09/11/2007

ピクサーのスゴさの秘密

「レミーのおいしいレストラン」がCGアニメーションとしてヒットしつづけているのはなぜか。

今回はCGアニメーションに焦点を絞って考えてみよう。

そもそも、ピクサー作品のCGアニメーションがスゴいというときの「スゴさ」とは何だろう?

ピクサーはこれまで、CGでは難しいとされる対象をあえて描いてきた。毛におおわれた生き物、水。

そして「レミーのおいしいレストラン」では料理を題材に描いた。だからスゴいといえば全くそのとおりなのだが、実はもっと重要な点をうまくやりとげている。

重要な点とは「人間」である。

高度なCGアニメーション技術があるからといってすぐに人間を登場させなかったことが重要であり、成功の要因だ。

たいていのCGアニメーション作品の場合、はじめから人間を登場させて「CGアニメーションの底無し沼」にハマってしまう。

人間をCGで描く意味と必要という名の沼にハマると、抜け出そうともがけばもがくほど深く沈んでいく。スクエア(現スクエアエニックス)が映画「ファイナルファンタジー」深い底まで落ちて浮かんでこれなかったようにである。

ところがピクサーの初期作品は人間以外を主人公にして、必要ならば人間も少し登場させてきた。そして徐々にスーパーヒーローや料理人へと、CGアニメーションで登場させるキャラクターにおける人間の比率を増やしてきたのだ

さらに最新作「レミーのおいしいレストラン」でさえ、主人公はねずみのレミーと人間のリングイニのふたりだ。まだ人間だけが主人公とまでにはしていない。

これがピクサーのうまいところである。

モンスターやおもちゃや魚を主人公にして「人間」を描きつつ「レミーのおいしいレストラン」では、さりげな~く主人公のひとりを人間にしている。

こうして、例の沼にハマることなく、人間をサラっと主人公にできているのだ。

ハマるとわかっている沼は避けてとおる。

あたりまえといえばそれまでのことを確実に行ってきた。それができるスゴさがピクサーにはあるということだ。

▼映画「レミーのおいしいレストラン(RATATOUILLE)」 作品レビュー


さて「ベクシル」はチャレンジ精神にあふれる作品だが、やはりこれも人間の顔をどのように表現するかで苦悩している様子がうかがえる。

技術的にはリアルな顔にすることができるのだが、あえて2Dちっくな、いうなれば従来のアニメちっくな「絵」に近いものとしている。

「CGアニメーションの底無し沼」があることはわかっているのだから、あえて無視するかのような態度もとってみるという、いい意味でのいやらしさ、もときには必要だ。

「ベクシル」は真面目に頑張っているのでぜひとも応援したいが、真面目におちゃらけてみるのもどうだろうか。新しい発見があるかもしれないゾ。

▼映画「ベクシル」作品レビュー

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08/22/2007

レミーのおいしい作品づくりの秘密


ピクサーがなぜヒット作品を出しつづけることができるのか。

その理由のひとつは、徹底したストーリーづくりにあります。

ピクサーでは、ひとつの作品について2年をストリーづくりに費やすそうです。

CG技術の高さが目立ちがちなピクサーですが、ただのCG職人の集団ではありません。

物語をつくる工房、のようなところといったらいいのでしょうか。

物語ありきで、それに最適なCG技術を使う。

だから、ピクサー作品の質は高く、ヒットを続けているのですね。

では具体的にどういったところが上手なのか。ストーリーづくりにおいてどういったところがしっかりしているのでしょうか。


 人間と動物の関係

ピクサー作品の多くは、人間以外の生き物やモノが主人公であることが多いですね。

おもちゃの人形。モンスター。魚。車。

人間以外が主人公の作品にも、人間が登場することがあります。

しかし、登場する人間は子どもだけだったり、大人は声だけだったり、大人の体の一部がチラッと映るだけだったりします。

これは意図してそうしているのでしょう。

主人公を中心とした世界を軸に物語を展開する場合、異質な世界はあくまで異質のままにしておく必要があります。

これには、物語世界の雰囲気の統一感を保つ目的があるとともに、観客の視点を主人公の世界につなぎとめておく役割もあるためです。

「ファインティング・ニモ」にも人間が登場しますが、それはニモが父親と再会する障害(オブスタクル)のひとつの役割しか持たせていません。人間の内面には踏み込んでいないのです。

それは魚のニモの物語だからです。ニモが父親と再会するための物語だからです。

だから、人間の内面を描く必要はないのです。

これまでのピクサー作品の基本では、どちらかの世界を中心に描きはじめたら、もう一方の異質な世界へは深く入り込みませんでした。

魚の世界を描いたら、人間の世界に深く入り込まない。

おもちゃの人形の世界を描いたら、人間の世界に深く入り込まない。

しかし、表面的には人間の世界を描いていないようで、作品を見終わってみると、それはけっして魚だけの世界でもなく、おもちゃの人形だけでなく、まさに人間の世界を描いていることに気づく、という仕掛けになっています。

「人間以外の生き物やモノを主人公に描きながら作品としては人間を描く」というスゴ技を披露してきたのがピクサー作品だというわけです。


■ ふたりの事情と内面

さて「レミーのおいしいレストラン」では、ねずみのレミーと、人間のリングイニのふたりの事情と内面が描かれます。

これはスゴいことです。

物語世界の統一感を保ちつつ、観客の視点を「ねずみ世界」と「人間世界」との間をブラブラと浮遊させることなく、共に自然にリンクさせている。

これをサラッとやっているところが、ほんとうにスゴい!

こんなスゴ技ができるのは、やはり 「魔法の鏡」職人(作家)ブラッド・バードだからなのでしょう。

Mr.インクレディブル(THE INCREDIBLES)」を作るために、外部から招き入れられた新しい監督、それがブラッド・バードです。

皆さんご存知のように「Mr.インクレディブル(THE INCREDIBLES)」はそれまでのピクサー作品とはちょっと雰囲気が違います。まず、人間が主人公です。厳密にはスーパーヒーローですが、基本は人間です。

そして「Mr.インクレディブル(THE INCREDIBLES)」のアクション描写もどちらかというと過激なほうで、上映時間も過去最長です。

そんなブラッド・バード監督は「レミーのおいしいレストラン」で作品づくりでは明確に分けられるふたつの世界(ねずみ世界と人間世界)を同時に描くというスゴ技を披露してみせたのです。

お・そ・る・べ・し。ブラッド・バード監督。


■ 異なる世界を同時に描く方法

では、どうやってふたつの異なる世界を同時に描くことができたのでしょうか。

その鍵は「レミーのしゃべり」「動き」にあります。

レミーはねずみ世界ではしゃべります。でも、レミーは人間世界ではしゃべりません。

レミーは人間の言うことを理解しますが、人間の言葉はしゃべらないのです。

さらにレミーは四本足でも二本足でも歩きます。ねずみらしい動き(四本足歩行)をすると同時に、ねずみらしくない動き(二本足歩行)もします。

このようにレミーの「しゃべり」と「動き」は、双方の世界の中間にあります。双方の世界の橋渡しができる位置にあるのです。


■ エッジに立つ新ヒーロー

橋渡しができる位置で活動するためには、自身が所属する集団や共同体の「エッジ(ふち。へり。端)」にいる必要があります。

レミーはその優れた臭覚によって食べ物の良し悪しを判定する重要な役割を持っていました。それに父親はねずみのリーダーです。

ねずみだけど、ねずみ界のサラブレッド。ねずみ界の王子みたいなものです。

自分たちを危険な目にあわせる人間と関わるなんて考えられない。人間は敵だとあらためて教えられるレミーですが、それでも良い人間だっている! とリングイニと協力して料理を作ります。

