映画「アリス・クリードの失踪」
「アリス・クリードの失踪(THE DISAPPEARANCE OF ALICE CREED)]
J・ブレイクソン監督 2009年 101分
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満員の客席。映画が始まった。
ふと、視界の隅がチカチカする。
どうやら隣の席の人が手に持ったケータイが光っているようだ。着信アリのお知らせなのだろう。
数十分後。隣の席の人はやっと気づいたようだ。チカチカとしたその光はおさまった。
暗い映画館のなかで手に持ったケータイの光に気づかないほどに冒頭10分間のシーンにその観客は吸い込まれていたのである。
(ケータイの電源は切ってほしいのはいうまでもない)
さて、3人と一室。基本はたったこれだけで観客を夢中にさせる映画をつくれるか。
もしもそれができる自信を持てなければ、きっと他人を楽しませることは一生できない。
そんな意気込みや希薄がビシバシ感じられる本作のJ・ブレイクソン監督は、短編映画を自主制作して高い評価を得たのち『ディセント2』の脚本を共同執筆。そして自主制作になっても自ら監督するために書いた「アリス・クリードの失踪」で長編監督デビューを果たす。
冒頭の約10分間。アパートの部屋や車に黙々と細工を施し、アリス・クリードを誘拐してベッドに縛り付けるまで、ふたりの男は一切しゃべらない。聞こえる声はアリスの悲鳴のみ。
それは、200万ポンドを手に入れるための用意周到な誘拐計画のはじまりだった。
だが、生き抜く希望をけっして捨てないアリスのとっさの行動をきっかけに、誘拐犯との関係がめまぐるしく変化していく。
物語の内容についてこれ以上は「何も言えねえ」(北島康介選手ふう)
さて、この作品のテーマやそこで描かれるものは多々あれど、私がひとつだけ取り上げるとするならば、覚悟と意気込みだ。
冒頭10分間、登場人物はだれも言葉を発しない映画。登場人物は3人。舞台は8割ほどアパートの部屋。
まるで意地悪な制約がある罰ゲームのようだが、これを監督は自らに課した。
一見するとそれは悪条件だが、考え方を変えるとそうではない。鉄は熱いうちに打たねばならないというから、過酷な状況や条件のなかで鍛えられてこそ、タフな作品が出来上がることをこの監督は知っているだけでなく実践したのである。
冒頭10分間。ふたりの男が黙々と作業する様子は「映像は語るより見せろ」の基本に忠実だ。観客はアクションの中から物語世界の約束事を理解しようと目を凝らし何が起きようとしているかを見極めようとする。
登場人物にひとこともしゃべらせないうちに、こうして観客は早い段階ですんなりと作品世界の住人となる。
そもそも物語の約束事は観る前の予備知識として観客は持っている。誘拐の話だというのがそれだ。たいへんわかりやすいお題が先に「どーん」と与えられているので観客は迷うことはない。
迷わないから安心できる。それでいてドキドキしながらこれからはじまる物語世界へ足を踏み入れていくことができるようになっているのである。
こういった作品で重要なのは、観客に伝える情報量をいかに調整するかである。
はじめてアリスと誘拐犯の関係が変化した瞬間に、観客は物語世界の登場人物との秘密を共有することになる。これは「情報における共犯関係」の成立にほかならない。
観客との共犯関係を築けるかどうか。映画がヒットするかどうかはここにかかっているといってもいい。共犯関係が成立したとき、物語は一気に動き出す。
さて登場人物は3人だ。ふたりではない。3人集まればトライアングルを形成することできる。
恋愛でも三角関係というのはよくある(?)もの。どんな恋愛作品だってトライアングルを基本に展開する。
『アリス・クリードの失踪』もその例に漏れないのだが、はじめはそうとわかりにくいようにしている。それは犯人が男ふたりだからだ。
ふたりというのは「0か1」の世界である。非常にハッキリした関係だ。だからそこに隙間が生じにくい。つまり、物語が動き出しにくいのだ。
犯人がふたりだから仲間割れも起こりにくく、まったく硬直したように物語は動きようもないと思えるのが普通だ。それに登場人物の数は決まっているから、ますます何がが起きるとは思いにくい。でも、何かが起きるから映画になった。
タネも仕掛けもあるはずなのに、とうていマジックが成立するとは思えないと感じさせる。そんな挑戦状を叩きつけれた観客は、ならば監督のお手並みを拝見させてもらおうという気にもなる。
観る側の準備運動をこれほどしっかりやってくれる作品だから、観客は冒頭10分を過ぎる頃にはますます内容が気になっている。
こんな冒頭10分間をつくれる度量を持つには、それ相当の覚悟と意気込みが要る。
監督はこの作品で、登場人物3人だけのほぼ限定された空間という条件でこれほどのことができるということを、これ以上ない方法で証明してみせた。
内容について話すことができない(そういう種類の作品な)ので、ここではひとりの人間の覚悟と意気込みを垣間見れる貴重な機会を与えてくれる作品とだけ伝えておこう。
もちろんこれはモンモノのダイヤの原石であり、それは自ら磨いてこそ輝き、人目につくようになる。そんな作品である。