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05/30/2007

映画「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド (PIRATES OF THE CARIBBEAN: AT WORLD'S END)」

監督:ゴア・ヴァービンスキー
アメリカ/2007年/170分

略奪の海賊を地でいく? 店には行列。ムードを盛り上げる音楽と内装と照明。最高の食材の味付けに、最上のひとときを期待した客のフォークを持つ手が止まった……。舞台装置や演出音楽という名のキャラクターの、予期せぬ「ひとり走り」に「ひとり遊び走り」で便乗した作り手に、観客は楽しみと大事な人とのひとときを奪略された!? これぞまさに略奪海賊の登場ナリ~。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
エリザベス・スワンとウィル・ターナーはキャプテン・バルボッサと手を組んで、キャプテン・ジャック・スパロウの救出へ向かう。
その頃、東インド会社のベケット卿がデイヴィ・ジョーンズを操り、海賊たちは滅亡の危機に瀕していた。
そこで、召集された9人の海賊たちの船団は、東インド会社ベケット卿の船団との決戦に挑むのだった。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△キャプテン・ジャック・スパロウ
海賊
 
▽エリザベス・スワン
総督の令嬢

△ウィル・ターナー
鍛冶職人

△キャプテン・バルボッサ
海賊

△デイヴィ・ジョーンズ
海底の悪霊

△ベケット卿
東インド貿易会社の権力者

▽ティア・ダルマ
ヴードゥ教の予言者


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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略奪の海賊を地でいく? 店には行列。ムードを盛り上げる音楽と内装と照明。最高の食材の味付けに、最上のひとときを期待した客のフォークを持つ手が止まった……。舞台装置や演出音楽という名のキャラクターの、予期せぬ「ひとり走り」に「ひとり遊び走り」で便乗した作り手に、観客は楽しみと大事な人とのひとときを奪略された!? これぞまさに略奪海賊の登場ナリ~。

■ 得体が知れないからいいのだが……

ジャック・スパロウの魅力は、本気なのか冗談なのかラム酒に酔っているのかわからない言動にある。

いつも適当なことを言っているようで、実はすべて計算され尽くされているのか?

そんなことを思わせる、ミステリアスなひょうきん者。それがジャック・スパロウの魅力だ。

彼の頭の中をいろいろと想像してみる。それが楽しい。そんな極上キャラクターを作ろうと思っても、なかなか作れるものではない。

そもそもパイレーツ・オブ・カリビアンシリーズは、第1作目からいきなり極上キャラクターを作り上げてしまった。

もしも、意図してそのような極上キャラクターを丹念に作り上げたのだとしたら、ジャック・スパロウの魅力を台無しにしかねない、あのようなシーンは作らないだろう。


■「宝箱は開けない」がいい

もしも鍵が外れた宝箱の蓋が開いていたらどうだろう? 

中身を確認して、それで終わりだ。

宝箱は、開けないことに意義がある。

宝箱には細かい装飾が施され、厳重な鍵穴や暗号めいたダイヤル式の鍵が付いていればなお良い。

第1作でジャック・スパロウという宝箱を登場させ、第2作で装飾を施した。そして第3作の初登場シーンでいきなり宝箱の蓋を開けてしまった!


■ ジャック・スパロウの脳内視点

宝箱の蓋を開けたとはどういうことか?

それは、ジャック・スパロウの脳内世界を披露したことを意味する。

しかも、その披露の仕方がブっとんでいる。

何を考えているのかさっぱりわからないのが魅力のキャラクターだったジャック・スパロウの内側を「直接」に見せてしまったのだから。

それまで、ジャック・スパロウの言動は他の登場キャラクターと接している様子を通して描かれてきた。ジャック・スパロウと観客の間に「ひとクッション」を挟んでいたのだ。

ジャック・スパロウとその他の登場キャラクターのやりとりを観るという、第3者の視点に観客がいたわけだ。

ところが第3作でのジャック・スパロウの初登場シーンでは、クッションは挟まれない。他の登場人物はいない。いきなりジャック・スパロウと観客の二人っきりだ(観客は大勢いるけどね)。

ジャック・スパロウは観客とからむわけにいかないので、自分と話す。脳内世界をお披露目というわけだ。

パイレーツ・オブ・カリビアンシリーズ最大の宝箱は、いうまでもないがジャック・スパロウだ。繰り返しになるが、宝箱は最後まで開けないことに意義がある。

特に、得体の知れなさが魅力のキャラクターが宝箱である場合、開ける瞬間こそが最大の重要ポイントだ。

それにもかかわらず、第3作での初登場シーンでいきなり脳内世界を披露(宝箱を開けて)してしまったのだ。


■ 自然に想像できればそれだけでOK

「語るより見せろ」が基本の映像において、脳内世界を披露するにはそれなりの意義が必要だ。

「びっくりしたぁ~」とセリフで言わせずに、いかにしてアクションで驚いた様子を伝えるか。それに苦慮するのが映像作品の醍醐味なのだから、ジャック・スパロウの頭の中を映像化するのではなく、頭の中をイメージしやすいアクションを撮るべきなのだ。

「こんなとき、ジャック・スパロウならこう思ってこう反応するだろうな」と観客が自然と想像できてしまう。それだけで十分だ。

頭の中を披露するには物語構築上の仕掛け(意味・意義)が必要だ。たとえば映画「エターナル・サンシャイン(ETERNAL SUNSHINE OF THE SPOTLESS MIND)」のように。


■ 略奪の海賊!?

ジャック・スパロウというキャラクターは、計画的に丹念に作り上げたのではなく、ジョニー・デップの俳優としての魅力によって、制作者の予想をはるかに超えて「ひとり歩き」ならぬ「ひとり走り」した。

その走りに、制作者が「ひとり遊び走り」というかたちで便乗してしまった。観客は楽しみを奪われ、あとは長時間、椅子に座り続けるしかない。


■ ディズニーリゾートの主役は

ディズニーリゾートの主役はだれか?

ねずみ男? ねずみ女?

