監督:メル・ギブソン
アメリカ/2006年/117分
「いまだかつて誰も見たことのない」に偽りなし。「裏の体」で読み解ける、極めて異色で極めて現代的(脳化社会の真っ只中で渇望される「体」)な作品。普通はすることをしない姿勢に気迫アリ。残酷描写には意味がある。サバイバルと再生。水が象徴するものとは?
ストーリー(概要)
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マヤ帝国滅亡前夜。中央アメリカのジャングル。
家族や友人たちと平穏に暮らす青年ジャガー・パウの村が、ある日マヤ帝国の傭兵団に襲われる。
妻と息子を涸井戸に隠したジャガー・パウは父親を殺され、自身は捕虜となってマヤ帝国へ連れていかれる。
干ばつを鎮めるための生贄にされる寸前で命びろいしたジャガー・パウだったが、今度は傭兵たちによる「人間狩り」の標的にされる。
負傷しながらもジャガー・パウは妻と息子を救うため、追ってくる傭兵たちを振り切って故郷の村へ向けてジャングルをひた走る。
主な登場人物の紹介
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△ジャガー・パウ
狩猟民族の青年。
▽セブン
ジャガー・パウの妻。
△ブランテッド
ジャガー・パウと同じ村の青年。
△ゼロ・ウルフ
マヤ帝国傭兵隊長。
△スネーク・インク
ゼロ・ウルフの息子。
△フリント・スカイ
ジャガー・パウの父親。部族長。
コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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「いまだかつて誰も見たことのない」に偽りなし。「裏の体」で読み解ける、極めて異色で極めて現代的(脳化社会の真っ只中で渇望される「体」)な作品。普通はすることをしない姿勢に気迫アリ。残酷描写には意味がある。サバイバルと再生。水が象徴するものとは?
■ 夜景が綺麗と感じるのはなぜ?
都会の夜景が綺麗だと感じるのはなぜ?
都会の建造物が放つ光は、人間が作り出したものだから。人間の脳が作り出した光の集合。それを見ることは脳にとってたいへん気持ちがイイのだ。
大規模な停電でも起きないかぎり、都会の夜景がいきなり消えてなくなることはありません。また、今晩と明晩で夜景の見え方が大きく変わることもありません。一度建てた建造物の位置は1日や2日では変わらないからです。
制御できるもの。ほぼ確実に予測できるもの。これらは脳にとって大変きもちがイイのです。
高層ビルの上層階の、夜景がみえるレストランに連れてきてもらった女性が感激する理由は、表面的には「夜景の綺麗さ」にですが、本質的には「脳の気持ちよさ」にあります。
だって、行き当たりばったりで綺麗な夜景がみえるレストランの窓際の席で食事やお酒が飲めるわけないですもん。男性が席を予約しておいてくれたこと。そこに「計画性」を感じるんですね。計画するのは「頭=脳」であって、なんとなぁく夜景が綺麗にみえるレストランに来ちゃった、なぁんてことはまずありえないんです。
「脳」によって計画されたデートで、「脳」によって作られた世界の象徴である「夜景」を見せられると、脳はたいへん気持ちがイイ。
そんなときふと想像してみる。付き合う前なら、これから付き合いはじめたら誕生日やクリスマスにはいったいどんな素敵なプランを立ててくれるのかって。さらにもしも将来結婚するとこになれば、きっとふたりの人生設計もしっかりと立ててくれるにちがいないんだろうなぁ……って。
脳が気持ち良くなって満足したら……あとは……ムフフ☆ もぉお子ちゃまは寝る時間ですヨ(笑)
■ 体
「心=脳」の対極は「体(身体)」です。
日本にかぎりませんが、エロやエッチは大盛況です。これらは時代や時期にかぎらずですので、わかりやすくするために「格闘技」をとりあげましょう。
「K-1」「PRIDE」
これら格闘技大会の主催国は日本です。なんで日本で格闘技が人気なの?
この謎を解くカギは「チラリズム」にあります。ってやっぱりエロ?
見えそうで見えない。身近なエロやエッチで「体」の表面はチラリとは見えているんだけど、裏面は見えない。特に現代日本では見えない。表があって裏がある。両面で一体。つまり表裏一体。だから表も裏も見なきゃ本質を知ったことになはならない。でも裏は見えない。
というわけで現代日本では、ほとんど見ることができない「裏の体」とはなにか?
