謀略ぶりは、知性あふれるコールター夫人を出し抜くほどです。

もう一度ライラをよく見てください。全身をみると少女(幼な子)ですね。でも、顔のアップだけをみると……大人の女性の顔立ちです。

顔だけをみると、まったくといっていいほど幼さが感じられません。ライラのダイモンの姿がまだひとつに定まらないのと対照的に、ライタの顔は大人のそれにしっかりと定まっているかのようです。

幼な子なのに幼な子ではない。幼な子の容姿は世を欺く仮の姿とでもいうのでしょうか。「幼な子」という記号を逆手に取ったかのような配役の妙というのは「ライラの冒険」がどんな物語かを象徴しているかのようでもあります。

ライラ役の少女は約1万5千人の候補者の中からライラ役に大抜てきされた新人ですが、よくぞこれほど「幼な子」と「女性」が同居した人物を選べたなと思います。

ライラが少女(幼な子)なのは「ナルニア国物語」のルーシーが少女(幼な子)なのと対照的です。

ある人々にとっては、ナルニア国(神の国)へ初めに足を踏み入れるのが少女ならいいけれども、教権(カトリック教)の支配を脅かすダストを探求する重要な鍵を握るのが少女というのはよくない。さらに主人公が女性だけでなく少女(幼な子)というのは、とうてい受け入れることはできない。

だから「ライラの冒険」は、ボイコットを呼びかけられているのですね。


■ その他

女性・幼な子のほかにも、教権に対抗する勢力に放浪の民ジプシャンや魔女たちがいます。

ジプシャン族は教権の支配から自由になろうとする、いうなれば海賊みたいなものとして描かれています。

魔女たちはそのものズバリですね。中世の魔女といえば西洋キリスト教史では有名ですね。

「ダ・ヴィンチ・コード」「ナルニア国物語」「テラビシアにかける橋」といった作品にはキリスト教文化が深く反映されていますが、知的ミステリーや冒険ファンタジーや友情物語という「体」で包まれているといっていいでしょう。

もちろん隠すために包んでいるのではなく、興味を持ってもらうため、わかりやすくするための潤滑油といった意味で包んでいるのでしょう。

ところが「ライラの冒険」は「教権」がそのものズバリ! カトリック教会を指すことは誰の目にも明らかです。

日本では冒険ファンタジーとして宣伝されている「ライラの冒険」。けれども冒険ファンタジーという「体」で包まれているとは、欧米ではいえないでしょう。

それだけストレートで、それだけ露骨なんです。包もうなんて気はさらさら無くて、開き直る以前に開いちゃってるみたいな。

ちょっとは包んでよ。ちょっとは気を使ってよ。そんな声がきこえてきそうです。

映画化にあたって宗教色はだいぶ抑えたそうですから、原作はもっと露骨なのでしょうね。

キリスト教文化的視点から観ると「ライラの冒険」はけっしてお気楽ファンタジー作品とはいえず、むしろテーマが深く、ストレートな風刺系作品です。

「ライラの冒険」を観ると、カトリック教会や信者たちから非難されるのもいたしかたないかなぁと……。

「ライラの冒険」がなぜボイコットを呼びかけられているのか。

そんなことを頭の片隅に置きならが観れば、お気楽ファンタジー以上の発見と楽しみを得られるでしょう。

みどころは、白クマさん同士の一騎打ちです。(←よろいグマと呼んでちょうだい。あらいぐまじゃないヨ。だれだ?いまラスカルとつぶやいたのは?)

王子だったクマさんが、卑劣な手を使ったライバルに負けて投げやり飲んだくれ人生、いやクマ生をおくっていたけど、ライラに出会ってもう一度王座を目指してタイマン勝負を挑む。これって白クマ版「王の帰還」みたいだゾ。

よろいが無いと「投げやりな飲んだくれのクマさん」になっちゃうって、人間でも似たようなのいそうだよネ。


デート       △ 
フラっと      × 
演出       △
キャラクター   ○
映像       ○
笑い       -
ファミリー     △ 
アクション    ○ 白クマさん横綱決定戦!
白クマドラマ   ○ 白クマ版「王の帰還」 
キリスト教文化 ○ 反キリスト教?


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02/03/2008

映画「テラビシアにかける橋(Bridge to Terabithia)」

監督:ガボア・クスポ
アメリカ/2007年/95分
原作:キャサリン・パターソン『テラビシアにかける橋』

ひとりの世界がふたりの世界になったとき、想像力の世界=王国は輝きを増す。試練を経て、受け入れる心を持ったとき、世界=王国はその全貌を露にする。「パンズ・ラビリンス」と「ネバーランド」とセットで観よう。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
姉2人と妹1人に挟まれた11歳の小学生男子のジェスは家族の中で目立たない存在であり、学校ではいじめられている。

そんなジェスの楽しみは、空想の世界をスケッチすること。

ある日ジェスは隣家に引っ越してきた同級生の女の子レスリーと知り合い、家の裏の森で一緒に想像力を働かせて遊びながら、テラビシアという名の国を建国する。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ジェス・アーロンズ
男の子。小学生。

