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12/30/2006

映画「硫黄島からの手紙(Letters From Iwo Jima)」

監督:クリント・イーストウッド
アメリカ/2006年/141分

クリント・イーストウッド監督が歳を重ねるごとにますます輝きを増すのはなぜか? 生きる力、物語る力に答えがある。「ヒーローとは?」にひとつの答えも提示されている。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
第2次大戦中の1944年6月。陸軍中将の栗林忠道が指揮官として硫黄島にやってくる。アメリカ合衆国をよく知っている彼は、実践的・具体的な作戦を立てる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△栗林忠道
陸軍中将

▽西郷
兵卒


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
クリント・イーストウッド監督が歳を重ねるごとにますます輝きを増すのはなぜか? 生きる力、物語る力に答えがある。「ヒーローとは?」にひとつの答えも提示されている。

■ 奇跡(に近い)に感謝しよう

物語る力。それは強力だ。

Aという国が描く物語内では、B国は如何様にも描かれる。

そうしたB国の描かれようが広まってしまったら、B国は自ら物語を作らなければ自国の観られ方を修正することは困難だ。

いったいどこの国のだれが、自腹を切ってかつて敵国だった側の視点に立った物語を作ると思うのか。しかも、相手国を悪者と決め付けた一方的な描き方をせずにだ。――ふつうはありえない。

ところが稀にこんな作品も現われる。

「K-19:THE WIDOWMAKER」(作品レビュー)という作品だ。詳細は作品レビューを読まれたし。

そして今回、ほんとうに稀な作品と出会うことができた。

クリント・イーストウッド監督作「硫黄島からの手紙」である。

この作品では、日本人は日本語を話す。あたりまえかと思うかもしれないが、いわゆるハリウッド産で、アメリカ合衆国以外の国を舞台とした作品であっても、登場人物はたいてい英語を話す。

フランス国王万歳! なんていうシーンでも英語である(笑)。

アメリカ人というのは、よっぽど字幕を読むことが苦手らしい。なんでも楽をしようとする。そんな声もある。

ところが「硫黄島からの手紙」では、日本人は日本語を話し、アメリカ人は英語(米語)を話す。

そして、かつての敵国の軍人たちを、自国の軍人たちとなんらかわらない、ひとりの人間として描く。

これは奇跡に近い。

本来ならば「硫黄島からの手紙」のような、日本側の視点に立った作品、しかもお涙頂戴に特化した演歌ではない、世界へ語りかける戦争映画は、日本が作らなくてはならない。

それなのに、なんとアメリカ人が作ってくれたのである。

こんなことってあるんのだね……。


■ 手紙

第二次大戦中の日本軍の兵隊たちは皆、玉砕の覚悟でお国のために潔く死んでいった、そういう軍国教育を施されていたのだとよくいわれている。

そういう一面もあったろうが、皆がそうではないのではないか。

どんな状況にあっても、たとえ周りのみんなが右向け右でも、なかには正面を向いていた人もいたかもしれない。空を見上げていた人もいたかもしれない。

硫黄島の浜辺で「おれたち、墓穴掘ってるのかな」と思いながら、こんな島はアメ公にくれてやればいいんだよ、とつぶやくように言う西郷。

彼のような日本兵が登場する第二次大戦時の戦争映画を観たことがあるだろうか?

当時の日本だと真っ先に非国民と非難されるであろうことをつぶやく西郷を作品の主要な登場人物に設定していることから、この作品は日本の軍人たちは皆「万歳して玉砕する野蛮でクレイジーなイエローモンキーだ」だというくくり方をぜず、彼らも自分たちと同じ人間だというメッセージが込められていることは、作品の冒頭での西郷の様子をみればよくわかるだろう。

それは、日本人士官の西がアメリカ人の若いアメリカ海兵隊員を捕虜にして手当てさせたシーンに最もよく表れている。

日本軍の士官である西は金メダリストでアメリカ人とも親交があった。その彼が英語で捕虜に話し掛け、故郷の話をする。翌日、捕虜は負傷のために死んでいたが、傍らに手紙を見つける。

それは捕虜のアメリカ兵の母親が息子に宛てた手紙だった。

手紙を日本語に訳して読み上げる西。それを聞いている日本兵たち。彼らは鬼畜米英と教えられていた敵兵も、自分たちと同じように家族がいて、なんら自分たちを変わらないことを知る。

アメリカ兵の母親の手紙には、どんな状況にあっても、あなたが正しいと思うことをしなさい、といった意味のことが書いてあった。

西郷をはじめとする日本兵たちはこの手紙に心を打たれるのである。

とくに西郷は、軍国主義に染まった状況下にあって、判断を他に委ねることなく、生きて家族のもとへ帰ることを願う。そのために直属の上官には非国民だと目をつけられ、損な役回りをいつもいいつけらてきた。

