映画「アウトロー(JACK REACHER)」
▼「アウトロー(JACK REACHER)」
監督:クリストファー・マッカリー
アメリカ/2012年/130分
ネットやらない。ケータイ持たない。もしもそんな人がいたら新鮮かもしれない。
実際そういう人がいてもいいし、どう生きるかはその人が決めればいい。
ところが映画の主人公がそうだったら?
ジャック・リーチャーは最先端の真逆にいるような、古いタイプのキャラだ。
これは突拍子もない設定ではなく、刑事ドラマなんかではよく使われるものだ。いわゆる最新プロファイリングを駆使する捜査よりも足で捜査を地道に重ねるような、長年の「勘」で動くタイプの刑事が主人公の例を思い出してみればうなづけるだろう。
人は数々のしがらみから逃れられない、と思い込んでいる。そのため、まとわりつくものに呑み込まれてしまって見えなくなってしまう。見ようとさえしなくなることさえある。
何を見ないのか。――事実だ。
ジャック・リーチャーは事実のみを追求する。しがらみによって見えなくなっていた面を浮き彫りにするのだ。
それらの点と点を合わせて容疑者の立場で想像すれば、数々の疑問点が明確になっていく。
こういった作業は誰でもできるわけではない。しがらみの中にどっぷり浸っていては無理だ。
それができるのはエッジに立つ者だけ。人はそれをアウトローと呼ぶ。
アウトローが主人公の映画は数多い。観客の多くがアウトローを通して暴かれる真実を求めているからだ。
ジャック・リーチャーはネットが使えない(使わない)。だから捜査線上で浮かんだ物事を誰かに調べてもらわなくてはならない。
つまり相棒が要るということ。そこで登場するのが弁護士ヘレンだ。彼女の父親は事件の担当検事であり、父娘の関には確執がある。
親子関係を絡めてくる手法はまるで脚本づくりの教科書のようでもあり、目新しさはないと思えるかもしれない。
だが、基本がきっちりできなくれはその先はないのだから、むしろありちな設定をしっかり使うのはスマートなやり方だ。。
そしてジャック・リーチャーが古いタイプのキャラであるように、物語もまたそうだ。裏を返せば目新しいものや奇抜なものは無い。
だからいいのだ。いまどきの映画で主人公が公衆電話を使い、受話器を投げ捨てるようにガシャンと置くシーンを見たことがあるだろうか?
一匹狼で融通が利かない。世間の皆は彼を評してそう言うかもしれない。それでも心のどこかではそういう人間に憧れている。
そんな願望を解消する映画はめっきり減ってしまった。
よく考えてみてほしい。映画を観るのは若者ばかりではない。むしろ年配者が映画館に行くケースは米国なんかでは多いだろう。日本だってそうだ。
若者だって古いタイプのヒーローだからってそっぽ向くとはかぎらない。かえって新鮮にみえるかもしれない。そもそもそういったヒーロー像が長く愛され続けてきた背景には世代を超えた憧れがある。
「アウトロー」をアクション大作と宣伝する例もあるようだ。間違ってはいないがちょっとズレている。
派手なアクションの連続で勢いでなんとなしちゃおう、みたいな映画とは全く違う。
アクションシーンはそこで何がどう起きたのかが観客にわかるように撮っている。
アクションが売りだとうありがちな映画だと、アクションシーンでやたら細かいカットをいくつもつなぎ合わせてスピード感を出そうとして、あたかもスゴいアクションが起きているかのように見せたがるものだ。あとで編集でうまいことやろうというお決まりのパターンである。
「アウトロー」はそうではない。役者の演技とカメラワークがものをいう骨太の撮影をしている。
まるで映画づくりもジャック・リーチャーが行っているかのような気さえする。
骨太。実直。それでいてニヤリと笑えたり、クスッと頬がゆるむ「間」もしっかりある。
こんなヒーロー映画が観たかったんだ! と思わせてくれる作品だ。