▽レスリー・バーク
女の子。小学生。転校生。ジェスの家のお隣さん。

▽エドマンズ
女性。音楽教師。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
ひとりの世界がふたりの世界になったとき、想像力の世界=王国は輝きを増す。試練を経て、受け入れる心を持ったとき、世界=王国はその全貌を露にする。「パンズ・ラビリンス」と「ネバーランド」とセットで観よう。

■ KYといわれないために

ジェスは11歳。日本でいうところの小学校高学年。おそらく小学校4、5年生ぐらいでしょう。

オママゴト遊びを真剣にするには歳が大きい。かといって冷めた目で現実だけをみつめるには歳が小さい。同室の小学校低学年の妹が寝たあとに懐中電灯の光をたよりにベッドの中でそっと空想の世界をスケッチするジェスは、少年から青年へのちょうど過渡期にいるといっていいでしょう。

そんなジェスが属するアーロンズ家はかなり困窮しています。ギリギリの生活を強いられています。

ジェスの父親は工具店の店員で、休日も出勤することにして収入を増やそうとがんばっています。家族が食べていくためにビニールハウスを作って野菜も栽培しています。

ジェスの妻は家計簿とにらめっこの毎日。靴がボロボロのジェスに、姉のお下がりの運動靴を履くように言うと、ジェスはピンクの運動靴なんて履けないと答えます。

父親は妻に、ジェスにあたらしい運動靴を買ってやるように言いますが、妻は夫にだけきこえるように小声で「そんな余裕ないわ」と伝えるのでした。父親はジェスにしばらくその運動靴で我慢するように言うしかありませんでした。

子どもの運動靴を買うのも難しい、ほんとうにギリギリの生活をしているアーロンズ家。姉たちはそんな厳しい家計を知ってか知らずか、テレビ番組のチャンネル争いに夢中になっている。

ジェスはもの静かにテレビ画面をみつけていますが、ダイニングキッチンで家計簿を前に小声でお金のことで相談している両親のほうへ、ときおりチラッと目線をやります。

控えめでおとなしいジェスは、周囲の状況をよく観察し、家計のやりくりに悩む両親の様子を感じ取っているのです。母親と父親が家計が厳しく辛い現状にありながらも家族のことを大事におもっていることを理解しています。

想像や空想というと、浮世離れした現実逃避と受け止められがちですが、かならずしもそうではありません。

周囲をよく観察し、感受性豊かに状況を把握・理解する。それには想像力が必要です。

最近は空気を読めない人のことを「KY」というらしいですね。

空気が読める人になるためには想像力を働かせなければなりません。

物事の一面だけを見るのではなく、他の面からも見ることができなければなりません。

視点というのは自分が思っている数だけではありません。自分が思う枠組みの外にも視点はあります。自分では気づかない枠組の存在を認識し、ときにはその枠組をはずしてみる。それが想像力を働かせるということなのです。

ジェスはふつうの子供ではとうてい取り外すことができない枠組を、想像力を使って取り払うことができました。

そしてある日、ジェスは自分と同じように想像力を持った少女レスリーに出会います。


■ 想像力で「世界」をつくる

ジェスが想像力を内に秘めた内蔵型に対し、レスリーは想像力を外へ放つ開放型です。

個性的なファッションで女の子たちに変わり者だという目でみられ、運動神経の良さと運動能力の高さによってかけっこで男の子たちを負かしたことで、男子たちには生意気な女だという目でみられます。

でもレスリーはそんなことは気にしません。レスリーもまた周囲の状況をよく観察して想像力を働かせることができます。そのため、転校してきて間もないにもかかわらずレスリーは、ジェスが音楽教師のエドマンズに好意を寄せていることをスグに感じ取ります。

両親の様子をしっかり見ているジェス。同じようにクラスメイトの様子をしっかり見ているレスリー。

想像力豊かな者同士というのはお互いにピンとくるんですね。

特にレスリーがスクーバダイバーをテーマとした作文を教室で発表したとき、ジェスには見えました。海の中でダイバーが吐く息がいくつもの空気の泡となって浮上していく様子がみえたのです。

想像力をかきたてる作文の朗読によって、ダイバーを取り巻く海中の様子がみえてくる。想像力を持って受け取ったジェスには、ダイバーの息の空気の泡が見えたのです。

想像力によってシンクロしたふたりが、今度は森の中に想像上の王国テラビシアを建国します。


■ ひとりの世界からふたりの世界へ

空想なんて何の役にも立たないという人がいるかもしれません。

でも、空想がなくては飛行機は存在していなかったかもしれません。

なぜって、人間は空を飛べませんから。羽が生えてもいない人間が空を飛ぶなど、そんなどうしようもないことを空想などせずにすこしは稼いでみろ。

これに近い意味のことをジェスは父親に言われます。もちろん父親は心から息子を愛しています。小学生のジェスが家族を助けるお金をすぐに稼げるわけはありません。そんなことは父親だってわかっています。でも労働収入が十分ではないために家族を養っていなかなくてはならない重圧に押しつぶされそうな日々を送らざるを得ない。そんなときにちょっとした拍子に思わず息子に八つ当たりしてしまったのです。