そんな西郷にとって、このアメリカ兵の母親の手紙の内容は、自分の生き方を肯定してもらえたかのようで心強く感じたことだろう。

日本兵であれアメリカ兵であれ、だれかの息子であり、だれかの父親であり、だれかの友人であり、だれかの大事な人である。そして誰かが帰りを待っている。

そのことが見えなくなってしまう状況はなにも第二次大戦時の硫黄島だけではない。
現代のスポーツチームにだって、一般企業にだってある。

学生リーグ優勝のために肩を壊すまで投げつづけざるをえない状況に追い込まれ、投げられなくなり選手生命を絶たれた元野球選手。

売り上げアップのために終電まで残業を続け、ときには会社で朝を迎えて一週間家族の顔を見れない状況に追い込まれ、体調を崩して職と健康を失った元会社員。

その時やその場の状況に呑まれることなく、自分にとってなにが大事なのかをしっかり持って、自分が正しいと思うことする。そんなあたりまえのことができる者こそ監督が描きたかったものではないだろうか。


■ 生きる力

栗林中将は家族に宛てた手紙の中で、実際の硫黄島の状況とは異なる、ほのぼのとした近況を絵を描いたり文章を書いている。

本土に送られるときは検閲があるので、詳しい状況などは書けないのだろうが、自分が元気でいることを家族に伝えようと、物語っているのだ。

物語る能力。これは生き残る力だ。

だれしも、今は辛くてもいつかはよくなるという思いがなくては先に進む意欲が湧かないものだ。

明日は、来月は、来年はきっとよくなる。よくなるイメージを描き、それにむかって現実での課題をひとつづつやり遂げていく。

よくなるイメージとは、ときに「希望」ともいわれる。

希望を作り出すのは想像力だ。想像力は物語る力だ。物語る力は生きる力だ。

クリント・イーストウッド監督が歳を重ねるごとにますます輝きを増すのは、彼が映画を撮りつづけ、物語続けているからだ。

物語りつづけることで、生きる力に溢れているからだ。

どんな状況下にあっても、自分の正しいことをして、生きて帰るイメージを抱きつづける。それが輝きつづける方法だ。


■ ヒーロー

5日で終わると考えた硫黄島の戦い。それを36日間守った日本軍の指揮官・栗林中将。彼は欧米への留学経験もあり、知識も行動力もあった。

では、彼はヒーローか。

彼はヒーローであってヒーローではない。

それはどういうことか?

そもそも、いわゆる戦争映画に描かれるヒーローというのは、プロパガンダに最も利用されるもののひとつだ。

「硫黄島からの手紙」では、戦争映画にありがちな、兵隊たちの活躍は描かれない。観客にカタルシスをもたらすかのような攻撃シーンや作戦の成功といったものは無い。

5日で終わると考えられていた硫黄島の戦いを、36日間守った栗林中将は、兵士たちに洞窟を掘らせて地中で指揮しようにも、戦況報告は滞り、命令・伝令は届かず、部下を失い、戦況が悪化するのをくいとめることはできない。

一方、名も無き一兵卒の西郷は、敵に向かって銃弾を発するどころか、銃を構えたシーンさえほとんどない。発砲したシーンといえば射撃の練習で的を外して上官に怒られたときぐらいだ。

戦闘前はひたすら穴掘り。戦闘中は機関銃の弾を運ぶ。

そして、生きて愛する家族のもとへ帰りたいと願う。そんなひとりの青年だ。

栗林中将も西郷も、いわゆるプロパガンダ戦争映画のヒーローとは全く違う。そういうヒーローではない。

しかし、ヒーローなのだ。

栗林中将と西郷は、自分の価値観や考えをもって、生き残るイメージ=希望を抱きつづけた。

これこそ真のヒーローなのである。


■ 生還してからはじまる

国を想い、家族を想う気持ちは同じでも、生きようとする者と、死のうとする者がいる。

日本兵のなかの主要なキャラクターの中で、硫黄島の戦いを生き残った者がふたりいる。

ひとりは軍国主義に染まり、死に場所を求めて彷徨っていた。

ひとりは軍国主義に染まることなく、生きようとしていた。

同じ生き残りであっても、両者はまったく違う。

ほんとうの彼らの物語は、硫黄島から生還してからはじまるのだ。「父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers)」がそうであったように……。

しかし「硫黄島からの手紙」は硫黄島の戦いが終結したところで終わる。硫黄島から生還してからの物語をつくるのは、観客であるということだ。これを「余韻を残す」ともいう。

