映画「きみにしか聞こえない」
監督:荻島達也
日本/2007年/107分
原作:乙一『きみにしか聞こえない―CALLING YOU―』
出た! もったいないお化け一族総出じゃ~(グスン)中盤までのモノローグ調ナレーションと脳内会話までに仕込むべき「感動増幅仕掛け」を捨てるのみならず、クライマックス感動の炎に事前に水もかけてしまっている。
ストーリー(概要)
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クラスでただひとり携帯電話を持っていない女子高生リョウはある日、公園でおもちゃの携帯電話を拾ったことがきっかけでシンヤという男性と脳内電話(テレパシーみたいなもの)で話せるようになる。
話すうちに、横浜のリョウと長野のシンヤの間には1時間の時差があることがわかる。
周りの誰にも気づかれずに話せる脳内電話でのおしゃべりの時間は徐々に増えていき、ふたりは会うことにする。
主な登場人物の紹介
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▽相原リョウ
女性。高校生。横浜在住。
△野崎シンヤ
男性。リサイクルショップ店員。長野在住。
コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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出た! もったいないお化け一族総出じゃ~(グスン)中盤までのモノローグ調ナレーションと脳内会話までに仕込むべき「感動増幅仕掛け」を捨てるのみならず、クライマックス感動の炎に事前に水もかけてしまっている。
■ 乙一ワールドとは
乙一さんの作品群は一言ではいえない。
乙一作品群は実に様々な顔をみせてくれるからだ。ある作品ではゾンビも真っ青のグロテスクな描写がわんさかあるかと思うと、ある作品では極限状況の中なのに笑わせてもらえる。またある作品では胸が締めつけられそうなほどのせつない気持ちにさせられる。
分類不可能、定義不可能。
ひとつ言えることは、いくつもの乙一作品群を読むと浮かんでくる「乙一ワールド」があるということだ。
■ ホラー作家といわれる所以
乙一さんの作品群は分類不可能、定義不可能と書いたが、一般的にはホラー作家といわれている。
ライトノベル系の文庫から出版されることもあることから、子供向けの物語を書く作家だと思われていることもあるようだ。だが乙一さんは一般向け作品も書く。
いわゆる作家村(そんなもんあるのか?)には、純文学がエラくて大衆文学はまあまあ、ライトノベルは子供向けで鼻にもかけない。みたいな風潮が今でもあるという。
そんなことは読者にしてみればどうでもいいわけで、おもしろければなんでもいい。
賢明な読者はそれが純文学だろうと大衆文学だろうとライトノベルだろうと関係なく、ときにワクワクドキキして、ときに心を揺さぶられる、ページをめくる手を止めることができない小説こそがおもしろい作品だということを知っている。
さて、乙一さんがなぜホラー作家といわれるのか。
それは恐怖こそが人間を描き出すもっとも本質的かつ実用的な題材であり、表面的・直接的恐怖のみならず、潜在的・間接的恐怖を描いてみせるからだ。
ひとつ屋根の下、あんちゃん! イシシシシっ。って違った。それは90年代高視聴率ドラマであった。
そうではなく、ひとつ屋根の下で見知らぬ男女がひとことも言葉を交わずに生活する(「暗いところで待ち合わせ」)。
頭の中に見ず知らずの人の声が聞こえるようになり、一日の大半の時間をだれにも気づかれずにその他人としゃべりつづけられる少女(「きみにしか聞こえない」)。
こういった種類の恐怖を使って物語を構築できるストーリーテラーは、乙一さんだけである。
ワっ! お化けが出たぞ! と驚かすだけなら誰にもできる。それは恐怖というより、びっくり箱だ。
ホラー作品と言われている映像の中に多いのは、幽霊やお化けといった異形のものを登場させ、それを見てこわがる登場人物の姿を映し出すといったものだ。観客はビックリはするかもしれないが……それだけである。
だが乙一作品はビックリ箱だけではない。というかほとんどビックリ箱を使わずに潜在的・間接的恐怖を描きだす。そういった恐怖は人間の心を揺さぶる。心を揺さぶるとはつまり「感動」である。
恐怖が描き出せれば感動を演出することができる。だから乙一作品は、ホラーでありながら多くの人々心の琴線に触れるのだ。
さて、何を怖いと思うかは人それだが、私が超コワ! とチラッとでも思った作品を以下にいくつか紹介しておこう。
「愛してる、愛してない...(A la folie…pas du tout…)」作品レビュー
ちなみにビックリ箱の作り方を基本からしっかりと学びたい人は以下の作品を穴があくほど観るべし。職人技の宝庫ぞよ。
■ せつない系……実は!
