上手く凝ったドラマ『モテキ』
ドラマ24「モテキ」
深夜0:12~毎週金曜日テレビ東京系列放送
出演:森山未來、野波麻帆、満島ひかり、松本莉緒、新井浩文、リリー・フランキー、菊地凛子ほか
原作漫画:久保ミツロウ『モテキ』
<人生のどこかに訪れるらしい、異性との縁が重なる時期…それが「モテキ」
(テレビ東京「モテキ」公式サイトより引用)>
Comments(論評、批評、意見)
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注:ドラマ単体でのコメントです。
最近のテレビドラマのなかで、基本を抑えた素直な作りで良かったのが『ヤンキー君とメガネちゃん』だ。
基本は1話でひとつの話題が完結し、回を重ねるほどキャラに深みを、物語に奥行きができた。『ヤンキー君~』は物語の基本をおさえた秀作であった。
タイトルもイイ。「ヤンキー・メガネ」はカタカナで見た目もテンポもよく、正反対に思えるキャラがぶつかり合う躍動感に溢れ「君・ちゃん」でコメディ調だとわかる
「ベタ」だがドラマは作りにおいてヘンな気負いや勘違いが見当たらないのもいい。ストーリー、キャラ、演出のどれもが抑制が効いてバランスがよかった。
下手に凝ったドラマが多いなか、お約束の王道をわかりやすくキッチリやりきる。だからこそ『ヤンキー君とメガネちゃん』はキラリと輝いたわけだ。
では下手じゃなく、上手く凝ったらどうなのか。
そこで登場するのが『モテキ』である。
■ 上手く凝った『モテキ』
主人公の心情を伝える主人公によるナレーション、タイムマシン風の演出、ミュージカル風なダンス、過去の「自分キャラ」の登場と己との会話、数々の人気楽曲の挿入……さまざまな手法を取り入れているにもかかわらず、物語世界のバランスを絶妙に保っている。
これは「下手凝り」ではなく「上手凝り」である。
ふつうだったらこれだけ凝ると収拾がつかなくなり、暴走気味になる。観客はおいてきぼりになり、制作者側だけが楽しいか、制作者側もわけがわからなくなってしまう。
ところが『モテキ』は収拾がついている。
ではなぜ『モテキ』はそれができるのか。
■ 脳内世界の映像化
主人公・藤本幸世に突然訪れたモテキ。
突然のようにおもえて実はそうでもない、と思わせるところがまず上手い。
誰とも接点がない人間に、いきなり接点はできない。当人は突然とおもっても「訪れる」だけの背景がある。
これはたいていの人間にはよくある話だ。孤独とはいいつつ、学生時代の友人とはたまに連絡をとっていたり、職場ではふつうに同僚と会話したり、親戚とはたまに会っていたりする。
自分から積極的に動いたつもりがなくても「縁」はつながっていたのである。
だから突然ではないのだが、突然のように思えることは誰にでもあると思えるところが視聴者の共感を得やすいのだ。
さて、そもそも藤本幸世は自己評価が低い。自身の魅力に気づいていない、もしくは気づこうとしない。
こんな人間はどこにでもいる。だからイイ。
その魅力に気づかせてくれるきっかけがモテキと思えるものの到来だ。
本人は「なんで俺みたいなヤツにモテキが?」と思うので、ただでさえ自虐思考傾向が強い彼はさらに思い悩むことになる。
そういった心の内、つまり脳内世界を映像化するのはたいへん難しい。
うまくできている映画の例は『エターナル・サンシャイン』であり、そこでは記憶除去手術(マシン)を受けるというSF要素によって映像化する理由と効果をもたらすことに成功したといえよう。
一方の『モテキ』はいわゆるSFの要素という助けを借りずに脳内世界を映像化している。たしかにタイムマシン風の仕掛けと過去の自分との出会いと会話がSFといわれればそうかもしれいが、どちらかとうとそれらは「愛嬌」や「おちゃめ」な演出の範囲内である。
こうした脳内世界を含めた主人公の回想を映像化するにあたり、その手法が複数で「グチャグチャ・ハチャメチャ」」におもえても一定の世界観を保てる理由は、そもそも「そういうものだ」と視聴者に納得させてしまう物語内容ある。