空想・想像は、家計の足しにお金を稼ぐことはできず、学校ではいじめられていて、どうにもならないと感じる小学生のジェスが日々を生き抜く唯一の手段だったのです。

どんなに辛くたいへんな毎日でも、空想をスケッチすることで乗り切ってきたジェス。自分だけの空想・想像の世界が、他人のレスリーと共有できると知ったジェスの喜びはいかほどだったでしょう。

だからジェスは学校から帰るとレスリーと共に毎日のように家の裏の森に行きます。


■ 境界線を越える信仰

テラビシアに入るには、小川を渡らなければなりません。

川は異世界への境界を象徴するものとしてよく登場します。

仏教では死後の世界への途中に登場する三途の川。
此岸と彼岸。この世とあの世。三途の川を渡る船にのるには六文が必要とされています。

キリスト教の聖書ではエジプトを出たイスラエルの民が渡った紅海。
イスラエルの民が奴隷として苦しめられていたエジプトの地と、乳と蜜の流れる約束のカナンの地。カナンへ向かうイスラエルの民の後方からはエジプトの軍隊が迫り、前方には紅海が行く手を阻みます。窮地に陥ったイスラエルの民が紅海を渡るには神を信じる心、すなわち信仰と祈りが必要でした。

さて「テレビシアにかける橋」の原作者はアメリカの児童文学作家キャサリン・パターソン。

原作者がどのような宗教的バックグランドをもっているかはわかりませんが、仏教かキリスト教かといったら、おそらくキリスト教系でしょう。

レスリーは川という境界上にある1本のロープを手にとります。古いロープだから危ないよ、というジェスの声にもかかわらず、ロープで川の上を行ったり来たりしてみせます。

ほら、見上げながらやると空を飛んでいるみたいだよ。

そんなふうなことをレスリーに言われたジェスは、ロープを持って川の上を行ったり来たりしてみます。

いままでの見慣れた空の風景が一変して見えたジェス。日本の歌でいうなら「上を向いて歩こう」といったところですが、ここでは「上を向いてブランコに乗ろう」といったかんじかな。

そして、レスリーがロープを使って対岸の茂みにダイブします。

茂みの中がどうなっているのかわからないのに、レスリーがダイブした先を追って、ジェスもダイブします。

こうして今まで足を踏み入れなかった小川の向こうの新世界に一歩を踏み出します。

古いロープを使って、川に落ちることを恐れずに対岸に飛び込むレスリー。それを追うジェス。どちらも信じる心がなければ新世界に足を踏み入れることはできません。信じる心=信仰をもって一歩踏み出すときに活路が開けることは、モーセに率いられたイスラエルの民が紅海を渡るエピソードをなぞらえるまでもないですね。


■ 楽園に試練がおとずれる

信じる心=信仰によって新世界に足を踏み出した二人は、想像力を働かせて自分たちの楽園をつくります。名をテラビシアとします。

厳しい現実を生き抜くには、想像力を働かせる必要があります。

想像力を働かせることができなければ、他人が作ったものにすがるしかありません。他人が提供するモデルにすがる人はそれが機能しなくなると、どうすることもできないと感じてしまいます。たとえ一時期はよくても、借り物ではイザというときに脆く、補強もできません。

もしも、テラビシア国が借り物だったら、その後訪れる試練にジェスは打ちのめされて二度と立ち上がることはできないでしょう。

試練の内容についてはネタバレになりますので伏せておきますが、信じる心=信仰と想像力によって築き上げた楽園にも試練が訪れます。

何が起こるかわからないのが人生だ。だから楽しい。生きがいがある、という人もいます。

けれど、人生にはどうしてか理由がわからない事が起きることがあります。とてもじゃないけれど乗り切れそうにない事が起きることがあります。たとえどうすることもできなかったことでも、自分のせいだとしか思えずに罪の意識に苦しむことがあります。

試練に直面した直後のジェスは現実を受け入れようとしません。いえ、受け入れられないのです。あまりにもショックが大きいためです。

けれど、想像の世界を他人と共有してテラビシア国を建国したジェスは、他人を疎外することでなく、他人を受け入れることで共に想像力をはたらかせて生きていくすばらしさを思い出します。

試練に打ちひしがれたジェスが作品のラストにどうしたか。それは観てのおたのしみに。

聖書には試練について次にような句があります。

「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」 (コリント人への第一の手紙10章13節)