共同体の中心にいながら、エッジに立ち、敵対するふたつの世界の橋渡しをする。

ほら、聖書の出エジプト記のモーゼだって、エジプト王子として育てられましたが、リーダーとしてイスラエルの民と共に約束の地・カナンへ旅立ったのと似ていますね。

これは偶然ではなく、当然のようにキリスト教文化を物語づくりの要素として研究して活かしているからでしょう。

なにはともあれ、レミーは新時代のヒーロー像なのですね。

「Mr.インクレディブル(THE INCREDIBLES)」でそのものズバリのスーパーヒーローを描いた監督が、今度は料理を題材にヒーローを描いたのです。

▼「レミーのおいしいレストラン(RATATOUILLE)」作品レビュー

▼「Mr.インクレディブル(THE INCREDIBLES)」作品レビュー

▼関連記事「レミー、実はしゃべる」

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08/15/2007

レミー、実はしゃべる


ピクサー作品「レミーのおいしいレストラン」

ねずみのレミーは、従来のディズニー作品のキャラクターの多くが二足歩行するのとは違い、ほんとうのねずみと同じように動きます。

けれども、実は二足歩行もします。

なぜ二足歩行をするかを、レミー自身が他のねずみに説明するシーンがあります。

前足を清潔にすることで食べ物をおいしく安全に食べるためだというのです。また、手に入れた食料を清潔に運ぶこともできるから。

二足歩行にはちゃんと理由がある。食料を清潔に保ち、おいしいものを食べたいという願いをもったねずみというキャラクター設定をしっかりしたものにする役割がそこには込められているんですね。


さて、レミー自身が他のねずみに説明するということは、レミーは実はしゃべれるんです。

でもそれは同じねずみ同士の場合だけです。

レミーは人間の言葉を理解するけれど、人間の言葉を話すことことはできません。

このあたりの絶妙なさじ加減が、レミーのおかれた状況を的確に観客に知らせることを可能にしています。

登場キャラクターが人間と動物の両方いる場合は、動物はしゃべらない設定にするんだけれども、動物同士(ねずみ同士)はあたりまえにしゃべる。

そうすると観客は、ねずみ社会の事情もわかる一方で、人間(リングイニ)の事情もわかる。

双方の事情がわかるのは観客のみ。

すべて知っているからこそハラハラドキドキする。

その設定が巧みなんですね。

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07/12/2007

おもいっきりのよさのある「ダイ・ハード4.0」


ダイ・ハードシリーズはすべて観ているハズ。

「1」はビル。「2」は空港。「3」はニューヨークだったよね?

なかでもやはり「1」が一番印象に残っている。日本人経営ビルの社長らしき日本人だけが頭を吹っ飛ばされたから。派手な血が飛び散っていたよ。悪役だって頭は吹っ飛ばされなかったのにねぇ。

それを観たとき、アメリカ人のなかには日本人嫌いってけっこういるのね、と思ったように記憶している。

「1」なんて今観るとブルース・ウィルスが若い。当たり前か。髪の毛もけっこうあって、あんた誰? って思うぐらい。

それにしてもここ数年で殺し屋役がこれ以上ないほどハマリ役になったブルース・ウィルス。たとえ殺し屋じゃなくても、ワルっぽいけど善役というダークヒーローが似合う俳優といったら彼というまでになった。

そんなダークヒーローのブルース・ウィルスの魅力を堪能できるのがコレだ。

「16ブロック(16BLOCKS)」作品レビュー


話を「ダイ・ハード4.0」に戻そう。

観客がダイ・ハードシリーズに求めるもの。それは派手なアクション。それだけだ。

それをよぉくわかっているのだろう。「ダイ・ハード4.0」はひたすらアクションの連続だ。

主人公のキャラクター設定はもぉじゅうぶんすぎるほどできている。やることといえばアクションしかない。

だから悪玉キャラも、アクションのためのお約束にすぎないのでシンプルだ。無駄に悪役を凝らない。無駄に人間ドラマを作ろうとしない。

アクション、アクション、アクション。

ここまで割り切っていれば、おもいっきりのよさというもの。

「ダイ・ハード4.0」のなかのアクションシーンひとつを目玉にして、他のアクション作品が作れてしまう。そんな派手なアクションシーンがいくつも続く。

これを独壇場というのだろう。金のかかる派手なアクションと撮らせたらハリウッドにかなうところは到底ないと思わせるのに、これ以上の作品はない。


ジャッキー・チェンの娯楽アクション作品はそれなりにいいが、気合を入れて撮ったアクションシーンをカメラワークを変えたり、ストップモーションにしたりして、何度も「巻き戻し再生」みたくしている作品があったと思う。

どうだ、すごいアクションシーンだろう? といわんばかりである。

スタント無しはたしかにスゴいが、それはまれるで友人宅に遊びに行ったときに、ホームビデオカメラで撮った友人の息子・娘の幼稚園の運動会映像を30分以上観させられるようなものである。

5分なら笑顔で付き合えるが、10分以上は家族や親族でもないかぎり、ハッキリいって誰だって辛いだろう。

そういった「どうだすごいだろう」的な編集を「ダイ・ハード4.0」はやっていない。

金があるがゆえの余裕ともいえる、おいしいところをスキップで軽快に飛ばしていく編集には、爽快感さえある。

どんな作品も、作り手側の自意識が出てしまっては観客はゲンナリする。

自意識との戦い。それが作品づくりの基本だ。

そんな視点から「ダイ・ハード4.0」を観ると、すがすがしくおもいっきりのいい作品、ということができる。

頭をカラッポにしてアクションを存分に楽しむ。そういう作品にはなかなか出会えるものではないのだから、こういうときは素直に楽しんだほうがいい。

とはいっても、見終わったら何も残らないのはご承知のほどを。


ちなみに私は、アクション映画なら「アポカリプト」のほうをおすすめする。

▼「アポカリプト(APOCALYPTO)」作品レビュー


ダイ・ハードダイ・ハード
ブルース・ウィリス ジョン・マクティアナン ボニー・ベデリア

ダイ・ハード2 ダイ・ハード3 守護神 ナイト ミュージアム (2枚組特別編) ディパーテッド (期間限定版)

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B000PAU2PI16ブロック
ブルース・ウィリス リチャード・ドナー モス・デフ
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2007-06-27

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06/08/2007

「パイレーツ ワールド・エンド」宝箱は開けないほうがいいの意味


「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」作品レビューで、宝箱は開けないほうがいい、という話をしました。

▼「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」作品レビュー

そのあたりについてもう少し掘り下げてみましょう。


まず「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」を、CGアニメにして宝箱を閉じたままにすれば良かったのでしょうか?

ジョニー・デップという実在の俳優がジャック・スパロウを演じないほうがよかったのでしょうか?


