映画「武士の一分」
監督:山田洋次
日本/2006年/121分
原作:藤沢周平『盲目剣谺返し』(『隠し剣秋風抄』収録)
またまた出た! 骨抜き侍見参! 真タイトルは「怨み屋本店復讐編」!? 似てそうで本質が違う「モンテ・クリスト伯」と観比べよう。名作と一般作・駄作との違いとは? めざせ100作! ガス抜き用水戸黄門系作品。っていうてる場合か(笑)テレビ時代劇でじゅうぶん。
ストーリー(概要)
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海坂藩の下級武士である三村新之丞は気のすすまない毒見役をしている。
そんなある日、貝の毒にあたって失明する。
道場を開く夢を絶たれ、絶望に打ちひしがれるも、妻・加世の支えで生きる気力を取り戻す新之丞。
そんな折り、加世と番頭・島田藤弥との不貞を知る。さらに島田が卑怯な手を使ったことが判明し、新之丞は武士の一分をもって島田に果たし合いを挑む。
主な登場人物の紹介
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△三村新之丞
海坂藩の下級武士(30石)。藩主の毒見役。剣術は城下の木部道場の免許皆伝の腕前。
▽加世
三村新之丞の妻
△島田藤弥
海坂藩番頭。三村新之丞の上司。剣の使い手。
△徳平
三村新之丞に仕える中間。
コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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またまた出た! 骨抜き侍見参! 真タイトルは「怨み屋本店復讐編」!? 似てそうで本質が違う「モンテ・クリスト伯」と観比べよう。名作と一般作・駄作との違いとは? めざせ100作! ガス抜き用水戸黄門系作品。っていうてる場合か(笑)テレビ時代劇でじゅうぶん。
■ 不運な男
剣の腕がたち、勉学も秀才。そんでもって男前。
能力は高くとも一族・親戚に有力武士がいないため30石取りの平侍。
そんな三村新之丞のお役目は藩主の毒見役。台所の隣の部屋で殿様に出される料理の毒見をする日々だ。
自分の能力を活かせる仕事がしたいと思いつつも、どうでもいいような、つまらないと感じる仕事をしなければならない。
新之丞は思う(たぶん)。――おれはなんと不運な男よ。
とはいえ愛する妻もいるし、早く隠居して、剣の腕を活かせることをしたい。暮らしは厳しくなるかもしれないが妻の加世と助け合って自分の道場を持ちたい。そんな夢を持っていた。
その新之丞が毒見で貝の毒にあたって失明する。
同僚たちはいう。――三村殿はなんと不運な男よ。
不運な男(女)……それって僕(私)のこと? と観客は思わずにはいられない。
傍から見ればなんとラッキーで幸せな人だと思われていても、当の本人は「自分はなんて不運なんだ」と思っていることはよくある。
ラッキーかアンラッキーかは当人の感じ方次第だからだ。
■ 限りなく高くできるハードル
そもそも人間は幸せのハードルをいくらでも高くできる。
一流ブランドバッグを10個しかもっていない。最低でも50個持っていなければ不幸だと思えば、その人は自分はなんと不幸だろうと思っている。
50個持っても、次には100個持たなければ幸せではないと思いはじめる。
不幸や不運を考えはじめたらキリがない。
50石取りの平侍。お役目は単調。やりがいを感じない。自分の能力を活かせる仕事をしたい。だが、それができずにいる。
それは三村新之丞だけのことではない。多くに観客にあてはまることだ。
観客は新之丞の境遇に自分を容易に重ね合わせることができる。
そこへ、貝の毒にあたるというさらなる不運が襲う!