そんな乙一作品群のうちで映画化された作品は過去に「暗いところで待ち合わせ」がある。そして今回の「きみにしか聞こえない」。
どちらもおおざっぱにいうなら「せつない系」だ。いろんな顔を持っている乙一作品のうち、映画化した2作品がどちらが「せつない系」なのはなぜか。
もしも乙一作品のグロテスクホラー系を映像化したら、乙一作品のせつなさは見た目のグロテスクにとらわれて観客には届かないだろう。
たからパッと見は「きれいなせつない系」の作品を映像化するのだ。
これは巧妙な仕掛けなのだと思う。
せつない感動作品を期待してやってきた観客に、潜在的な恐怖を提供する仕掛けなのだ。
アナタが町を歩いていてこんな人をみかけたらどうだろう。独り言をブツブツ言ったかと思うと、不意にニヤリとする。そんな人をみたらアナタはきっと近づかないでおこうと思うだろう。そういった気味悪さは表面的なものである。
■ 真に怖いのは
深層的に怖いのは、学校の昼食時間や体育の時間に、まわりのだれにも気づかれずに脳内電話で会話できるということだ。
それはつまり昼食時間や体育時間にまわりのクラスメイトたちのだれども話さないで過ごしているということだ。その恐怖をより具体的にしたのが、携帯電話を持ちたいと望みながらも携帯電話を持っていないということである。
■ リョウは特殊ではない
コミュニケーションを欲しながらも願いどおりにならない日々をおくるリョウ。
彼女は端からみれば普通の高校生だ。両親も妹もいる。横浜に一軒家もある。家で家族が食卓に集まって家族団らんもある リョウは言葉少なめだが、家族はそれをとがめるふうもなく、かといって放っておくわけでもなく見守っているといったかんじだ。
だが彼女はひとりで悩み、なんとかしたいと思いつづけている。これってだれかに似ていないだろうか? そう、彼女はどこでもいる。アナタかもしれないのだ。
携帯電話を持っていて、アドレス帳は一杯で日に100通以上メールのやりとりもしているしマイミクだって何百人もいて毎日家のパソコンからだけじゃなく携帯電話からもSNSにアクセスしてコメントを数百と返し続けている。
それなのになんだか心にポッカリと穴が空いたようだけど、そんなことを考えると自分がどうにかなりそうで、それを振り払うかのようにメール送り続け、コメントを書き込み続ける。
そんなとき、携帯電話を持っていない人がいるときくと、なんて強い人だろうと思ってしまう。だって自分はたとえ心の空洞を埋められないとわかっていても、携帯電話を手放すことはできないからだ。
クラスでただひとり携帯電話を持っていないリョウ。彼女は携帯電話を持ちたいと望んではいるが、それでさびしさを紛らわしたいのではない。
冗談やジョーク(どちらも同じかな)やうわべだけのおしゃべりではなく、言葉に真剣に向き合い、言葉を真剣に使いたい。つまり、真剣にコミュニケーションを欲しているのである。
だれもが心の奥底では欲していることを、ごまかさずに真正面から取り組もうとしている。
そんなリョウの背中を観客はヒーロー(ヒロイン)視するのだ。
■ ヒロインが美少女
映像作品で主要登場人物がふたり。ほぼスクリーンに出ずっぱりの主演女優を誰にするか。もちろん若くて綺麗な女優さんがいい。
ところが「きみのしか聞こえない」の主人公リョウは、友達がひとりもいない。学校ではいつもひとり。携帯電話を持っていない。
あんな美少女なのに女友達がひとりいないばかりか、男子生徒のひとりさえも言い寄らないなんて……あ・り・え・ねぇ~(>_<)
ベタな設定では、美少女だけど眼鏡をかけているので地味に見えるというのがある。それはいかにもなので避けたとしても、超の付く美少女に恋人はおろか友達がひとりもいないという設定に観客が納得できるようなエピソードを付けてほしい。