■ その他

これまたいい作品です☆

いじめっ子の変化。父親と息子の和解。兄妹の和解。友情。才能の開花へのきっかけ。ほかにもたくさんの要素をよくぞこれだけ作品に込められたものだとため息が出ます。

さて、想像力が生き延びる力というのは、以下の作品と共通するメッセージです。

ぜひセットで「テラビシアにかける橋」を鑑賞することをおすすめします。

▼「パンズ・ラビリンス(PAN'S LABYRINTH)」作品レビュー

▼「ネバーランド(FINDING NEVERLAND)」作品レビュー

▽25席の妖精―「ネバーランド」―

▼「硫黄島からの手紙(Letters From Iwo Jima)」作品レビュー

ジェシーとレスリーが共にテラビシア王国を築く過程は、出会ったふたりが共に人生という国をつくっていく様子をイメージさせますね。それは人生のパートナーをみつけて結婚生活という名の王国を築き、そこに知人や友人を招き入れる。そんな人生でだれもが夢見るであろう身近な願望を扱っているから感動しやすいのですね。

タイトルは「テラビシアにかける橋」です。「テラビシアにかかる橋」ではありません。

橋をかけるかどうかはアナタ次第であり、大事なのはテレビシアに橋をかけることだというメッセージがタイトルに表れています。

レスリー役のアナ・ソフィア・ロブはどこかで観たことがあるなぁと思ったらキリスト教の知識が必須ともいえる「リーピング」でイナゴ少女(インパクト大の呼び名だ!)を演じていた少女ですね。「チャーリーとチョコレート工場」でわがままな娘役をしていたといったほうがわかりやすいかな。

▼「リーピング(THE REAPING)」作品レビュー↑「出エジプト記十の災い」「過ぎ越しの祭り」の知識がほしい「信仰の物語」。

ちなみに「テラビシア」は『ナルニア国物語』シリーズに登場する島の名からとったらしいですよ。

すでにおなじみの「ナルニア国レポート」。もう読みましたか?

ふつうに「ナルニア国物語」を観ただけでは気づかない、キリスト教の背景をがわかりやすく解説しています。

「アイ・アム・レジェンド」もそうですが、キリスト教文化をちょっとでも知って作品を観るのと、何の知識もなしに観るのとでは、作品の奥行きを楽しむことにおいて大きな差が出ます。

欧米系の作品にはたいていキリスト教文化の要素が入っていますが、それが色濃く出ている作品を観るときには、やはり基礎的なキリスト教の知識がなければ意味不明な部分というのはどうしてもできてしまいます。

もし、表面だけでなく作品の奥深いところまで作品を楽しみたいなら、知識を求めることに遠慮してはもったいないですよ。

暗闇の森をともに歩くだけのシーンで涙が溢れるワケとは?

ライオンはだれをあらわしている?

キリスト教における女性とは?

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デート      ◎ センスいいと高感度UP!
フラっと     ○ 
脚本勉強    ○ 
脚本       ◎ 
演出       ○ 
キャラクター   ◎
映像       ○ こういう視覚効果の使い方はいいですね。
お涙       ◎ 
笑い       -
ファミリー    ◎ ぜひご家族一緒に観てネ。
アクション    -

4037261405テラビシアにかける橋
キャサリン・パターソン 岡本 浜江 Katherine Paterson
偕成社 1981-01

by G-Tools

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01/19/2008

映画「AVP2 エイリアンズVS.プレデター(Aliens vs. Predator: Requiem)」

監督:コリン・ストラウス、グレッグ・ストラウス
アメリカ/2007年/94分

「ひとんちの庭先でモンスターバトル2」南極で宇宙的サバイバル合コンの後は、コロラドの田舎町でどつき合い! エイリアンとプレデターに即席の吹き替えを付けたら? と想像して楽しもう。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
南極でのエイリアンとプレデターの戦いの後、プレデターの体内からチェストバスターが誕生。
宇宙船内のプレデターを次々に殺戮する。コントロールを失った宇宙船は地球のアメリカ・コロラド州の森へ墜落。無数のエイリアンがコロラドの森や町へ飛び出していく。
その一方で、墜落した宇宙船の情報を得たエイリアン駆逐専門のプレデター「ザ・クリーナー」は地球へ向かう。
こうしてエイリアンたちとプレデターの戦いが再びはじまる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
∵エイリアン(プレデリアン)
プレデターの性質を受け継いだ新種エイリアン

∵プレデター(ザ・クリーナー)
エイリアン駆逐専門のプレデター


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
「ひとんちの庭先でモンスターバトル2」南極で宇宙的サバイバル合コンの後は、コロラドの田舎町でどつき合い! エイリアンとプレデターに即席の吹き替えを付けたら? と想像して楽しもう。

■ 天から大魔王が降ってきた!?

オラ見ただぁ。空から宇宙船が降ってきたぞぉ。「こりん星」からだれかやってきたちがいねぇ。

アレレ? ゆうこりん(テレビ朝日アナウンサー青木裕子サンのほうではない)じゃなぁいぞぉ……。

たくさんの怪物が宇宙船から出てきただぁ。


■ こりん星爆発!?

