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06/29/2007

映画「プレステージ(THE PRESTIGE)」

監督:クリストファー・ノーラン
アメリカ/2006年/130分
原作:クリストファー・プリースト『奇術師』

実は正統派でヒントも親切設計。監督と映画作品自体がアンジャー(グレート・ダントン)。知的好奇心をそそられたいという人にはうってつけ。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
19世紀末のロンドン。奇術のライバル同士のアンジャーとボーデンは腕を競い合っていた。
そんなおり、アンジャーの妻が脱出マジックの失敗で亡くなる。アンジャーは妻の死その責任がボーデンにあるとして憎しみを募らせ、復讐を決意する。
追い詰められたボーデンもアンジャーへの憎しみを膨らませていく。
そんなある日、アンジャーの舞台で「瞬間移動」のタネを知ろうと地下へ降りたボーデンは、アンジャーの死を目撃する。
アンジャー殺しの犯人として首吊り刑を待つ身となったボーデンは、アンジャーの瞬間移動のトリックに疑問を持ちはじめる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ロバート・アンジャー(グレート・ダントン)
奇術師

△アフルレッド・ボーデン(THEプロフェッサー)
奇術師

▽オリヴィア
奇術ショーの助手

△ニコラ・ステラ
発明家


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
実は正統派でヒントも親切設計。監督と映画作品自体がアンジャー(グレート・ダントン)。知的好奇心をそそられたいという人にはうってつけ。

■ 映画とマジックは似ている

なんと申しましょう。いえ、なんとも申し上げられませぬ。なぜなら、物語の結末に触れてしまっては作品の旨みを台無しにしてしまうのですから。

それでは映画レビューにならぬではないか。はい、だから本来ならばこういった作品はレビューをしないのが正解なのでしょう。とはいいながも、それでもなにかしら書くのが誠の「記述師」でございましょう。

うぉっほん。そんな駄洒落はさておき、この作品の上映前には観客へ「オチは他の人には秘密にしてね」といったような意味のお願いがあります。

「シックス・センス」にも同じようなものがありましたね。そうすると期待するわけですよ。ラストにとんでもない衝撃的なオチがあるにちがいない――と。

よぉ~し、ならば自分がその謎をラストにさしかかる前に解いてやろうじゃないの。と意気込むわけです。しかも作品の題材が奇術とくれば、こりゃぁ相当なオチにちがいないと思う。

そんな期待を持たせるのには、意味があります。

そもそもマジック自体が「観客の期待値」の大きさにかかっているのだから、はじめにすべきことはこれからスゴいことをお目にかけますよ、といって集客すること。コレ、当然ですね。

これは一般的な映画作品にもあてはまります。人々の興味と期待を膨らませて、映画館にきてもらう。ほら、マジックも映画も似たようなところがあるのがおわかりいただけるでしょう。


■ 箱

大きな箱が登場します。これはアンジャーがアメリカで仕入れてきた新作で使う道具です。

「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」のレビューで、キャラクターという名の箱は開けないほうがいい、という話をしたのを覚えていますか?

▼「パイレーツ ワールド・エンド」宝箱は開けないほうがいいの意味

「プレステージ」では、そのものズバリ! 大きな箱が登場します。箱を作った人でさえ、いますぐ箱を破壊することを強くすすめるという、なんとも気になる箱です。

アンジャーはその箱と共にロンドンに帰国します。いったい何の箱? 舞台で使う装置が入った箱です。それで何ができるの? いままでだれも見た事のないショーをお見せできます。

実はこの箱の中の装置でなにができるかは、作品の冒頭からちゃんと目を凝らしてみていれば、ちゃぁんと提示されています。

箱の装置がなんなのかがわからないようにしているわけではありません。いやむしろ、作品の途中にある発明家ステラの1回目の実験のシーンで、箱の装置で何ができるかがピンとくるようにしてあるといってもいいでしょう。さらに2回目の実験で箱の装置で何ができるかは明らかにされます。

というわけで、箱は別に秘密でもなんでもないんですね。秘密ではないのだけれども、変わった形の大きな箱と登場が出てくると、なんだかスゴく気になる。使わずに破壊したほうがいいというオマケ付きなものだから、ますます気になる。

これが正統な箱の使い方です。秘密でもなんでもないものでも、箱に入れて工夫すれば、立派な秘密になる。それはアンジャーがマジックを華やかに演出することに優れていることと重なります。


■ 作品自体がアンジャー

ボーデンはマジックのタネを考え付く発想力に優れています。けれどもそれを魅せる工夫をすることは苦手なほう。

アンジャーはマジックを華やかに演出することに優れています。けれどもタネを考え付つくことは苦手なほう。

「プレステージ」という作品は、というかクリストファー・ノーランという監督は、ボーデン型でしょうか。それともアンジャー型でしょうか。

おそらくアンジャー型でしょう。

クリストファー・ノーラン監督の代表作に「メメント」という作品があります。数分の記憶しか維持できない男が主人公のこの作品は、時間の単位ごとに頭の中で組み立て直しながら観るという、頭の体操みたいでありつつもたいへん衝撃的な物語構成で知られた作品です。

どんな構成か。系でいえばクエンティン・タランティーノ監督作「レザボアドッグス」「パルプ・フィクション」「ジャッキー・ブラウン」またはガイ・リッチー監督作「スナッチ」といったところです。

これらの作品に共通するのは、作品中の各シーンの時間軸の使い方が「過去→未来」という一本筋ではないことです。シーンがどこにつながっているのか、過去のどのシーンなのかを見極めて頭の中で組み立てていく楽しさにあふれた作品群です。

さて「メメント」は作品内容としてはビックリネタではありませんが、オーソドックスな時間軸を逆手に取ったとでもいいましょうか、その時間軸を操る物語構築方法と撮影方法がビックリなのです。

アンジャーの普段のマジックも斬新なものではありません。マジックをタネを考えるのは得意ではないアンジャーですが、華麗なパフォーマンスで舞台を盛り上げます。だからアンジャーこと「グレート・ダントン」はロンドンで最も人気があるマジシャンのひとりとなるのです。

こうしてみると、クリストファー・ノーランという監督はアンジャー型だというのがおわかりいただけたと思います。

古今東西のさまざまな物語を研究している。だからこそ基本的な物語の型は決まった数しかないといわれながらも、どうやったら魅力的な作品にできるかを考え、物語構築方法にひねりを加えることで人々の注目を集める作品を作り出すことができる。

それがクリストファー・ノーラン監督です。

彼の作品は非常に多種多様な解釈と深読みができる。たいへん知的好奇心を刺激されます。

聖書の物語を彷彿とさせるシーンと演出がいたるところにみつけることができる「バットマン ビギンズ」が彼の監督作品というのも「なるほど!」と思われずにはいられません。

▼「バットマン ビギンズ(BATMAN BEGINS)」作品レビュー

ですから「プレステージ」も、社会学や哲学といったところで非常に深い解釈ができるような匂いがします。

どんなところが? それはお話できません。なぜなら作品のラストを明かさずにはできない話になってきますので。


■ その他

映画作品の結末は誰にも言わないでください、とのことですが、結末はまぁ正統派といったかんじです。推理好きな人ならヒントがけっこう親切ですので予想できますが、それを物語構築方法で華麗にみせるといったところかな。

マジックと映画に共通する仕掛けを、マジックを題材に映画で表現するというところに意味があるので「結末言わないで云々」は、なんというかそれ自体が「仕掛け」なんですね。

なんだか、まどろっこしいかんじになってしまいましたが、知的好奇心をそそられたい、という人にはうってつけの作品です。

そうそう、基本的にSF作品です。SF作品として基本に忠実です。SFだからなんでもアリではなく、ひとつだけSFにしています。しかも間に「奇術」というクッションを挟んでSFの要素をオブラートで包んでいます。
SFだと認識していないと、期待はずれ、なんていうふうに感じてしまうかもしれません。

そのあたりが、感想の分かれ目じゃないかなぁと思います。

時間軸を操る物語構成はわかりやすい親切なものですが、過去→未来という流れの作品しか観た事がない人や「水戸黄門」系以外の作品を観ない人にとっては、少々しんどい頭の体操となってしまいかねませんのでご注意くださいませ。

普通にドラマや映画を観る人なら、ヘーキですよん。

デート     △ 
フラっと    ×
脚本勉強   △
演出      ○
笑い      ×
役者      ○
映像      -
アクション   -
ファミリー   ×
お気楽     ×
SF       ○
知的好奇心  ○

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06/20/2007

映画「アポカリプト(APOCALYPTO)」

監督:メル・ギブソン
アメリカ/2006年/117分

「いまだかつて誰も見たことのない」に偽りなし。「裏の体」で読み解ける、極めて異色で極めて現代的(脳化社会の真っ只中で渇望される「体」)な作品。普通はすることをしない姿勢に気迫アリ。残酷描写には意味がある。サバイバルと再生。水が象徴するものとは?