■ 似ているが本質は違う「モンテ・クリスト伯」
貝の毒で失明して絶望した新之丞に自害を思いとどまらせたのは妻・加世の存在だ。
その加世が番頭・島田藤弥に騙され、弄ばれた。
新之丞は武士の一分をもって島田藤弥に果し合いを挑む。
果し合いを挑むといえば格好いいが、要するに復讐である。
これに似ているが本質は違う話に「モンテ・クリスト伯」がある。
「モンテ・クリスト伯」の悪役的な役割をもつキャラクターのフェルナンは伯爵子息だが長男ではない。爵位を正式に継ぐことはできず、愛する女・メルセデスも手に入れることができない。
フェルナンは愛する人を手に入れたいと思いながら、現状ではかなわぬ愛の悲しみはやがて友人エドモンへの憎しみに変わっていく。
フェルナンの√二乗、って違った。フェルナンの事情だってわからんでもない。
一方の主人公エドモンは愛する人メルセデスを取り戻したい(=自分を取り戻すため)。愛を失ったことで、愛を奪った者=フェルナンへの憎しみが生じる。
フェルナンとエドモンは、どちらも愛の力で動いている。違うのはその作用の方向であり、たどり着くのはかつての友人への憎しみの感情だ。
元友人同士。愛の力によって引き裂かれ、憎しみが生じる。
フェルナンとエドモン。どちらの気持ちも理解できるからこそ観客はいたたまれない。物語はエドモン(モンテ・クリスト伯)寄りで進むので、感情移入の割合は主人公側が大きくなるが、仇役のフェルナンだって只の悪者とは思えない。それが「モンテ・クリスト伯」が名作といわれる所以のひとつだ。
では「武士の一分」はどうか。
主人公・三村新之丞はもちろん愛の力で生きる気力をとりもどしたのだが、その愛の源である妻の加世を離縁する。
侍の風習や当時の考え方や武士の面子、愛してるが故にとはいえ、愛する人を遠ざけてしまう。
仇役の島田藤弥はどうか? 島田の事情だってわからんでもないと思えるだろうか?
そもそも、島田の事情なんて描かれない。加世が新之丞に嫁ぐ前からの知り合いで、今でいえば学生時代に学校の帰り道で見かけて一方的に恋心を抱いた島田。その後、親や親戚のコネで入社して重役に。部下の妻となった加世の不運に、権力をチラつかせて付け込んで手篭めにしてしまおう、イヒヒッ。
ってそんな男にいったい誰が、島田の事情だってわからんでもない、と思えるだろうか?
はじめから、島田の事情を描こうなんて気はさらさらないのだ。悪役が必要なだけ。復讐すべき相手を作り上げただけである。
悪役がいると楽だ。悪としての存在があれば、主人公はそれを倒すことだけに専念すればいい。だが、楽であるかわりに、深みはなくなる。
物語には悪役が必要な場合がある。とはいえ、悪役にも事情があるところをいかに丹念に巧く織り交ぜるか。それが名作と一般作・駄作との違いだ。
だから「武士の一分」は「モンテ・クリスト伯」と似ているようで、全く違う。
次に「復讐」について考えてみよう。
■ 武士道とは? そんなのわかるワケねぇ!?
武士道とは?