それは――「死体」です。
死体を見たことがありますか? テレビの映像は除いて、実際にはどうですか? 動物の死骸は見たことがあるかもしれませんが(料理だって広い意味では死骸を切り刻んでいるわけですが)人間の死体を見る機会は一般的にはお葬式ぐらいでしょう。
ほかに「死」に遭遇するのは病院ぐらいでしょうか。
徹底的に「死体」を隠した社会。それが夜景に象徴される「脳にとって気持ちイイ」社会、現代日本です。
では「死」を意識さえるものとはなんでしょうか。
それは――「戦い」です。
格闘技は人間に「死」を意識させませす。しかも激しくぶつかり合うのは「体」。
徹底的に「死」を隠された現代日本において「死」を意識させる「格闘技」が盛んであることには、チラリズム論(笑)の観点からいってもおおいにうなづけるでしょう。
■ 脳化する映画
CGでどんな映像でも作れてしまう。まだ見ぬ未来の姿さえも作れる。スター・ウォーズシリーズの映像が凄いといっても、脳にとって凄いという意味ではそのとおりでしょうけれど、体にとっては全くといっていいほどパンチがないんですね。
これはスター・ウォーズシリーズに限らず、CGを多用した最近の大作の多くにいえることです。脳にとってはスゴいわけですけれども。。
そんななかでタイの格闘映画「マッハ!!!!!!(ONG-BAK)」や「トム・ヤム・クン!」は痛さが伝わるパンチの効いたアクション作品です。体を張った格闘映画ではこれ以上の作品はいまのところ思い浮かばないですね。
▼「マッハ!!!!!!(ONG-BAK)」作品レビュー
▼「トム・ヤム・クン!」作品レビュー
アメリカ映画ではCGをはじめとする特殊映像技術が盛んなため「マッハ!!!!!!(ONG-BAK)」や「トム・ヤム・クン!」といったような「体」を意識させるような作品は当分の間は作られることはないだろうと思っていました。
――ところが、できちゃいました。ギブちゃんが作っちゃったいました!
■ 変わり者? 超越者? ギブちゃん
ギブちゃんこと、メル・ギブソン監督はオーストラリア(豪)出身。「マッドマックス」シリーズでスターになりました。ほかの代表出演作に「リーサル・ウェポン」シリーズがあります。
監督業としては「顔のない天使」にはじまり「ブレイブハート」ではアカデミーの作品、監督賞を受賞しています。私財をつぎ込んで作った「パッション」は世界中で話題になってヒットしたのも記憶に新しいですね。
このように監督3作で映画づくりの才能をこれ以上ないというほどに全世界に知らしめました。そして監督第4作目が「アポカリプト」です。
豪出身とうのもあるでしょうけれど、彼の監督作品を観ればわかるように、メル・ギブソン監督はいわゆるハリウッド的なものを超越しています。
アメリカ合衆国でアクション作品をつくる場合に普通はすることをしていません。しないづくしなのです。
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・有名俳優を使わない
・作品に、いわゆる白人を登場させない
・英語・米語を使わない
・銃器を使わない
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ふつうだったら、こんなアクション映画の企画書は脚本エージェントのところへさえも届きません。
脚本やショービジネスの何もわかっていない奴だと鼻で笑われて終わりです。
でも、逆に言えば上記の項目が作品に登場する作品は、掃いて捨てるほどある、ということなのです。
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・有名俳優を使えさえすれば集客できる(と思っている)。
・メインキャストには、いわゆる白人と黒人(アフリカンアメリカン)の二人を起用しなければヒットしない(と思っている)。
・たとえ英語圏外を舞台にした作品でも役者は全員英語(米語)を話さなければアメリカ人に観てもらえない(と思っている)
・5分に1回は銃器を使う派手なアクションシーンを入れなければ客が劇場に入らない(と思っている)。
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メル・ギブソン監督はアメリカで多数の作品に出演してきた俳優なので、そんなことは百も承知。知っているからこそ、今のアメリカ映画には無いものがなんなのか。ほんとうに皆が観たことがものがなんなのか。だれもが本能としてもっているものがなんなのか。それらを映像化するにはどうするかをしっかりと考えたのだと思います。
■「いまだかつて誰も見たことのない」に偽りなし
電車も車も携帯電話も登場しない世界。
銃器が登場しないアクション映画。
ええ、観たことないです、そんな世界。そんな映画。
そして、こんなにも「脳」が締め出されて「体」が出ずっぱりの映画を観たことがありません。
そういう意味で、極めて異色で、極めて現代的(脳化社会の真っ只中で渇望される「体」)な作品。
こういう作品にニーズがあることを感じとって作品にしたメル・ギブソン監督。そんな彼が魅せてくれる「いまだかつて誰も見たことのないヴィジュアル」は、まさに「アポカリプト」の中にありました。
■ 眼力
役者のオーディションでは、演技の経験の有無よりも風貌や動きや内に秘めているものを重視したそうです。
そしてタカが役者さんを見て感じたのは、眼力です。
どの役者さんも眼が鋭い。演技がうまいとかいうことよりも、生命力が溢れんばかりに眼に表れている。それが。眼力の鋭さです。
■ サムライかっ!