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
マヤ帝国滅亡前夜。中央アメリカのジャングル。
家族や友人たちと平穏に暮らす青年ジャガー・パウの村が、ある日マヤ帝国の傭兵団に襲われる。
妻と息子を涸井戸に隠したジャガー・パウは父親を殺され、自身は捕虜となってマヤ帝国へ連れていかれる。
干ばつを鎮めるための生贄にされる寸前で命びろいしたジャガー・パウだったが、今度は傭兵たちによる「人間狩り」の標的にされる。
負傷しながらもジャガー・パウは妻と息子を救うため、追ってくる傭兵たちを振り切って故郷の村へ向けてジャングルをひた走る。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ジャガー・パウ
狩猟民族の青年。

▽セブン
ジャガー・パウの妻。

△ブランテッド
ジャガー・パウと同じ村の青年。

△ゼロ・ウルフ
マヤ帝国傭兵隊長。

△スネーク・インク
ゼロ・ウルフの息子。

△フリント・スカイ
ジャガー・パウの父親。部族長。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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「いまだかつて誰も見たことのない」に偽りなし。「裏の体」で読み解ける、極めて異色で極めて現代的(脳化社会の真っ只中で渇望される「体」)な作品。普通はすることをしない姿勢に気迫アリ。残酷描写には意味がある。サバイバルと再生。水が象徴するものとは?

■ 夜景が綺麗と感じるのはなぜ?

都会の夜景が綺麗だと感じるのはなぜ?

都会の建造物が放つ光は、人間が作り出したものだから。人間の脳が作り出した光の集合。それを見ることは脳にとってたいへん気持ちがイイのだ。

大規模な停電でも起きないかぎり、都会の夜景がいきなり消えてなくなることはありません。また、今晩と明晩で夜景の見え方が大きく変わることもありません。一度建てた建造物の位置は1日や2日では変わらないからです。

制御できるもの。ほぼ確実に予測できるもの。これらはにとって大変きもちがイイのです。

高層ビルの上層階の、夜景がみえるレストランに連れてきてもらった女性が感激する理由は、表面的には「夜景の綺麗さ」にですが、本質的には「脳の気持ちよさ」にあります。

だって、行き当たりばったりで綺麗な夜景がみえるレストランの窓際の席で食事やお酒が飲めるわけないですもん。男性が席を予約しておいてくれたこと。そこに「計画性」を感じるんですね。計画するのは「頭=脳」であって、なんとなぁく夜景が綺麗にみえるレストランに来ちゃった、なぁんてことはまずありえないんです。

「脳」によって計画されたデートで、「脳」によって作られた世界の象徴である「夜景」を見せられると、脳はたいへん気持ちがイイ。

そんなときふと想像してみる。付き合う前なら、これから付き合いはじめたら誕生日やクリスマスにはいったいどんな素敵なプランを立ててくれるのかって。さらにもしも将来結婚するとこになれば、きっとふたりの人生設計もしっかりと立ててくれるにちがいないんだろうなぁ……って。

脳が気持ち良くなって満足したら……あとは……ムフフ☆ もぉお子ちゃまは寝る時間ですヨ(笑)


■ 体

「心=脳」の対極は「体(身体)」です。

日本にかぎりませんが、エロやエッチは大盛況です。これらは時代や時期にかぎらずですので、わかりやすくするために「格闘技」をとりあげましょう。

「K-1」「PRIDE」

これら格闘技大会の主催国は日本です。なんで日本で格闘技が人気なの?

この謎を解くカギは「チラリズム」にあります。ってやっぱりエロ?

見えそうで見えない。身近なエロやエッチで「体」の表面はチラリとは見えているんだけど、裏面は見えない。特に現代日本では見えない。表があって裏がある。両面で一体。つまり表裏一体。だから表も裏も見なきゃ本質を知ったことになはならない。でも裏は見えない。

というわけで現代日本では、ほとんど見ることができない「裏の体」とはなにか?

それは――「死体」です。

死体を見たことがありますか? テレビの映像は除いて、実際にはどうですか? 動物の死骸は見たことがあるかもしれませんが(料理だって広い意味では死骸を切り刻んでいるわけですが)人間の死体を見る機会は一般的にはお葬式ぐらいでしょう。

ほかに「死」に遭遇するのは病院ぐらいでしょうか。

徹底的に「死体」を隠した社会。それが夜景に象徴される「脳にとって気持ちイイ」社会、現代日本です。

では「死」を意識さえるものとはなんでしょうか。

それは――「戦い」です。

格闘技は人間に「死」を意識させませす。しかも激しくぶつかり合うのは「体」。

徹底的に「死」を隠された現代日本において「死」を意識させる「格闘技」が盛んであることには、チラリズム論(笑)の観点からいってもおおいにうなづけるでしょう。


■ 脳化する映画

CGでどんな映像でも作れてしまう。まだ見ぬ未来の姿さえも作れる。スター・ウォーズシリーズの映像が凄いといっても、脳にとって凄いという意味ではそのとおりでしょうけれど、体にとっては全くといっていいほどパンチがないんですね。

これはスター・ウォーズシリーズに限らず、CGを多用した最近の大作の多くにいえることです。脳にとってはスゴいわけですけれども。。

そんななかでタイの格闘映画「マッハ!!!!!!(ONG-BAK)」や「トム・ヤム・クン!」は痛さが伝わるパンチの効いたアクション作品です。体を張った格闘映画ではこれ以上の作品はいまのところ思い浮かばないですね。

▼「マッハ!!!!!!(ONG-BAK)」作品レビュー

▼「トム・ヤム・クン!」作品レビュー

アメリカ映画ではCGをはじめとする特殊映像技術が盛んなため「マッハ!!!!!!(ONG-BAK)」や「トム・ヤム・クン!」といったような「体」を意識させるような作品は当分の間は作られることはないだろうと思っていました。

――ところが、できちゃいました。ギブちゃんが作っちゃったいました!


■ 変わり者? 超越者? ギブちゃん

ギブちゃんこと、メル・ギブソン監督はオーストラリア(豪)出身。「マッドマックス」シリーズでスターになりました。ほかの代表出演作に「リーサル・ウェポン」シリーズがあります。

監督業としては「顔のない天使」にはじまり「ブレイブハート」ではアカデミーの作品、監督賞を受賞しています。私財をつぎ込んで作った「パッション」は世界中で話題になってヒットしたのも記憶に新しいですね。

このように監督3作で映画づくりの才能をこれ以上ないというほどに全世界に知らしめました。そして監督第4作目が「アポカリプト」です。

豪出身とうのもあるでしょうけれど、彼の監督作品を観ればわかるように、メル・ギブソン監督はいわゆるハリウッド的なものを超越しています。

アメリカ合衆国でアクション作品をつくる場合に普通はすることをしていません。しないづくしなのです。

------------------------------------↓
・有名俳優を使わない

・作品に、いわゆる白人を登場させない

・英語・米語を使わない

・銃器を使わない
------------------------------------↑

ふつうだったら、こんなアクション映画の企画書は脚本エージェントのところへさえも届きません。

脚本やショービジネスの何もわかっていない奴だと鼻で笑われて終わりです。

でも、逆に言えば上記の項目が作品に登場する作品は、掃いて捨てるほどある、ということなのです。

-------------------------------------↓
・有名俳優を使えさえすれば集客できる(と思っている)。

・メインキャストには、いわゆる白人と黒人(アフリカンアメリカン)の二人を起用しなければヒットしない(と思っている)。

・たとえ英語圏外を舞台にした作品でも役者は全員英語(米語)を話さなければアメリカ人に観てもらえない(と思っている)

・5分に1回は銃器を使う派手なアクションシーンを入れなければ客が劇場に入らない(と思っている)。
-------------------------------------↑

メル・ギブソン監督はアメリカで多数の作品に出演してきた俳優なので、そんなことは百も承知。知っているからこそ、今のアメリカ映画には無いものがなんなのか。ほんとうに皆が観たことがものがなんなのか。だれもが本能としてもっているものがなんなのか。それらを映像化するにはどうするかをしっかりと考えたのだと思います。


■「いまだかつて誰も見たことのない」に偽りなし

電車も車も携帯電話も登場しない世界。

銃器が登場しないアクション映画。

ええ、観たことないです、そんな世界。そんな映画。

そして、こんなにも「脳」が締め出されて「体」が出ずっぱりの映画を観たことがありません。

そういう意味で、極めて異色で、極めて現代的(脳化社会の真っ只中で渇望される「体」)な作品。

こういう作品にニーズがあることを感じとって作品にしたメル・ギブソン監督。そんな彼が魅せてくれる「いまだかつて誰も見たことのないヴィジュアル」は、まさに「アポカリプト」の中にありました。


■ 眼力

役者のオーディションでは、演技の経験の有無よりも風貌や動きや内に秘めているものを重視したそうです。

そしてタカが役者さんを見て感じたのは、眼力です。

どの役者さんも眼が鋭い。演技がうまいとかいうことよりも、生命力が溢れんばかりに眼に表れている。それが。眼力の鋭さです。


■ サムライかっ!

ジャガー・パウの父親であり、部族長でもあるフリント・スカイは、他の集落の人に出合ったときに名乗ります。自分は誰でこの森でずっと猟をしてきた、といった内容を堂々と言います。

このシーンは、後にその息子であるジャガー・パウが名乗るシーンのための前フリでもあるのですが、こうした「名乗り」ってどこかで聞いたことありませんか?