できれば実在の俳優さんではなくCGやアニメーションのほうがいいと思います。

でも、ジョニー・デップ以上にうまくジャック・スパロウを演じれる俳優さんはなかなかいないと思いますヨ。

というか、ジョニー・デップが良過ぎるんですね。キャラクターの魅力を開花させる才能に溢れた俳優さんであるがゆえに、他のキャラクターのみならず、物語自体をも飛び越えちゃうみたいな。

それは俳優さんがいけないのではなくて、脚本家や演出家や監督などがうまく舵取りをしていくべきなのですが「ワールド・エンド」ではジャック・スパロウというキャラクターに「ワル乗り」しちゃったようにおもいます。

まぁ、作ればヒット間違いなしという状況では、多少遊んでもいいかな、ぐらいの感覚でいたのが、いつの間にか観客との距離がどんどん開いて行ったのかな、と推測できます。


いい映画=ヒット作とするならば、ジョニー・デップ出演の実写映画でいいと思います。ただ、キャラクターの脳内世界をあのような形で披露した意味が「ワル乗り」以外に見当たらないのが残念ですが……。

いい映画=心を揺さぶる、感動作とするならば、CGでもアニメでも実写でもなんでもいいとおもいます。ただ、ディズニーリゾートの雰囲気に合うようにするなら、CGやアニメのほうが良いと思います。


ですがディズニーアニメは最近イマイチなようで、アニメだけでなく、積極的に実写映画の製作にも取り組んでいるようです。

「ホーンテッドマンション」(2003年)

「ナショナル・トレジャー」(2004年)

「ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女」(2005年)

それにフジテレビ製作の『南極物語』のリメイク作品「南極物語 EightBelow」なんかも手がけてますね。

おそらくディズニー的にはアニメーションだけでなく、実写でもヒットの実績をガンガン作っていきたい(CGはピクサーの独壇場だし。それにピクサーはもうディズニーだから)その願いが見事に実ったのがパイレーツ・オブ・カリビアンシリーズというわけで、うれしくって☆つい遊び過ぎちゃったのかもしれませんね。


いい作品=感動作ということでは「リロ・アンド・スティッチ Lilo & Stitch」が参考になります。

▼「リロ・アンド・スティッチ Lilo & Stitch」作品レビュー

スティッチは宇宙のならず者・おたずね者です。宇宙の海賊といってもいいですね。

一匹狼。アウトロー。ワルモノ。

でもスティッチは大人気です。私もスティッチのストラップやぬいぐるみならほしいくらいです(笑)。

海賊(ワルモノ)だからダメということはなく、たとえワルモノとされるキャラクターであっても、他のキャラクターとの出会いを通して変化していく、その物語の過程で感情移入してもらえれば、いい作品になるのではないでしょうか。

スティッチはしゃべりません。もちろんスティッチの脳内世界も映像化されません。でも、観客はいつしかスティッチの気持ちが手に取るようにわかるような気がしてくる。

「スティッチの気持ち」という宝箱は、観客がいつの間にか開けている。

制作者側が宝箱を開けてみせるのではなく、観客がいつの間にか宝箱を開けているのがいい。

それが「宝箱は開けないほうがいい」の意味です。


いかがでしたか? 

ジャック・スパロウというキャラクターの人気の秘密は「ダメ親父」じゃないかなと思います。

ハードディスクレコーダーでテレビ番組の予約操作ができない親父。

燃えるゴミと燃えないゴミの区別がつかない親父。

ブロッコリーを買ってきてと頼むと、カリフラワーを買ってくる親父。

休みの日はパチンコ以外にすることがないように見える父親。

そんな頼りないと思えるダメ親父でも、いざ家族旅行となったら渋滞の高速道路で皆が寝ているなか、ひとりハンドルを握りつづけるその後姿に、ふと頼もしさを感じたりもする。

ジャック・スパロウもいつもはラム酒に酔っ払っているようで、剣術はけっこう達者で、ちょいと機転をきかせてウィルターナーとふたりで出港準備を済ませた船をまんまといただいちゃう(第1作より)。

ほんといいかげんで、なにを考えているんだかわからない奴なんだけど、ほんとうはちゃぁんと考えていて、いざとなったら頼もしい。

そんな「愛すべきダメ親父」の片鱗をジャック・スパロウに垣間見た観客は、彼に頼もしさを感じるのです。

ところが第3作では「愛すべきダメ親父」であろうと確信していた観客の期待を裏切り、ただのいきあたりばったりのおかしな奴、というキャラクターにしてしまった。すくなくともそう見えてしまう。

あぁ、なんともったいないことか!

もったいないお化けが出る象(ぱおぉ~ん)←もうヤケクソ^^;

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06/07/2007

レミーのおいしいキャラクター設定

ピクサーの最新作「レミーのおいしいレストラン」の予告編はもう観ましたか?

7月28日公開予定なので、そろそろ予告編のバージョンも増えてきて、いろんな映画館で目にすることも多くなってきたでしょう。

「レミーのおいしいレストラン」の監督はブラッド・バード。「Mr.インクレディブル」や「アイアン・ジャイアント」の監督です。

実は「Mr.インクレディブル」は、すごい風刺作品です。なんの風刺か?

いうまでもなくアメリカ合衆国の風刺です。しかも風刺といわれなければ、そうとは気づかないで、お気楽エンタテイメント作品として観ることでもできます。

「アイアン・ジャイアント」もそうですが、子供向け作品のようでありながら、風刺作品でもある。だから大人が観てもおもしろい。

子供も大人も楽しめる作品を撮る監督、それがブラッド・バードなんですね。

彼は「Mr.インクレディブル」を撮るために外部からピクサーにやってきました。

「Mr.インクレディブル」はピクサーにとって記念すべき作品です。

なぜなら「Mr.インクレディブル」はピクサー初の人間(スーパー・ヒーロー)が主人公の作品だからです。

「Mr.インクレディブル」以前のピクサー作品はモンスターや魚などが主人公でした。

だから「Mr.インクレディブル」はそれまでのピクサー作品とはちょっと雰囲気が違います。アクション描写もどちらかというと過激なほう。上映時間も過去最長です。

そんな監督のことだから「レミーのおいしいレストラン」も、子供向け限定のお料理作品じゃないことは容易に想像できます。


さて「レミーのおいしいレストラン」について、ひとつおもしろいことがわかりました。

それは、ねずみのレミーの設定です。

レミーは食べ物にたいへん興味を持っていて、愛読書は天才シェフ著の「誰でも名シェフ」です。

でも「ねずみ」なんですね。ここまでは皆さんもご存知でしょう。

今回のポイントは、レミーのデザインです。

当初、レミーは二本足で立って歩く設定だった。けれども「ネズミを人間のように描くのは間違い」として設定を変更したそうです。

ディズニーの動物キャラクターの多くは二足歩行です。ミッキやミニーが四つん這いでディズニーリゾート内を動き回っていたらどう?

ちょっとホラーちっくかもしれないですね^^;

だからディズニーのキャラクターの多くは二足歩行。つまり人間のように描かれることが多いんですね。

ところがレミーはちゃんとねずみっぽい動きをする。というかねずみと同じように動きます(予告編を観るかぎりいわゆるねずみの動きをする)。

さすがピクサーの異端児(←勝手に異端児扱い^^;)ブラッド・バード監督。

新しい風を受け入れ、日々おもしいものを作ろうとするピクサーの社風も感じます。

そしてもうひとつ、レミーの設定でおもしろいことがあります。

レミーは人間の言語を理解するけれども、話すことはできません。

これはたいへん興味深いですね。

ねずみがベラベラしゃべったら、ちょっと雰囲気が違ってきます。

まるでドリームワークスの「シュレックシリーズ」みたいになっちゃうでしょう。

しゃべる動物キャラというのも魅力的ですが、観客の心の中で作られるキャラクターというのは、なるべく内面を見せないほうがいいんです。

登場キャラクターが人間の場合は、しゃべらないわけにはいかないので、キャラクターの内語(思っていること。漫画でいうところの点線のフキダシ)やナレーションをなるべく使わずに、観客にキャラクターの心情を想像してもらう工夫をします。

登場キャラクターが動物だけの場合は、人間の言葉をしゃべります。

でも登場キャラクターが人間と動物の両方いる場合は、動物はしゃべらない設定にします。

すると、観客は動物の心情を推測しようとします。

観客が動物キャラクターの心情を想像できるようになれば、愛されるキャラクターの確立となります。

ブラッド・バード監督は、どうしたら観客に受け入れられるキャラクターをつくりあげることができるかを、ちゃんと考えているんですね。

だからレミーは人間の言語を理解するけれども、話すことはできないのです。

このあたりの基本事項をあえて外しているのがドリームワークスのシュレックシリーズですね。

基本事項さえわかっていれば、それを守ろうとも破ろうとも、意図的にできるわけです。

なんとなく動物キャラがしゃべるとか、なんとなく動物だからしゃべらないとか、そういうことではダメなんですね。

ちゃぁんとわかっててやってる。それが大事です。

▼「Mr.インクレディブル(THE INCREDIBLES)」作品レビュー


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04/13/2007

ポール・ヴァーホーヴェン監督の力作!