ジャガー・パウの父親であり、部族長でもあるフリント・スカイは、他の集落の人に出合ったときに名乗ります。自分は誰でこの森でずっと猟をしてきた、といった内容を堂々と言います。
このシーンは、後にその息子であるジャガー・パウが名乗るシーンのための前フリでもあるのですが、こうした「名乗り」ってどこかで聞いたことありませんか?
日本の武士、いわゆる侍(サムライ)が戦場で敵と戦う前に「我こそは中川家の、中川家兄でござるワン!」(お笑い芸人中川家風)みたいなかんじ(?)で、とにもかくにも名乗りを上げるわけです。もちろん相手が名乗るのもちゃんと聞いて、それからいざ勝負! となります。
西欧の騎士も似たようなことをしていたんじゃないかなと思います。
ところが日本で銃器が使われるようになってからは、名乗る段取りをすっ飛ばすようになったんですね。
それまでは、戦いは戦士が行うものであり、戦士の戦いには名乗りにはじまる段取りみたいなものがありました。
ところが銃器を使うようになって、かならずしも戦士でなくても、だれでもきちんと訓練すれば、剣や弓だけの戦士を倒すことができるようになった。それにいち早く気づいて実戦に取り入れたのが幕末の長州藩の高杉晋作の奇兵隊ですね。
騎兵じゃなくて奇兵。当時の常識からいえば戦いの素人(農民や町民も含む)を集めて兵士にしたところで戦力になるはずがないと言われていた。そんな者たちの集まりは変な兵士。だから奇兵だと自分で名づけちゃうところが高杉晋作のおちゃめであっぱれなところですね。
奇兵隊は西洋式の兵法をよく取り入れて、銃隊や砲隊などで組織され、当時最新の兵器を扱って戦果を上げました。
話を戻しますが、ジャガー・パウは名乗ることで自身の立ち位置と、やるべきことをしっかりと認識して決意し、それまでとは違った行動に出ます。
さてジャガー・パウがどこで名乗るか。それは観てのお楽しみに。
■ 走れ! ジャガー・パウ
太宰治の「走れメロス」は傑作ですね。
なぜ広く人々に愛されるのか。友のためにボロボロになりながらも走りつづけるメロスに心打たれるからです。
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)
実は「アポカリプト」にもこれが使われています。ジャガー・パウと同じ村の青年ブランテッドが傭兵の矢に倒れながらも、友が逃れる隙(時間)を作ります。友とはジャガー・パウのことです。
そもそも、日常でブランテッドはジャガー・パウにからかわれていてました。ブランテッドはジャガー・パウに不満を持っていました。とはいってもそれはまるで兄弟喧嘩のようなもの。同じ村の友人として心の底では繋がっていたいたわけです。
友のために命を捨てる男。
家族を救うために傷つきながらも走り続ける男。
主人公の目的がしっかりしていて、そこに友情もある。
さらに親子(父と子)の愛情もあります。それは父フリント・スカイと息子ジャガー・パウ、さらには傭兵隊長であり父であるゼロ・ウルフとその息子スネーク・インクの関係によって描かれています。
それから姑と婿の愛情もあります。それはブランテッドと、嫁の母親の関係によって描かれています。
そのほかにも上司と部下の確執もあります。それは傭兵隊長ゼロ・ウルフと傭兵の班長(?)との関係によって描かれています。この傭兵の班長(会社でいえば主任クラス)がジャガー・パウの直接的な敵対者になって因縁の対決を観客に期待させます。
こうした関係性におけるサブ・プロットがそれぞれの登場人物の行動(アクション)の動機づけになっており、それによってストーリーを先へ推し進める効果をもたらしています。
無駄なシーンがないんですね。それは鍛え抜かれた狩猟民族の狩人ジャガー・パウの肉体かのようです。
■ 緩・転・急
作品は、大きく3つのセクションに分かれます。
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アクト1は、ジャガー・パウの村での平穏な日々。
アクト2は、マヤ帝国傭兵団による襲撃→マヤ帝国へ連行→生贄の危機。
アクト3は、マヤ帝国からの脱出→家族を救うためにジャングルを疾走。
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それぞれのアクトの役割は以下です。
アクト1の「緩」で、平穏で幸せな日々を提示(「転」への暗示もアリ)。
アクト2の「転」で、かけがえのないものを強調(残酷描写による)。
アクト3の「急」で、観客の本能とカタルシスを刺激&解消(アクションによる)
■ 残酷描写
「アポカリプト」には残酷描写があります。それも比較的多いほうです。
過激な映像は客寄せになるからといっても、そこまで残酷描写が必要か? という声もきかれます。
でも、作品を観ればわかりますが、残酷描写は単なる客寄せのためではありません。それには意味があります。
そもそも「アポカリプト」の物語構造はとてもシンプルです。
「外敵によって家族を危機にさらされた男が、自身のサバイバルと家族を救うために奔走する」
これだけです。では次のような作品を観たことがありますか?