日本の武士、いわゆる侍(サムライ)が戦場で敵と戦う前に「我こそは中川家の、中川家兄でござるワン!」(お笑い芸人中川家風)みたいなかんじ(?)で、とにもかくにも名乗りを上げるわけです。もちろん相手が名乗るのもちゃんと聞いて、それからいざ勝負! となります。

西欧の騎士も似たようなことをしていたんじゃないかなと思います。

ところが日本で銃器が使われるようになってからは、名乗る段取りをすっ飛ばすようになったんですね。

それまでは、戦いは戦士が行うものであり、戦士の戦いには名乗りにはじまる段取りみたいなものがありました。
ところが銃器を使うようになって、かならずしも戦士でなくても、だれでもきちんと訓練すれば、剣や弓だけの戦士を倒すことができるようになった。それにいち早く気づいて実戦に取り入れたのが幕末の長州藩の高杉晋作の奇兵隊ですね。

騎兵じゃなくて奇兵。当時の常識からいえば戦いの素人(農民や町民も含む)を集めて兵士にしたところで戦力になるはずがないと言われていた。そんな者たちの集まりは変な兵士。だから奇兵だと自分で名づけちゃうところが高杉晋作のおちゃめであっぱれなところですね。

奇兵隊は西洋式の兵法をよく取り入れて、銃隊や砲隊などで組織され、当時最新の兵器を扱って戦果を上げました。

話を戻しますが、ジャガー・パウは名乗ることで自身の立ち位置と、やるべきことをしっかりと認識して決意し、それまでとは違った行動に出ます。

さてジャガー・パウがどこで名乗るか。それは観てのお楽しみに。


■ 走れ! ジャガー・パウ

太宰治の「走れメロス」は傑作ですね。

なぜ広く人々に愛されるのか。友のためにボロボロになりながらも走りつづけるメロスに心打たれるからです。

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)

実は「アポカリプト」にもこれが使われています。ジャガー・パウと同じ村の青年ブランテッドが傭兵の矢に倒れながらも、友が逃れる隙(時間)を作ります。友とはジャガー・パウのことです。

そもそも、日常でブランテッドはジャガー・パウにからかわれていてました。ブランテッドはジャガー・パウに不満を持っていました。とはいってもそれはまるで兄弟喧嘩のようなもの。同じ村の友人として心の底では繋がっていたいたわけです。

友のために命を捨てる男。

家族を救うために傷つきながらも走り続ける男。

主人公の目的がしっかりしていて、そこに友情もある。

さらに親子(父と子)の愛情もあります。それは父フリント・スカイと息子ジャガー・パウ、さらには傭兵隊長であり父であるゼロ・ウルフとその息子スネーク・インクの関係によって描かれています。

それから姑と婿の愛情もあります。それはブランテッドと、嫁の母親の関係によって描かれています。

そのほかにも上司と部下の確執もあります。それは傭兵隊長ゼロ・ウルフと傭兵の班長(?)との関係によって描かれています。この傭兵の班長(会社でいえば主任クラス)がジャガー・パウの直接的な敵対者になって因縁の対決を観客に期待させます。

こうした関係性におけるサブ・プロットがそれぞれの登場人物の行動(アクション)の動機づけになっており、それによってストーリーを先へ推し進める効果をもたらしています。

無駄なシーンがないんですね。それは鍛え抜かれた狩猟民族の狩人ジャガー・パウの肉体かのようです。


■ 緩・転・急

作品は、大きく3つのセクションに分かれます。

-------------------------
アクト1は、ジャガー・パウの村での平穏な日々。

アクト2は、マヤ帝国傭兵団による襲撃→マヤ帝国へ連行→生贄の危機。

アクト3は、マヤ帝国からの脱出→家族を救うためにジャングルを疾走。
-------------------------

それぞれのアクトの役割は以下です。

アクト1の「緩」で、平穏で幸せな日々を提示(「転」への暗示もアリ)。

アクト2の「転」で、かけがえのないものを強調(残酷描写による)。

アクト3の「急」で、観客の本能とカタルシスを刺激&解消(アクションによる)


■ 残酷描写

「アポカリプト」には残酷描写があります。それも比較的多いほうです。

過激な映像は客寄せになるからといっても、そこまで残酷描写が必要か? という声もきかれます。

でも、作品を観ればわかりますが、残酷描写は単なる客寄せのためではありません。それには意味があります。

そもそも「アポカリプト」の物語構造はとてもシンプルです。

「外敵によって家族を危機にさらされた男が、自身のサバイバルと家族を救うために奔走する」

これだけです。では次のような作品を観たことがありますか?

「犯罪組織に家族を殺された男が、組織に復讐するために単身立ち上がる」

ほら、どこにでもあるハリウッド作品のログライン(Log line ストーリーを述べてある一文)とほとんど同じだというのがわかると思います。

でも、ストーリーラインはほぼ同じでも、主人公とそれを取り巻く環境が、危機的状況に陥る部分は全く違います。

たいていのハリウッド作品では、主人公の家族や友人や知人が傷つけられた事後のシーンを少し入れるだけにします。主人公にとって大事で身近な人たちがひどいめにあったんだな、ということが観客に伝わればいいからです。

大事なのは、主人公が悪の組織をぶっ潰す動機と理由を観客に提供すること。そのための「くだり」を丹念に描く必要はないと考えるからです。

ストーリー構築上に必要な設定という以外に意味のない残酷なシーンを詳しく描くことは、観客にっても「観たくないこと」なのだから、なおさら丹念に描く必要はないという考え方です。

観客はあくまで主人公の超人的な活躍の理由をほしがっているだけ、というわけです。

ところが「アポカリプト」では主人公の家族や友人たちが残酷に殺されるシーンがけっこうあります。

これは、作品の目的が一般的なハリウッド映画作品とは違うことを意味しています。

思い出してください。アクト2の「転」での役割を。それは、かけがえのないものを強調することです。アクト1で平穏で平和な日々を描いたのは、それがいかに大事であるか、かけがえのないものであるかを強調するためです。

たいていの作品では「アポカリプト」のアクト2に当たる部分を極力少なくします。理由は先に述べてたとおりです。ところが「アポカリプト」ではアクト2を、もういいよぉ、というぐらいに描きます。

ここには日本における格闘技の意味、つまり「生」への渇望と、かけがえのないもの(家族・友人)へのいとおしさを強調する役割があるのです。

ふつうの映画監督だったら避けて通る部分こそじっくりと描く。けっして話題づくりや客寄せだけの理由によるものではないでしょう。

皆が避けて通る部分をあえて通るには、当然ながらリスクを伴います。

想像してみてください。メル・ギブソン監督が私財をつぎ込んで作った「パッション」という作品があります。イエス・キリストが十字架にかかるまで12時間と、その復活を描くことに、いったいどれだけのリスクがあったのか。キリスト教圏でそのような作品を作るリスクとはどのようなものか――を。

どこも及び腰で資金を出したがらない。だから私財をつぎ込んだ。そこまでした伝えたかったことがある。伝えたいことを伝えるためにはどんなリスクでもとる。それがメル・ギブソン監督なのですね。

その意味に思いを馳せれば「アポカリプト」の残酷描写が必要か? とう問いの答えは出てくるでしょう。

「パッション」


■ 生きるとは? ~サバイバルと再生~

サバイバルは人間の根本欲求です。

涸井戸の底に避難したセブン(ジャガー・パウの妻)とその息子(5歳ぐらい)は。そこでただジッと助けを待っているわけではありません。

大きなお腹にふたりめの子供を宿したセブンは、涸井戸に落ちてきた動物と戦ったり、ロープを作って地上へ投げて井戸から脱出しようとしたりします。

ただ助けを待つだけではありません。「生」へと行動を起こしつづけます。ここにもアクションがあります。

さらに、大雨で涸井戸に流れ込んだ水が増えていく中では「正」への最大のアクションを起こします。

ジャガー・パウが「生」へのサバイバルを実践し、その妻のセブンが「生」への再生を実践する。

ホント、よく出来ていますヨ。

ちなみにセブンという名はおそらく、天地創造からですね。創世記によると、世界が作られた日数が6日。人も第6日めにつくられました。

7(セブン)じゃないやんか、という声がきこえてきそうですね。

創世記において神は天地創造の作業をすべて終えられ第7日に休まれました。神はその第7日を祝福して、これを聖別されました。

「聖別」された第7日。これは特別な日です。だからセブンという名には、人を含めた天地創造の「聖別」された特別な日を祝福する意味が込められているのです。だからセブンなのです。


■ 水と再生

出エジプト記に登場するモーゼはイスラエル民族の出身です。エジプト王による法律(イスラエル人に生まれる男の子はすべてナイル川に投げ込め)から逃れるため、赤ん坊のモーゼは葦で編んだかごに入れられ川に流されます。そして川に水浴びにやってきたエジプト王の娘のひとりに取り上げられるのです。

こうして「死の淵」から生き延びたモーゼは、エジプトの王子として育てられます。

サバイバルのために生まれてすぐに、エジプト王子という新たな「生」へ変換したモーゼ。それを仲介する象徴としての「川=水」。

雨水が大量に流れ込んだ井戸の底で、セブンは新たな「生」を授かります。ここにも水が「生」の象徴として用いられているのです。


■ 意味深な井戸

水つながりでもうひとつ紹介しましょう。それは井戸。

実は聖書には井戸がよく登場します。ヨセフが兄たちによってエジプト行きの商人の一隊に銀二十枚で売られてしまうところでも「穴」が登場します。

「彼を捕らえて穴に投げ入れ。その穴はからで、その中に水はなかった」(創世記37章24節)とあります。おそらくその穴は涸井戸だったのではないでしょうか。

井戸といえば映画「バットマン ビギンズ(BATMAN BEGINS)」で主人公のブルースは幼い頃に古い空井戸に落ちたました。これがきっかけでバットマンが誕生します。新たな「生き方」のきっかけになったのが空井戸に落ちた体験というわけです。

▼「バットマン ビギンズ(BATMAN BEGINS)」作品レビュー

「バットマン ビギンズ」

ほかにも新約聖書ヨハネによる福音書第4章5節~には有名な「ヤコブの井戸」の話があります。

イエスが弟子を連れてサマリヤのスカルという町にやってきたとき、そこにヤコブの井戸がありました。
イエスが井戸のそばにすわっていると、ひとりのサマリヤの女が水を汲みにきました。イエスはこの女に「水を飲ませてください」と言われました。そしてあなたに生ける水を与えようとも言います。