美少女なんだけど親が街を暴力で牛耳る恐ろしい権力者のためにだれも近寄らないとか、美少女なんだけど中学時代の黒い噂(関東レディース連合総長)がひとり歩きしているために高校では誰も近寄らないとか、とにかくなんでもいい。
ただ内気なだけでは、ぜんぜん物足りないのだ。
映画作品中では、国語の授業中に教科書を朗読するシーンがある。リョウは朗読の声げとても小さくて教師に注意される。
このシーンは後にリョウがシンヤと出会う(脳内電話で会話する)ことで変化していく過程を表わすための前フリなのだが、それだけではもったいない。
もうひとつ役割を付け足してはどうだろう。例えばリョウは帰国子女のため朗読のときの日本語の発音が他のクラスメイトとはちょっと違うために笑われた。おまけにまだ早口の日本語や難しい日本語は聞き取れない、といったものだ。
こうすると設定がずいぶんと変わってしまうのでいけないが、つまりはなにかしら観客を頷かせるセッティングをもうひとつぐらいしてはどうかとうことだ。
ひとつの設定シーンに(1)リョウに友達がいない理由(2)現状(3)シンヤと出会っての変化、の3つの役割を持たせてほしかったということだ。
■ おもちゃの携帯電話
原作小説ではおもちゃの携帯電話は登場しない。頭の中に自分が持ちたい携帯電話をいつもイメージしていたら、ある日その脳内携帯電話に電話がかかってきた、となっている。
小説ならそれでOKだ。文字で作り上げていく小説という世界では、脳内携帯電話が機能する過程をイメージさせる筆力というものが発揮されるからだ。
ところが映像作品ではそうはいかない。イメージをアクションで喚起しなければならないからだ。
リョウが公園でおもちゃの携帯電話を拾う。そのアクションを映像として観せなければならない。
おもちゃの携帯電話はあくまできっかけだ。リョウが脳内電話で話せるというSFを観客に受け入れてもらうためのアクションによる視覚的きっかけである。
だからおもちゃの携帯電話を登場させたのは正解だ。作り手が小説と映像作品の違いをきちんと認識していることがわかる。
■ 原田をおもいきって切り捨ててみては?
リョウはシンヤ以外とも脳内電話で話す。その相手は原田という年上の女性だ。
(原作ではユミとなっている)原田は、小説の中ではSF要素の確認と作品の余韻を残すための役割を持っている。
しかし映画作品においては、ばっさり切り捨ててしまっても良かったと思う。
なぜなら映画作品で原田はクライマックスへ向けて盛り上がる炎めがけて水をかけてしまうのだから。
お笑いでいうと、これからみんながびっくりするような超おもしろいギャグをこれからこちらの芸人さんが披露しますよ~と、おもいっきりハードルをあげてしまっているといったところか。
または黒柳徹子さんが「徹子の部屋」でゲストに向かって、あなた映画の撮影初日の収録に、間違って2日目の台本を覚えてきて撮影がはじめられなくて、あなたが台詞を覚えるまでの半日、撮影がストップしてたいへんだったんですってねぇ、そのお話をしてくださる? などというかんじで話のオチをすべてしゃべっちゃってるやん! といったところか。
「お笑いのハードルを上げてどぅすんねん」という笑いになることもある。「黒柳さんだから」という笑いになることもある。
けれど真面目な映画作品でクライマックスへ向けてますます勢いをつけるべき炎に水をさしてはいけない。
原作ではさりげなぁ~く、気づくか気づかない程度にサラッと匂わすほど良い程度なのに、映画作品では節操なくモロズバリといってもいいほどの水さし具合にはビックリした。そんなビックリ箱はいらない。
■ 出た! もったいないお化け!