いえいえ、主役はアナタだ。

ディズニーリゾートに遊びに行く場合を考えてみよう。家族であれ恋人であれ友人であれ、一緒に行く人との時間を楽しいものとしたい。だからディズニーリゾートに行くのではないだろうか。

ディズニーのキャラクターたちや物語の世界観は、そのためのお膳立てにすぎない。


■ 生じたズレ

パイレーツ・オブ・カリビアンシリーズは、ディズニーランドの乗り物「カリブの海賊」を元に作られた。

そもそもディズニーランドのアトラクションの多くは、作品を元にアトラクションが作られている。

たとえばディズニー映画『トイ・ストーリー』の"バズ・ライトイヤー"が活躍するアトラクションに「バズ・ライトイヤーのアストロブラスター」がある。

ところがパイレーツ・オブ・カリビアンシリーズは、アトラクション「カリブの海賊」を元にして作られた映画作品なのだ。

ディズニーランドのアトラクションの役割と目的は、ディズニーランドを訪れた客(ゲストと呼ばれる)のための舞台装置や演出音楽に徹することにある。

だからパイレーツ・オブ・カリビアンシリーズの本来の役割と目的もこれと同じである。

ディズニー作品にはもちろん主人公が登場する。だがそれは物語上の仮の主人公だ。ほんとうの主人公は観客である。

それにもかかわらず、ジャック・スパロウを演じたのが実在の俳優ジョニー・デップであるため、主人公が夢の世界を飛び出して「ひとり走り」した。

ここにズレが生じた。

主役のためにあるはずの舞台装置や演出音楽が、あたかも本当の主役であるかのように振る舞いはじめたのだ。


■ 楽しみ方

では約3時間近い第3作をどう楽しめばいいのか?

ひとつ楽しみ方をご紹介しよう。

それは、ジャックはジャックでも、猿のジャックの冒険物語として観るというものだ。彼(彼女?)は要所で必ずといっていいほど登場して、観客にヒントを与えたり、突破口を開く活躍をしたりしている。

また、鍵をくわえた犬にも注目だ。おまえはいったい何者? いや何犬? と思わずツッコんでしまうだろう。


■ その他

というわけで、パイレーツ・オブ・カリビアンシリーズは第1作がいちばんおもしろい。

デートで第3作を観るくらいなら、ディズニーリゾートに行ったほうがいいゾ。

とはいえ人気シリーズの第3作なので、暇なときに携帯用座布団を持って気軽に観に行くといいだろう。

ディズニーランドの「カリブの海賊たち」の雰囲気に忠実なので、雰囲気を楽しむつもりで観にいけば期待どおりのものを得られるはずだ。

「宝箱は開けないほうがいい」の意味について、さらにわかりやすい記事はこちら

パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち(PIRATES OF THE CARIBBEAN)」作品レビュー

パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト(PIRATES OF THE CARIBBEAN/DEAD MAN'S CHEST)作品レビュー

デート     ×ディズニーリゾートに行ったほうがいいよ
フラっと    ×おさらいしてから観よう
脚本勉強   ×メリハリ考えよう
演出      △
笑い      ×空回り
役者      △ジョニー・デップやキーラ・ナイトレイ好きなら
映像      ○ディズニーランドの雰囲気に忠実
ファミリー   ×もぉおうちかえりたいよぉパパぁ


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05/25/2007

映画「リーピング(THE REAPING)」

監督:スティーヴン・ホプキンス
アメリカ/2007年/100分

「出エジプト記十の災い」の知識が必須の「信仰の物語」。作品の作り方としては素直。イスラエルの「過ぎ越しの祭り」の由来を知っている人はスグに観に行っても大丈夫。「いなご少女現る」って強烈コピーがたまらない(笑)。イナゴ大量発生シーンは迫力満点だ!

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
超常現象を科学的に解明する大学教授キャサリンのもとに、ある日依頼がくる。それは、ルイジアナの奥深くの小さな町ヘイブンで起こる不可解な事件を調査してほしいというものだった。
ヘイブンの町では、ひとりの男の子が死に、川の水が赤色に変わったという。
調査をはじめたキャサリンは、町の人々に忌み嫌われている少女ローレンに出会う。
町では出エジプト記の十の災いにそっくりな現象が次々に起こりはじめていた。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
▽キャサリン・ウィンター
大学教授。元聖職者。
 
△ダグ・ブラックウェル
ヘイブンの教師。

△ベン
キャサリンの仕事上のパートナー

▽ローレン
少女。ヘイブンの町に災いをもたらしたとして、町の人々に忌み嫌われている。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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「出エジプト記十の災い」の知識が必須の「信仰の物語」。作品の作り方としては素直。イスラエルの「過ぎ越しの祭り」の由来を知っている人はスグに観に行っても大丈夫。「いなご少女現る」って強烈コピーがたまらない(笑)。イナゴ大量発生シーンは迫力満点だ!

■ だれがエジプトを出るのか

出エジプト記の十の災いってなに? という人は頭に「?」マークばかりが浮かんでしまうと思いますので、まずは出エジプトの経緯を簡略に説明しますね。

まずは「出エジプト」。だれがエジプトを出るのかというと、イスラエルの民がエジプトを出るときのお話だから「出エジプト記」なのですね。エジプトを出てどこへいくのか、約束の地「カナン」へいくのです。

その前に、なぜイスラエルの民がエジプトにいるのかを簡単に説明しましょう。

アブラハム→イサク→ヤコブの子であるヨセフは、兄たちの怒りにふれ、商人の一隊に銀二十枚で売られてしまいます。

ちなみにこのシーンは映画「グラディエーター」で主人公マキシマスが商人隊に連れられて砂漠を進むシーンに象徴的に用いられていますね。

商人隊はエジプトへ行き、そこでヨセフは奴隷として売られます。
奴隷となったヨセフは、やがて王の夢(7年間豊作が続き、次の7年間は飢饉が続く)を解き明かします。これによってヨセフはエジプトの総理大臣になります。

夢のとおりに7年間豊作が続き、次の7年間は飢饉がつづきます。でもヨセフが王の夢を解き明かしたことによって食糧をたくさん蓄えていたエジプトには、近隣からみんなが食糧を買いにきました。

そこでヨセフを頼って、ヤコブとその息子たちの家族がやってきてエジプトのゴセンに住みつきます。

ちなみに、その過程でヨセフはかつて自分を商人隊に売った兄たちと再会するわけです。何十年もたっているわけですから兄たちはエジプトの総理大臣がまさか自分の弟だとは夢にも思わないから気づかないんです。