サマリヤの女にイエスは、わたしが与える水を飲む者は、いつまでもかわくことがない、といいます。

また、イエス・キリストが預言者ヨハネから洗礼を受けたのもヨルダン川です。(マタイによる福音書第3章12節~17節)。川=水ですね。

ガラリヤ湖で漁師をしていたペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブがイエスに声をかけらえて弟子になったとき、彼らは、正しい道を探す者を導くという意味での「人間をとる漁師」として生まれ変わりました。このときもガリラヤ湖という「水」に関連した場所が登場します。

ほかにもヨハネによる福音書第5章には、エルサレムの羊の門のそばのベテスダと呼ばれる池が登場します。その池のそばには病人たちが大ぜいからだを横たえていて、彼らは水が動くのを待っていたとあります。

時々、主の御使いが池に降りてきて水を動かした時にまっ先にはいる者は、どんな病気でもいやされたからです。ここにも病からの開放され「生」へと生まれ変わる場面に水が登場します。

このように聖書では「永遠の命にいたる水」「罪を清める水」が登場して、悪を悔い改め新たに生まれ変わるという意味で「水」が象徴的に示されています。

キリスト教会の多くの宗派の洗礼式で水が使われるのは、罪から開放された新たな生まれ変わりを表しているのですね。

さて「アポカリプト」でのジャガー・パウの村の井戸が涸井戸だったのはなぜでしょうか?

マヤ帝国のみならずジャガー・パウの村のある森の付近でも干ばつが続いていたことが予想できます。水不足だったんですね。

そんな中にあっても村には水がありました。
村の中央ぐらいにあるらしき「水貯め場」に水が貯めてあり、大事なトコロが大変なことになったブランテッドがアソコを冷やすために水貯め場に下半身を浸けるシーンがあります。

マヤ帝国では干ばつが深刻なのに対して、ジャガー・パウの村では水不足とはいえ水はある。その水にブランテッドが新たな命を象徴するオチ○チンを浸けるというのは、森と村には生命力がまだまだ溢れているってことですね。

井戸や雨や水を用いて「命」の「再生」を、肉体やアクションを用いて「命」の尊さを伝えようとしているのがとてもわかりやすいですね。


■ 走る! 走る! 走る!

アクト3は走りっぱなしです。昼も夜も追っ手は休みません。息をつかせぬ追跡劇とはまさにこれのこと。

よくぞまぁジャングルだけでこれほどハラハラドキドキさせて観客を惹きつけておけるものだと感心します。

スピード感と躍動感を出すための撮り方をメッチャ研究したんだろうなと思います。

ジャガー・パウはひたすら走ります。迫りくる脅威は追っ手の傭兵たちだけでなく、自然もです。

もし都会で「おっかけっこ」をすれば、電車や車や店を壊して派手に演出できます。でもそんなシーンはどこにでもあります。見飽きたといってもいいでしょう。派手にできるからというのは作り手側の都合であり、作り手側のマニュアルです。

電車も車も店も、追う者と追われる者以外に人も存在せずとも「おっかけっこ」はできるんだぞ。そんなことを教えてくれただけでも、脚本家志望者や演出家志望者をはじめとするあらゆるビジネス関係者にとってはありがたいことでしょう。

ちなみに日本の映画で走りまくる作品といえばサブ監督の「弾丸ランナー」ですヨ。


■ その他

マヤ帝国で全身に真っ白な人たちが労働に従事しているのは、神殿や宮殿や広場をつくるために生石灰を作っているからですね。

マヤ帝国滅亡の原因はいくつもあるそうですが、そのひとつが生石灰をつくるために森をたくさん伐採したことによる干ばつと食糧不足による帝国維持が不可能になったため、との説があります。

また、作品ではマヤ語族初期の方言であるユカテク語が使われています。ダイアログ・コーチという人が役者の発音をチェックして、かなり徹底的に作り込んだようです。

マヤ帝国の神殿も撮影のためにいたしかたない部分は差し引いても、資料を元にかなり気合を入れて作られていrんじゃないかな。もちろんマヤ帝国を生で見たことがある人なんて現代にはいませんから、それが正確なのかどうかはだれもにわかりませんが、スクリーンから滲み出る「気合い」はバシバシ感じます。

よくありがちなのはこんなの。
ここははんとなくそれっぽい古代の神殿があって、そうそう鳥居とその周りに墓地が広がっていて(←神社と寺院をごっちゃにしてない?)そこになんとなくそれっぽいサムライがいて、そうそう亀が背中に刀を背負ってて(←忍者タートルズとごっちゃにしてない?)というような、思いつきで雰囲気だけあればいいといったもの。

「アポカリプト」はそんなものと違う。真剣にマヤ帝国文化の雰囲気を伝わるよう、わからないところは想像力を働かせて作ったことがスクリーンからバシバシ感じます。

有名俳優を使わないのが尚のことよかったのでしょう。有名スターを使うとそれなりに細かい契約内容がたいへんで、ちょっとでも危険なシーンはやらないだとか、飲み物はこれじゃないとダメだとか、撮影中は有名ホテルのスィートルーム滞在じゃないとダメだとかいろいろあって、なかには演出やストーリー内容にまで注文をつけてくるスター俳優もいるかもしれません。

注文はなくても、俳優に合わせて撮影スケジュールやシーンを変更しなければならなくなる、なんてことは十分に考えられることです。

そんなことにお金と時間をとられることなく、作品の雰囲気と役柄にピッタリの人選をすることができる。有名スターを起用しないことで注目度が落ちるのではないかという一般的な心配の枠外で作られたところがイイと思います。

マヤ帝国滅亡の原因とされるものの有名なひとつをラストにサラッとだけ使っているところがまたイイですね。ありがちな作品だと、そこに焦点を当ててしまいがちですが、あくまでサラッとチラッとだけ匂わす程度にしている匙加減が絶妙です。

デートで観るのはちょっと考えたほうがいいでしょう。

残酷描写がどうしてもダメという人は無理に観にいかないように。

残酷描写を覚悟するなら、ぜひ観ていただきたい作品です。

デート     △
フラっと    ◎
脚本勉強   ◎
演出      ◎
笑い      △ジャガーとかけっこはチョイ笑いアリ
役者      ○
映像      ◎
アクション   ◎
歴史      ○
ファミリー   -R15
有名スター   ×
お気楽     ×

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06/14/2007

海外ドラマ「スーパーナチュラル」


日本テレビで放映せれている海外ドラマに「スーパーナチュラル(SUPERNATURAL)」というのがあります。

これは超常現象を題材にしたドラマです。

私はたまに観るぐらいなのですが、兄弟二人が失踪した父を探す旅に出て、行く先々で出会う人々の家族の問題に関連する超常現象を解明、もしくは超常現象から人々を救うという話です。

超常現象を題材にしているから子供だましという人もいるかもしれませんが、1話でも観れば(私は2・3話ぐらいしか観ていませんが)家族をテーマにした人間ドラマだということがすぐにわかります。

超常現象はあくまで題材です。描き出すのは家族のドラマ。とくに父と子の関係です。

幼いころから父の悪霊狩りを手伝ってきた兄ディーンと、悪魔ハンターの父とは距離を置き、普通の生活を求めて父や兄から距離を置いていた弟サム。

そんな兄弟だから父親探しをはじめても、どこかギクシャクしています。

自分は父親に愛されていなかったのではないか。

自分よりも兄のほうが、自分よりも弟のほうが、愛されていたのではないか。

そんな思いを秘めたまた旅は続くわけです。

それは旧約聖書においてヨセフの物語に通じるものがあります。ヨセフが父親ヤコブの寵愛を受けていたことについて、兄たちは快く思っていませんでした。そのためあるきっかけで兄たちは怒り、ヨセフを商人の一隊に銀二十枚で売ってしまうエピソードがあることを思い出させます。

また長子の特権をめぐるエソウとヤコブの話や、人類初の殺人が行われたカインとアベルの話を思い出させます。

どれも兄弟に関する話です。

実はこれら兄弟に関する話には共通点があります。それは、父親との関係です。

父親との関係を軸に、兄弟間の問題が起きるのです。

長子の特権(エソウとヤコブ)は、神へのささげもの(カインとアベル)、そしてヨセフが商人に売られたことにも、父親と息子たちの関係によって生じたことです。

聖書に登場する父と息子、兄弟のエピソードを軸に、視聴者の興味をひくための題材を組み合わせる。

ということは「スーパーナチュラル」での題材は超常現象ですね。

だから物語づくりにおいての軸は、長年にわたって知られているものでいいのです。

聖書の話だったり、ギリシャ神話だったり。

そうした「軸」がしっかりあれば、あとは時代や状況を見極めて「題材」を汲みわせればいいのです。

相撲がブームだから。サッカーがブームだから。アキバがブームだから。有名な歴史上の人物がブームだから。昭和がブームだから……等々は「題材」にすぎません。

「題材」は重要です。でも、題材を組み合わせる「軸」をしっかり持っていなければ、題材だけがフラフラと浮遊してなんとも落ち着かないものとなってしまいます。

▼日本テレビ「スーパーナチュラル」サイト


ちなみに海外ドラマのことなら超くわしいこのサイトがおすすめ
▼TVグルーヴ・ドット・コム
http://www.tvgroove.com/index.html
海外ドラマ情報・ニュースサイト。メルマガも発行してるよ。海外ドラマ好きには超有名&外せないところですよ。