天から降ってきた宇宙船。中から出てきたのがゆうこりんやデーヴならおもしろいのに……。

ゆうこりんのこりん星キャラ。本人も最近はこのキャラを途中で投げやり気味になるようだけど、まさか、こりん星爆発! なんてことにはならないよね?

そもそもゆうこりんが……え? ゆうこりんの話じゃぁない。そんな話はオヨビでない? コリャマタ失礼しました! (植木等より)


■ ひとんちの庭先でモンスターバトル

さてさて、AVP2のレビューをしようと思ったんだけど、はっきりいって「ひとんちの庭先でモンスターバトル2」の一言で終わっちゃうのよね。

地球に宇宙船が墜落してエイリアンが人類に襲い掛かる。それを追ってプレデターがやってくる。コロラドの町(ひとんちの庭)を舞台に両者のバトルが繰り広げられる!

どんだけ~(豊田一幸)ならぬ、そんだけ~。


■ トライアングル完成せず

例によってエイリアンもプレデターもしゃべらない。エイリアン向けやプレデター向きならそれでもいいけど、地球人向けの作品だから地球語も使わなきゃっていうんで、地球の人間も登場する。

元不良の兄貴とチョイ悪弟。弟の元恋人のグラマー美人。いじめっこ系でやんちゃな同級生たち。マジメな保安官。軍人のママとその幼い娘。

ほかにも店のウェイトレスに下心アリアリの料理人オヤジなんかも出てくるけど、人間たちは勝手に襲われたり、勝手に反撃したりする。

前作「AVP」にあったような、宇宙初!プレデターと人間のタッグはみらないんだ。

エイリアンは人間を襲い。プレデターはエイリアンを狩る。人間たちは逃げ惑い、ときどき反撃。

エイリアン、プレデター、人間の三角関係にはならない。あくまでエイリアンとプレデターの戦いなんだ。

それもそのはず。だってタイトルが「AVP2」なんだから。


■ プロレスで例えると

とはいえ前作「AVP」では、路傍の石ほどの扱いもされなかった人間のひとりが参戦するというサプライズがあった。

プロレスで例えるなら、戦いはリングの中だけじゃなく、リングサイドのセコンドや放送席の解説者をも巻き込ん行われたんだね。プロレス会場全体が戦いの舞台というワケ。

だからあくまでエイリアンVSプレデターなんだけれども、そこに人間も絡んできてグッとおもしろくなったんだ。プロレス会場の観客は観ているだけじゃなくて参加している。そんなプロレス会場を1歩ひいて観ている映画の観客は、この先どうなるんだろう、と興味がわく。

ところが「AVP2」ではプロレス会場の観客は勝手に逃げ惑って騒いでいて、リング上ではレスラーたちだけで盛り上がっちゃってる。そんなプロレス会場を1歩ひいて観ている映画の観客は、歯車の噛み合わないプロレス会場の様子にしばしばあくびが出ちゃってる。


■ 前作はイメージが広がった

前作「エイリアン VS.プレデター」では人間のひとりがエイリアンとプレデターの戦いに絡んでくることで、世界が広がった。

人間世界とプレデター世界が「戦い」を通して触れ合ったその瞬間、意志の疎通が試みられた。それまでプレデターに全く気にもとめられなかった人間がエイリアンを倒したことで、ひとりの戦士として認識されるという流れがあった。そのときに、エイリアンを倒すために協力しちゃう? ってなかんじのコミュニケーションが生じたんだ。

プレデター世界と人間世界が出会った瞬間がそこにあった。

たしか「プレデター2」でも人間の男がラストにプレデターに戦士として認められシーンがあったと思う。

そして「AVP」でも戦いを通して、いわば未知との遭遇があったんだね。異世界・異文化との交流だ。

そんな交流があるとイメージが膨んでくる。例えば、プレデター世界の「戦士」の掟みたいものに接触した人間がいた。それで今度は人間世界の「愛」に触れるプレデターがいた! なぁんてことになって、プレデターのひとりが人間愛に触れて心が揺らぎ、冷酷な戦士として戦えなくなっちゃう。そんなプレデターが登場するかも! などと次回作を想像(妄想)しやすかったのが前作「AVP」だ。

「AVP」を観ていろんな想像が膨らんで書いた「南極で開催されたサバイバル合コン」に例えた「AVP」のレビューはなかなか好評だったヨ。

「エイリアン VS.プレデター(ALIEN VS.PREDATOR)(AVP)」作品レビュー


■ 意外にリアル?