そこでヨセフはしばらく正体を明かさずに、兄たちの様子をみるんですね。やがて正体を明かしたヨセフは、兄たちと和解する。ここにも「赦し」が表れています。「スパイダーマン」「ゲゲゲの鬼太郎」が赦しの物語だというのはもう皆さんご存知だと思いますが、そういった「赦し」のテーマヨセフの物語にしっかりとあるのですね。


■ 葦で編んだかごに入った赤ん坊

さて、ヤコブの一族がエジプトに住み始んでから何百年もたつと、イスラエルの民は増え続け、エジプトでとてつもない数になりました。これに脅威を感じたエジプト王は、イスラエルの民を奴隷として酷使します。そして、イスラエル人に生まれる男の子はすべてナイル川に投げ込めという法律を作ります。

そんなとき生まれたイスラエル人の男の赤ちゃんは、葦で編んだかごに入れられ、川に水浴びにやってきたエジプト王の娘のひとりに取り上げられます。

こうしてなんとか命拾いした赤ん坊は、イスラエルの王子として育てられます。彼はモーセと名づけられました。

青年となったモーセがある日、馬車に乗って出かけると、ひとりのエジプト人がイスラエル人の奴隷を打ち倒すのを見て、そのエジプト人を殺します。


■ 燃えているのになくならない柴

それがきっかけで砂漠に逃れたモーセの目の前で、柴が燃えはじめます。ところが火は燃えているのに、いっこうに柴はなくなりません。そのとき火のなかから神の声がきこえ、イスラエルの民をエジプトから導き出し、アブラハムの子孫に与えると約束した地に連れて行くよう言われました。


■ 出エジプト記の十の災い

モーセがエジプトの王に話をしにいくと、王はさらにイスラエルの民に重労働を課します。事態はますます悪くなる一方です。そこで神はイスラエルの民を救うためにエジプトに災いを起こしました。

(1)ナイル川を血に変える

(2)蛙の大量発生

(3)ふよの大量発生

(4)あぶの大量発生

(5)疫病の発生

(6)腫れ物

(7)雷の発生とひょうを降らせる

(8)イナゴの大量発生

(9)三日間、闇が包み込む

(10)長子の皆殺し


■ 聖書との相違点と類似点

ヘイブンの町でも出エジプト記の十の災いと同じ現象が順番どうりに次々と起こります。

唯一違うのは(10)の長男の皆殺しですね。

聖書では長男だけですが「リーピング」では長男だけでなく長女も殺されます。

また、聖書では死の天使がエジプト中を通り、すべての家の長男が死にますが、「リーピング」では天使の役割を持った登場人物がキーになりつつも、直接的には天から降る火によって長男長女たちが焼き尽くされます。

天から降る火は、おそらく「ソドム」と「ゴモラ」に、硫黄と火が雨のように降ったのを意識してのことでしょう。

ちなみにソドムとゴモラのイメージは、映画「バットマン ビギンズ(BATMAN BEGINS)」にもみることができます。聖書にはソドムとゴモラが硫黄と火によって滅ぼされたあとには「地の煙が、かまどの煙のように立ちのぼっていた」(創世記19章28節)とあります。ゴッサムシティのいたるところから垂直に高く噴き出す水蒸気の様子はこれを真似たものでしょう。

また「バットマン ビギンズ(BATMAN BEGINS)」での腐敗したゴッサムシティには幾人かの正しい者がいます。レイチェル・ドッドソンやジム・ゴードン、それに旧市街の子供たちなどです。彼らは、ソドムにいた良き人・ロトの家族を象徴しています。

さらにちなみにソドムとゴモラは映画「ヴィレッジ(THE VILLAGE)」においても、都市と農村の対比でキリスト教文化圏で生まれ育った人にはイメージされやすいものとなっています。


■ 過ぎ越しの祭りの由来

出エジプト記では(10)番目の災いから逃れる術があります。それは、家畜の中から健康なよい子羊か山羊を選び、それを殺してその血を家のかもいと柱にぬることです。

かもいと柱につけた血は、神に忠実であることしるしなので、死の天使が血のしるしがある家は過ぎ越してくださるのです。

こうしてイスラエルの民は10番目の災いの夜に神に守られたことを思い起こす祭りを行うのです。これがイスラエルの「過ぎ越しの祭り」です。

映画「ヴィレッジ(THE VILLAGE)」には、家の扉に赤いマークをつけておくと、口に出してはならない存在(Those We Don't SpeakOf)である、村を取り囲む森に住む「彼ら」が過ぎ越してくれるという設定があります。これはもちろん出エジプトの十の災いの10番目そのまんまですね。


■ 「いなご少女現る」って!

だれがつけたキャッチコピーか知りませんが……すんごいです。

タカはこのコピーを読んだだけで、観ようと決めました!

出エジプトの十の災いを題材にしているのを知ったのは、その後です。

そのぐらいヤバい(いい意味で)コピーですネ。

イナゴの大群のシーンは圧巻です。映像技術もこうして使われると本望(?)なのではないでしょうか。


■ その他

作品としていい線いってるようですが、出エジプトの十の災いをほとんど知らない人には、恐怖の意味が不明なため、頭に「?」が浮かぶでしょう。

私は小さな頃から何度も出エジプトの十の災いの話を聞いていたので、映画とはいえ災いが映像化されていることに、なんだかゾッとしました。

十の災いを知っている人は、災いの意味を知っているわけですから、物語のオチはなんとなく予想が付きやすいでしょう。そういったところでは予想どおりというかんじですが、ワッ! とびっくりさせる細かな演出はさすが職人技というかんじでマル印です。


デート      ×抱きつくのを期待するならアリかも
フラっと     ×聖書の知識が必要
脚本勉強    △けっこう素直なオチ
演出       ○驚かせる職人技アリ
笑い       ×だけど「いなご少女」には座布団十枚!
役者       ○スワンクってやっぱり味がある
映像       ◎これぞ特殊映像技術の本領発揮!
キリスト教文化 ◎十の災いの知識が必要  
ファミリー     ×おとん、イナゴってうまいんかぁ?
キャッチフレーズ ◎「いなご少女現る」ってスゴっ!