「父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers)」作品レビュー


■ ひとこと

久しぶりに裕木奈江を見た。はじめ、それが彼女だとわからなかった。西郷の妻役であった。ということは西郷演じる二宮和也の妻という設定だ。

こりゃぁかなりの姉さん女房ですな。

そもそもパン屋の旦那で女房がいて子供もうまれる(うまれた)という西郷役が二宮和也というのは、ヒゲを生やしてみても、ちょっと若すぎるかんじはあった。欧米人が観たらますます日本人は童顔だと思われるだろうな。
しかし、評判どおり二宮和也の演技はなかなかよかった。

日本人ならなおさら必見の作品だ。

デート    △
フラっと   ○
脚本勉強  ○
演出     ○
リアル    ○
キャラクター ○
笑い     ―
ファン    ○


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12/23/2006

小説「「夏と花火と私の死体」乙一

■ 力ある作品の見極め方

物語世界においては、そこで起こるどんな些細な事柄も、季節や天気にさえ、ただなんとなくそうなったということはひとつもないようにしなければならない。

つまり、物語世界での出来事にはすべて意味があるのだ。

現実には、無意味と思えることは多々ある。無意味や無駄こそ人生だ、という人もいる。

その一方で、日々の出来事にはかならず原因・理由があるはずという考え方を持つ人がいる。彼らには「願望」がある。

どんな願望か?

それは「脳にとって気持ち良くしたいという願望」だ。

人の脳は、世の中の出来事を情報として取り込む際に、そららに原因・結果という処理を施し、整理整頓して脳内に区分けされた格納庫に収めようとする。

なぜそうしようとするのか?

なぜなら、出来事を「原因→結果→格納」と処理することは、脳にとって気持ち良いからだ。

朝の通勤ラッシュを想像してみるといい。
仮に、家から会社までの経路を毎朝同じとしよう。

同じ道を通って同じ駅を利用して同じ改札口を通って同じ電車の同じ車両の同じ椅子に座って同じ駅で降りて同じコンビニに寄って同じものを買って同じ会社に到着して同じ椅子座り同じ机に向かって先週と同じ仕事をする。
同じであっても、それを何年・何十年と続けられるのは、それが脳にとって気持ちいいからだ。

予測できる未来。予想できてそのとおりになる毎日というのは、脳の処理としては理想だ。

もしも、いつもの朝の通勤ラッシュ時に、先生に引率された小学生の団体や、大きな荷物を持った年配者に遭遇したらどうだろう? 迷惑そうな顔をしてしまうかもしれない。

なぜなら、小学生の団体や、大きな荷物を持った年配者は予測不能な動きをすることがあると考えるからだ。

そういった点で、東京駅はまさに予測不能な駅といえよう。地方からやってきたビジネスマンや旅行者や修学旅行生などで混雑する駅構内は、だれがどのような動きをするのかを予想・予測するのは困難だ。

予想・予測ができない状態は、出来事の処理がスムーズに行われない状態であり、脳はこれを嫌う。


何が起こるかわからない状態を「自然」とするならば「自然」の対極にあるのが「脳」だ。

現実の本来の世界は「自然」である。ところが「脳」は「自然」を嫌い、自分にとって気持ちいい状態を好む。こうして「自然」を切り開いて予測・予想可能な領域を広げてきた。それが人間社会=脳社会だ。

日本の都会といわれる場所の木々はどこにあるか。道路沿いの街路樹と公園という名で区切られたわずかなスペースにだけ存在する。

電車は定刻どおりに運行され、そのダイヤが乱れると人々は迷惑そうな顔をする。ダイヤの乱れの原因は落雷だったり人身事故だったりといった「天候」や「人」という名の「自然」だ。


さて、人は脳にとって気持ちいいことを良いことを好む。

では、脳にとって最高の状態とは?

脳にとって最高の状態を作りあげる脳内作業の最も緻密で高度な処理を要求される作業のいくつかは「世界構築」と「執筆」である。

自然界において「約束」という言葉を使うことによって構築されたのが「人間社会」である。「約束」を人間たちで共有するために人はそれを書き記す。これが「世界構築」と「執筆」である。

人間の行いにおいて最も緻密で高度な技術が要求される「世界構築」と「執筆」。それを行っているのが物語作家だ。

物語作家のうち、最も直接的にこの作業を行っているが小説家である。

脳にとって気持ち良い世界の集大成の「小説」を書く能力があるかどうか。それを見極めるのが新人小説賞だ。

小説を書く能力とはつまり、物語をつくる能力、さらには脳にとって気持ち良い状態(脳内世界)をつくる能力があるか、ということだ。

というわけで、小説原稿を読んでまずチェックするのは、脳がよりスムーズに処理できるかどうか、ということになる。

物語世界の中で、意味もなく雨が降り出したり、意味もなく主人公が犯人探しをはじめたり、意味もなく登場人物が死んだりしたら、脳はそれを処理できない。

脳が処理できない世界とはつまり現実であり、人はそんな現実を嫌というほど味わっている。

脳が処理しやすいようにするためには、現実の不可解な事柄・現象を解き明かそうと脳をフル稼働させなければならない。

たいていの人はそんな面倒なことはしない。たとえ真面目にそれを行おうとする人がいたとしても、その作業はとても大変なので、その負担が疲労となって蓄積し、やがては身体を蝕んでしまう。