人間の愛に触れたプレデターの苦悩。そんなものがあってもおもしろいかもしれない。

でも、プレデターと人間の交流による、プレデター世界の変革。そして人間世界への順化といったことになったら、ありがちなアメリカ映画になってしまうところだった。

「AVP2」では、戦いにしか意味を見出せず戦いにしか生きられないプレデターをどうすることもできない。

人間たちは襲われ、逃げ惑い、反撃してもあまり効果なく、そして同胞である人間にさえ裏切られる。

それが現実(現状)だ! とでもいわんばかりの、エイリアンやプレデターとはどこまでいっても歯車はかみ合わない。

それが逆にリアルなかんじでいいかもしれない。

宇宙は地球人(人間)の愛で変革できる。宇宙を変えられるんだ! みたいな作品だったらもぅコントにしかならないのだから……。


■ その他

戦うことしか知らない種族・宇宙人との遭遇で思い出すのは、日本のアニメ作品「超時空要塞マクロス」です。

マクロスでは地球人が宇宙人と遭遇します。宇宙人は巨人で、男と女は別々の艦に乗っています。彼ら(彼女ら)は戦うこと意外に興味も存在意義もないと思っています。

そんな宇宙人は地球人と遭遇することで文化に触れます。彼らのいうところの失われた「デ・カルチャー」は破滅をもたらすものとして宇宙人に恐れられています。

異文化の遭遇というテーマはすでに80年代にSFアニメ作品「超時空要塞マクロス」でばっちり取り上げられていたんですね。

マクロスはいま観てもじゅうぶんに見応えあります。テーマが深く、主人公の青年と同世代の恋人と年上のお姉さんとの三角関係、先輩後輩の絆、友情。そして作品中で歌手が歌を歌うなど、当時としては先進的な試みも行われてます。

マクロスにしてもガンダム(1年戦争)にしても、子供向けというより、大人向けといってもいいほど奥が深いんですね。

ガンダムでは地球連邦軍が正義でジオン公国軍が悪だといいきれない。どちらにも正義があって、その戦いで若い命が散っていく……。

ガンダム人気の秘密(でもなんでもないけど)は、奥深いテーマと立体的なキャラクターによる人間ドラマがしっかりあるところなのです。

ドラゴンボールだってスゴくおもしろいですが、強い敵が現れてそれを倒すと仲間になって、するとまたもっと強い敵が現れて……という単純明快な少年漫画の基本どおりなわけです。ピッコロはかなりいい奴(キャラ)に変化しましたが、それも基本どおりといえばその範疇です。

そういった範疇に収まりきれないマクロスやガンダム。名作といわれる所以はそのあたりにあるのです。

さて「マクロス」のスゴさをあらためて教えてくれた「AVP2」。広くおススメはできませんが、頭空っぽにモンスター同士のどつき合いを楽しみたい方や、エイリアンシリーズ・プレデターシリーズのファンの方、そしてプレデターに想像上でフキダシのセリフを付けて楽しめる方にはいいでしょう。

新種のエイリアンは風貌がプレデターに似てきたので「ドレッドヘアがプレデター」と頭の中で唱えながら見ないと、戦いの最中にどっちがどっちだかわからなくなってしまいそうです。

せめて色分けでもしてみる? 赤いエイリアンと白いプレデター。これぞ「宇宙的紅白どつき合い合戦!」なんちて。
ヤンヤヤンヤやいいながら、エイリアンとプレデターに即席の吹き替えを付ける。そんなコンテストがあったら超おもしろそうですネ☆

デート      ‐
フラっと     × シリーズのファンならいいけど 
脚本勉強    △ 
演出       △
キャラクター   ○ 定番キャラ
映像       △ 
お涙       -
笑い       ○ プレデターってなんか笑える
ファミリー    ×  
アクション    △
SF        △ SFというよりモンスターパニック

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01/15/2008

映画「ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記(NATIONAL TREASURE:BOOK OF SECRETS)」

監督:ジョン・タートルトーブ
アメリカ/2007年/124分

お気楽観光案内ビデオのようでありながら、国の宝とは何かをさりげな~く問題提起? 宝探しの暗号は余興。みどころは親子、夫婦、恋人たちの会話の掛け合いにアリ。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
アメリカ大統領リンカーンを暗殺したジョン・ウィルクス・ブースの日記の、失われていた数ページが発見された。

そこにはベン・ゲイツの祖先が秘密結社ゴールデン・サークル騎士団の一員としてリンカーン暗殺の指揮をとったと読み取れる記述があった。

ベン・ゲイツはゲイツ家の汚名をそそぐため、黄金都市を探し求める。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ベン・ゲイツ
冒険家。歴史学者。

▽アビゲイル・チェイス
ベンの恋人。

△ライリー・プール
ベンの相棒。凄腕ハッカー。

△パトリック・ゲイツ
ベンの父親。暗号学者。

△ジェブ・ウィルキンソン
トレジャーハンター

▽エミリー・アップルトン
ベンの母親。歴史研究者。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
お気楽観光案内ビデオのようでありながら、国の宝とは何かをさりげな~く問題提起? 宝探しの暗号は余興。みどころは親子、夫婦、恋人たちの会話の掛け合いにアリ。

■ 千円札に描かれた見知らぬ人

千円札の夏目漱石氏の顔を中央で二つ折りにする。

右顔と左顔を見比べてみよう。

片方の顔のアナタは……誰? 

実はその見慣れない顔は○○だと言われている。

思わず千円札を探したアナタ!