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05/23/2007

映画「バベル(BABEL)」

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
アメリカ/2006年/143分

やるせなくも心の琴線に触れる物語。言葉だけがすれ違いの要因ではない。こういうのもたまには観ようネ。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
モロッコを旅行中のアメリカ人夫婦の妻が、バスで移動中に銃撃を受けて負傷する。
アメリカ人夫婦に雇われていた子守の女性は、自分の代わりの子守が見つからないので仕方なく、子供たちを連れて息子の結婚式に出席するためメキシコへ入る。
日本の東京では、聾唖(ろうあ)の女子高生が孤独な日々を過ごしていた。彼女の父親がかつて所有していたライフルがモロッコで事件に関わったことがわかる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△リチャード
 男性。アメリカ人
 
▽スーザン
 女性。アメリカ人。リチャードの妻。

△サンチャゴ
 男性。メキシコ人。

△ヤスジロー
 男性。日本人。

▽チエコ
 女子高生。日本人。

▽アメリア
 女性。リチャード夫婦の子守。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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やるせなくも心の琴線に触れる物語。言葉だけがすれ違いの要因ではない。こういうのもたまには観ようネ。

■ 心の琴線に触れる

映画はひとときの夢を売る商売というなら、たいていの作品はなにかを忘れさせるものを題材にする。

映画館の客席に座っているときは、日常から抜け出した夢の世界にいたい。だから映画館だけではなく、ディズニーリゾートは大流行なのだ。

「バベル」はこの逆だ。

物語の登場人物たちの身に起こることは、どこまでもすれ違いで、どこまでも思い通りにはいかない。どんどん悪いほうへ転がっていく(一部心の通いはある)。

ぶっちゃけ、映画で夢のようなひと時を! と願っている人には、うってつけだ。だだし、映画で悪夢のようなひとときを! であるが……(>_<)

そんな作品、だれも観たくはないと思うだろう。

だが、どうしてこの作品はこんなに胸を打つのだろう。

それは、アナタの心の琴線に触れるものがあるからだ。

琴線に触れるとは、ここでも出たぞの「共感」を表している。


■ 一丸の意味

一丸となってがんばろう!

そんな言葉はきかれなくってもぅどれくらい経つだろう。

一丸に価値が置かれるのは、普段は個々がバラバラだからだ。バラバラだからこそ、共通の目的のもとではひとつになれるというわけだ。

ところが日本の多くの場所では、まだこの逆だと考えている部分があるようだ。

元はひとつ。いまはバラバラ。だから一丸となろう! というわけである。

ほんとうは、元はバラバラ、だからこのときばかりは一丸となろうといったところ。それは運動クラブやクラスの男子は全員丸坊主にしようという笑い話にもならない意味でのことではなく、目的のためには力をあわせようという意味だ。

とはいえ、聖書によると人類の言葉は、はじめはひとつで、あるとき神に近づこうと高い塔を建てはじめた人間に、神様が怒って人々の言葉をバラバラにしたとある。

だからバベルの塔以後、人類はその罪深さゆえに言葉が通じなくなったのだ。


■ 言葉だけがすれちがいの原因ではない

アメリカ人夫婦の妻スーザンが撃たれ、バスは近くの村に寄った。そのとき、同じバスに乗っていたアメリカ人らしき人々は、一刻も早くその場を離れたいと願った。

夫・リチャードは英語が通じる相手と口論になる。「俺たちをを置いていくな!」「いやもう限界だ! 俺たちまで危険になるからバスでこの場をいますぐに発つ」といったふうに。

言葉が通じない村のお婆さんは、スーザンを看病する。言葉は通じる通訳の青年は、リチャードに何を言われようと、できるかぎりの助けの手をさしのべる。

日本人の女子高生チエコは、仲のいい友人はいるものの、母は亡くなり、父親ともうまくいっていない。心にはぽっかりと穴があいたようになっており、聾唖のため、せっかくいい雰囲気になりかけたお気に入りの男の子には、とましいものを見るかのような目で見られる。同じ言語を使う者同士でありながら、どこまでもすれちがいが続く。


■ アメリカ人にって最恐のもの

アメリカ人にとって最恐のものは、すでにサム・ライミがみつけて作品をプロデュースしている、ハリウッド版「THE JUON/呪怨」を観ればそれは明らかだ。

つまり、右も左もわからない知らない土地で言葉も通じない、助かる方法がみつからない、そんな状況をなによりも恐れる傾向が顕著なのが、アメリカ人というのだ。

どんな外国映画であれ、英語(米語)でリメイクしてしたり、地球の隅々までどの国や地域へ行っても英語が通じると信じて英語でどこでも話しかけて英語が通じないと、シンジラレナ~イ! という顔をしたりと、世界のこまったちゃんたち、それがアメリカ人のステレオタイプだといってもいいだろう。

世界はアメリカの正義で貫かれるべきだと本気で信じている人はほとんどいないだろうが、建前としてそれは掲げておかなくてはならない。そうしないとまとまらないからだ。

だから、モロッコで撃たれ、いつまでも助けがこない状況というのは、考えたくもない最恐の事態なのだ。


■ その他

劇中の音楽が悲しさを一層かもし出している。タカは音楽がないほうがいいと思うが、雰囲気を出すには音楽は有効だ。

日本の女子高生チエコが住むのは、東京の高層マンションの最上階だ。バベルの塔の頂上を意識しての設定かな。
こういった作品はたいへん貴重なので、観るのは辛いかもしれないが、きっと心のどこかに触れるところがあるはずなので、たまにはこういう作品も観るのもいいでしょう。

観客が数人、気分が悪くなったというディスコ、いやクラブのシーンの映像は、印象に残るシーンです。

ただ、たしかに光のチカチカはすごい。でもそれがチエコの視点と心情をよく表している見どころでもあります。

デート     △ 
フラっと    △ 
脚本勉強   ○ 
演出      ○ 
笑い      × 
役者      ○ やはり菊池凛子は際立っていた。
力づよさ    ◎
貴重      ◎
やるせなさ   ◎