「犯罪組織に家族を殺された男が、組織に復讐するために単身立ち上がる」
ほら、どこにでもあるハリウッド作品のログライン(Log line ストーリーを述べてある一文)とほとんど同じだというのがわかると思います。
でも、ストーリーラインはほぼ同じでも、主人公とそれを取り巻く環境が、危機的状況に陥る部分は全く違います。
たいていのハリウッド作品では、主人公の家族や友人や知人が傷つけられた事後のシーンを少し入れるだけにします。主人公にとって大事で身近な人たちがひどいめにあったんだな、ということが観客に伝わればいいからです。
大事なのは、主人公が悪の組織をぶっ潰す動機と理由を観客に提供すること。そのための「くだり」を丹念に描く必要はないと考えるからです。
ストーリー構築上に必要な設定という以外に意味のない残酷なシーンを詳しく描くことは、観客にっても「観たくないこと」なのだから、なおさら丹念に描く必要はないという考え方です。
観客はあくまで主人公の超人的な活躍の理由をほしがっているだけ、というわけです。
ところが「アポカリプト」では主人公の家族や友人たちが残酷に殺されるシーンがけっこうあります。
これは、作品の目的が一般的なハリウッド映画作品とは違うことを意味しています。
思い出してください。アクト2の「転」での役割を。それは、かけがえのないものを強調することです。アクト1で平穏で平和な日々を描いたのは、それがいかに大事であるか、かけがえのないものであるかを強調するためです。
たいていの作品では「アポカリプト」のアクト2に当たる部分を極力少なくします。理由は先に述べてたとおりです。ところが「アポカリプト」ではアクト2を、もういいよぉ、というぐらいに描きます。
ここには日本における格闘技の意味、つまり「生」への渇望と、かけがえのないもの(家族・友人)へのいとおしさを強調する役割があるのです。
ふつうの映画監督だったら避けて通る部分こそじっくりと描く。けっして話題づくりや客寄せだけの理由によるものではないでしょう。
皆が避けて通る部分をあえて通るには、当然ながらリスクを伴います。
想像してみてください。メル・ギブソン監督が私財をつぎ込んで作った「パッション」という作品があります。イエス・キリストが十字架にかかるまで12時間と、その復活を描くことに、いったいどれだけのリスクがあったのか。キリスト教圏でそのような作品を作るリスクとはどのようなものか――を。
どこも及び腰で資金を出したがらない。だから私財をつぎ込んだ。そこまでした伝えたかったことがある。伝えたいことを伝えるためにはどんなリスクでもとる。それがメル・ギブソン監督なのですね。
その意味に思いを馳せれば「アポカリプト」の残酷描写が必要か? とう問いの答えは出てくるでしょう。
「パッション」
■ 生きるとは? ~サバイバルと再生~
サバイバルは人間の根本欲求です。
涸井戸の底に避難したセブン(ジャガー・パウの妻)とその息子(5歳ぐらい)は。そこでただジッと助けを待っているわけではありません。
大きなお腹にふたりめの子供を宿したセブンは、涸井戸に落ちてきた動物と戦ったり、ロープを作って地上へ投げて井戸から脱出しようとしたりします。
ただ助けを待つだけではありません。「生」へと行動を起こしつづけます。ここにもアクションがあります。
さらに、大雨で涸井戸に流れ込んだ水が増えていく中では「正」への最大のアクションを起こします。
ジャガー・パウが「生」へのサバイバルを実践し、その妻のセブンが「生」への再生を実践する。
ホント、よく出来ていますヨ。
ちなみにセブンという名はおそらく、天地創造からですね。創世記によると、世界が作られた日数が6日。人も第6日めにつくられました。
7(セブン)じゃないやんか、という声がきこえてきそうですね。
創世記において神は天地創造の作業をすべて終えられ第7日に休まれました。神はその第7日を祝福して、これを聖別されました。
「聖別」された第7日。これは特別な日です。だからセブンという名には、人を含めた天地創造の「聖別」された特別な日を祝福する意味が込められているのです。だからセブンなのです。
■ 水と再生
