映画「借りぐらしのアリエッティ」
監督:米林宏昌
日本/2010年/94分
原作:メアリー・ノートン『床下の小人たち』
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「人間に見られてはいけない。」 (引用: 『借りぐらしのアリエッティ』公式サイト)
見られちゃいけない? でも、やっぱり見られちゃうんでしょ?
開かずの金庫があれば、開けてみたいと思うもの。だから見られちゃいけないという設定(金庫を置いたら)をしたら、当然のように見られちゃう(金庫が破られる)であろうことを観客は期待します。
そうすると、見られちゃうまでどうやって観客を引っ張るかが大事なポイントとなります。そのテクニックをみてみましょう。
作品の冒頭。病気療養のために、母親が育った古い屋敷にやってき少年・翔。到着してすぐに庭で小人らしきものを目撃した……かもしれない。そんなシーンがあります。
いきなり見られちゃった? ……かもしれないで留めておくのが大事なポイントですね。
小人の少女・アリエッティは、葉に隠れていたから人間には見られていない、と言うけれど観客は翔が「見た」であろうと思うわけです。
冒頭でいきなり、見れたかもしれない、というように、観客の好奇心をあおるチラ見せがあります。これはなかなかの技ですね。
ほかに注目すべきは、物語の前半の早い段階で人間である翔の事情よりも、まずは小人であるアリエッティの生活や事情の詳細が描かれる点です。
これは「人間に見られてはいけない」というキャッチコピーであらかじめ観客の視点を小人側にに合わせておいたからこそできるものです。
もしも「人間に見られてはいけない。」というキャッチコピーがなかったならば、物語の冒頭から前半においては、普通は人間側の視点で描かれるでしょう。だって観客の多くは人間だから(小人もいるかもしれませんが…)。
あくまで小人側から描くことで、人間に見られる決定的瞬間に至るまでじゅうぶんに観客の興味を引きつけつつ、本来はよくわかっているはずの「人間」のほうをミステリー仕立てにできています。
その様子を盛り立てるのが「狩り」です。物語の早い段階で小人・アリエッティの事情を伝え、続けて彼らの「狩り」の様子が緊張感いっぱいに描かれているのです。
狩りとは、小人たちが人間から必要なものだけをそっと借りてくることをいいます。もちろんこれは「狩り」と「借り」がかかっています。
「狩り」には14歳のアリエッティがはじめて参加することになります。このときの父親と母親の会話に、アリエッティも14歳になったのだからこれからはひとりで生きていく術が必要だ、みたいなやりとりがあります。
これはまるで宮崎駿が、米林宏昌監督といった比較的若い世代に今後の作品づくりを期待するかのようなところを彷彿とさせるセリフでもありますね。
されはさておき、こうしてアリエッティは初めての狩りに父親とふたりで夜中に出発します。
ちなみに父・ポッドは口数が少なく、必要なことしかしゃべりません。冷たいわけではなく、アリエッティや妻にやさしいことばをかけることもある。これも宮崎駿をイメージさせる部分かもしれませんね。
そんな父とふたりでの、初めての「狩り」。観客のだれも見たことがないと思えるような小人の大冒険。そしてもちろん、人間に見られてはいけない……。
――でも、当然のようにこの狩りの途中で人間・翔にバッチリ見られてしまいます。
ここまで一気に物語を進めていくテンポの良さはいったいどこで身につけたのだろうと思えるほどですね。
そして人間にバッチリ見られてしまった後に物語の前面に押し出されるのが……「葛藤」です。
■「葛藤」が物語に活力を与える
物語の登場キャラが魅力的かつ立体的であるために必要なこと。それは変化。
物語のはじめと終わりとでは、登場キャラの内面の変化が行動となって表れるのが良い作品の典型です。
変化→行動→結果こそが、作品のエンディングに観客の心に響く余韻を残せる作品にできるかどうかを大きく左右します。
変化をもたらすためには、安定したままではいけません。不安定にしなければなりません。
不安定にするためには「葛藤」が有効です。葛藤の典型的な例には父と子の関係があります。「スターウォーズ」シリーズがその最たるものですね。