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05/13/2007

映画「ゲゲゲの鬼太郎」

監督:本木克英
日本/2007年/103分
原作:水木しげる

ありえねぇ~」で読み解くヒーロー・鬼太郎。「反復讐系」「共存系」はスパイダーマンの数歩先をゆく。日米のヒーロー進化論は日本が魁!妖怪塾(なんのこっちゃ)。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
小学生の健太が妖怪ポストに手紙を投函する。

手紙を受け取った鬼太郎は人間を助けるべくテーマパーク建設工事に伴う地上げに利用される妖怪たちを追い払う。

一方、妖怪石を盗み出したねずみ男は換金のため質屋へ。そこへやってきた晴彦は妖怪石に心を奪われそのまま持ち去った。

妖怪石を父・晴彦から託された健太はかたくなにそれを隠しつづける。そのために鬼太郎が妖怪石を盗んだとしされ、満月の夜までに石を取り戻さなければ目玉おやじと砂かけ婆が釜茹でにされる窮地に立たされる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ゲゲゲの鬼太郎
幽霊族の末裔。
 
▽三浦実花
人間。女子高生。現実派。

△健太
人間。三浦実花の弟。

▽猫娘
半妖怪。鬼太郎の幼なじみ。

△ねずみ男
金に弱く、不潔。鬼太郎とは腐れ縁。

△目玉おやじ
鬼太郎の父親。

▽砂かけ婆
妖怪界にてアパート経営している妖怪。

△子なき爺
泣きながら石になる妖怪。

▽天狐
妖怪石を封じ込めた神聖な妖怪。

△輪入道
妖怪。妖怪機関車を動かす。

△晴彦
人間。実花と健太の父親。

△空狐
邪悪な、狐の妖怪。

----------------
★妖怪石
人間たちの邪心と妖怪たちの怨念が宿ったパワーストーン。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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「ありえねぇ~」で読み解くヒーロー・鬼太郎。「反復讐系」「共存系」はスパイダーマンの数歩先をゆく。日米のヒーロー進化論は日本が魁!妖怪塾(なんのこっちゃ)。

■ スパイダーマンと基本は同じ

どちらも、ふつうの人間は持っていない特殊能力みたいなものを持っているが、スパイダーマンと鬼太郎が同じというのはどういうわけか?

実はヒーローが同じというのではなく、テーマがとても似ているのだ。

テーマはずばり「復讐」「許し(赦し)」「共存」「共栄」。

スパイダーマンシリーズの登場キャラクターたちは復讐心を燃やし、他人を許すことがなかなかできないでいる。そのために「心の隙間」につけ込まれて「スターウォーズ風」にいうなら「ダークサイド」へ堕ちていく。

「ゲゲゲの鬼太郎」の、狐の妖怪たちは、テーマパーク建設工事で稲荷神社を破壊され、住処を奪われた。ついで(?)に妖怪石も盗まれた。

だまっちゃいられない。だから妖怪石と住処の奪還のため戦う。

ん? これってアメリカ合衆国の映画に似ていないか。

マフィアに家族を奪われた男が、たったひとりで戦いを挑む。みたいな。

やられたらやりかえす。復讐だ。復讐の物語に観客は拍手喝采を送る。胸がスカッとするからだ。

そんな「復讐系」作品を多量に生産してきたアメリカ映画のなかで、一見するとお気楽ヒーロー映画に思えるスパイダーマンシリーズは明らかに、異質だ。

スパイダーマンシリーズは、よくある「復讐系」ではないからだ。復讐が成功して拍手喝采のハッピーエンドではなく「許し(赦し)」の物語となっている。いわば「反復讐系」。またの名を「共存系」とでもいおうか。

憎しみは憎しみしか産まない。憎しみの連鎖という呪縛にとりつかれた例は世界中のいたるところにある。

それに対して「許し(赦し)」と「共存」を図ろうというのがスパイダーマンシリーズのメッセージであるわけだ。

さて「ゲゲゲの鬼太郎」は、どういったところで「反復讐系」・「共存系」だとみてとれるのだろうか。


■ セリフでわかりやすく提示してくれる

テーマパーク建設工事で稲荷神社を破壊され、住処を奪われた狐の妖怪たち。彼らの大ボスは天狐。まぁ女神さまみたいなものだと思ってもらえればいい。

天狐は「どの世界にも悪い人はいる。住処を奪われたなら他へ移ればいい。人間たちと折り合いをつけよう」といった意味のことをいう。

それに反発する子ボスの空狐は、天狐にエイっ! と骨抜き(無力化)にされてしまう。

仮にスパイダーマンシリーズが制作された国を空狐とするならば、そこに天狐は存在しない。空狐を止める力のある者はいないのだ。

それをエンタメ的かつ風刺的に取り扱って社会を映す鏡としたのがスパイダーマンシリーズだ。だからスパイダーマンはお気楽ヒーロー作品のようで奥が深い。

一方で、天狐の言葉にあるように、やられたからやりかえすのではなく、なんとか折り合いをつけて共存を目指そうというメッセージが直接的なセリフとしてわかりやく出ているのが「ゲゲゲの鬼太郎」だ。

それが「反復讐系」「共存系」たる所以である。


■ 一歩も二歩も先をゆくヒーロー

アメリカ合衆国のヒーロー、スパイダーマンは復讐心から開放されて許し(赦し)の心を持つところで第3作が幕を閉じた。

「ゲゲゲの鬼太郎」のスゴいところは、その先を行っているところだ。

鬼太郎はもうずいぶん昔から、妖怪たちから「妖怪のくせに人間に味方ばかりする野郎だ」と陰口をたたかれながら生きてきた。それを一向に気にするふうもなく、たいてい昼寝をしている。

ふたつの相容れないと思われている世界の橋渡しをするという、まさにこれからのヒーロー像を、ずいぶん昔から鬼太郎は実行してきたわけである。ヒーロー活動履歴が長いのだ。時代がやっと追いついてきたといったかんじかな。

スパイダーマンの「どんだけ~」先を行っているのだろう?