こうして、真面目で律儀な人ほど日常生活や仕事で負担(ストレス)をかかえ、体調不良となる。

だから、現実の、不可解と思える事柄や現象を、脳がスムーズに処理できるよう取り組むことをせずに「なんだかよくわらないもの」として放り投げ、忌み嫌い避けようとする。

これが思考停止・相互不理解・排斥へ至る過程の一端である。

脳は、人は理解できないものを理解しようとするよりも「なんだかよくわからないもの」として避けるほうが楽だと考える。

「なんだかわからないもの」の存在は脳にとって負担であるからそれを怖れるようになる。怖れからくる脅えは周囲に伝染し、やがて形となってあらわれる。それは「いじめ」ともいわれることがある。

そもそも人が小説を読む目的は、脳を気持ち良い状態にすることだ。わかりやすくいうと、ただ単に楽しみたいだけである。

脳にとって最高の状態とは?

――自然という現実からかけ離れた「脳世界」にどっぷり浸かることである。

だから新人小説賞の選考では、小説世界に脳が処理できない「無駄」がないかどうかをチェックする。

脳を気持ち良くする作業は、脳を気持ち良くしてもらう受身とは正反対の資質と訓練がなくてはできない作業だ。

こうした作業は脳を酷使する。だから一般人はそれに絶えられずに「無駄」が沢山できる。

新人小説賞の応募作の中から、そのような「無駄」がなるべく少ない作品を選んでいく作業が最終選考までのおおまかな目的だ。

とはいっても一般公募による新人小説賞の場合、受賞作においてもある程度の無駄は致し方ない。無駄が許容範囲であり、そのほかにその書き手の持ち味の片鱗さえみつけられれば喜んで受賞作アリとするだろう。

ちなみに私が脚本や小説原稿のチェックの依頼を受けると「無駄」がどれだけ少ないかを意識してみている。

しかし一般の人でも、特に意識しなくても脚本や小説原稿を読めばすぐにわかる。それがなぜ、どれだけ「無駄」な部分かというのをはっきり認識することはできなくても、なんとなく疑問が残ったり、なんとなくひっかかる部分がある、といったかんじですぐにわかるものだ。

大事なことは、書き手の持ち味の片鱗を見つけることだ。無駄を切り詰める作業は訓練すればある程度できるようになるので、あとからでもどうにもでもなる。


さて以上のことをふまえたうえで映画「暗いところで待ち合わせ」の原作者・乙一さんの小説デビュー作「夏と花火と私の死体」を読んでみると、驚くべきことに無駄がない。

「夏と花火と私の死体」で1996年に第6回ジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞した乙一さんは当時17歳だったという。執筆当時は16歳であったと思う。

基本として、年齢と物語構築力の関係は「無し」だ。

例えるならば、60歳だからといってスキーが上手とは限らないことは理解できるだろう。
60歳でスキーが上手ならば、おそらくその人は若い頃からスキーをしていたのだ。

60歳でスキー歴3年と、20歳でスキー歴10年。

はたしてスキーが上手なのはどちだだろう。素質や練習内容の濃さにもよるが、一概に20歳でスキー歴10年のほうが上手だろう。

年齢と物語る力は関係ないのだが、それにしても17歳でこの無駄のなさというのは、インパクトが強い。

観客の関心を宙吊り状態にしておくサスペンス。

物語るテンポ。

どちらも、例えるならば無駄な贅肉が一切ない均整な肉体かのようだ。

そしてなにより特筆すべきは、その語り口である。

視点が死体でありつつも全知全能の視点を含んでいるという、なんとも奇妙な語り口。

「暗いところで待ち合わせ」の、ひとつ屋根の下で一言も言葉を交わさないふたりが同居する、なんとも奇妙な生活。

なんか変。いや、かなり変。だけどイイかんじの変。

無駄がないだけでもスゴいが、それだけではない。――「変」という味を持っている。

物語る視点が死体でありつつも全知全能の視点を含んでいる、なんていうのは、それこそなんとな~くできるものでは決してない。

なるべくしてなった「変」こそ、乙一さんが類稀なるストーリー作家である証なのだ。

4087471985夏と花火と私の死体
乙一
集英社 2000-05

by G-Tools


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12/14/2006

映画「007/カジノ・ロワイヤル(Casino Royale)」

監督:マーティン・キャンベル
アメリカ/2006年/144分

自信過剰でお間抜けでおちゃめでガッツがあってスマートで。放っておけない、やんちゃ坊主。それが新生ボンドの魅力。正しい金庫破り(型破り)の方法とは?