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06/12/2007

映画「300(スリーハンドレッド)」

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監督:ザック・スナイダー
アメリカ/2007年/117分
原作:フランク・ミラー『300』

半裸に赤マントのオヤジ系マッチョ軍団が大ハッスル! 新感覚アクション「早回し DE スローモーション」にド肝抜かれろ! 個人ヒーローを否定したかのようで、そうではない。「7人の侍」級のシンプル設計でわかりやすいゾ。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
紀元前480年。ペルシャ軍がギリシャに侵攻を開始。スパルタにペルシャの使者がやってきた。
服従を迫るペルシャの使者を、スパルタ王レオニダスが葬り去る。
しかし、神託と民会の賛同を得られないため軍を出動できないスパルタ王レオニダスは、スパルタ軍精鋭300の兵を率いて出立。
ギリシャ各国の部隊と合流し、テルモピュライという狭い山道でペルシャ軍を阻止すべく戦う。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△レオニダス
スパルタ王

▽ゴルゴ
スパルタ王妃

△クセルクセス
ペルシャ王

▽セロン
スパルタの政治家

△ディリオス
スパルタ戦士


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
半裸に赤マントのオヤジ系マッチョ軍団が大ハッスル! 新感覚アクション「早回し DE スローモーション」にド肝抜かれろ! 個人ヒーローを否定したかのようで、そうではない。「7人の侍」級のシンプル設計でわかりやすいゾ。

■ ファランクス(phalanx)

ファランクス(phalanx)は、古代ギリシアで用いられた重装歩兵による密集陣形のこと。

当時、最強といわれたスパルタ陸軍もファランクスを採用していた。

ファランクスで重要なのは、号令のもとに皆が同じ動きをすること。ひとりだけ勝手な動きをすることは、全体を危険にさらすことになる。

だから、ひとりのズバ抜けて強い戦士よりも、ほぼ均一な体力と強靭な体を持つある戦士が多数いたほうがよい。

これってなにかに似ていないだろうか?


■ 企業戦士

――企業戦士。

ひさしぶりに聞いたナ。と思われた方もいるだろう。

かつての優秀な企業戦士とは、いったいどんな者を想定していたのだろう?

なるべく頑丈で、なるべく文句言わずに命令に従って、なるべく会社のためにボロボロになるまで働くことに意義とプライドを持てるよう教育しやすい者がほしい。

かつて、運動部系出身の新卒者をたくさん採用したがる企業の営業部署が多かったのはそのためだ。


■ ファランクスを組めない者は……

ファランクスを組めない者は、戦士になれない。

ファランクスを組めない者は、ユニフォームを着れない。

ファランクスを組めない男は、参政権を得られない。

集団、組織、共同体のために命を落とすことこそ美徳である。

戦えない子供は谷底へ捨てろ。

7歳で母親と決別せよ。

空腹なら盗んでも生き延びろ。

情けを捨てろ、痛みを隠せ、恐怖を受け入れろ。

生き残った者だけが一人前の男になれる。

――それがスパルタ式だ。


■ タイトルの意味

「ボクは左利きなんで、右側に盾を持ちたいんですケド」

「俺は背は低いほうだが、小回りがきいて素早い攻撃がきるぞ」

こんな者は戦士として認められない。みんなと同じ体型と同じ体力と同じ動きができる者だけだ。

そんなスパルタ式は、集団・組織・共同体を強くする。

BC800年ごろからのギリシアは、そうした集団・組織・共同体の時代であった。

そんな時代では、ひとりのヒーローはいらない。集団こそがヒーローなのだ。

だから作品のタイトルが「300」という、ひとまとりまりの「数字」であり「単位」なのだ。

「ス○イダーマン」でもなければ「スー○ーマン」でもなければ、梅干食べて「スッパマン」でもない。300というひとまとりの数字がヒーローなのだ。


■ 冷戦かッ!

ギリシャ陣営 × ペルシャ陣営

ギリシャ陣営の先導はスパルタ。

これってなんだか米ソ冷戦の構図みたいだぞ。

スパルタを米国と仮定すると、テルモピュライの地でスパルタ軍と共に戦ったギリシャ各国兵はNATOで、ペルシャ軍はワルシャワ条約機構といったところか。

ペルシャ軍にヤギの道(いわゆる裏道)を知られて優位が失われたことで、ギリシャ各国兵が退却していくなか、スパルタ(歴史によると他国兵の一部も残った)が残る。このあたりまでくるとなんだか米国のイラク派兵っぽくなってくる。

そしてスパルタ軍は玉砕。

ここでの重要なポイントは、スパルタ軍がペルシャ軍に包囲されて絶体絶命の危機的状況になる直前に、スパルタ王レオニダスが、部下のスパルタ戦士・ディリオスを故郷に帰すところだ。

ディリオスは、スパルタ兵300が勇敢に戦ったことをギリシャ諸国に伝え広める使命を受けたのである。

「300」は、広く語り伝えられることで「英雄伝」となる。

これって米国がいつもやっていることじゃ? いや、米国だけではない。

全体からみれば一部だが、その一部の勇敢で犠牲的な行動が、皆を助けることになった。それを称えることで、集団・組織・共同体の団結を強めるというのは、まぁどこでにでもありそうな常套手段だ。


■ 個人ヒーローを否定したかのようで、そうではない。

今回はひとりの名前を使ったヒーローではないが、全体から見れば一部の「300」という数字がひとつの名として機能したヒーロー物語である。

アウトローをはじめとした強い個人がヒーローとして描かれてきた米国映画だが、全体からみれば一部である「300」をヒーローとして語り継がせることで、全体を鼓舞する。

こうしてみると「300」は題材はギリシャだが、やっていることはいつもの米国映画とほとんど変わりはない。
つまり、全体からみれば「300」という「個体」がアウトローとして活躍する、いつものパターンだ。その例として、ファランクス命! みたいなこと言ってるわりには、個人技のアクションシーンが目玉になっている。

もちろんそれはいい意味である。どんなに大きな戦いであっても、個々の戦いの集合であることから、全体を撮るよりも部分を撮ったほうが伝わりやすい。

体育祭での全校生徒の集合写真よりも、自分や友人が大きく写った綱引きの写真を見るほうが、思い出を鮮明に蘇らせることができるのと同じだ。

原作はフランク・ミラーのグラフィック・ノベル。漫画は風刺と相性がいいことからもわかるように、映画「300」も風刺も映像(画)も、そのあたりをちゃんと押さえているのだね。


■ 早回し DE スローモーション

スパルタがまるで米国みたいだ。というのは、実は「どぉーでもいいですよ(だいたひかる)」ってなものである。

「300」の見所は、いうまでもなくアクションだ。

なんでもかんでもCG使えばいいのではなく、世界観を生かしつつ、アクションも派手にしっかり魅せる。これがけっこう難しい。

下手な作品だと「ほら見てよ! CG使ってすごいでしょ」という制作サイドの声が画面から滲み出てしまったり、やたらカットを素早くつなげてスピード感を出そうとするも、なにが起きているんだかさっぱりわからないアクションシーンになってしまったり、といったことになる。石を投げればそんな作品に当たるご時世だ。

しかし「300」のアクションシーンでは、なにが起こっているのかが、観客にしっかりわかるように作られている。迫力とスピード感を失わずにそれができている。

最大の特徴は「早回し DE スローモーション」とでもいおうか、緩急を活かしたアクションがそれだ。これならなにがどうなっているのかバッチリ伝わる。逆に伝わりすぎてヤバい(いい意味で)映像だ。これを観ずして今後のアクションシーンは語れまい。


■ お約束を守ったシンプル設計

スパルタの神官みたいなのが数名登場する。スパルタ王でさえ、彼らに出陣のお伺いをたてなければならない。

この神官たちは金と女と地位を欲して腐敗しており、スパルタの若い女たちの中で一番の美女を連れてきて自分たちの欲望を満たしつつ、その女を通して授かるという形での、金で買える神託をもって私利私欲をこやす、百害あって一利なしという役どころだ。わかりやすくいえば既得権益にしがみついた害虫といったところか。

またスパルタの民会を牛耳る政治家のセロンも同じような役どころだ。

そんな悪役たちが障害(オブスタクル)になって、レオニダスはわずか300の兵力でペルシャの大軍を阻止するために出立しなくてはならないのだ。

このあたりも米国の議会や軍需産業云々などといろいろ解釈できそうだが、そんなことは「どぉーでもいいですよ(だいたひかる)」状態で、要はワルモノもちゃんといるゾというお約束を守ったシンプル設計だということだ。

だから小難しいことなどなぁんにも考えることなく、赤マントのマッチョ軍団がんばれッ! と声援を送るつもりで、たまにペルシャ軍のイロモノ舞台にヤンヤヤンヤといいながら観るのが正解だ。


■ その他

ペルシャ王クセルクセスの使者たちは、どこか「北斗の拳」の小ボス雑魚キャラを彷彿とさせるゾ。

クセルクセスは一見するとオシャレ系(?)井手らっきょだがレオニダスと並ぶと……デカっ!