それにもかかわらず、先駆者であると自慢するわけでもなく、のんびり昼寝したり、目玉おやじに湯を注いだり、猫娘とクラブ(サッカークラブとかスイミングクラブのクラブではない)で踊り明かしたりする鬼太郎って、もぅ悟りをひらいているってカンジだ。

そりゃそうだ。スパイダーマン(ピーター)は大学生だから二十歳そこそこ。一方の鬼太郎は三百五十歳ぐらいというから、年季がまるっきり違う。


■ 空気を読める人になろう

健太は父・晴彦から、だれにも秘密にしろと言われて託された妖怪石をかたくなに隠し続ける。

健太が妖怪石を持っていることをわかっている鬼太郎も、無理に石を取ろうとはしない。自分のみならず、父・目玉親父と仲間の砂かけ婆が釜茹で500年(年数違ったかも)の刑になる窮地に立たされようとも。なんとも寛大だ! 
大好きな父親との約束とはいえ、直接関係のない妖怪たちを巻き込んで危険な目にあわせ、あろうことか妖怪石を盗んだ濡れ衣までかけられてしまった鬼太郎を見て、いくら小学生とはいえなんとも思わないわけはないだろう。

いや小学生だからこそ、状況を読んだり空気を読んだりする勘は大人より鋭いはずだ。

子どもだからなんにもわからない、というのは、自分が子供のころのことを忘れたしまった大人がよく言うセリフだ。

実際には子どもほどよく周囲を観察している者はいない。このクラスで力を持っているのは担任の先生ではなく、サッカー部の加藤くんでもなく、図書委員の杉浦さんだ。といったものを感じ取る嗅覚がなければ小学校には一日たりとも通えない。

大人とくらべて子供の自分は比較的無力だと自覚しているからこそ、大人の何倍も周囲の人々を観察する。だから子供はとても勘が鋭くて、敏感だ。そのためにストレスで心身を疲労させてしまうこともある。

というわけで、健太のような振る舞いの小学生はふつうならまずありえない。妖怪の存在(特に目玉おやじの存在)に、ありえねぇ~、といったかんじで小さくつぶやいた三浦実花に、鬼太郎はこう言い返したっていいはずだ。

「健太みたいな小学生って、ありえねぇ~」


■ 生前どんだけぇ~よ晴彦!

人生なにが起こるかわからない。会社のリストラで解雇されることもあるかもしれない。一昔前なら、リストラによる解雇ときくと、かわいそうとかまじめに働いてきたのに、といった同情論が多かった。

しかし時代は変わり、終身雇用制などだれも信じていないようになると、リストラによる解雇に対する同情度はひと昔前とはずいぶん変化している。

「スパイダーマンシリーズ」の悪役たちは、心の隙間につけ込まれたら、とりあえず悪のパワーで好き放題に暴れまくる。

一方、晴彦は心の隙間につけこまれて妖怪石を奪っても、パワーアップするどころか、弱って死んでしまう。

観客に、かわいそうと同情(共感)してもらうには作り手にそれなりの技術が必要だ。同情の余地はあっても、そこにもうひと工夫なければ共感(応援)はしてもらえない。

晴彦がどんなに健太や実花のことを大事に思っているかという涙を誘いたいシーンを用意しても、シラけてしまう。なぜなら晴彦に共感できていないからだ。

晴彦の親類・友人・知人はだれも実花と健太を助けに現れない。やってきたのは妖怪ばかり。

おとんよ、いくら窃盗犯として死んだからって、生前どんだけぇ~信頼されてなかったんや~。

人間たちから見放された姉弟。

それを助けたのは、姉弟にはなんの恩も義理もない妖怪。

オイっ! 鬼太郎、格好よそぎるゾ!(^^)


■ 許す(赦す)鬼太郎

妖怪石を盗んだとしてねずみ男に濡れ衣をかけられた鬼太郎。

ふつうだったらねずみ男とは絶交だ。というか、ねずみ男は復讐すべき敵だ。

それにもかかわらず鬼太郎は、ねずみ男を許す(赦す)。

ありえねぇ~。

アンタ、ただモンじゃないよ。

フッ、ぼくは妖怪。だてに三百五十年生きてないよ。

そんな声がきこえてきそうだ。

まぁ、ありえねぇ~からこそ鬼太郎なのだ。ありえねぇ~からこそヒーローなのだね。

たぶん「スパイダーマンシリーズ」でサム・ライミ監督が描きたかったヒーローの究極形は鬼太郎じゃないだろうか。

まちがいないっ!(←ちょい古?)


■ その他

鬼太郎役のウエンツ瑛士くんは、小池徹平くんとの「WaT」で紅白出場も果たした歌手・俳優・芸人(?)だ。

テレビ番組「うたばん」では「ホラッチョ」と呼ばれている彼は、しゃべりもできるのでバラエティ番組によく出演している。

なんかほうっておけない。ツッコミたくなる色男という「おいしい」ポジションを若くして得たタレントだ。

映画「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌にもなっている「Awaking Emotion 8/5」はウエンツくんが歌っているゾ。

そして全国のお父さんたちよ、おまたせ~。巷で大評判の猫娘のダンスはどうなんや? という声にお答えしよう。

「猫娘ダンス」というタイトルの映画のつもりで観み行ってもいいとだけ言っておこう。

猫娘ダンスはエンドロールに登場するぐらいなのだが、たとえ作品の途中から寝ていても、エンドロールにはばっちり目を覚まして見なければならない(笑)

こういうのを「一見の価値アリ」というのだな。

猫娘役の田中麗奈ファンならば、ぜひ映画「暗いところで待ち合わせ」も観ることとをおすすめする。

映画「暗いところで待ち合わせ」作品レビュー

それにしても猫娘に、パァーと遊びにいこうよぉ、と何度もせがまれているにもかかわらず、ほっといてくれとばかりにゴロゴロしている鬼太郎よ、なんという果報者であろうか(笑)。


デート     △ びみょ~ 
フラっと    △ 
脚本勉強   △ 
演出      △ 
笑い      △ 
役者      ○ イメージどおりのキャスティングを堪能すべし
ダンス     ○ 猫娘のダンスだけでも一見の価値アリ!
ヒーロー    ◎ 数歩先ゆくヒーローなり

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05/07/2007

映画「スパイダーマン3(SPIDER-MAN 3)」

監督:サム・ライミ
アメリカ/2007年/139分

悪役たちとピーター(善役)の境目は紙一重。だれもが持つ「弱さ」はヒーローの素質。ヒットの基本をきちんとおさえたその手法はハリー・オズボーンに表れている。シリーズを通して描かれてきた、もっとも大きな愛とは?