出エジプト記に登場するモーゼはイスラエル民族の出身です。エジプト王による法律(イスラエル人に生まれる男の子はすべてナイル川に投げ込め)から逃れるため、赤ん坊のモーゼは葦で編んだかごに入れられ川に流されます。そして川に水浴びにやってきたエジプト王の娘のひとりに取り上げられるのです。
こうして「死の淵」から生き延びたモーゼは、エジプトの王子として育てられます。
サバイバルのために生まれてすぐに、エジプト王子という新たな「生」へ変換したモーゼ。それを仲介する象徴としての「川=水」。
雨水が大量に流れ込んだ井戸の底で、セブンは新たな「生」を授かります。ここにも水が「生」の象徴として用いられているのです。
■ 意味深な井戸
水つながりでもうひとつ紹介しましょう。それは井戸。
実は聖書には井戸がよく登場します。ヨセフが兄たちによってエジプト行きの商人の一隊に銀二十枚で売られてしまうところでも「穴」が登場します。
「彼を捕らえて穴に投げ入れ。その穴はからで、その中に水はなかった」(創世記37章24節)とあります。おそらくその穴は涸井戸だったのではないでしょうか。
井戸といえば映画「バットマン ビギンズ(BATMAN BEGINS)」で主人公のブルースは幼い頃に古い空井戸に落ちたました。これがきっかけでバットマンが誕生します。新たな「生き方」のきっかけになったのが空井戸に落ちた体験というわけです。
▼「バットマン ビギンズ(BATMAN BEGINS)」作品レビュー
「バットマン ビギンズ」
ほかにも新約聖書ヨハネによる福音書第4章5節~には有名な「ヤコブの井戸」の話があります。
イエスが弟子を連れてサマリヤのスカルという町にやってきたとき、そこにヤコブの井戸がありました。
イエスが井戸のそばにすわっていると、ひとりのサマリヤの女が水を汲みにきました。イエスはこの女に「水を飲ませてください」と言われました。そしてあなたに生ける水を与えようとも言います。
サマリヤの女にイエスは、わたしが与える水を飲む者は、いつまでもかわくことがない、といいます。
また、イエス・キリストが預言者ヨハネから洗礼を受けたのもヨルダン川です。(マタイによる福音書第3章12節~17節)。川=水ですね。
ガラリヤ湖で漁師をしていたペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブがイエスに声をかけらえて弟子になったとき、彼らは、正しい道を探す者を導くという意味での「人間をとる漁師」として生まれ変わりました。このときもガリラヤ湖という「水」に関連した場所が登場します。
ほかにもヨハネによる福音書第5章には、エルサレムの羊の門のそばのベテスダと呼ばれる池が登場します。その池のそばには病人たちが大ぜいからだを横たえていて、彼らは水が動くのを待っていたとあります。
時々、主の御使いが池に降りてきて水を動かした時にまっ先にはいる者は、どんな病気でもいやされたからです。ここにも病からの開放され「生」へと生まれ変わる場面に水が登場します。
このように聖書では「永遠の命にいたる水」「罪を清める水」が登場して、悪を悔い改め新たに生まれ変わるという意味で「水」が象徴的に示されています。
キリスト教会の多くの宗派の洗礼式で水が使われるのは、罪から開放された新たな生まれ変わりを表しているのですね。
さて「アポカリプト」でのジャガー・パウの村の井戸が涸井戸だったのはなぜでしょうか?
マヤ帝国のみならずジャガー・パウの村のある森の付近でも干ばつが続いていたことが予想できます。水不足だったんですね。
そんな中にあっても村には水がありました。
村の中央ぐらいにあるらしき「水貯め場」に水が貯めてあり、大事なトコロが大変なことになったブランテッドがアソコを冷やすために水貯め場に下半身を浸けるシーンがあります。
マヤ帝国では干ばつが深刻なのに対して、ジャガー・パウの村では水不足とはいえ水はある。その水にブランテッドが新たな命を象徴するオチ○チンを浸けるというのは、森と村には生命力がまだまだ溢れているってことですね。
井戸や雨や水を用いて「命」の「再生」を、肉体やアクションを用いて「命」の尊さを伝えようとしているのがとてもわかりやすいですね。
■ 走る! 走る! 走る!