「ブラックブック(ZWARTBOEK/BLACK BOOK)」


第二次世界大戦ナチス・ドイツ占領下のオランダを舞台として、家族をナチスに殺されたユダヤ人女性歌手の復讐を描く作品。


「インビジブル(2000)」「スターシップ・トゥルーパーズ(1997)」のポール・ヴァーホーヴェン監督作品だ。


オランダ/ドイツ/イギリス/ベルギーが制作とのことで、かなりの制作費がかかったとおもわれる気合の入った作品となっている。


戦時下の過酷な状況を舞台とした作品では、主人公のサバイバルが焦点となっている場合が多い。生き延びるだけでも奇跡であった当時の状況下を描いた作品に「戦場のピアニスト」や「シンドラーのリスト」や「トンネル」などがある。

▼「戦場のピアニスト(THE PIANIST)」作品レビュー


「ブラックブック」はもちろんサバイバルが基本だが、さらに家族ナチスに殺されたユダヤ人女性歌手が復讐のためにナチスの将校に近づくのだ。


オランダのレジスタンスを中心にユダヤ人女性を描いた本作品は、息をつかせぬ展開とペースで上映時間144分という長さをまったく感じさせない。


たとえば「これは観なければならないものだ」といわれると、作品のつくりはどうあれ、姿勢を正してちゃんと観なければならないもの、という捉え方をしてしまいがちだ。


だから作り手のほうも、観てもらうために必要なことがじゅうぶんでないまま作品を完成させてしまうことがある。ほんとうに多くの人々に観てもらいたい、伝えたいメッセージを持っていればいるものほど、観てもらうための方策・方法がじゅうぶんに練られることがないままに作品づくりが進行してまうことがあるのだ。


「これはたとえ長くつまらなく思えてもちゃんと観なければならない」と言われたら、観る前から身構えてしまう。そうなっては作品のメッセージを受け止めることは難しくなる。


これを「伝えたいことが重要であればあるほど相手に伝わりづらくなるデフレスパイラル」とでも名づけようか。


こうしたデフレスパイラルに陥っている作品はけっこう多い。


しかし「ブラックブック」にその心配は無用だ。


「ブラックブック」は戦時下を扱った作品でありながら、観客をひきつけて物語を観せつづける工夫と意欲にみなぎっているからだ。

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04/06/2007

燃える骸骨に萌える

「ゴーストライダー」


ニコラス・ケイジ主演とくれば観ないわけにはいかない。


ノリノリで観にいったのは公開してすぐだった。レビューを書こうとお思っていたが、自分が楽しみすぎてクールにレビューできそうもないのでしばらく頭の中に寝かせておいた。


だが、いくらたってもゴーストライダー熱は炎のように燃えあがる一方なので、サラッと気軽にコメントしておこうと思う。


燃える骸骨がハーレーに乗って悪を成敗!


そう聞いただけでもぉ最高ぉー☆と思った方は最高に楽しめる作品だ。


コミックが原作ということで、深読みすればいろいろ深いのだろうけれど、またアメリカ映画史観とかそのあたりを掘り下げる要素は随所にいろいろありそうだが、そんなことはカッと飛ばして、ニコラス・ケイジが脚色したと思われるキャラクターの色付けを大口あけて笑って楽しめば吉幾三である。


色付けしたのはおそらく、主人公が「猿大好き」なところ。


なぜかニコラス・ケイジ演じる主人公はテレビに猿が映っていると、ほんとうに楽しそうな顔をして画面に夢中になる。


そんな、なんだか意味はよぅわからんが思わずニヤリとしてしまう味付けをさせたらニコラス・ケイジは天下一武道会優勝だ(なんじゃそりゃ)。


作品の見どころは、高層ビルの外壁を垂直に上方向にバイクで登ってい
き、屋上でヘリコプターと綱引き。それが終わったら屋上からバイクで飛び出してポーズ! ――と、ふたたびビルの外壁を真下に下りていくシーンだ。


もちろんこのとき、バイクの運転者の頭は炎に包まれた骸骨だ。


そのシーンを観てみたいとちょっぴりでも思ったなら、アナタはこの作品と相性がいいにちがいない。


こんな作品を観ると、アメリカ人はほんとうに一匹狼のアウトローが活躍するヒーローものが好きなんだなぁと思う。


細かい仕草にまで配慮して笑いを取ろうと、ニコラス・ケイジがめっちゃ楽しんで演じているんだなぁと思わずにはいられない「ゴーストライダー」。


敵キャラが意外とあっさり倒れていくのもお約束のご愛嬌。


カウボーイとバイカーの併走シーンは、映画ファンには嬉涙ものだろう。

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03/04/2007

第79回アカデミー賞 菊地凛子さん受賞ならず

第79回アカデミー賞が発表されました。


「バベル」で助演女優賞にノミネートされていた菊地凛子さんは受賞ならず。


助演女優賞は「ドリームガールズ」のジェニファー・ハドソンさんでした。


また「硫黄島からの手紙」は音響編集賞のみの受賞。


そして今回は、やっとマーティン・スコセッシ監督が「ディパーテッド」で監督賞を受賞、ほか作品賞、脚色賞、編集賞と計4部門を受賞しました。


関連記事

▼バビルの塔に住んでいるのは?

▼「硫黄島からの手紙(Letters From Iwo Jima)」作品レビュー

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02/02/2007

邦画ヒット常連の原動力はアノ若手人気女優?


邦画のシェアが洋画を上回ったとか。21年ぶり。

2006年の邦画ヒット作って?


▼邦画

1位「ゲド戦記」 76.5億円 東宝

2位「LIMIT OF LOVE/海猿」 71億円 東宝

3位「THE 有頂天ホテル」 60.8億円 東宝


おぉ! 東宝が独占ですね。

「THE 有頂天ホテル」はどうかわかりませんが(未見)、1位と2位の両作品は、物語構成や演出の面からいうとイマイチ。

ゲドは学生の習作かのようで、話題性だけですね。

▼ 『「ゲド戦記」で露呈か!ジブリの悲劇!?-宮崎駿作品群の「ムラ」のワケ-』


映画の海猿はありえない設定が多くて思わず笑っちゃいます。
でも、海猿の原作はすばらしいです。映画→ドラマ→映画というサンドイッチ型で集客した手法は成功しましたね。

「LIMIT OF LOVE 海猿」作品レビュー


ちなみに邦画の10位までのうち、8本が東宝です。「NANA2」は予想より大幅にヒットしなかった東宝ですが、東宝シンデレラガールの長澤まさみさんがいますから、しばらくは勢いがありそうですね。

▼ 「『NANA』と『下妻物語』(+「R2-D2」)に共通する大ヒットの秘密とは?」


いつの日か、内容がしっかり伴った邦画が上位を占めるようになってほしいナ。

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11/11/2006

ライトとLの「光と影」―映画「デスノート」-

■ 名前~ライトとは~

夜神月と書いて「やがみライト」と読ませる。

MOONではなくライト。その意味とはなんだろう?