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
街を守る正義のスパイダーマンとしてニューヨーク市民に愛されるようになったピーターは、そろそろ恋人のMJにポロポーズしようと計画していた。

そんな折、伯父殺しの真犯人フリント・マルコが脱獄したことを知って復讐心に駆られるピーターは、謎の黒い液状生命体にとりつかれてブラック・スパイダーマンになって活動するうちに、復讐の炎の火種をカメラマンのエディ・ブロックに飛び火させてしまう。

一時的に記憶を失っていたハリー・オズボーンはスパイダーマンへの復讐を思い起こし、ピーターを追い詰める。
さらに、人変わりしたピーターから離れていくMJ。

自分を見失っていたピーターは、ブラック・スパイダーマンのスーツを脱ごうとする。しかし復讐の連鎖によって、愛するMJは危機にさらされる。

ピーター(スパイダーマン)はMJを救うため、ふたりの敵に立ち向かう。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ピーター・パーカー/スパイダーマン
大学生。デイリー・ビューグル紙のカメラマン。遺伝子操作されたクモに噛まれ、特殊能力を持つ。

▽MJ(メリー・ジェーン・ワトソン)
ブロードウェイ女優の卵。ピーターの最愛の女性。

△ハリー・オズボーン/ニュー・ゴブリン
大企業経営者。ピーターとMJの親友。彼の父親は、スパイダーマンと戦ったグリーン・ゴブリン。

△フリント・マルコ/サンドマン
脱獄囚。ピーターの伯父を射殺した真犯人。化学実験に巻き込まれ、砂の肉体を持つサンドマンになる。

△エディ・ブロック/ヴェノム
デイリー・ビューグル紙のカメラマン。カメラマンとしてのピーターをライバル視する。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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悪役たちとピーター(善役)の境目は紙一重。だれもが持つ「弱さ」はヒーローの素質。ヒットの基本をきちんとおさえたその手法はハリー・オズボーンに表れている。シリーズを通して描かれてきた、もっとも大きな愛とは?

■ 内輪話のようでありながら実は一般の話

スパイダーマンシリーズも今作で第3作。たいていのシリーズ化した作品がそうであるように、第1作で紹介、第2作で共感、第3作で決着というのがおおまかな流れだ。

わかりやすい例ではフジテレビ系映像作品群「海猿」がある。第1作で主人公が潜水士になるまで(紹介)、第2作の連続テレビドラマで主人公が仕事と恋に悩む(共感)、そして第3作で主人公とその恋人の仲がどうなるのかが描かれる(決着)。

だから、いわゆる三部作といわれるものでは、第3作目には描かなくてもよい部分がある。それは、主人公をとりまく状況や主人公の日常(仕事・恋)だ。

「スパイダーマン3」においてもこの基本型どおりに、第1作と第2作に登場した主要キャラクターとの関係に決着へ向けて集中している。

実はここ(第3作)で、ほんとうの手腕が問われるのだ。第1作目がヒットしたら、第2作は前作を上回るものを作らなくてはならないという緊張感と意欲の相乗効果でいいものができることがある。ターミネーターシリーズも第2作目がおもしろいのはそのためだ。

ところが第3作では主要登場人物たちにコンフリクツ(障害)を克服させて、レゾリューション(解決)へと導かなければならない。

レゾリューションの種類が主にひとつならばいくぶん楽だ。たとえば映像作品群「海猿」シリーズにおける「恋」だ。主人公・仙崎大輔と伊沢環菜の恋に決着をつける舞台をどれくらい派手にするかに尽力した結果、もぅ笑うしかないツッコミどころ満載の作品になったのが「LIMIT OF LOVE 海猿」だ。

シリーズ化した作品では、第3作に作り手の力量がモロに出てしまうという傾向がある。

「海猿」の原作はすばらしい。しかしフジテレビ系の映像作品群「海猿」はそのブランド化にはなかなかの手腕を発揮したが、作品づくりという分野では最後の第3作にモロに力量が表れてしまった。

その点を心のとめて「スパイダーマン3」を観れば、この大ヒットシリーズの第3作の決着をよくぞこの時間内に収めることができたものだと、ため息が出る。

ある人は、駆け足で詰め込みすぎだと感じるかもしれない。詰め込みすぎかどうかは、その観客の第1作と第2作の復習(復讐ではない)度合いにもよるが「詰め込み感」はシリーズ作品の第3作にはつきものなので多少は致し方ない。むしろそれを味として楽しもう。

それにしても、シリーズを通して描かれてきたことが、第3作では何倍にも膨れ上がって決着させるその手腕はまさに職人技である。

では「シリーズを通して描かれてきたこと」とはなんだろう。それはだれにも当てはまるごく一般の事柄である。


■ アナタの周りにだっている

第1作の敵グリーン・ゴブリンは軍需企業オズコープ社の創始者であり、天才科学者のノーマン・オズボーンであった。

軍の資金援助が打ち切られないようにと、自らを実験台に人体パワー増強薬を使い、その副作用で新たな人格であるグリーン・ゴブリンを誕生させた彼は、もともとは息子ハリー・オズボーンを愛し、ピーターとも良い関係だったのだ。

第2作の敵ドック・オクは天才科学者オクタヴィウスであった。

妻を愛し、人類のためにエネルギー研究を行っていたオクダヴィウスは、核融合実験の失敗を機に妻が命を落とすという悲劇に見舞われ、金属アームを持った人工知能に操られてドック・オクになった。

どちらの敵も、もとは悪い人間ではなかった。それがひとりは自分の事業の成功のために、もうひとりは自分の実験の成功のために行動したことがきっかけで、けっして悪い行いをするつもりはなかったのだが、悪の人格に支配されてしまう。

「スパイダーマン3」の敵フリント・マルコ/サンドマンはピーターの伯父を射殺した真犯人だが、彼にも事情がある。本来は悪い人間ではない。しかし家族のためにどうしても金が必要で、そのつもりはなかったのに結果的にピーター伯父を射殺してしまう。