フランク・ミラーのグラフィック・ノベルが原作の映画「シン・シティ(SIN CITY)」を観れる人なら「300」観ても大丈夫。

肉片や血飛沫が飛び散りまくりのため、観るならそこはご了承のほど。

半裸のスパルタ戦士よ、夜はマントで体を包まないと風邪ひくぞぃ。ってそもそもスパルタ兵って重装歩兵じゃなかったっけ? まいっか~♪(EAST AND×YURI)

▼映画「シン・シティ(SIN CITY)」作品レビュー


デート     △彼氏彼女の好みが同じなら
フラっと    ◎ド肝抜かれる象(パオ~ン)
脚本勉強   ○シンプルに貫かれている
演出      ○あえて史実とは違う設定もイイ
笑い      ○ペルシャ軍イロモノ部隊にツッコめ!
役者      ○マッチョさん集合!
映像      ◎クイックアンドスローの衝撃度とは!
ファミリー   ×R-15
そっち系    ◎そっちってどっちだ
ほんわか    ×
のほほん    ×
のんびり    ×もうエエわっ!


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06/11/2007

映画「ザ・シューター/極大射程(SHOOTER)」

監督:アントワーン・フークア
アメリカ/2007年/125分
原作:スティーヴン・ハンター『極大射程』

ここはいつもの定食屋。注文は「いつもの!」。同じ「いつもの」でも、味付けは違う。食べ比べてみては?

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
愛犬サムとワイオミングの山奥でひっそりと暮らす、元海兵隊の狙撃兵のボブ・リー・スワガーのもとへ、ある日アイザック・ジョンソン大佐が訪れる。
大統領暗殺計画を阻止するため力を貸してほしいというのだ。
愛国心をくすぐられ、大佐の要請を受けたスワガーだったが、罠にはめられ、大統領狙撃犯として追われる身となる。
スワガーは身の潔白と復讐のために立ち上がる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ボブ・リー・スワガー
男性。元海兵隊狙撃兵。

△アイザック・ジョンソン大佐
男性。退役軍人

△ニック・メンフィス
男性。新米FBI捜査官

▽サラ
女性。スワガーの元相棒ドニーの妻。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
ここはいつもの定食屋。注文は「いつもの!」。同じ「いつもの」でも、味付けは違う。食べ比べてみては?

■ 定食屋

「らっしゃい」

「おっちゃん、いつもの!」

「あいよ、いつもの定食ね。そんでもって『ザ・シューター/極大射程』もいつもの定食ってことで。お・わ・り」
「おいおい、基本3分どころか、これじゃあ3秒もかかっていないじゃないかぁ」

「へい。なにせ、いつもの定食っスからそれ以上もそれ以下もありゃぁしねぇもんで」

「それならせめて、定食の味付けぐらい変えたらどうなんだい?」

「味付けで……? わかりやした。やってみまひょ」


■ 品書きも決まってる

ウチみたいな小さな定食屋ですとね、品書きも決まってるんでさ。A定食に、エー定食に、えー定食。

エッ? どれも同じじゃないかって? そんなこたぁないですよ。微妙に味付けが違うんですから。

どう違うのかわかるように説明しろって?

ヘイヘイ、わかりましたよ。そしたら黄門ちゃまと比べてみまひょ。


■ 味付けは真逆

ウチらの世界にもね、わるい奴ぁいるもんでさ。それもそんじょそこらのコソ泥なんていうかわいいもんじゃぁねぇ。代官様や問屋のお偉いさんが裏でつるんでやりたい放題よ。だからってどうにもなりゃぁしねぇ。わしら庶民にゃぁ手も足も出やしねぇや。

でもな、お天道様はちゃぁんと見てるんだなぁ。天下の黄門ちゃまがやってきて、わるい奴らを成敗してくれるんでさ。

ってそんなことぁあるわきゃぁない。あるわきゃぁないから黄門ちゃまは長生きなんでさ。

それで「ザ・シューター/極大射程」の……ってそういやぁ「極大射程」ってなんなのさ。それいうなら「極小射程」ってのもありか? なんだか変な感じになってきたようで……。

はいはい「極大射程」でやんしたね。「極大射程」(←それ言いたいだけやろ)でのわるい奴を成敗するのは、子連れ狼ならぬ、一匹狼の軍人はん。わしらでいうところの元お侍さん。ってことは浪人ね(丸眼鏡ガリガリ。ってそんな浪人生いまどきいまへんがな)。

こうしてみると、話の型は同じでも、亜米利加さんはいっつも一匹狼の浪人が悪い奴らをバッタバッタとこらしめるんでさ。

西部開拓、いわゆる「ふろんちあすぴりっと」いうもんがあるようで、要は自分でなんとかしまひょ、ってことなのさ。待っていてもだぁれも助けてくれん。己の力で奪い取れっちゅうことでさ。

おんなじ定食でも、味付けは真逆。

どうですかお客さん。食べ比べてみては?


■ その他

お約束の展開と「極大射程」ってセンスにも首を傾げるも、あんまり期待していないぶん、思ったよりも迫力はありやしたよ。

主人公は敵の的をはずさないのに、敵の雨あられのような弾は主人公に当たらないのもお約束でさ^^;

ちなみに、同じような型でも違う箇所があるんでさ。その違いはこれ。

・使い古された型でも、手を変え品を変えいろんな見せ方に挑戦する。

・使い古された型でも、それが使えなくなるまで使いまわす。

「ザ・シューター/極大射程」は前者で。

後者にはどんな作品が? そりゃ、いわずもがな。


デート     ×
フラっと    ○期待してないぶん拾いもん?
脚本勉強   △定番だからいいもわるいも……。
演出      △
笑い      ×
役者      △
映像      △
ファミリー   ×PG-12
ガンバリ    ○がんばってトライしてる


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06/08/2007

「パイレーツ ワールド・エンド」宝箱は開けないほうがいいの意味


「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」作品レビューで、宝箱は開けないほうがいい、という話をしました。

▼「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」作品レビュー

そのあたりについてもう少し掘り下げてみましょう。


まず「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」を、CGアニメにして宝箱を閉じたままにすれば良かったのでしょうか?

ジョニー・デップという実在の俳優がジャック・スパロウを演じないほうがよかったのでしょうか?


できれば実在の俳優さんではなくCGやアニメーションのほうがいいと思います。

でも、ジョニー・デップ以上にうまくジャック・スパロウを演じれる俳優さんはなかなかいないと思いますヨ。

というか、ジョニー・デップが良過ぎるんですね。キャラクターの魅力を開花させる才能に溢れた俳優さんであるがゆえに、他のキャラクターのみならず、物語自体をも飛び越えちゃうみたいな。

それは俳優さんがいけないのではなくて、脚本家や演出家や監督などがうまく舵取りをしていくべきなのですが「ワールド・エンド」ではジャック・スパロウというキャラクターに「ワル乗り」しちゃったようにおもいます。

まぁ、作ればヒット間違いなしという状況では、多少遊んでもいいかな、ぐらいの感覚でいたのが、いつの間にか観客との距離がどんどん開いて行ったのかな、と推測できます。


いい映画=ヒット作とするならば、ジョニー・デップ出演の実写映画でいいと思います。ただ、キャラクターの脳内世界をあのような形で披露した意味が「ワル乗り」以外に見当たらないのが残念ですが……。

いい映画=心を揺さぶる、感動作とするならば、CGでもアニメでも実写でもなんでもいいとおもいます。ただ、ディズニーリゾートの雰囲気に合うようにするなら、CGやアニメのほうが良いと思います。


ですがディズニーアニメは最近イマイチなようで、アニメだけでなく、積極的に実写映画の製作にも取り組んでいるようです。

「ホーンテッドマンション」(2003年)

「ナショナル・トレジャー」(2004年)

「ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女」(2005年)

それにフジテレビ製作の『南極物語』のリメイク作品「南極物語 EightBelow」なんかも手がけてますね。

おそらくディズニー的にはアニメーションだけでなく、実写でもヒットの実績をガンガン作っていきたい(CGはピクサーの独壇場だし。それにピクサーはもうディズニーだから)その願いが見事に実ったのがパイレーツ・オブ・カリビアンシリーズというわけで、うれしくって☆つい遊び過ぎちゃったのかもしれませんね。


いい作品=感動作ということでは「リロ・アンド・スティッチ Lilo & Stitch」が参考になります。

▼「リロ・アンド・スティッチ Lilo & Stitch」作品レビュー

スティッチは宇宙のならず者・おたずね者です。宇宙の海賊といってもいいですね。

一匹狼。アウトロー。ワルモノ。

でもスティッチは大人気です。私もスティッチのストラップやぬいぐるみならほしいくらいです(笑)。

海賊(ワルモノ)だからダメということはなく、たとえワルモノとされるキャラクターであっても、他のキャラクターとの出会いを通して変化していく、その物語の過程で感情移入してもらえれば、いい作品になるのではないでしょうか。

スティッチはしゃべりません。もちろんスティッチの脳内世界も映像化されません。でも、観客はいつしかスティッチの気持ちが手に取るようにわかるような気がしてくる。

「スティッチの気持ち」という宝箱は、観客がいつの間にか開けている。

制作者側が宝箱を開けてみせるのではなく、観客がいつの間にか宝箱を開けているのがいい。

それが「宝箱は開けないほうがいい」の意味です。


いかがでしたか? 