アナタに限らず、暗号好きな人はけっこういる。

そもそも人生は暗号に満ちているのだ(マジ?)

どうしてアナタの夫(妻)は、アナタと結婚したのだろう。

どうしてアナタの彼(彼女)は、アナタと付き合っているのだろう。

他人であった人と一緒にいる不思議。

夫(妻)、彼(彼女)との出会いにはきっと自分にとって意味があるにちがいない。そう思ったからこそ、その相手と付き合ったり、結婚したりしたのではないだろうか?

他人との出会いに、なにかしらの意味を求めずにはいられない。それが人間だ。

日記の切れ端に、なにかしら他の意味が隠されているのでないかと考えずにはいられない。それが冒険家だ。

とはいえ冒険家は、一部の特別な者を指すいい方ではない。

だれもが人生の幸せを捜し求める冒険家なのである。


■ 日本の顔は?

幸せの青い鳥は実は近くにいたとか、長い間捜し求めていたお宝は実は自分の家族だったとか、そんなオチが大半の宝探し作品群のなかで、ナショナル・トレジャーシリーズではちゃぁんと金銀宝石といった類の財宝を発見する。

さらに財宝探しの過程で父子の絆、夫婦の絆、男女の絆、相棒の絆を再確認し合う。なんとも都合のよろしいハッピーエンドへ向けてズンズンと物語が進行していく。

宝探しのための暗号は余興みたいなもので、作品を楽しむポイントは親子、夫婦、恋人たちの会話の掛け合いだ。

それができるのも、ひと癖もふた癖もあるような俳優たちが出演しているからであって、ナショナルトレジャーとはそもそも米国で活躍するこれらの俳優たちのことかもしれない。

ルーク・スカイウォーカー。ランボー。スーパーマン。スパイダーマン。

ラシュモア山に彫られた ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーン。

アメリカ合衆国を思い浮かべるとき、こうしたキャラクターや人物たちの顔が頭をよぎるのではないだろうか。

世界の人々が日本を思い浮かべるとき、はたして何が頭をよぎるだろう? 


■ その他

アビゲイル・チェイス役のダイアン・クルーガーは綺麗で色気もありますネ。

端整さでは日本のタレントでいうと加藤愛を連想させます。ダイアン・クルーガーはそれに加えて色気があるんです。そんな魅力を活かした、大統領執務室での展開はけっこう笑えます。

日本はアメリカ合衆国よりも長い歴史があるのですから、他国の人が楽しめるような歴史系謎解き作品をがんばって作れるようになると、ソフトの充実に大きく貢献できるでしょう。

どうせ日本の歴史やワビサビは外国人にやぁわかるまい。といっているようでは、いつまで経っても経済はそこそこ良くても文化やマナーは最低といわれ続けるのです。

マナーには、他人に自分のことを知ってもらう最低限のことをする、ということも含まれます。相手に自分(たち)を知ってもらうことで、どう振舞えばいいのかをお互いに知ることができるからです。

相手が何を考えているのかまったくわからなければ、不安になります。

相手にいつまでも不安な状態で居させ続けるのは失礼です。パーティに招待した客人をだれにも紹介せずに放っておくようなものです。これもマナー違反ですね。

日本で生まれ育った人たちにさえわかって受け入れられればそれでいいというだけでは、マナー意識が低いと思われてもいたし方ありません。

アメリカ合衆国の歴史は数百年と若いですが、それでも歴史や暗号を題材に楽しませながら内外にメッセージを送ろうとする。その意欲と実行力については、日本も見習ってもいいのではないでしょうか。

それから、キャラクターの顔が見えるというのは、国内外に対して象徴的に用いられる理念や目標といったものが提示されているということです。それが機能しているかどうかはともかく、すでにコントにしかなっていないとしても、形だけでもある、もしくは提示しようとしているということです。

人は理念や目標、いいかえれば希望がなくては生きにくいですから、そういう意味で「顔がみえるかどうか」は大事なのです。

顔が見えなくては、希望がなくては、目標がなくては、理念がなくては、生きる意味さえも失いかねません。

とはいえそんな小難しそうなことなど考えずに「ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記」はお気楽観光案内ビデオのつもりで笑いながら観るぐらいのほうがいいですネ。

デート      ○ 無難な選択
フラっと     △ 
脚本勉強    ○
演出       △ 
キャラクター   ○ キャラこそお宝? 
映像       △ セットの安っぽさが魅力に!?
おバカ      ○ 
笑い       ○ 
ファミリー    △ 
アクション    △ カーチェイスもあるぞ


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12/15/2007

映画「アイ・アム・レジェンド(I AM LEGEND)」

監督:フランシス・ローレンス
アメリカ/2007年/100分
原作:リチャード・マシスン「地球最後の男」

【注】今回のレビューには結末が予想できる内容が含まれています。
   (ネタバラシではないが、予想しやすい内容という意味)

タイトルに込められた意味をかみしめながら、無人のNYの映像とともに主人公の境遇と使命に思いを馳せる作品。タイトルをみれば結末は容易に想像がつく、まっとうな作り。ヒネリやどんでんかえしの期待は禁物。ロバートがウィルスワクチンの研究にこだわるワケとは?