映画作品ではシンヤはしゃべれない。たぶん耳も聞こえない。これは秘密でもなんでもなく、映画作品の前半にごくあたりまえのように提示される。
……出た! もったいなお化け!
実はシンヤがしゃべれないという設定は、クライマックスの感動ポイントになる……はずだった。
もしも、クライマックスのここぞ! というときまでシンヤの耳が聞こえないことを観客に秘密にしておけば、感動は何倍にも膨れ上がったことだろう。
■ スローテンポはクライマックスのためでは?
はっきり言って前半から中盤にかけてはあくびが出る。
いくら美少女が出ているからといっても、脳内電話で話してる登場人物は日常の生活をしているだけである。しかもリョウもシンヤも他の登場人物とはほとんど接触がない。
だからふたりの日常をたんたんと映し出し、脳内電話の内容は登場人物のナレーション風でなされる。
延々とモノローグが続くこれら前半から中盤にかけては、スローステンポである。
しかしこれもすべてクライマックスを盛り上げるためのこと。――そう思えるには、やはりシンヤがしゃべれないということは秘密にしておいてほしかった。
脳内電話というSF設定をもってすれば、モノローグ調のナレーションにシンヤの日常生活映像を付けるという中盤までの作り方であれば、シンヤがしゃべれないことをじゅうぶんに秘密にしていくことができただろうに……。
■ サプライズにできたものを
シンヤが耳がきこえないとう設定は映画版に追加されたものだ。その設定を思いついたのはマジで凄い。なのに、なぜそれを最大限活かさないのか……。
クライマックスのここぞ! というときになってはじめて「えッ、シンヤってしゃべれなかったの?」とビックリさせつつ感動を誘うという、涙を誘う仕掛けになぜしなかったのか?
もったいないお化けが一族総出でやってくるぞぃホンマに。
■ その他
他にはない発想と設定。小説と映像の違いをしっかり認識している部分もある。
にもかかわらず、クライマックスの盛り上がりの災に水をさしたり、前半から中盤にいたる脳内電話によるモノローグ調の作風を活かした絶好のサプライズと感動を仕掛けなかったり……。
う~む。チョイ意味不明。ただ単に小説原作から映像作品への作り変えにムラがあったということか。「観客に知らせる項目カード」と「登場キャラクターが知っている項目カード」の配置をうっかり間違えてしまったのか。
もしか「観客に知らせる項目カード」を用意していなかった……なわけないか。
原作小説が魅力的だと映像化は難しいという意味で、よいお手本となったのかもしれないが、それにしても勿体無い。
これらもったいない要素はあるものの、それでもクライマックスには「鳥肌ジ~ン」モノである。
主演女優の成海璃子は松下奈緒に匹敵するかもしれない大物の匂いがするゾ。演技はもぅちょいがんばってほしいがオーラがある。
ちなみにリョウがおもちゃの携帯電話を拾ったのは横浜山手公園だろう。
横浜山手テニス発祥記念館があることでも有名なこの公園は、日本初の西洋式公園ともいわれている。
携帯電話を拾ったり、シンヤと脳内電話で話したりしたときに乗っているブランコに私も乗ったことがある。ブランコもシーソーもいいかんじに年季が入っていて落ち着いた雰囲気のある公園だ。
テニスのクラブハウスは外国人住宅として建てられた建物なので風情があるぞぃ。
デート ◎
フラっと -
脚本勉強 ○小説と映像作品の違いが勉強になる
演出 △もったいない
笑い ×
役者 ○成海璃子ファンにはたまらない
映像 △
アクション -
ファミリー -
お気楽 -
SF ○
ホラー ◎
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