「借りぐらしのアリエッティ」では葛藤を生じさせるために、ぱっと見はおなじ世代の少女・アリエッティと少年・翔のふたりに、滅びゆく種族(小人)と、ますます増え続ける種族(人間)との対比や対立といった構造にしていますね。
ここで、ふたりの会話でのお互いの立場に注目してみましょう。
一見するとやさしい翔は、アリエッティに、君たちは滅び行く種族だ、といったように言います。
ずいぶん冷たい言葉のように感じされるそれは、翔が自分に対して言っているとも考えられます。なぜなら彼は近日中に心臓に関する手術を受ける予定で、それが困難なものであると自覚しているからです。
そもそもアリエッティも翔も、年齢からすれば普通だったらまさに「これから」なわけです。
でもお互いに事情があって未来がないかもしれないと感じてもいる。それでもアリエッティは、だからこそ精一杯生き抜いてやると血気盛んです。なぜなら、小人という種族は消え行くかもしれなくても、アリエッティ自身は14歳であり、若さと活力がみなぎっているから。
一方の翔は人間という種族はまだまだ増えていくかもしれなくても、自身は体の調子がよくはないために、血気盛んというわけにはいかない。
ただ、困難であろう手術が成功して元気になれる可能性が全くないないわけじゃないようです。調子が優れないために前向きな気持ちになりにくく、また周囲に彼を精神的にサポートする者(人間)があまりいないことなどから、生きる希望の灯火が消えつつある。
そんなふたりが出会い、対立することでお互いに変化が生まれる。その変化が観客にもわかりやすいよう、アリエッティに対するネコの態度に変化をつけるなど、なかなか細かいアシストもしていますね。
また、変化はふたりだけに生じたものではありません。アリエッティの父ポッドにしても、足を怪我するなど徐々に老いを感じつつも、家族のために住み慣れた家を離れる準備を着々と進めていきます。
母ホミリーにしても、心配性で住み慣れた家を離れたいとは思わないものの、娘のため、夫のため、なんだかんだ言いつつも家族と新天地へと旅立ちます。
これは小人の少年・スピラーに出会ったことで、まだ自分たちと同じ種族がほかにもどこかで生活していることを知って希望を持てたことも大きいのでしょう。
葛藤を通して変化し、その結果として長年住み慣れた家を離れ、新たに旅立つシーンで終わる本作品は、北野武監督の『キッズ・リターン』を思い出させます。
いろいろあったけど、まだ終わっちゃいない。これからだ! という自身を鼓舞するかのようなメッセージですね。
そういった意味で『借りぐらしのアリエッティ』は、まるで宮崎駿のリハビリのようでもあります。
■ やればできるじゃないか
それにしても原作が良いのだろうと思いますが、たとえそうであってもその良い原作を選び取るセンス(何十年も前に企画していたものらしい)もいいですね。
脚本は宮崎駿氏だそうですから、物語に思い入れ過ぎずに素直にやりさえすれば、観客に広く受け入れられやすい作品を作れることを改めて知らしめましたね。
これにはちょっとホッとしました。というのは、宮崎駿監督作品のいくつかは、おそらく本人の思い入れや力(りき)が入りすぎてけっこうはチャメチャになってしまった作品がいくつかあるからです。
また、比較的若い監督に作品を作らせても『ゲド戦記』のように、物語づくりのノウハウを伝えることをしてこなかったのか、またはしようとしないのか? と首を傾げたくなるような例があったからです。
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まぁ親子(父と子)っていうのはいろいろと難しいところもあるのでしょうけれど『ゲド戦記』でいろいろと学んだのでしょう。もしそうなら『ゲド戦記』にもそれなりの意味があったのではないでしょうか。
あえてエラそうに言えば「やればできるじゃないか」といったかんじです。
より正確には、やればかなりできるじゃないか、ですね。
ジブリ作品には(個人的には)アタリとハズレが大きいですが、宮崎駿個人の天才的(?)才能だけに頼ることなく、それなりの人物なら誰でもヒット作を作れる物語づくりのノウハウの蓄積と若手監督などの育成に今後も力を注いでいってもえたらいいなと思います。
そんなわけで個人的には、ちょっとホッとした作品でした。
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