犯罪のない理想の新世界づくりを目指すライトは「right」=正しいことをしていると確信している。

そしてライトは偏差値が高いとされる大学に通う優等生であり、学生ながらすでに司法試験に合格している。

家は大金持ちではないがライトは公務員の父を持ち、長男である。さらにイケメン(とされる)だ。

世間一般からみて、陽のあたる場所で光り輝いている青年。それがライト=「light」である。「light」には知識や才能の意味もある。

しかしながら、ライトが活躍したいと思っている場には、父によってまだ早すぎるという理由で立たせてもらえない。

ライトはわかりやすい形で父と喧嘩することはない。わかったよ父さん、といったかんじで父の言うとおりにするポーズをとるライト。

そこには、古今東西の物語に見ることができる「父との葛藤」がみてとれる。

そんなわけでライトはいまだ、捜査の世界では陽の光を浴びたことがないのである。


■ 名前~Lとは~

ではL(竜崎)はどうだろう?

Lとはすなわち「light」とするならば、その意味とはなんだろう?

名探偵として犯罪捜査をしているぐらいだから、犯罪のない社会を良しとする考えはライトと同じだろう。

通称「L」とされるその理由は、難事件という問題の解明のために事実を発見するという意味での「light」からLと名乗っているのか?

世界中の捜査員を使うことができ、最新(と思われる)の捜査電子機器を揃え、高級ホテル暮らしもできて自前の捜査本部の施設も持てるLは、おそらく超の付くお金持ちだろう。

世界中の難事件を解決し、世界中を捜査するための指示を出すことができる「力」を持っているLは、捜査の世界では陽の当たる場所にいる。

しかし親というものを知らないというLは、ほとんど外出することはなく、室内でお菓子を食べながら情報収集と分析と推理をする毎日らしく、ファッションにもこだわらずにいつもだいたい同じ洋服を着ている。

そしてライトの大学に姿をあらわしたときは、ミサに「この人なんかキモこわぁい」といった意味のことを言われてしまう。

彼が名探偵だと知らない一般の人々からすれば、いまだ陽の光を見たことがないかのように見られてしまうのがLなのだ。


■ ライトとL~表裏一体~

ライトもLも犯罪のない社会を目指し、己の知識と才能と分析能力で事件の謎を解くカギを発見するという意味での「light」では同じだ。

ふたりは年齢もほぼ同じであり、同じ性別である。

いわばライトとLは表裏一体なのである。

なぜなら、光は影があるからこそ存在し、影は光があるからこそ存在するからである。


■ ライトにとっての「光」

ライトは少しでも早く自分が活躍できる場がほしいと願っていた。しかし活躍の場を獲得するよりも以前に、自分が活躍する場の理想と現実、そして限界を知る。

そんなときデスノートを手に入れたライトは、絶望から希望へ一気にメーターが振切れたのだ。

ライトはデスノートを手に入れるまでは、自分には光が当っていないと感じていた。光が当る素質と才能を持っているのに、光が当っていない自分を「影」の状態だと思っていた。

だからデスノートを手に入れたとき、新世界を作る「光」になれると思ったのだ。


■ Lにとっての「光」

Lにとっての光とはなんだろう。

捜査の世界で「光」を浴びるLはそれで満たされていたかというと、そうでもない。

過度な甘党でいつもお菓子や甘い飲み物を摂取しているLは、コンピュータに囲まれた部屋でひとり黙々と捜査を続けてきた。

そんなときLはキラ事件を通して、諦めかけていた家族という「光」を垣間見たのだ。具体的には夜神総一郎との出会いがすなわち「光」である。

夜神総一郎との出会いにより、Lにとっての新世界の「光」は日に日に輝きを増していった。


■ 映画「デスノート」のラストのワケ

だが、ライトとLは表裏一体である。

光が消えれば影も消える。影がなくては光もない。

だから、ふたりのラストはあのようになったのだ。


■ キャラクターの作り方

前回の映画「DEATH NOTE デスノート the Last name」レビューでは、Lを中心に取り上げて、Lの成長物語であると書いた。

そのもうひとつの意味は、ライトを仮に「light」とした場合に見えてくる、ライトとLの両者の物語という意味でもあったのだが、実は前号の発行後に、読者のCYDERさんからのメールをいただいた。

そこにはこうあった。

気づいたのですが、デスノートが[L]の物語だとおっしゃるんで気づい たんですけど、[L]も[夜神ライト(L) Light]も両方Lですよね。コイン の表と裏なんじゃないでしょうか?トトロの五月とメイ(May)のように。 湯婆婆と銭婆婆のように。


そのとおりである。
ジブリ作品におけるキャラクターの表裏一体の例までも付けてあり、なるほど☆と思った。

ちなんみにCYDERさんのブログはこちら。

CYDER's"The Movie Lover"


CYDERさんが言うように、ライトとLは表裏一体である。ひとりの人間の表と裏だ。

それをふたつのキャラクターに分けて、それぞれの影の部分を増幅させ、そこに一筋の光を差し込むことで、物語がはじまるきっかけを与えた。

このようにひとりの人間の光と影を設定して、それぞれにひとつのキャラクターを作り、お互いにライバル関係にする手法は、物語をわかりやすく、かつ躍動的にする効果がある。

ジブリキャラクターの他に、例えば「機動戦士ガンダム」のアムロとシャアも全く違うキャラクターのようでありながら、実はひとつのキャラクターの光と影を分けたものとみてとれる。

詳細説明は省くが、アムロもシャアも核(コア)の部分では似たものを持っていたことはララァの出現と死によってわかりやすく提示されている。ガンダム1年戦争を観たことがある方々はあとでそのあたりを思い出してみるといいだろう。


■ ヒットの秘訣は「ひとクッション」

「名前」を知る・知られることについては、日本には「言霊」という言葉があることからもわかるように、名前を知ることは、古来より「力」を得る方法のひとつとされていたことがうかがわれる。

そもそも言霊とは、古代日本で言葉に宿っていると信じられていた不思議な力のことをいう。

ある言葉を発すると、その言葉のとおりになるというのは、現代でも目標を掲げてそれを毎日口に出して言うことで目標達成を願うという行為にみることができる。

相手の本当の名前を知るということは、相手を意のままに操ることもできるということにもなるというわけだ。

では、ある名前を思い出していただきたい。その名はハイタカ。

そう、映画「ゲド戦記」のゲドが使う通称名である。「ゲド戦記」でも名前が重要な要素として使われていたが、その使い方が映画「ゲド戦記」ではもう一歩、二歩であった。

その点、一見すると「名前の効用・言霊」という題材を使っていないよにみせて、ひとクッション入れて巧みに使っているのが「デスノート」である。

ひとクッションとはアイテムとしてのデスノートだ。

顔を見れば本名と余命がわかるという「死神の目」によってデスノートに名前を書かれた者は……。

いやはや、原作者は「名前」を題材にすごいアイテムをよくぞ思い付いたものだなぁと思う。


■ ひとこと

映画「DEATH NOTE デスノート the Last name」のオープニング週末の興行成績が出た。

今年公開された邦画の1位を記録。公開初日の11月3日から5日までに97万人を動員。興収は12億円を突破したという。

頭ひとつもふたつも出たフジテレビの大捜査線関連シリーズがドル箱ならぬ円箱になったので、いまやどこのテレビ局も映画でヒットを飛ばすことに躍起になっている。

日本テレビはヒットのために映画の前編と後編の公開時期を近づけた。

この方法に賛否両論あるが、ヒットはした。

そのあたりのことはこちら↓

ついに出た!飛び級の変化球―映画「デスノート」―


その他関連記事

映画「DEATH NOTE デスノート 前編」作品レビュー

映画「DEATH NOTE デスノート the Last name」作品レビュー
 

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10/29/2006

青春映画のつくりかた―未来へ?過去へ?―


映画「夜のピクニック」のレビューを読み返してみると、あまり誉めていないような印象を受けた方もいらっしゃったかと思う。

だが、私の個人的な感想としては、とてもよかった。

私は青春映画が好きであるからいくらかは甘い評価になりがちかもしれないが、どんな作品のレビューでもなるべく客観的な視点も入れつつ書くので、あのようビューになったのだ。