現代に生きる日本人だって、それにはっきり答えられる人は少ない。なんとなく武士の精神、侍の気質といったものがぼんやりと浮かぶぐらいだ。
「武士の一分」といわれれば「あぁそういうことね」となんとなぁ~くうなづいてしまう。
では「武士の一分」とはなんなのか。それは新之丞の行動から推測するしかない。
新之丞がしたのは愛する人を遠ざけて、怨む相手に復讐したことだ。
新之丞はこんな意味のことをいっている。「島田に俺の怨みの一太刀をあびせてやりたいんだ」(台詞は正確ではありません)
はっきり「怨み」といっている。
やったことは「怨みによる復讐」。それを「武士の一分」という、なんとなく格好よさげで致し方ない事のように思わせる言葉にすりかえてみせる。
作品のタイトルが「怨みます。復讐します」や「怨み屋本店復讐編」だったらどうだろう? それじゃぁ格好つかない。そこで「武士の一分」ときた。どうなんだ? このタイトル……。
■ げにおそろしきは……いつのまにか骨抜きに
「モンテ・クリスト伯」は憎悪にとりつかれそうなった男が寸でのところでとどまり、再び愛に生きようとする話だ。
「武士の一分」は、怨みと復讐にとりつかれた男の話だ。
「スパイダーマンシリーズ」や「ゲゲゲの鬼太郎」が復讐を重要なキーワードに新時代のヒーローを必死に描こうとしているのと正反対に「武士の一分」は実直なまでに庶民のガズ抜き用水戸黄門系作品の道を忠実に歩んでいる。
日本にかぎらず復讐モノは庶民の願望を形にしたポピュラーなもので、古今東西で娯楽としての需要がある。
日本では平日の夕方や毎週どこかの曜日のゴールデンタイムに「水戸黄門」を放映しつづけているのがその証だ。いうなれば鉄板である。
そんな鉄板作品があったっていい。だが、そういうガス抜き用鉄板作品は、それが「ガス抜き用鉄板作品」だとはっきりその姿を晒していなければいけない。
「武士の一分」は、ヘタこくと「愛のすばらしさを謳う感動作品」と思われてしまいそうである。
なぜなら、日本で生まれ育った人たちの涙腺を刺激するツボを知り尽くし、最も効果的にツボを押す技術を持ったベテラン職人が監督だからだ。
この監督にかかったら、どんな日本人も骨抜きにされてしまう。例えるなら歴代にわたり宮廷に仕える特別な専属料理人みたいなものだ。この料理人は王のために料理をつくるのではなく、庶民にどんな料理を作ってやればいいかを知り尽くしていて、庶民のために料理をつくる。たとえ王が交代しても、この専属料理人がいればしばらく国は安泰だと思わせられる。そんな料理人だ。そうこうしている間に国の政治は腐敗しつづけ、気がついたときには手のつけようがない状態になってしまった……なんてことにも。
げにおそろしきは……本質を巧みな技ですりかえようとすること。そしていつのまにか骨抜きにされてしまうことかもしれない。
■ その他
これもヤバイ(上記の意味で)。
「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」「武士の一分」……。
このまま100作めざすのかな?
キムタクは三村新之丞役が一番合っているようにみえました。
一番合っている役がコレって! キムタク主演の「HERO」も似たようなものだし、彼は新時代のヒーローにはなれそうにありませんね……。
「武士の一分」を観終わって、あぁスッキリしたぁ、といって3歩あるくと、さて何食べようかな、と切り替えが早くて済みます。
「モンテ・クリスト伯」を観終わると……深いのぉ、といろいろ思いをめぐらして考えさせられる。これを「余韻が残る」といいます。
私は日本人ですから「武士の一分」を観ているときはけっこうハマッてるんですヨ。だからこそオソロシくもなる。
観終わると、マジこれ(パリコレではない)ヤバイっしょ。ってことになる。だってこういうのは、平日の夕方や週に1度、テレビでさんざん放映してるやん。そんなの皆わかってる。まぁたまにはいっか。っていいながら映画でも同じことずぅっとやっていくつもり……なんだろうなぁ。その予算の10分の1でもいいから若手監督に与えて好きにやらせてあげてほしいナ。
テレビ時代劇でじゅうぶん間に合って……というか間に合わせてほしいものデス。
デート △
フラっと △
脚本勉強 × パターンはどれも同じ
演出 ◎ 職人技アリ
キャラクター ○ 定番キャラ
映像 ○
お約束 ◎
安心 ◎ 期待どおり予定どおりで安心
お涙 ○ 狙いすぎちゃう?
おバカ × まじめ
笑い △ チョイあり
ファミリー -
アクション ○
ワクワク × お約束の展開
びっくり ×
余韻 ×
時代 × 時代劇だけに時代におもいっきり逆行!?
ガス抜き用 ◎