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
英国諜報部MI6スパイ「00」になったジェームズ・ボンドが、国際テロ組織の壊滅に任務につく。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ジェームズ・ボンド
男性。英国諜報部MI6のスパイ。

▽ヴェスパー・リンド
女性。財務省職員。

△ル・シッフル
テロ組織の資金洗浄を行う。

△マティス
MI6の地域担当エージェント。連絡係。

▽M
イギリス諜報機関MI6のトップ


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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自信過剰でお間抜けでおちゃめでガッツがあってスマートで。放っておけない、やんちゃ坊主。それが新生ボンドの魅力。正しい金庫破り(型破り)の方法とは?

■ はじめて物語

007シリーズはいくつか観たことがあるが、どれを観たのかはっきり思い出せない。

それぞれに特徴があるのだが、ひとことでいえば「007」シリーズのどれか、で片付けられる。そんなかんじである。

たとえ007シリーズ作品をひとつも観たことがない人でも007という単語は聞いたことがあるだろう。007シリーズというぐらいだら、人気があると予想できることだろう。

例えるならガンダムだ。
ガンダムと名がつくシリーズはたくさんあるが、ガンダムの魅力を知るには、その原点となる、いわゆる1年戦争を描いたファーストガンダムを観ることからはじめなくてはならない。

これと同じように、007という言葉を聞いたことがある人は、その主人公ジェームズ・ボンドが「00(ダブルオー)」になってはじめての任務、いうなれば「ファースト007)を観ることからはじめてはいかがだろう。
さて、ジェームズ・ボンドがはじめて人を殺したときとはいったいどんなだったか?

あのジェームズ・ボンドのことだから、任務のためなら冷酷かつさぞかしスタイリッシュに遂行したのではないかと思う人も多いだろう(殺人にスタイリッシュもなにもないが…まぁ映画なので)。

ところがスタイリッシュどころか泥仕合の様相を呈している。そこが今作の「味」である。


■ 肉体アクションから知的駆け引きへ

身のこなしが曲芸師のように軽い組織の下っ端。それを追い詰めるボンド。体を張った肉体派アクションを魅せるボンド。

さらに空港で敵を追いかけるボンドの活躍も、スパイというよりも特殊部隊の一員といったかんじだ。

まずはこうした肉体派のアクションシーンで、型破りなボンドを披露。それからカジノでの息詰まるポーカー勝負へ。

肉体アクションから知的駆け引きへ。

そうした流れのなかで明らかになるボンドの性格とは?


■ 人間味溢れるボンド

冷静で、マジモードの恋愛をすることはない。そんなイメージがあったボンドだけど、今回は違う。

組織の下っ端を追い詰めるのに夢中で監視カメラに気づかずにばっちり写っちゃったり、マジモードの恋愛にハマり、なったばかりの「00」を引退する決意をしたり、高額資金を賭けたポーカーゲームに負けてマジヤバモードになったり……。

だれも知らないはずのMの自宅をつきとめて、彼女専用のパソコンを通じてデータを入手するという、まるで新入社員が部長宅に勝手におじゃまして高級ワインを飲みながら、帰宅した上司に向かって、庶務課のY子ちゃんとのデート見ましたよ~だから今後ともいろいろ俺のために便宜図ってね、といわんばかりの高慢さ。

ポーカー勝負の会場にやってきたときも、どうぜ正体はバレてるだろうと、堂々とジェームズ・ボンドと名乗る大胆さ。

自信過剰でお間抜けでおちゃめでガッツがあってスマートで。

放っておけない、やんちゃ坊主。

それが新生ボンドの魅力である。


■ 隣人

マット・デイモン主演の「ボーン・アイデンティティー」とその続編「ボーン・スプレマシー」を思い出してほしい。

これらスパイ映画も、冷酷なスパイが活躍するだけだったらヒットはしなかっただろう。記憶を無くした優秀なスパイが、悩み苦しみながらアイデンンティティを求めて活躍する姿に、観客は冷酷非情なスパイのイメージとはかけはなれた「身近さ」を感じることができた。だからヒットしたのだ。

「007/カジノ・ロワイヤル」もジェームズ・ボンドを、スーパーマンではなく、身近な隣人のひとりと感じることができる作品となっている。


■ 型破りのために

例えば金庫破り。

金庫破り犯がやっと金庫の鍵を開錠したと思ったら、なんと施錠してしまった。 
実は金庫の鍵は、はじめから開いていたのだ!

