映画「オープン・ウォーター(OPEN WATER)」
■「オープン・ウォーター(OPEN WATER)」
監督:クリス・ケンティス
2004年/アメリカ/79分
![]() | オープン・ウォーター [DVD] クリス・ケンティス ポニーキャニオン 2005-11-16 by G-Tools |
低予算のインデペンデント映画ながら全米でヒットした本作は、カリブ海でスキューバ・ダイビング・ツアーに参加した夫婦が、スキューバスタッフのミスで海に取り残されるという内容で、実際に海で起こった惨事を元にしている。
CGやVFX(Visual Special Effect 主にコンピュータ・グラフックスの技術を使ったデジタル処理)は一切ナシ。
海が舞台の映画なのに、海中(水中)からのショットはナシ(たしか無かったと思う)。
海に取り残された夫婦の周りにやってくるサメの主観ショットもナシ。
海中に何がどれだけいて、それらがどのような動きをしているのかがわからない。
これが非常におそろしい。こういった恐怖はハンパではない。
観客は想像してみるだろう。自分がこの夫婦と同じ状況になったら、おそらくたまに海中を覗くだろうが、救助を待つ間のほとんどは海上に顔を出しているだろうと――。
なにか異常を感じたときだけ海中に顔をつけて確認するだろうが、あまりに状況が危機的だと、おそらくそれもままならないのではないか――。
つまり、海中からの視点(例:サメの主観ショット)というのは、リアルな恐怖に比べれば、ぬるま湯みたいなものである。
サメの主観ショットがあれば、観客はそこに映画のつくり手の意図を意識する。
演出やカット割といった「つくりもの」の介在によって、観客は心のどこかで「恐怖映画」や「パニック映画」のエンターテイメント性を意識して、安心することができる。
ところが「オープン・ウォーター」は、あえて「つくりものの介在」をゆるさない。これによって安心などこれっぽちもできないリアルな恐怖を演出している。
こういう思い切ったことができるのがインデペンデント映画の利点である。
予算面も含め、さまざまな制約があるからこそ、斬新な手法がうまれる。その好例が「オープン・ウォーター」なのだ。
はじめはスグに助けが来るとだろうと気楽に考え、冗談を言ったりしていた夫婦が、やがて喧嘩し、さらに喧嘩ができたことを幸せと痛感したあたりまでくると、観客はとてもつもない恐怖に襲われる。
世界(世間)から見捨てれたと感じる恐怖。
最愛のパートナーを失う恐怖。
時間だけが淡々と過ぎ、希望の灯火がかぎりなく小さく、弱く、消え入りそうになっていく恐怖。
人間にとってもっともおそろしいものとは?
この答えは、人間にとってもっともすばらしいものと同じである。
その答えは「現実」である。
自分の願いが叶った「現実」はすばらしいと感じ、自分の願いが叶わなかった「現実」はおそろしいと感じる。
普通の映画なら夫婦はクライマックスに救助隊に発見されてハッピーエンドだ。
しかし映画ではない現実では、行方不明のままというケースもある。
人は現実が非情でどこまでも恐ろしいものだというのを知っている。だからこそ安心を求めてつくりものの世界に浸ろうとする。その需要に応えるのがフィクションであり、その一例が映画である。
だから本来、映画は恐怖を描くにしても、リアルっぽい恐怖を借りてくるにすぎない。
ところが「オープン・ウォーター」はまさに「リアルな恐怖」そのものをズバリ描いた。
こういう思い切ったことができるのがインデペンデント映画の利点である(二度目)。
しかも全米でヒットしたというから、人は虚構の世界に安心を求める一方で、ときに「リアルな恐怖」を感じる欲求も持ち合わせていることがわかる。
このアンビバレント(相反する気持ちが同時にあるようす)な感情が、人間を人間たらしめているといえよう。
そういった意味でも深ぁ~い作品である。
ラストになにかオチがあるんじゃないかとか、救助隊に発見されるんじゃないかとか、最後の最後まで心のどこかで期待する観客を無情に突き放す。
だからこそ限定公開のインデペンデント映画ながら全米でヒットしたのだ。
ほんとうにおそろしい映画を観たいアナタに「オープン・ウォーター」をおすすめしておこう。