■ 現役とOB

さて、青春映画というお題で考察するために、同じジャンルの映画「キャッチ ア ウェーブ(CATCH A WAVE)」≪監督:高橋伸之 日本/2006年/116分 原作・脚本:豊田和真「キャッチ ア ウェーブ」(角川学芸出版)≫と比べてみよう。

映画「キャッチ ア ウェーブ(CATCH A WAVE)」作品レビュー

「キャッチ ア ウェーブ」の原作は、原作者の豊田さんが高校1年の夏に書き上げた同名小説である。

ちなに豊田さんは映画『サイン』を観て将来は映画監督になろうと決めたそうだが、まずは原作かなということで小説を書いたという。

男子高校生が夢に描いた青春の1ページがぎっしりと詰まっているのが「キャッチ ア ウェーブ」である。

そこには現役高校生でしか書けないものがある。現役の力に反応した「青春」を共有する読者・観客は彼の作品を応援したくなる。それほど夢・願望をストーレートに描いている作品なのである。

つまり、男子高校生の夢を想像力と物語構築力をもって(荒削りだがそれも青春というテーマにがっちり合致〈笑〉している)作りあげたのが「キャッチ ア ウェーブ」なのである。

もちろん私もそういった男の子の溢れる空想・想像を物語という形にする気合と実行力はとても好きである。

一方映画「夜のピクニック」の原作は、恩田陸さんの同名小説である。恩田陸さんは女性で、実際に歩行祭のようなことが行われていた(いる?)と噂の茨城の高等学校の出身らしい。

とういわけで「夜のピクニック」は実際の行事を元に、そこに女性の目線での想像力を働かせて作った作品といえよう。


■ どんな「感情」が提供されるか


男性目線の「キャッチ ア ウェーブ」は、実際にはまぁ言わないだろうと思わせるセリフが多い。まるで青春ドラマのワンシーンかのような言い回しがほとんどである。

これに対し「夜のピクニック」では、実際の会話に近いかのように思わせるセリフが多い。それがよく活かされていると思ったのは映画のはじめのほうの、歩行祭の出発地点に甲田貴子がやってきたときの長回しのシーンにみてとれる。

まるで映画「スネークアイズ」の冒頭の長回しを思わせるそのワンカットでは、出発地点に到着した甲田貴子の目線を軸に、同級生達が出発前のひとときを思い思いに過ごしている様子が描かれる。そのときの生徒達の振る舞いと会話が普通っぽいのだ。

こういった冒頭の長回しによって「そうそう、学生のときにこんな会話よくしていたよね」という思いと共に、あたかも自分が映画の登場人物のひとりになったかのように歩行祭に参加するかのような気持ちにさせてくれるのである。

では、2作品の比較をまとめよう。

●「キャッチ ア ウェーブ」は想像力を最大限に発揮してより多くの人々の願望・希望という感情を提供する。

●「夜のピクニック」は現実を元に実際に近いセリフを多用して、ほろ切ないノスタルジックな気持ちという感情を提供する。


題材は同じ「青春」でも、一方は「願望」という感情を売り、もう一方は「ノスタルジック」という感情を売る。


■ 方向性―過去と未来―

「キャッチ ア ウェーブ」の豊田和真さんは1988年生まれ。豊田さんが高校1年の夏に書き上げた小説が「キャッチ ア ウェーブ」である。

高校1年の夏。いままさに高校生活がはじまったばかりの夏に書いたのだ。この意味するところはとてもつもなく大きい。いまはじまったばかりの現在進行形の「青春」のなかから生まれた青春小説の矢印は「未来という願望」に向かっているのだ。


「夜のピクニック」の恩田陸さんは1964年生まれ。恩田陸さんが「夜のピクニック」をいつ書いたのかはわからないが、おそらく高校を卒業していくらか経ってからのことだろう。そうでなければ、あのようなほろ
切ないノスタルジックな感情を、狙いすましたかのように呼び起こさせせることはなかなか難しい。なぜなら「青春」と「ノスタルジー」は同居しにくいからだ。

まぁ青春作品といわれているものの大半はおじさんやおばさんが書いているのだから、過去を振り返って自分の青春時代に思いを馳せつつ、資料を集め、想像力を働かせて書くというのがほとんだ。

過ぎ去りし「青春」を振り返って生まれた青春小説の矢印は「過去という記憶」に向かっている。


■ マーケティングの甲斐も宣伝で……。

小説「キャッチ ア ウェーブ」と、第2回本屋大賞を受賞した小説「夜のピクニック」とでは発行部数はどちらがどのくらい多いのだろうか?

おそらく「夜のピクニック」のほうが多いのではいか。

なぜなら「キャッチ ア ウェーブ」にド真ん中の読者層は若者たち(特に男)であり、彼らは小説を読むよりも自分たちの青春を謳歌している最中だからだ。それでも小説が注目されたのは、そういった男の若者の願望がよくわかるおじさんたちの心をも掴んだからである。

「夜のピクニック」にド真中の読者層は20代後半から30代後半といったあたりであろう。彼ら(彼女ら)は、小説を読むことで過ぎ去りし「青春」を追体験して、なつかしくも切ないあの「感情」をほしいと願ったのだ。

本のヒットという点では、そのターゲット絞込みと需要の点において「夜のピクニック」は心憎いほどに上手だ。

本一冊読む時間はなんとか見つけることができて、本一冊買うぐらいの余裕はもちろんあって、かつては10代だった人たちの数というは、現役高校生よりもずっと多いのだから……。

このようにちゃんと研究して上手に書いた「夜のピクニック」も、映画化による宣伝段階でネタバレされてしまうというのは、ほんとうにもったいないなぁと思う。

宣伝担当は恩田陸さんにどんな顔をして会うことができるのだろう。もちろん、宣伝段階でのネタバレを恩田陸さんが了承していのかどうか、そのあたりのことはまったく不明なのだが……。


■ 実はしたたか?

この点においては映画「サイン」を観て映画監督になろうと決めた「キャッチ ア ウェーブ」豊田和真さんのほうが、作品の内容と題材と宣伝については長けていると想像することができる。

「キャッチ ア ウェーブ」の登場人物のひとりである、サーフボードショップの店長役はあらかじめ竹中直人をイメージして書いたというし、一見すると荒削りなところも「青春」というテーマに合致させるためにあえてそうしたかのようにも受け取れる部分がある。

なにせ豊田和真さんは、宣伝のほうが面白いのではいかと思わせるあのM・ナイト・シャマラン監督作品を観て映画監督になろうと決めたのだ。それも「サイン」である。

「サイン」については賛否両論で、これについて語り始めると長くなるのでここではやめておくが、とにもかくにも、作品のプロデュースまで含めた点では豊田和真さんのほうが気を使っている様子がうかがえる。


■ ひとこと

どちらの作品も(たかは映画しか観ていない)青春作品としておすすめできるので、ぜひ両作品を見比べてほしい。

青春系作品における「現役」の力と重要性は、いわゆる少女漫画の作者が10代に近い年齢層であることが多いことからもわかるだろう。

現役だから、現役(とそれに近い層)にしかウケないわけではない。
現役+工夫をすれば、OBのノスタルジィ狙いの作品よりも大きくヒットする可能性はじゅうぶんすぎる程ある。

がんばれ現役生!