なーんてオチは、仕掛けとしてはOKだとしても、キャラクターづくりにおいてはNGだ。

キャラクター作りにおいては、金庫の扉は閉じられて鍵がかかっていなければならない。

つまり、キャラクター作りにおいては、金庫破りのために、金庫の扉は閉じられて鍵がかかっていなければならないのだ。

ここでいう金庫の鍵がかかっている状態というのは、シリーズによって観客の脳裏に刻まれたジェームズ・ボンドのイメージだ。

イメージがしっかり出来上がっていること。それが金庫に鍵がかかっている状態だ。

「鍵がかかっている金庫」という「型」を破る、その金庫破りこそ、6代目新生ボンドである。

「型破りの新生ジェームズ・ボンド」が生まれたのは、偶然で運がよかったからではない。007シリーズがあるからこそ、なのだ。

これが正しい型破りの方法である。


■ ひとこと

そういえば少し前に、MI6のサイトと新聞広告で人材を募集していたとか。

君もスパイになれる……かも。


ファミリー  -
デート    ○
フラっと  ○
脚本勉強  ◎
演出    ○
リアル   -
キャラクター◎
笑い    -
ファン    ◎

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12/08/2006

映画「暗いところで待ち合わせ」

監督:天願大介監督
日本/2006年/129分
原作:乙一『暗いところで待ち合わせ』

他者とのコミュニケーションを欲する者たちが「変化という恐怖」に立ち向かい、一歩を踏み出す物語。常人では考えつかない設定と、それを形にする技術と勢いに原作者のホンモノの力量さえ感じる。

ストーリー(概要)
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交通事故で徐々に視力を失ったミチルは、父親を亡くしてから駅のプラットホームを見下ろす高台の一軒家に独り暮らしをしている。
ある日、駅のプラットホームから男性が転落。電車に轢かれて死亡する。
同じ日、ミチルの家に青年が忍び込み、息をひそめて暮らし始める。青年は転落死した男性の職場の同僚アキヒロであり、転落死に関係するとみられて追われていた。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
▽本間ミチル
女性。交通事故で視力を失う。父親が他界し、ひとり暮らし。

△大石アキヒロ
男性。日本と中国のハーフ。幼い頃は中国で育ち、その後日本にやってきた。印刷工場で働く。

▽カズエ
女性。ミチルの親友。

△松永トシオ
男性。アキヒロの職場の先輩。

▽ハルミ
女性。ミチルの近所に住む。イタリアンレストランの店員。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
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他者とのコミュニケーションを欲する者たちが「変化という恐怖」に立ち向かい、一歩を踏み出す物語。常人では考えつかない設定と、それを形にする技術と勢いに原作者のホンモノの力量さえ感じる。

■ 出会い系!?

出会い系。
そう聞くと、イマドキのあやしげな印象を受けるかもしれない。だが、物語というものは、主人公がだれかと出会うことではじまるのだ。

両親は離婚。交通事故で視力を失い、一緒に暮らしていた最愛の父親も他界したミチルは、駅のプラットホームを見下ろせる高台の一軒家で独り暮らしをしている。

点字の勉強をはじめて徐々に読めるようになってきたミチルだが、杖を使ってひとりで外出しようとはせず家で一日を過ごす事がほとんどだ。

パソコンは苦手で、家では家事をしたり、ピアノを弾いたり、テレビの音声を聞いたりして過ごしている。

おそらく、子供の頃からどちらかというとひとりでいることが多かったであろうミチルにも友人がいる。カズエだ。彼女は活発なイマドキの女の子。ミチルとは正反対のようだが、それだからこそお互いに無いものを持っているふたりは親友として付き合ってきた。

そのカズエと一緒に外出する以外はいつも家にいるミチルには、出会いは訪れようもない。
このように、一度大きく出会いようがないとうところまで振り子を振っておく。

そしてもしそこに出会いを作ることができれば、振り子は反対方向へ大きく動かせる。

物語を推し進める力とは、たとえるならば振り子をどれくらい大きく振ることができるかにかかっている。
だから、振り子をいかに大きく振るか。これに苦心するのだ。

振り子に勢いをつけるきっかけ。それが出会いだ。
たとえばミチルの出会いの相手が、親友カズエの知り合いだったり、いつも食料品や日用品を配達してくれる店の青年であったり、郵便配達員の青年だったりした場合は、いかにもありきたりだ。

ところがこの作品では、普通の出会いとはいえないちょっと変わった『出会い』をさせる。

それは、近くの駅での転落死亡事故・事件の容疑者が家に忍び込んでくるというものだ。


■ グランドホテル型のひとつ

ミチルの生活圏、具体的には家という場所に、なんらかの目的を持ったアキヒロが入ってくる。アキヒロの出現によってその場所にかかわる者に変化が起きる。これはいわば、グランドホテル型である。


■バックグランドを交互に描く

はじめにミチルを紹介。その次にアキヒロを紹介。

作品の前半をこのようにふたつに分けて、それぞれの状況を描いている。ミチルとアキヒロの両方のバックグランドがほぼわかった観客は、ふたりの共通点にすぐに気づくだろう。