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
――2012年。
ウィルスにより人類が死滅した地球。
NYで相棒の犬サムと日々を生き延びるロバート・ネビルは、人類を救う道をみつけるべくひとり研究を続ける。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ロバート・ネビル
男性。軍人(中佐)。科学者。

▼サム(サマンサ)
シェパード犬。ロバート・ネビルの相棒。
--------------
▼ダーク・シーカーズ
ウィルスに感染して変異体となった元人間。紫外線に極端に弱い。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
――――――――――――――――――――――
タイトルに込められた意味をかみしめながら、無人のNYの映像とともに主人公の境遇と使命に思いを馳せる作品。タイトルをみれば結末は容易に想像がつく、まっとうな作り。ヒネリやどんでんかえしの期待は禁物。ロバートがウィルスワクチンの研究にこだわるワケとは?

■ ひとりで背負おうとする男

NYが閉鎖されようとする時、ロバートは妻と子を脱出させようとする。しかし自分はNYに留まってウィルスの感染の拡大を防ごうとする。

それから3年。

だれもいなくなったNY。

人類再生の道を探りつづける科学者のロバートは、ウィルスの発生源のNYから離れようとしない。ひとりで孤独と戦いながら、すべてをひとりで背負うかのようにワクチンの研究を続けている。

なぜひとりで? 

人類最後の人間だから? 

しかも科学者だから?


■ 生き延びたことには意味があるはず

ウィルスに免疫がある人間は約1パーセント。そのうち3年前と変わらない人間の姿でいられるのはさらに限られてくる。少なくともNYにはロバート以外の人間は皆無のようだ。

どうして自分だけがウィルスに免疫があるのか。空気感染も血液感染もしない(らしい)。

それにはきっと意味があるはず。

ウィルス発生源のNYの科学者がひとり生き残った。なぜなのか。何かの使命があるに違いない。

使命とは人類を救うことにちがいない。

そんなロバートは、誰かに似ていないだろうか。


■ 「トゥモロー・ワールド」との共通点

「アイ・アム・レジェンド」を観て思い浮かんだのは「トゥモロー・ワールド(The Children of Men)」の主人公の男性セオだ。

「トゥモロー・ワールド」では子供が生まれない世界が舞台。

「アイ・アム・レジェンド」ではウィルス特効薬がない世界が舞台。

どちらの世界にも共通しているのは「希望なき世界」ということだ。

そんな世界にあって、人類のとってのただひとつの希望(子供・ウィルス特効薬)を守ろう・作ろうとする男。

どちらの作品にも共通している、主人公のモデルとなっているのはイエス・キリストである。

▼「トゥモロー・ワールド(The Children of Men)」作品レビュー


■ なんのために?

父なる神。子なるイエス・キリスト。聖霊。

キリスト教の用語の「三位一体」でとらえるなら、子なるイエス・キリストはたったひとりで地上へ遣わされたことになる。

なんのために?

人類を救うために――。

イエスには12人の弟子がいたが、彼らは地上の人間だ。地上には地上の人間しかいない。天から遣わされたイエス・キリストはひとりだった。

イエスはひとり、荒野で40日間留まり、空腹の中でサタン(悪魔)の誘惑を受ける。これは「荒野の誘惑」といわれる新約聖書の有名なエピソードだ。なぜ荒野に?

なんのために?

人類を救うために――。

そしてゲッセマネの園。エルサレムのオリーブ山の麓にある庭園で夜、イエスは祈りを捧げていた。

なんのために?

人類を救うために――。

さて、映画の中に見ることができるキリスト教のエピソードについて度々紹介してきた本ブログの読者なら、イエスをモデルとした「トゥモロー・ワールド」のセオが作品のラストでどうなったか。またゲッセマネの園の後、イエスはどうなったかに思いをめぐらせば「アイ・アム・レジェンド」のロバートがラストにどうなるかは想像できるだろう。

ではここで、作品のタイトルに注目してみよう。


■ タイトルをみれば結末が……。

映画のタイトルは「アイ・アム・レジェンド(I AM LEGEND)」

私は伝説。私は伝説になったほどの著名な人物だ。といった意味である。

では、私とは誰か?

著名で誰もが知っている人物。

本誌では「荒野の誘惑」や「ゲッセマネの園」などで説明をしたが、欧米人をはじめとするキリスト教文化圏で育った人にとっては、タイトルを見ただけで「私」とは誰のことを指すのかはすぐにわかる。

それほどわかりやすい。

だから、作品のラストを隠すまでもない。だからなのかどうかわからないが、ロバート役のウィル・スミスは来日した「アイ・アム・レジェンド」の記者会見のときに、作品の結末を漏らしてしまったとの報道があった。

ウィル・スミスにしてみれば、有名なSF作品だし、何度も映画化されているし、そもそも今回の映画作品のタ