ってどこかの予備校の宣伝フレーズみたいになってしまった(笑)

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10/13/2006

ゲド戦記の「?」―物語世界における出来事の意味―


ジブリ映画「ゲド戦記」にこんなシーンがある。


ハイタカが町の武器屋かなにかで、店員と話している。


そこへ背後から魔法使いクモの手下の男が近づいてきてハイタカに声をかける。


手下の男はハイタカを探しているため、とりあえず魔法使い風の格好をしている人に声をかけて回っているのだ。


背後から声をかけられたハイタカが振り返ると、ハイタカの顔が変化している。さっきまで武器屋の店員と話していたいつもの顔ではなく、魔法かなにかで別人の顔に変わっているのだ。


探している男ではないと判断した、クモの手下の男が去っていくと、ハイタカが武器屋の店員のほうに向き直る。――と、そのときは元のハイタカの顔に戻っているのである。


しかし、武器屋の店員は「あ、あんたいったい……」みたいなかんじで驚いてみせる。


さて、武器屋の店員はいったい何に驚いたのだろうか?


カメラワークとしては、だいたい以下のようだったと思う。

○武器屋の店員と話すハイタカの顔を映す。
 
  ↓

○背後から近づいてきたクモの手下の男を声をかける。

  ↓

○振り返るとハイタカとは別人の顔になっている。

  ↓

○クモの手下が去る。

  ↓

○武器屋の店員のほうへ向き直ると、元のハイタカの顔が映る。


つまり、観客にはハイタカが自分の身元がバレないようクモの手下にだけ別人の顔をつくってみせた(おそらく魔法によって)ことがわかる。


しかし、武器屋の店員にとってみれば、ハイタカはクモの手下の男と話すために向こうに顔をやって、またこちらに顔を戻したというただそれだけのことである。


ということは武器屋の店員が見ることができたハイタカの顔はひとつ(1種類)であったはずだ。


それにもかかわらず、ハイタカの顔が変化したことに驚いているかのようなリアクションをした武器屋の店員のカットには、きっとなにかの仕掛けがあるのか。はたまた私が気付かなかったショットがあったのかと思っていた。


この点についてジブリ映画「ゲド戦記」を観た知り合いとたまたまこの話になったところ、その知り合いも同じように思っていたことがわかった。


そもそもあのシーンは観客が驚くべきところを、驚きようがないキャラクターが驚いてみせてしまっているのではないか。


仮に武器屋がハイタカの顔の変化を知ることができる状況にあったとしても、わざとらしくビックリするのはいかがなものか。


物語づくりの基本テクニックとしては、キャラクターがビックリしたことを「びっくりした」とセリフにしてしまっては台無しになるので、例えば持っていた物を落す、といったアクションで驚いたことを表現する。


ところがジブリ映画「ゲド戦記」の武器屋の店員がびっくりしてみせたところは、観客に驚いて欲しいという作り手の気持ちが出てしまっている。


その気持ちはわからないでもないが、観客の「驚き」という楽しみを取ってしまうかのようで、たいへんもったいない。


そもそも武器屋の店員はハイタカの顔が変化したことを見ていないのだから一体なにを驚いているのかと、一部の観客に不思議に思われてしまっていては「ハイタカの顔変化」というネタの効果が薄れてしまう。


ネタの効果とは「驚き」であるが、顔変化の前フリもなくいきなり顔変化したので、たぶん魔法で都合よく顔を変えたのだろう、と観客は思う程度でそもそも驚きには至らない。


大抵のストーリー作りでは、顔を変える能力だけを持つ者Aがいて、そのAが重要な場面でその能力を活かすシーンを作ることで、観客に小さなカタルシスを与える。

「X-MEN ファイナルデジション」でいうと、壁をすり抜けられる少女がその能力を使ってどんな活躍をするのか、といったところだ。

「X-MEN:ファイナル ディシジョン(X-MEN: THE LAST STAND)」作品レビュー


一瞬で顔を変える(または壁をすり抜ける)という「ありえない魔法(能力)」に一連の流れを付けて「ありえない世界」においても、ある一定の制限(Aというキャラクターは顔を変化させるというひとつの能力しかない。または壁をすり抜けるというひとつの能力しかない)があることを示すことによって、観客に物語世界の枠組みを捉えさせることができるのだが、はたしてジブリ映画「ゲド戦記」ではこの効用を意識しているのだろうか。


ちょっと想像してみよう。もしも物語世界に枠組みがなかったら?


魔法使いだからなんでもできるなら、どんな物語構築上の障害を設定しても、どうぜ魔法でどうにでもるんでしょ、と観客に思われたらおもしろみはなくなってしまう。


「ドラえもん」が1話で1個のアイテムしかポケットから出さないのはこのためである。ひとつのアイテムにはひとつの効果がある。1話でいくつもアイテムが登場してはストーリーが破綻してしまうからだ。


そのためドラえもんの映画では、ストーリーを用意して、その目的を果たす為に複数のアイテムを使うという手法を使っている。


ハイタカは大賢人だという。それがどのくらいすごい魔法使いなのか詳細はわからないが、その呼ばれ方からしておそらく使えない魔法はないというぐらいの大魔法使いなのだろう。


では「ロード・オブ・ザ・リング」の魔法使いがあまり魔法を使わずに、その杖で敵をバンバン叩いていたのはなぜか?


魔法ばかりを使っていたのでは、物語世界の枠組みが薄れるからだ。


さてさてジブリ映画「ゲド戦記」のハイタカ顔変化のシーン。武器屋の店員がハイタカの顔変化を知るカットを私が見逃してしまっただけなのだろうか?


こうった「?」のシーンは、推理モノにはよく使われる。


例えば先日、日本テレビで放送された「名探偵コナン」実写版「工藤新一への挑戦状―さよならまでの序章―」では、バスガイドの西田麻衣(水川あさみ)のセリフに「?」というのがあった。


もちろんこの場合はその「?」が重要な手がかりになっていた。


つまり、観客に「?」と思われる部分があるとすれば、そこには必ず意味がなくてはならないのである。


物語世界では意味もなく雨は降らないのである。雨が降るには必ずなにかの意味がある(主人公の心情を表す。足跡を消す……等々)。


ジブリ映画「ゲド戦記」のハイタカ顔変化のシーン。
そこにはいったいどんな秘密(意味)が隠されているのだろうか?なにかがあるにちがいない。なにせ天下のジブリ作品なのだから……。


(ひとりごと)
名探偵コナン」実写版「工藤新一への挑戦状―さよならまでの序章―」の毛利蘭役の娘。アニメ版と全くイメージが合致しなかったな。ヒロイン役はかなり重要だし、ほかにもっと適任な娘はいくらでもいそうだけど。力ある事務所の強力プッシュで配役が決まったのか? と妙な想像をかきたてられてしまった。

「名探偵コナン」実写版「工藤新一への挑戦状―さよならまでの序章―」は名探偵コナンシリーズの物語がはじまるよりも以前のエピソードだよ。だから工藤新一が高校生の姿であり、まだ江戸川コナンくんではないのだ。