■ おひとりさま

ふたりの共通点とはなんだろう。

皆さんは「おひとりさま」というのをきいたことがるだろうか。

これは劇団ひとりをターゲットとした……いや違った。失礼。これは「ひとり」をターゲットとしたマーケティングのひとつである。
おひとり様用「鍋セット」。おひとり様用「ひとりで参加する旅行」。おひとりさま用「ひとりで行くいきつけ
のバー特集」等々。

仕事やプライベートの人間関係のしがらみから、ひとときでも離れてホッと一息入れたい。そんなおひとりさまになれる時間を持つことがステイタスとしてマーケットを広げようという狙いは、マーケティングとしてはおもしろいかもしれない。

おひとりさまがなんとなくカッコよく感じたり、おひとりさまの時間を持つことの有意義さを云々したりというおひとりさまマーケットの根本には、前提として「おひとりではない」というのがある。会社の同僚、仕事仲間、友人、知人・家族などがいることが前提だ。

だがミチルとアキヒロは、まずは前提として「おひとりさま」であるかのように描かれる。

ミチルは一見するとひとりを望んだわけではないようにおもえる。カズエほど活発ではないにしても、目が見えれば外出もするだろうし、学校や仕事をして知り合いや友人も増やすだろう。

だが視力を失い、父親を失ったためにひとりになった。だからミチルはひとりを選んだわけではなく、仕方なくそうなったのだと思える。

しかし実際は、心配してくれる親戚もいるし、ひとりでも外出するよう勧める親友カズエもいるのでひとりではないのだが、ミチルは親類たちに、自分はひとりで暮らすと言ったり、カズエに外出するのは怖いしみんなの迷惑になるから家にいると言ったりする。

一方アキヒロも一見するとひとりを望んだわけではないようにも思える。日本人と中国人とのハーフで、幼い頃は中国で育ったアキヒロは、印刷工場の同僚ともコミュニケーションがうまくいかない。だからアキヒロはひとりをえらんだわけではなく、仕方なくそうなったのだと思える。

しかし実際は、アキヒロは職場の同僚に幾度となく飲みに誘われたりしている。その度に、今夜はちょっと用事があるからと遠まわしに断るのはいいほうで、ときにはまるっきり無視するかのような態度をとることもある。

こうしてみると、ミチルもアキヒロも、一般的な人たちに比べればひとりになりがちな環境にあったが、そのような状況にあっての選択と行動は、ひとりという孤独へ向かうものであった。

これがミチルとアキヒロの共通点である。


■ 経験とイメージのデフレスパイラル

杖を使って外出すれば、慣れていないために他の通行人や車などに迷惑がかかる。自分の身も危険になる。実際に、ひとりで外出したときには、車のクラクションにさらされて身動きがとれなかったり、走ってきた自転車にぶつけられそうになったりした。だからひとりで外出しない。

会社の同僚と飲みに行っても、中国人とのハーフということでばかにされたりからかわれたりしそうだ。実際、高校時代に学校でうまくいかずに、問題を起こしてしまったこともあった。だから仕事場の同僚に飲みに誘われても断る。

どちらも、負の体験によって、正の未来をイメージしにくくなっている様子がうかがえる。

体格や体力の違いによって、同じスポーツをする場合でも他人と自分では条件が違う。Aくんは50メートルほどボールを蹴れたとしても、Bくんは10メートルしかボールを蹴れないことがある。

練習や体調によって飛距離は変わってくるものだが、ボールをうまく蹴れないはじめの頃に、蹴れない理由(体力がAくんより劣る、身長がAくんより低い等)だけを意識すると、練習をする気力をなくしてしまう。

実はこういうときこそチャンスなのだ。
Aくんと比較することでBくんは自分に必要なものや、自分に向いているものを探るチャンスができるからだ。

ボールの蹴り方を練習したり、ボールを蹴るよりも手でとる練習をしたりすることで、Bくんの得意なプレーがみつかるチャンスなのだ。

ミチルは目が見えないとは思えないほど上手に料理を作ることができる。
アキヒロは丁寧で真面目な仕事ぶりで、後輩の面倒を見る立場にもある。

良いところ、得意なところはたくさんある。それにもかかわらず、うまくボールが蹴れなかった(例)という負の経験が、今度もうまくボールが蹴れないだろうという負のイメージを抱かせ、ボールを蹴る練習をする意欲を無くさせてしまう。

こういった状態はだれにも起こりうることだ。経験とイメージのデフレスパイラルに陥ったときに、身近な人のサポートがあれば、そこから抜け出す事ができる。

ミチルにとっては父親。アキヒロにとっては電話で話す母親。
どちらも身近にいたが、いまは遠くにいる。

アキヒロはたまに電話ボックスで母親とおぼしき人と電話で話している。原作を読んでいないので詳細はわからないが、このシーンをみたとき、もしかしたら電話は繋がっていないのかもしれないとも思った。