ジャック・スパロウというキャラクターの人気の秘密は「ダメ親父」じゃないかなと思います。

ハードディスクレコーダーでテレビ番組の予約操作ができない親父。

燃えるゴミと燃えないゴミの区別がつかない親父。

ブロッコリーを買ってきてと頼むと、カリフラワーを買ってくる親父。

休みの日はパチンコ以外にすることがないように見える父親。

そんな頼りないと思えるダメ親父でも、いざ家族旅行となったら渋滞の高速道路で皆が寝ているなか、ひとりハンドルを握りつづけるその後姿に、ふと頼もしさを感じたりもする。

ジャック・スパロウもいつもはラム酒に酔っ払っているようで、剣術はけっこう達者で、ちょいと機転をきかせてウィルターナーとふたりで出港準備を済ませた船をまんまといただいちゃう(第1作より)。

ほんといいかげんで、なにを考えているんだかわからない奴なんだけど、ほんとうはちゃぁんと考えていて、いざとなったら頼もしい。

そんな「愛すべきダメ親父」の片鱗をジャック・スパロウに垣間見た観客は、彼に頼もしさを感じるのです。

ところが第3作では「愛すべきダメ親父」であろうと確信していた観客の期待を裏切り、ただのいきあたりばったりのおかしな奴、というキャラクターにしてしまった。すくなくともそう見えてしまう。

あぁ、なんともったいないことか!

もったいないお化けが出る象(ぱおぉ~ん)←もうヤケクソ^^;

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06/07/2007

レミーのおいしいキャラクター設定

ピクサーの最新作「レミーのおいしいレストラン」の予告編はもう観ましたか?

7月28日公開予定なので、そろそろ予告編のバージョンも増えてきて、いろんな映画館で目にすることも多くなってきたでしょう。

「レミーのおいしいレストラン」の監督はブラッド・バード。「Mr.インクレディブル」や「アイアン・ジャイアント」の監督です。

実は「Mr.インクレディブル」は、すごい風刺作品です。なんの風刺か?

いうまでもなくアメリカ合衆国の風刺です。しかも風刺といわれなければ、そうとは気づかないで、お気楽エンタテイメント作品として観ることでもできます。

「アイアン・ジャイアント」もそうですが、子供向け作品のようでありながら、風刺作品でもある。だから大人が観てもおもしろい。

子供も大人も楽しめる作品を撮る監督、それがブラッド・バードなんですね。

彼は「Mr.インクレディブル」を撮るために外部からピクサーにやってきました。

「Mr.インクレディブル」はピクサーにとって記念すべき作品です。

なぜなら「Mr.インクレディブル」はピクサー初の人間(スーパー・ヒーロー)が主人公の作品だからです。

「Mr.インクレディブル」以前のピクサー作品はモンスターや魚などが主人公でした。

だから「Mr.インクレディブル」はそれまでのピクサー作品とはちょっと雰囲気が違います。アクション描写もどちらかというと過激なほう。上映時間も過去最長です。

そんな監督のことだから「レミーのおいしいレストラン」も、子供向け限定のお料理作品じゃないことは容易に想像できます。


さて「レミーのおいしいレストラン」について、ひとつおもしろいことがわかりました。

それは、ねずみのレミーの設定です。

レミーは食べ物にたいへん興味を持っていて、愛読書は天才シェフ著の「誰でも名シェフ」です。

でも「ねずみ」なんですね。ここまでは皆さんもご存知でしょう。

今回のポイントは、レミーのデザインです。

当初、レミーは二本足で立って歩く設定だった。けれども「ネズミを人間のように描くのは間違い」として設定を変更したそうです。

ディズニーの動物キャラクターの多くは二足歩行です。ミッキやミニーが四つん這いでディズニーリゾート内を動き回っていたらどう?

ちょっとホラーちっくかもしれないですね^^;

だからディズニーのキャラクターの多くは二足歩行。つまり人間のように描かれることが多いんですね。

ところがレミーはちゃんとねずみっぽい動きをする。というかねずみと同じように動きます(予告編を観るかぎりいわゆるねずみの動きをする)。

さすがピクサーの異端児(←勝手に異端児扱い^^;)ブラッド・バード監督。

新しい風を受け入れ、日々おもしいものを作ろうとするピクサーの社風も感じます。

そしてもうひとつ、レミーの設定でおもしろいことがあります。

レミーは人間の言語を理解するけれども、話すことはできません。

これはたいへん興味深いですね。

ねずみがベラベラしゃべったら、ちょっと雰囲気が違ってきます。

まるでドリームワークスの「シュレックシリーズ」みたいになっちゃうでしょう。

しゃべる動物キャラというのも魅力的ですが、観客の心の中で作られるキャラクターというのは、なるべく内面を見せないほうがいいんです。

登場キャラクターが人間の場合は、しゃべらないわけにはいかないので、キャラクターの内語(思っていること。漫画でいうところの点線のフキダシ)やナレーションをなるべく使わずに、観客にキャラクターの心情を想像してもらう工夫をします。

登場キャラクターが動物だけの場合は、人間の言葉をしゃべります。

でも登場キャラクターが人間と動物の両方いる場合は、動物はしゃべらない設定にします。

すると、観客は動物の心情を推測しようとします。

観客が動物キャラクターの心情を想像できるようになれば、愛されるキャラクターの確立となります。

ブラッド・バード監督は、どうしたら観客に受け入れられるキャラクターをつくりあげることができるかを、ちゃんと考えているんですね。

だからレミーは人間の言語を理解するけれども、話すことはできないのです。

このあたりの基本事項をあえて外しているのがドリームワークスのシュレックシリーズですね。

基本事項さえわかっていれば、それを守ろうとも破ろうとも、意図的にできるわけです。

なんとなく動物キャラがしゃべるとか、なんとなく動物だからしゃべらないとか、そういうことではダメなんですね。

ちゃぁんとわかっててやってる。それが大事です。

▼「Mr.インクレディブル(THE INCREDIBLES)」作品レビュー


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06/05/2007

映画「しゃべれども しゃべれども」

監督:平山秀幸
日本/2007年/109分
原作:佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』

1年に1度でいい。とにかく観てほしい。ただひと言、そういえる作品に出会いたい。今がまさにそのときだ。なんとかしたいと願い、その方向を模索すると見えてくることがある。葛藤こそが物語に深みを与え、葛藤こそが人を成長させる。水上バスのシーンに集約させるその物語構成や演出に注目だ。

ストーリー(概要)
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いまひとつ腕が上がらない二つ目の落語家・今昔亭三つ葉。
彼に話し方や落語を習いたいという3人が現われる。ひとりは無愛想で口下手な美人。ひとりは、大阪からやってきた関西弁の小学男児。そしてもうひとりは下手な解説で有名なプロ野球解説者。
こうしてはじめた教室もうまくいかず、密かに想いを寄せる相手にはフラレ、落語の腕も上がらない三つ葉だったが、そんな折、一門会で「火焔太鼓」をすることになった。
教室の生徒・十河と村林は「まんじゅうこわい」の発表会をすることになった。


主な登場人物の紹介
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△今昔亭三つ葉(外山達也)
二つ目の落語家。 

▽十河五月
無愛想で口下手。

△村林優
男児。小学生。
大阪から引っ越してきた、クラスに馴染めないでいる関西弁の男の子。

△湯河原太一
いかつい面相で毒舌の元プロ野球選手。プロ野球解説者。
野球解説が下手。

△今昔亭小三文
落語家。三つ葉の師匠


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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1年に1度でいい。とにかく観てほしい。ただひと言、そういえる作品に出会いたい。今がまさにそのときだ。なんとかしたいと願い、その方向を模索すると見えてくることがある。葛藤こそが物語に深みを与え、葛藤こそが人を成長させる。水上バスのシーンに集約させるその物語構成や演出に注目だ。

■ 切実な一歩

あの人はなんであんなに上手に話ができるのだろう。

すぐに誰とでも話せて、仲良くなって、みんなの人気者になれるあの人。

自分はしゃべれどもしゃべれども気持ちや想いは相手に届かない。

そんなことを一度でも感じたことがある人なら、きっと心に響くだろう。


「みんな、
 なんとかしたいって思ってる
 今のままじゃ、だめだから」
「しゃべれども しゃべれども」公式サイトより引用

 
「ありのままの自分でいよう」「自然体がいちばん」

そんなコピーが巷に氾濫している。それも一理アリだが、ほんとうは「なんとかしたい。今のままじゃ、だめだから」と思っている。なんとかしたいんだけど、どうしたらいいかわらない。そんなことを考えるのもしんどいなぁと心のどこかで思っている。そんなときに「ありのままの自分でいよう」なんてコピーを読むと、なんだか楽になる。それが一時の誤魔化しにすぎない安易なコピーだとわかっていてもだ。

でも、ほんとうはなんとかしたい。

そんな思いはだれにでもあるだろう。安楽なコピーに身をゆだね、ほんとうはなんとかしたいと思いながらも、一歩踏み出せないままでいる。そんな人がほんどだ。もちろん私も含めて。

だが十河は一歩踏み出した。


■ 気持ちがわかる人に教わりたい

十河はなんとかしたいと思っている。だからカルチャースクールの「話し方教室」に参加した。しかし落語家の小三文の話の途中で教室を出てしまう。

人を馬鹿にしている。

そう感じたからだという。

弟子の三つ葉に言わせれば、師匠の小三文はいつもああいう話し方で、それは相手がどんなに偉い人であっても同じだという。

十河は話し方がうまい人の話を聞きたいのではなく、自分と同じ悩みを持った人がいかにして上手に話せるようになったのかを知りたい。だから、話がとても上手い小三文は自分とは違う世界の住人であるかのように感じて教室を後にした。

これは、映画をはじめとするあらゆる作品にも当てはまる。

どんなにすごい能力を持ったキャラクターがいても、それだけではヒーローにはなれない。

自分(観客)と同じだと思える部分がなくては、そのキャラクターを応援することはできない。だからヒーローは必ず「弱さ」を持っている。

三つ葉は、客席の最前列の真ん中に十河が座っているの見た瞬間、まくら(噺の本題に入るまえの時事ネタや関連した話などのこと)を飛ばしてしまい、うまく噺ができない。まさか十河が来ているとは思っていなかったからだ。