ジブリ映画「ゲド戦記」作品レビュー


ゲド戦記考察~脚本講座の生徒でもふつうはこうする~

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10/09/2006

最適な伝える方法とは~「フラガール」~

人に何かを伝える方法はいろいろある。


映画「フラガール」にこんなシーンがある。


福島県いわき市の炭鉱町にフラを教えるためにやってきたダンス教師・平山まどかが、いろいろあって常磐ハワイアンセンターオープンを目前に町を去ろうと夜の駅にやってきて、発車を待つ電車の座席に座っているときのことである。


その駅へ、教え子のフラガールたちが走ってやってきくる。平山まどかが乗っている電車が止まっているプラットホームの向かいのプラットホームに駆け込んできた教え子たちは、すぐに線路を渡って先生もとへ行こうとする。先生に町を離れることを思いとどまってもらうためだ。


しかしフラガールのリーダー・紀美子はその場のプラットホームにとどまって、向こう側の列車の中にいる先生にむかってフラを踊り始める。


実はかつてフラのフリは手話のようなものであり相手を大事に想う気持ちをダンスで表したものだという教えを受けていたのだ。


そこで紀美子はフラを踊ることで先生・平山まどかを大事に想う気持ちと自分たちのもとを去らないでほしいという願いを届けようとしたのだ。


すぐに線路を渡って先生の近くへ行こうとする気持ちもわかるが、先生から教えてもらったフラでメッセージを伝える紀美子のこの選択は、相手にとってどうしたら最もよく伝わるかをよく考えた結果による行動なのだ。


★ダンスも手話もコミュニケーションの手段であるから、相手や状況によってそれらを使い分けよう。


★ひとつの手段にこだわる必要はありません。


B000GLKMU6フラガール
ジェイク・シマブクロ サントラ ナレオ
ソニーミュージックエンタテインメント 2006-08-23

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4840115982フラガール
白石 まみ
メディアファクトリー 2006-08

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10/07/2006

円周率と映画のみかた


突然ですが、円周率をどのくらい言えますか? 


3.14159……


円周率暗唱の世界記録を持つ千葉県の男性が記録更新に挑み、これまでの記録をおよそ1万6,000けた更新する10万けたで記録を更新しました。


記録更新にかかったのはなんと16時間以上。3人の立会人が間違いがないかチェックしました。


スゴすぎます。


記録を更新した男性はうれしそうにビールを飲んでいました。


どうやったらそんなに覚えられるのかとの問いに男性は、円周率の数字が私には物語になって見えるといったようなふうに答えていました。


ただの数字の羅列だったらとても覚えきれません。皆さんも電話番号やなにかの暗証番号をなにかの単語やイメージになぞらえて覚えていませんか?


番号を思い出すときにイメージして思い出した状況を単語に変換し、その単語から語呂合わせで数字にたどり着く。


これをもっと広がていけば、単語 → イメージ → ストーリーとなるのです。


一見するとバラバラにみえる物事にも、組み合わせてイメージすることでひとつの筋ができます。


この筋をストーリーといってもいいでしょう。


ストーリーを形作る能力というのは重要です。


あなたが生まれてきた意味を、あなた自身が作り上げることができるかどうかで、人生は大きく違ってくるからです。


なんだかデカイ話になってきたなぁと思った方へ。


実は、これは映画ヒットの秘訣でもあるんですよ。


「あなたが生まれてきた意味を~」云々。というのはいわば「自分さがし」です。
だれしも自分が生まれてきた意味を求めて苦悩・葛藤するときってあるものです。だから共感できる。だから需要がある。自分の物語をすぐに作り上げることが難しいと思っている人にはドンぴしゃりな題材なのです。


だから映画において「自分さがし」というのはたいへんおいしいキーワードなんです。


「めぐりあう時間たち(The Hours)」(作品レビュー)なんて、このキーワードを上手に用いていますよ。


さて、今回はたまたまストーリーを形づくる能力の表れとして円周率の暗唱をご紹介しました。


生命の誕生、成長といった流れにまつわる、一見するとバラバラにみえる出来事や事柄についても、自分でイメージして組み立てることができれば、人生の意味というストーリーをつくり上げることができます。


おそらく、円周率の暗唱記録を更新した男性は、自らのストーリーもまた作り上げることができるでしょう。


だからこそ、記録更新の後のビールをあんなにおいしそうに飲んでいたのです。


では、自分で自分のストーリーを作れない人はどうするのか?


実は自分でストーリーを作れない人というのはけっこういます。


そこで、そういった人々にストーリーを提供する人もいます。それはどんな人?


もう皆さんには察しがついているでしょう。


そうです。政治家や作家や映画制作者です。


政治家は、理想の国家、政治、生活というストーリーを説いて人々の支持を集めます。


作家は、小説という物語世界に読者を取り込みます。


映画製作者は、映画という物語世界に観客を取り込みます。


他人に物語を提供できるというのはたいへんな「力」なのです。


自分のストーリーを作れない・持てない人は、他人がつくったストーリーを選ぶことはできますが、それはあくまで受身です。


一方、ストーリーを提供できる人は自分の都合のいいストーリーを相手に与えることができます。(はたらきかけ、アクション)


自分でストーリーを作ることはけっこう大変だといって、だれかが提供してくれるストーリーをもらいつづけていては、いつまで経っても自分のストーリーを作ることはできません。


これは映画のみかたを考えるうえでとても大事なことです。


どうして幼い子どもは毎晩寝る前に同じ絵本を読んでくれとせがむのか?


どうしてハリウッドは映画産業が盛んなのか?


どうして日本の映画産業も勢いづいてきいたのか?


その答えを考えてみることであなたの映画のみかたが明らかになります。


あなたはストーリーを作れる人ですか? 


それともストーリーをもらい続ける人ですか?

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10/03/2006

映画「タイヨウのうた」はお涙頂戴モノではない


オタスケマンの病気を使っているから映画「タイヨウのうた」はお涙頂戴モノかというと、そうではありません。


映画「タイヨウのうた」は、サラっと音楽系青春恋愛物語です。


さらに薫ちゃんと幸治くんの恋愛物語というのではなく、薫ちゃんをとりまく家族・友人・恋人の「愛の輪」の物語といったほうがいいのです。


つまり、病気というオタスケマンで泣かそうなんてはじめから考えていないようなのです。


これが意外性となってかえって好印象ですね。


私は、お涙頂戴モノなんだろうなぁと思いつつも、音楽という題材と岸谷五郎というキーワードに惹かれて観に行きました。


しかしそこに、オタスケマンを使ったお涙頂戴モノのイヤラシさはありませんでした。


いくら病気という設定だからといってずっと泣いているわけにもいきません。XPという設定の雨音薫が毎日泣き暮らしているだけなのを観るのは観客にとっては辛いものだからです。


観客は、雨音薫が好きな歌を歌いつづけ、恋もして精一杯生きる姿を観たいのです。


泣いてばかりの、泣かしてやろうという匂いプンプンだったら観客は離れていってしまうでしょう。


もちろん、オタスケマンを使いまくりのひたすら泣かしてくれマーケットというのもあるので、それにマッチした作品も作られています。「アルタの中心で愛を叫ぶ(←タイトル違うっしょ)」みたいに。


ひたすら泣かしてくれマーケットだけを狙うのも戦略ですが、私は幅広い層に観てもらいやすい映画「タイヨウのうた」や映画「フラガール」のほうが好感が持てますね。


★ 涙が目的ではなく、感動の結果として涙が出るというのが望ましい。


映画「タイヨウのうた」作品レビュー

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