アクト3は走りっぱなしです。昼も夜も追っ手は休みません。息をつかせぬ追跡劇とはまさにこれのこと。
よくぞまぁジャングルだけでこれほどハラハラドキドキさせて観客を惹きつけておけるものだと感心します。
スピード感と躍動感を出すための撮り方をメッチャ研究したんだろうなと思います。
ジャガー・パウはひたすら走ります。迫りくる脅威は追っ手の傭兵たちだけでなく、自然もです。
もし都会で「おっかけっこ」をすれば、電車や車や店を壊して派手に演出できます。でもそんなシーンはどこにでもあります。見飽きたといってもいいでしょう。派手にできるからというのは作り手側の都合であり、作り手側のマニュアルです。
電車も車も店も、追う者と追われる者以外に人も存在せずとも「おっかけっこ」はできるんだぞ。そんなことを教えてくれただけでも、脚本家志望者や演出家志望者をはじめとするあらゆるビジネス関係者にとってはありがたいことでしょう。
ちなみに日本の映画で走りまくる作品といえばサブ監督の「弾丸ランナー」ですヨ。
■ その他
マヤ帝国で全身に真っ白な人たちが労働に従事しているのは、神殿や宮殿や広場をつくるために生石灰を作っているからですね。
マヤ帝国滅亡の原因はいくつもあるそうですが、そのひとつが生石灰をつくるために森をたくさん伐採したことによる干ばつと食糧不足による帝国維持が不可能になったため、との説があります。
また、作品ではマヤ語族初期の方言であるユカテク語が使われています。ダイアログ・コーチという人が役者の発音をチェックして、かなり徹底的に作り込んだようです。
マヤ帝国の神殿も撮影のためにいたしかたない部分は差し引いても、資料を元にかなり気合を入れて作られていrんじゃないかな。もちろんマヤ帝国を生で見たことがある人なんて現代にはいませんから、それが正確なのかどうかはだれもにわかりませんが、スクリーンから滲み出る「気合い」はバシバシ感じます。
よくありがちなのはこんなの。
ここははんとなくそれっぽい古代の神殿があって、そうそう鳥居とその周りに墓地が広がっていて(←神社と寺院をごっちゃにしてない?)そこになんとなくそれっぽいサムライがいて、そうそう亀が背中に刀を背負ってて(←忍者タートルズとごっちゃにしてない?)というような、思いつきで雰囲気だけあればいいといったもの。
「アポカリプト」はそんなものと違う。真剣にマヤ帝国文化の雰囲気を伝わるよう、わからないところは想像力を働かせて作ったことがスクリーンからバシバシ感じます。
有名俳優を使わないのが尚のことよかったのでしょう。有名スターを使うとそれなりに細かい契約内容がたいへんで、ちょっとでも危険なシーンはやらないだとか、飲み物はこれじゃないとダメだとか、撮影中は有名ホテルのスィートルーム滞在じゃないとダメだとかいろいろあって、なかには演出やストーリー内容にまで注文をつけてくるスター俳優もいるかもしれません。
注文はなくても、俳優に合わせて撮影スケジュールやシーンを変更しなければならなくなる、なんてことは十分に考えられることです。
そんなことにお金と時間をとられることなく、作品の雰囲気と役柄にピッタリの人選をすることができる。有名スターを起用しないことで注目度が落ちるのではないかという一般的な心配の枠外で作られたところがイイと思います。
マヤ帝国滅亡の原因とされるものの有名なひとつをラストにサラッとだけ使っているところがまたイイですね。ありがちな作品だと、そこに焦点を当ててしまいがちですが、あくまでサラッとチラッとだけ匂わす程度にしている匙加減が絶妙です。
デートで観るのはちょっと考えたほうがいいでしょう。
残酷描写がどうしてもダメという人は無理に観にいかないように。
残酷描写を覚悟するなら、ぜひ観ていただきたい作品です。
デート △
フラっと ◎
脚本勉強 ◎
演出 ◎
笑い △ジャガーとかけっこはチョイ笑いアリ
役者 ○
映像 ◎
アクション ◎
歴史 ○
ファミリー -R15
有名スター ×
お気楽 ×