出番が終わった後、三つ葉は十河から、話し方や落語を教えてほしい、と頼まれる。

二つ目とはいえ一人前の噺家である三つ葉も、うまく噺ができない。そんな姿に十河は自分の「痛み」や「弱さ」をこの人なら理解してくれるんじゃないかと思ったのだろう。


■ その人に合った道がある

元プロ野球選手の湯河原は、プロ野球の解説者をしている。しかし、その解説下手ぶりは有名だ。ほんとうはスラスラと毒舌でしゃべるのだが、まさかプロ野球解説でそれをやるわけにはいかず、野球専門用語を使ってそれらしく解説すればいいとわかっていても、性に合わずに、自分の考えていることをどう伝えればいいか考えているうちに「あー、えーとですね、それはですねー」といったようなまどろっこしい解説しかできないでいる。

解説の仕事がないときは、親戚の飲食店を手伝って、無愛想ながらも慣れない接客もしている。

彼もなんとかしたいという願いを持って三つ葉の教室にやってきた。

十河や村林が「まんじゅうこわい」を覚えて発表会をすることになり、その成り行きを見てきた湯河原もプロ野球解説が上手くなるかというと、そうではない。

それがいい。

なんとかしたいと願い、その方向を模索すると見えてくることがある。なんとかしたいのであって、話が上手くなることはそのうちのひとつの結果である。

結果的に湯河原はプロ野球解説はうまくはならない。でも、三つ葉や十河や村林と交流することで、なんとかした(なんとかしようという道をみつけた)のだ。


■ 一次的な障害(オブスタクル)が解決しないのがいい

大阪から引っ越してきた関西弁の村林は、クラスに馴染めないでいる。クラスメイトとの野球対決で勝つために湯河原にバッティングの特訓をしてもらうのだが、結果は願いどおりにはならない。

村林の野球対決にしても、湯河原のプロ野球解説にしても、一次的な障害(オブスタクル〈物語構成上の用語〉)は解消されない。

それがいい。

一次的な障害(オブスタクル)がなかなか解消されないのは、私たちの日常にもよくあることだ。日々の事柄がうまくいかない。がんばってもがんばっても、どうにもならない。

でも、自分が真っ先になんとかしたい障害を解消することが、真の葛藤や問題を解消することにつながるとはかぎらない。

違う方法を行うことや、違う道に一歩踏み出すことが真の葛藤や問題を解消することにつながることもある。

それを教えてくるのは村林の野球対決であり、湯河原のプロ野球解説なのだ。

ちなみに、村林の野球対決のシーンがないのがとてもいい。肝心だと思われるシーンを撮るのではなく、その「事後」を撮るほうが、イメージが浮かびやすく、作品が間延びせずにメリハリを出せるからだ。


■ 葛藤を抱えている

三つ葉にしろ十河にしろ村林にしろ湯河原にしろ、皆がインターナル・コンフリクツ(Internal Conflicts)(内的葛藤。矛盾または未解決な問題)を抱えている。

そんなキャラクターたちが、落語を通して交流することで、見事なキャラクター・アーク(Character Arc)(ストーリーの中でのキャラクターの経験を通して起こる、キャラクターの性格や価値観の変化)を魅せてくれる。


■ 水上バスのシーンがスゴい理由

小三文家は佃にある。三つ葉はよく上野の鈴本演芸場や浅草演芸場へは隅田川を運航する水上バスを使っているようだ。船の上でひとりつぶやくように落語の練習をしながら、ながれゆく町を眺める三つ葉であった。

さて、作品のラストに水上バスの展望デッキにいる三つ葉のもとへ、十河がやってくるシーンがある。

私は浅草~日の出桟橋ライン(東京観光汽船)の水上バスに乗ったことがある。作品で使われているのは、越中島発着場のシーンがあったので東京水辺ラインの水上バスだ。とにもかくにも、隅田川にはいくつもの橋がかかっていて、水上バスの展望デッキに出て、おもいっきり手を伸ばせば橋に手が届きそうだ。もしかしたら頭が当たりそうな気もする橋もある。それがなかなか楽しい。

作品において、そんな橋の下を通り過ぎる瞬間には、太陽の光が遮られて水上バスの展望デッキへ出る階段付近がになる。その時である。

フッと十河が現われ、階段をあがってくる。展望デッキへ出たときには水上バスは橋の下を通り過ぎて、再び太陽の光がパッと十河を照らす。

それはまるで、なんとかしたいと思いつつもどうしていいかわからなかった日陰から、スッと日向へ出ることができた十河の心情を表しているかのようだ。

十河は無愛想で口下手な美人という設定なので、作品中ではほとんど笑顔を見せない。しかし、この水上バスのシーンで十河は笑顔をみせる。これには鳥肌が立った。この笑顔を最大限活かした、抑えつつも見事な物語づくりには、ただただ上手いとしたいいようがない。

ちなみに十河の笑顔には、それを予感・期待させるシーンがある。三つ葉と出会って間もないころに、浴衣にまつまるシーンでふと、はにかんだような笑顔を一瞬だけみせている。

観客は、普段は無愛想で怒っているかのように見える十河の笑顔をもっと見てみたいと無意識のうちに思ってしまう。そんな仕掛けが施されている。これを勝手に名づけるなら「期待のペイオフ(Pay off 初めに提供されて後に劇的に使われる情報)」としておこう。

ちなみにラストに登場する東京水辺ラインの水上バスの名前は「あじさい」。十河五月の五月から、一足先の6月のアジサイの季節へと水上バスの「あじさい」に乗って進んでいく。これも、一歩踏み出したことを表しているのかもしれない。


■ 違和感を作り出す視線

ラストの水上バスのシーンが印象的であるのには、もうひとつ仕掛けがある。それは視線だ。

十河は話すときに相手と視線を合わせない。少し視線をずらして話す。口下手だと自覚しているため、どうしても目を合わせてしゃべることが苦手なのだ。

それを強調するかのように、十河がしゃべるシーンではカメラは彼女をほぼ正面から捉える。十河はこちら(カメラ)に向かってしゃべっているが視線を横に逸らすので、なんともいえない違和感がある。

そうしたシーンを続けてきたからこそ、ラストの水上バスのシーンでの三つ葉に向かってまっすぐに伝えようとする十河の姿に心を動かされるのだ。


■ 落語

落語についてくわしいことはわからないが、古典落語の噺の定番はいくつもあって、それを噺家がライブと同じようにその場の客と空気に合わせてその都度に、ただひとつしかないバージョンで披露する。だから聞くたびにおもしろいという。

私は新宿の末広亭に行ったことがある。落語というものを初めて生(ナマ)で見たわけだが、午後に聞きはじめて、末広亭を出るときには既に外は暗くなっていた。

iPodをはじめとする携帯音楽プレーヤーが人気だが、そういった機器のイヤホンを耳にしている若者すべてがヒップホップやロックなどの音楽を聴いているとはかぎらない。

実はけっこうな割合で落語を聴いている者はいるんじゃないかと思う。そういえば映画「GO」の主人公の青年も、ウォークマンかなにかで落語を聴いていた。

落語のテンポと間を音楽を聴くかのように楽しむ。何度も聴くうちに耳で覚え、ふとしたときに口ずさむ。

辛いときや悲しいときに、ふと口ずさむ落語。体がそれを覚えているかのように次から次からに口から出る落語。そんな落語がひとつでもあれば、人生もまんざらわるいもんじゃない、と思えそうだ。

私は中学校の国語(古文)の時間に暗唱させられた平家物語、那須与一の「扇の的」の一節をたまに口ずさむことがある。また詩篇23編をはじめとする聖書の有名な聖句もけっこう覚えている。

落語でも平家物語でも聖句でも、慣れ親しんだものというのは、それだけ皆に愛されてきたものだ。

たとえば古典落語の数はどのくらいあるかわからないが、それらをすべて知って暗唱できたとしても、噺家によっても、話す場所や客層によっても、ひとつとして同じバージョンは存在しない。

噺家の数だけ、聞く人の数だけ、物語は存在する。

いろんな人生があると人はいう。けれど、一見すると他の人と同じような、たいして見栄えもしないありきたりな人生を送る人がほとんどだろう。

――がしかし、たとえパッと見は同じに思えても、人の数だけバージョンが違う人生がある。そのひとつひとつがかけがえのない最高の噺である。

アナタの噺はアナタにしかできない。

湯河原が、好きなことから逃げたら一生後悔する、といった意味のことを言うシーンがある。

好きな事(例:野球)とは、野球解説者としてはうまく付き合えないかもしれない。でも、好きな事(野球)から逃げたら一生後悔する。だからなんとか解説をうまくできるようになれないかと湯河原は三つ葉の教室を訪れる。

その一歩を踏み出したことで、湯河原は好きな事(野球)とどのように付き合うことにしたのか。それはぜひ作品を観てたしかめてほしい。


■ その他

1年に1度でいい。

とにかく観てほしい。ただひと言、そう言える作品に出会えたらいい。

そんな作品に出会えました。


「書けども 書けども どんなにいい作品かを伝えられず

 書けども 書けども 作品への想いを伝えられず」


そんな、ふがいない思いをしつつも、また書きつづけようと思わせてくれた「しゃべれども しゃべれども」に、感謝です。


デート     ◎
フラっと    ◎
脚本勉強   ◎
演出      ◎
笑い      ◎
役者      ◎
映像      ◎
ファミリー    ◎
題材      ◎


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