映画「プラネット・テラー in グラインドハウス」
「プラネット・テラー in グラインドハウス
(Robert Rodriguez's Planet Terror)」
監督:ロバート・ロドリゲス /2007年/105分
米利堅(メリケン)版「あばれはっちゃく」をご賞味あれ。「はっちゃける」ことができるのはキャラが立ってるからこそ。
ストーリー(概要)
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細菌兵器によってゾンビが人々を襲うようになったテキサスの田舎町。
元恋人のレイと再会したダンサーのチェリーは、ゾンビに襲われながら
も生き残りの人間たちと共に戦う。
主な登場人物の紹介
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△チェリー
ダンサー
△レイ
解体屋。チェリーの元恋人。
△マルドゥーン
米軍基地部隊長
△アビー
科学者
▽ダコタ
女医
△ブロック
医師。ダコタの夫。
△ヘイグ
保安官
△JT
バーベキュー店主。ヘイグ保安官の兄。
コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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米利堅(メリケン)版「あばれはっちゃく」をご賞味あれ。「はっちゃける」ことができるのはキャラが立ってるからこそ。
■ グラインドハウスとは
グラインドハウスとは劇場のこと。
米国の大都市の周辺にあった劇場で、そこではインディーズ作品(低予算のB級映画)を2、3本立てで上映していた。
そんなグラインドハウスに入り浸って映画を見まくっていたクエンティン・タランティーノ監督が、ロバート・ロドリゲス監督と共に当時のグラインドハウスで上映されていた映画のエッセンスを元に作り上げたのがタランティーノの「デス・プルーフ in グラインドハウス」であり、ロドリゲスの「プラネット・テラー in グラインドハウス」である。
米国ではこれらを2本立てにしてフェイクの予告編を挟み、ひとつのグラインドハウスという作品として送り出したが、アメリカ合衆国外ではそれぞれを単独作品として編集しなおしたという。
というわけで、日本においても両作品は単独作品として上映された(2本立てではない)。
■ キャラクターを活かすとは
ゾンビとウェスタンという定番の題材に違いはあれど、折りしも「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」(以下スキヤキ)を鑑賞した後に「プラネット・テラー in グラインドハウス」(以下プラネット)を観ると、キャラクターを活かすとはどういうことかがたいへんよくわかる。
スキヤキにおける主要登場人物のひとりであるガンマンには、名前さえない。村にやってきた凄腕ガンマンは平家と源氏の間に生まれた子というバックグランドは提示されるが、それだけだ。
一方プラネットにおける主要登場人物のひとりのレイは、解体屋でチェリーの元恋人。銃の射撃は正確で、ナイフ等を使って次から次にゾンビたちを倒す。
両者とも腕が立つわけだが、なぜ凄腕なのかは語られない。
それでもレイが魅力的にみえるのは、どんな状況でもチェリーを信じ、勇気づけ、助けようとするからだ。
ほかにも女性キャラクターを比較してみよう。
スキヤキの女性キャラクター「静」は村にやってきた平家と源氏の争いのなかで片方の陣地に囲われており、夫が殺されてどうすることができないと感じている。
プラネットのチェリーにしてもゴーゴーダンサーをしているが、それを辞めて新しい自分をみつけたいと思っている。だがどうすることもできないと思っている。
どちらの女性キャラクターも現状からの打破を望みつつも、そんなことは叶わないだろうと諦めかけている。
そこにガンマンやレイが現れることで変化が生まれる。
大事なのは、その変化が観客が頷けるものでなければならないということだ。
つまり、変化するにじゅうぶんだと思えるふたりの関係を描かなくてはならないのだ。
スキヤキでは、ガンマンが現れても、静に変化を与えるに足るじゅうぶんな関係性を見出すことはできなかった。
ところがプラネットでのレイは、チェリーをゾンビの襲撃から救っただけでなく、彼女を再び助けるために危険をおかして病院までやってきた。
さらに片足を失って落ち込むチェリーを勇気づけ、共に戦っていく。こうして、いくつもの出来事を通してふたりの関係性に強い絆があることを観客に知らしめるのだ。
やがて、強い関係性によって変化していくチェリーは新しい自分に出会うのである。
■ お馬鹿に「はっちゃける」には
女医のダコタは幼い息子を連れて夫から逃れようと計画していた。
そんな、一見すると本筋とは関係ないように思える夫婦の状況も描かれる。
また、バーベキュー屋を営むJTは秘伝のソースを作ろうと日々研究を重ねている。彼の弟ヘイグは保安官で、なんだかんだいっても兄弟の絆は強い。これも一見すると本筋とは関係ないように思えるかもしれない。
だが、バーベキュー店にはレイだったりチェリーだったりダコタが付き合っている女(ダコタはレズビアン)だったりがやってくる。
やがて町がゾンビに襲われて壊滅状態になると、生き残った人間たちはJTのバーベキュー屋に集まって脱出の作戦を練ることになる。もちろんその中にはヘイグ保安官もダコタもレイもチェリーもいるというわけだ。
本筋とは関係ないと思われるキャラクターたちの状況を描きながら、実はひとつにつながっていく。ひとつにつながった時には、それぞれのキャラクターに厚みができている。言い換えればキャラクターが立体になっている。これをキャラクターが立つ、またはキャラが立つともいう。
キャラクターが立っているから、町にウィルスが蔓延してゾンビが溢れ、片足にマシンガンを装着した女性ダンサーが大活躍するお馬鹿っぷりを如何なく発揮できるのあり、それが笑いにもなる。
もしもキャラクターが平面で薄っぺらだったら、お馬鹿っぷりを発揮しようとすればするほど笑えなくなってしまう。
お馬鹿映画を作るには、実はたいへん高度で緻密な技術が必要である。スキヤキとプラネットを見比べるとはっきりと見えてくるのがそれだ。
■ その他
タランティーノが軍人役で出演しています。この人はいつ見ても映画を本当に楽しんでるってかんじですなぁ。
ゾンビが登場したり、頭や手足が吹っ飛んだりしたりするシーンがたくさんあるので、万人にはおすすめしませんが、そういったことを承知で、くだらないお馬鹿映画を楽しみたいならうってうけです。
くだらないことをやるにはものすごい根気と技術が必要で、はっちゃけることができるのはほんの一握りでしかありません。
そんな「はっちゃける」ことができる監督のひとりがロバート・ロドリゲスです。
さて、人間は無駄を楽しむことができる生き物です。無駄はエンジンでいうと潤滑油みたいなもので、それがないとスムーズに動きません。
人間は一見すると無駄に思えることを、実は欲しています。だから無駄にバイオレンスだったり、無駄にエロかったりする「くだらなさ」がたまらないと思えるからです。
なにはともあれ、米利堅(メリケン)版「あばれはっちゃく」をご賞味あれ。
私は笑いっぱなしでスた。
デート △
フラっと ○
脚本勉強 ○ キャラクター作りが上手
演出 ○
キャラクター ◎
映像 ○
笑い ◎ 笑いっぱなし
はっちゃけ ◎
お馬鹿 ◎
アクション ◎
ファミリー ×
のほほん ×
ほんわか ×
監督ファン ○
タランティーノ ○