また「スパイダーマン3」のもうひとりの敵エディ・ブロック/ヴェノムはカメラマンとして新聞社に就職したいという立身出世の夢を持っていた。そのための手段は良くないことだが、そのきっかけを与えたのはブラック・スパイダーマンとなったピーターともいえる。

企業経営者。科学者(研究者)。父親。カメラマン。

彼等は特別な人間だろうか。アナタの周りにだっている。どこにでもいる人たちだ。彼等はあるきっかけで悪の道に走りはじめてしまうのである。

そしてそれはヒーローであるピーターとて同じこと。伯父殺しの真犯人が脱獄したと知ったことがきっかけで復讐心にかられ、ブラック・マヨネーズ、いや違った、失礼。ブラック・スパイダーマンへと変貌するのだ。


■ 悪役さえもヒーローの素質を持っている

こうしてみると、歴代の悪役たちとピーター(スパイダーマン)の「弱さ」は同じである。弱さとは、環境や状況によってだれにでも生じる心の隙間とでもいおうか。

心の隙間に素早く入り込むのは、謎の黒い液状生命体。宇宙から落ちたきたこれは、たまたまたピーターのスクーターに張り付いたが、アナタのスクーターに張り付いていたかもしれないのだ。

そうはいっても、心の隙間がなければ、謎の黒い液状生命体は人の心に付け入ることはできない。

では、心の隙間を生じさせない者を主人公(ヒーロー)にすればいいのか。否。ヒーローの第1条件は共感できるキャラクターであること。

だれにでも生じる心の隙間がまったくない者は、だれにも共感されない。だれにも共感されない者はヒーローの第一条件を満たしていないのでヒーローにはなれない。だから皆と同じ「弱さ」を持ったピーターがヒーローなのだ。

それに歴代の悪役たちだって、ヒーローになり得る「弱さ」を持っていた。ヒーローの素質をだれもが持っていたが、その使い方を誤ったために悪役となってしまったのだ。

「スパイダーマン3」での「弱さ」のターニングポイントでブラック・スパイダーマンへの道を歩みはじめたピーターは、復讐の火種を撒き散らしていく。

その結果、最愛のMJを窮地に陥れることになるのだ。


■ ハリー・オズボーンが裏の主人公!?

父殺しのスパイダーマンに復讐を。これは第2作からハリー・オズボーンの心に絡み付いていたものだ。

しかし「スパイダーマン3」で短期記憶を失ったハリー・オズボーンが入院中のことである。

見舞いにきたピーターとMJが帰ったあと、看護婦に「あいつらは親友だ。親友のためなら命だってあげられる」といった意味のことをいうシーンがある。

このときのハリー・オズボーンは短期記憶を失っているので、心の隙間に入り込んだ「復讐」の支配から開放された状態だ。心の隙間という「弱さ」につけ込まれさえしなければ、もっとも大きな愛を実践する気持ちを持つことができるのだ。

聖書のヨハネによる福音書15章13節には>「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とある。

この入院中のハリー・オズボーンのシーンによって、観客はなんとなく彼の結末を予想できるようになっている。
さて、ハリー・オズボーンはニュー・ゴブリンだが、彼は特殊能力を持ったわけではない。父親が使った人体パワー増強薬も使っていないようだ(正確にはわからないが……)人体パワー増強薬を使うと副作用で新たな人格ができるのはグリーン・ゴブリンで実証済だ。

ハリー・オズボーンは人体パワー増強薬を使わずに、父殺しのスパイダーマンへの復讐心のみで別人格を作ったといってもいい。短期記憶を失ったとき、なんとも晴れ晴ばれなスッキリしたいい顔をしていたのと比べれば、復讐心に駆り立てられたときの彼とは別人かのようである。

人体パワー増強薬を使っていないと仮定すると、超人的な動きができる機械の数々があるからといえども、スパイダーマンや他の超人的な能力を持った悪役たちと互角に戦うニュー・ゴブリンの力はどこからくるのであろうか。

ニュー・ゴブリンが活躍するのは2回だが、1回目と2回目ではその原動力が正反対である。

心の隙間という「弱さ」を起点にした2つのニュー・ゴブリンの活躍の結果は1回目と2回目ではどう違うのか。ぜひご覧いただきたいと思う。


■ 父と子

こうしたハリー・オズボーンの行動と苦悩は、父親との関係性に起因する。

作品づくりにおいて、父と子というテーマはもっともポピュラーだといえる。あの「スターウォーズ」シリーズでも使われているとおり、ヒット作の条件のうち「父と子」はとても大きなキーワードである。

スパイダーマンシリーズでは「父と子」のテーマをハリー・オズボーンが提示している。

つまり、ヒットの基本をシリーズを通してきちんとおさえているというワケである。


■ その他

大ヒットシリーズのスパイダーマンの公開はお祭りみたいなものなので、ぜひ第1作と第2作を復習(復讐ではない)してから観るといいでしょう。

サム・ライミ監督は「死霊のはらわた」「クイック&デッド」「ギフト」を手がけている。作品を観るとわかるが、彼はたいへんお茶目でありながら、たしかな職人技を持ち、さらにプロデューサーとして「THE JUON/呪怨」をヒットさせるなど、まさに多才な人物であることがうかがえる。

「スパイダーマン3」でも、彼のおちゃめぶりは発揮されていて、おもわず笑ってしまうシーンや演出はいたるところにある。

その中からひとつ、おぉ! と思ったシーンがある。
見間違えでなければ、亡くなったはずのグ天才科学者のノーマン・オズボーンらしき人物がバッチリ登場してるシーンがあるのだ。

セリフはないが、まさに画面の真ん中に登場する。悪から開放されて生まれ変わったのかもしれない、その表情は晴れやかで楽しそうであった。

私もそのシーンに気がついたとい人はいるかな? あれはノーマン・オズボーンだったよね?? 


デート     ○ 
フラっと    △ 前作、前々作を復習しておこう。
脚本勉強   ○
演出      ○ 
笑い      ○ 第1作がいちばん笑える 
役者      ○ キルステン・ダンストが存在感バリバリ
真面目     × 真面目に観る作品ではない 

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