映画「LIFE!(THE SECRET LIFE OF WALTER MITTY)」
▼「LIFE!(THE SECRET LIFE OF WALTER MITTY)」
監督: ベン・スティラー
2013年/114分
コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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■ 変わらない日常。平凡な毎日。
大冒険できるわけない。誰もがそう思い込んでいる。だからヒーローになって活躍する空想をする。オジさんだってそうだ。
雑誌「LIFE」の写真管理部で働く中年男ウォルター・ミティは、密かに想いをよせている経理部のシェリルに話しかけることさえなかなかできないでいる。
しかし空想の中では勇ましいヒーローになってシャリルのために大活躍をしたり、嫌味な新ボスに気の利いたジョークを言ってやりこめたりする。
ウォルターは中年男という設定だが、それは誰でもない。観客のことでもある。
人は自分とかけ離れたキャラにはなかなか感情移入できないもの。あのスーパーマンでさえ普段は冴えない男であり、人並みに、いやそれ以上に繊細に悩み葛藤する。だから観客はそこに自分と同じようなものを感じて応援できるのだ。
ウォルターも観客が共通点を発見しやすいキャラクターだ。
地味だから?
いや、そうではない。「いい奴」だからだ。空想モードに突入するとボぉーとしてしまうとはいえ、ぼんやりしていることなんて誰にだってある。自分と似ているところもある憎めない奴。それを人は「いい奴」という。
■ 語るより見せろ
空想の内容を観客に映像で見せることで、ウォルターの気持ちをいわば追体験できるようになっているのはとてもいい。
「語るより見せろ」の基本どおり、映像作品ではセリフで気持ちを説明したりナレーションを入れたりするよりも、行動でそれを表したほうがいい。
気持ちを伝えるアクションを空想で行うことで、主人公は動きを止めたままなのにアクションでそれを観客に伝えることができている。これはけっこうな高等表現技術だ。
ジッとしてしゃべりも動きもしないのに観客に感情を伝え、物語内の他の登場キャラクターたちからウォルターがどう見られているかも表現できている。しかも現実と空想の境界線が観客にわかるよう絶妙な線引きもできている。
もういちど言うが、これはけっこうな高等表現技術だ。
■ 旅立つまでが正念場
さて、主人公は物語の初めと終わりでは変化しているのが物語の基本。これがしっり貫かれているのも良い。
その変化のためには主人公は冒険に出る必要がある。冒険とは心の旅でもあるのだがここはあえてニューヨークからグリーンランド、アイスランド、ヒマラヤへと主人公を冒険に行かせている。その思いッきりが清々しい。
しかも主人公がなかなか旅立たないのもまた良い。「スター・ウォーズ」エピソード4でもルークはなかなか旅立たない。なぜなら旅立つための理由がしっかり伝わらなければ、観客は冒険に納得できないからだ。腑に落ちない、という言い方のほうがいいかもしれない。そんな状態のままでは主人公がどんなに壮大な冒険をしようとも空回りしてしてしまう。
だから冒険に旅立つだけの理由に主人公と観客の双方が頷けるそのときまでじっくり描くのだ。冒険そのものよりも、むしろそこへ至るまでのほうが作品としては大事なのだから。
ウォルターが実際に旅立つ象徴的なタイミングは、ニューヨークを離れたときではなく、グリーンランドでヘリコプターに乗るときだ。このシーンがなにより良い。その決意へ至る心の葛藤を表現した一連の映像は物語ることの基本と素晴らしさを教えてくれる。
■ いちいちおもしろい
どのシーンでも、観客が思わずニヤリとしてしまう演出が絶妙な塩梅で差し込まれている。
そうなのだ。いちいちおもしろいのだ。どのシーンだって「小粋」なのだ。例えば想いを寄せるシェリルの息子にウォルターがスケボーを教えるシーンや、ヘリコプターの操縦士に「一緒に来るか」と誘われるシーンなど、ほかにも思わずニヤリとしてしまう箇所が絶妙な加減で挿入されている。全編にちりばめられていると言ってもいい。
■ あらゆるものがつながっている
どの会話も小道具も出来事もすべてがヒントとなってつながって物語を先へ先へと押し進めていく。そのさり気ない提示の仕方は抑制が効いている。これまたあとになってみれば「なるほどねぇ」とニヤリとさせられる。
誰とも接点がない人間に、いきなりつながりはできない。当人は突然とおもっても「訪れる」だけの背景がある。自分から積極的に動いたつもりがなくても「縁」はつながっていた。
そういうことは誰の人生にだってありうる。そんな「つながり」を小道具や会話や出来事を組み合わせて一本の線を浮かび上がらせ、導線をつくって観客をそっとガイドする。
つなげ方がスマートで無理がない。これまたけっこうな高等表現技術である。
■ その他
観終わってしばらくしてもジワジワとおもしろい。やっぱ映画っていいな、と思わせてくれる作品だ。
表面的なことだけを見れば、物語の冒頭では会社員だった主人公がラストでは職を失っている。けれど、人生では「得て」いる。というよりも「取り戻している」。さらにシェリルとの距離も変化している。
表面的な結果と内面的なそれは、かならずしも同じではない。どこにでもありそうな平凡な風景に観客が感動するのは、その背景の物語によって心を動かされたから。
だから作品の冒頭とラストはよくある日常の風景のシーンとなっている。もちろんその意味するところは大きく変化しており、他人から見たら同じような(むしろリストラ等で悪くなっている)風景でありながら、そうではない。
何気ない日常のワンシーンが作品の冒頭とラストでは全く違って見える。それは傑作の条件のひとつである。
さて、終わりにひとつ。ウォルターがしていた空想はわるいことか。そして空想する回数が減ったとしたらそれはよいことか。
いいわるいではなく、それはつながっているのだ。空想があったから変わらない日常を生きてこられたし、それがあったから冒険に旅立てた。
ウォルターが真の意味で旅立ちを決意したのはグリーンランドでヘリコプターに乗るときだ。あのとき決意を後押ししたのは空想だ。
そして想像力によって気を遣い、一旦はシェリルと距離を置いたウォルターだったが、彼女に想いを伝えるきっかけになったのも空想がきっかけだ。(空想していたのを明かすことで気持ちが伝わる)
空想を「妄想」と捉えるか。「想像力」と捉えるか。たったそれだけでも人生は大きく変わる。
空想=想像力は本作のみならずあらゆる作品にとって表現であるとともに、人生を生き抜く力でもある。
それを知っているからこそ観客は空想する男に感情移入する。
だからウォルター・ミティは誰でもない。あなた自身なのだ。