■ 表現方法と物語内容がリンクしている
主人公を中心とする主要キャラクターの年齢はだいたい20代。だから『モテキ」はいわゆる青春物語だ。
もしも10代の青春ならウソでも「さわやか系」の作品を作りたがる傾向があるものだが、20代半ば以降の青春物語ではさわやかよりも「グチャグチャ・ハチャメチャ」な要素が色濃く出やすい。
20代から30代にさしかかる青春は、さわやかというよりも泥臭さが滲み出やすい。甘酸っぱくもなく、どちらかというと苦々しい。
10代の青春で無理をしても「味」になる。「絵(画)」になる。
だが20代から30代の青春で無理をすると「グチャグチャ・ハチャメチャ」になる。
初々しさもへったくれもないわけだから、そうなってもしかたない。そういうものである。
とはいってもそのままでは観るに耐えないので「仕事と恋と結婚」といった題材で「ウソ」を重ねる。
もともとドラマは基本としてフィクションなのでウソではあるが、ウソの世界をウソで厚塗りする(ウソが悪いわけではなくウソの種類という意味)こうして同じような青春ドラマが量産されていく。
ところが『モテキ』は本来といってもいい「グチャグチャ・ハチャメチャ」な青春を真っ向から描いている。
いわゆる脳内世界という「グチャグチャ・ハチャメチャ」が『モテキ』において「活きる」には理由がある。それは、物語の中盤に至るまで主人公には相談できるような友人・知人が登場しないからだ。
ありがちな20~30代の青春ドラマでは、仕事や恋や結婚に悩む主人公にはかならず友人や同僚や先輩といった相談できる相手がはじめから準備されている。
主人公は彼ら(彼女ら)との会話を通して自分の気持ちを表したり整理したりできる。それと同時に視聴者に主人公の背景となる物語を知らせることができる。
ところが『モテキ』の主人公・藤本幸世には、相談できるような友人はいない(島田雄一という友人はいるが、心を許して話せる親友ではない)。
だから主人公の心情と過去は、独り言を彷彿とさせる自身によるナレーションや、タイムマシン風の仕掛けと過去の自分の登場と会話といったもので表現される。それしか方法がないからだ。
表現手法そのものが主人公の現状を表しているのだ。だからあれもこれもと「グチャグチャ・ハチャメチャ」のようにみえて、それでもちゃんと収拾がつくのである。
■ 走り続けたからこその出会い
そんな主人公・藤本幸世にも地元の同級生でシングルマザーの林田尚子との出会いによって、心情と感情をつぶける(表現する)相手ができた。
心の内をぶつけることができる林田尚子と出会えたのも、藤本幸世が脳内(気持ち)をこねくり回して「グチャグチャ・ハチャメチャ」になりながらも土井亜紀や中柴いつかや小宮山夏樹と会ったり話したりキスしたりしてきたからだ。
つまり、突然にモテキがおとずれたのではない。「グチャグチャ・ハチャメチャ」になりながらも、出会いと成長の機会をつかんで走り続けたからこそ林田尚子=心を開いた相手との出会いができたのだ。
そして、こうした気づきと成長は主人公・藤本幸世だけでなく、土井亜紀や中柴いつかにおいても描かれている。
それがよくわかるのは、内語(登場人物の心の声)の使い方だ。はじめは藤本幸世だけだった内語が、早い段階から土井亜紀にもみられるようになり、やがて中柴いつかにも。
登場人物たちが出会い、悩み、さまざまな気持ちをぶつけ合い、倒れ、再び立ち上がる。
これほどまっすぐに青春に向き合った作品は、なかなかない。
役者もいいし、作品の「質感」もいい。
テレビ東京できしかできないと思わせもするところがまたニクい。
おすすめドラマである。
視聴可能な地域におられる方はぜひ。
ちなみにシングルマザーの林田尚子役は、映画『バベル』で米アカデミー助演女優賞にノミネートされた菊地凛子である。
▼深夜0:12~毎週金曜日テレビ東京系列放送
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