ミチルが、亡くなった父親の部屋の机の引出しの中の点字カードを指先で読みながら涙するかのように、アキヒロは電話ボックスで遠くの母親と話す。たとえ電話が繋がっていなかったとしても、身近な理解者のサポートを必要としていることはひしひしと伝わってくる。


■似たもの同士

このようにみてくると、ミチルとアキヒロは似たもの同士だというのがよくわかる。境遇は違えども、ふたりには以上のような共通点がある。

そして最大の共通点は「ひとりという孤独」に慣れてしまっていることだ。

だれかと繋がっている気持ちがあれば、たとえひとりでいても、本人は孤独を感じない。ところがミチルもアキヒロも、ひとりで生きていくんだ! と気負い、ある時期からはひとりで生きてきた(と思っている)。

カズエはこんな意味のことを言う。

――わたし、ミチルにはかなわない。だって一日中家でなにもしないでいられるミチルはすごい。自分にはぜったいできないから。(セリフは正確ではありません)

ミチルは家でなにもしていないわけではないが、すくなくともカズエにはそうみえるのだ。

おそらくミチルは視力が弱くなってきたときから、やがてひとりで生きてかなくちゃならないんだという気持ちを持ちつづけてきたのだろう。

ひとりで生きていく強さを求めていたかもしれない。そして、強さをもたらすものが何なのかを知った。


■ 孤独という強さ

孤独は時に力になる。
なにかをしようとおもえば、ある程度の孤独は覚悟しなければならない。

たとえば大学受験で志望校に合格しようとすれば、友達と遊びにいく時間を減らして、ひとりで勉強する時間を増やさなければならない。

ひとりになる。孤独になる。これを上手にできないと、予備校に通って予備校生同士ワイワイやっているうちに受験日になり、結局志望校に合格できなかったということにもなりかねない。

予備校に通っていることと、勉強することは同じではない。ひとりでどれだけ充実した勉強ができるか。それが重要だ。

多くの人は、仲間と思える人たちと一緒にいることを望む。だれかと一緒にいればさびしくないし、安心だ。
だから人は、孤独が必要なときも、ついだれかと一緒にいることを望む。

みんなと一緒にいつづけるには、みんなと一緒であると思えなくてはならならいと感じる。ほんとうはみんなと同じである必要はないのだが、自分だけが他の人と違うことを「浮いている」と定義して恐れるようになる。

ひとりで生きていくと決めたアキヒロは、職場の同僚たちから「浮いている」と思われることをなんとも思っていない。孤独は強さを与えてくれるし、なにより孤独に慣れてしまった。

だからこそ、はじめのうちは同僚に飲みに誘われても、今夜はちょっと用事が、と一応理由をつけて断っていたのが、そのうちあからさまに聞こえないかのように無視するようになったのだ。

ミチルも孤独の力を知りつつも、それに慣れてしまった。だから親友カズエの、ひとりでも外出するようにという勧めを、理由をつけて断るのだ。


■ 分身

カズエはそんなミチルを一度突き放す。そんなカズエ冷たい人のようにも思えるが、親友だからこそ、ミチルをおもえばこその気持ちの表れなのだ。

実はカズエにとても似た役割を持つキャラクターがいる。それはアキヒロの職場の先輩・松永トシオだ。

アキヒロは松永トシオに職場でいやがらせを受けており、親友とは真逆なようにも思えるだろう。

しかし、物語における設定上の役割では、ミチルの親友カズエと同じ役割を持っている。

職場でアキヒロにいやがせをする松永トシオ。彼がアキヒロにこんな意味のことを言うシーンがある。

――おまえ、だれも信用していなんだろう? かわいそうな奴だな。(セリフは正確ではありません)

世の中には信用するには値しない人もいる。けれど、まずは自分がだれかに信用されるよう努める。そうそれば信用できる相手にめぐり会えるかもしれない。

松永トシオは同僚によく声をかけている。態度も大きく、他人からみれば印象がいいとはいえないが、他の同僚達にくらべれば年齢もかなり上であるから、自分から声をかけてコミュニケーションをとっている。

いつまでもこんなところでくすぶっていられないよな。といった意味のことを言って、今度海外で事業を興すという松永トシオは、具体的に事業をおこす準備をしているようにはみえず、その容姿の良さや、事業話で景気のよさそうなことを匂わせて幾人もの女性と付き合ったり別れたりを繰り返している。

そんな松永トシオは、アキヒロに自分の姿をみたのだ。
工場の職場は、本来自分がいる場所ではないと思い、いつか海外で事業を、と言ってみせるものの、ここから抜け出す一歩が踏み出せず、女遊びの日々。

それは電車のガード下の安酒場で一杯やりながら、会社の愚痴の合間に、いつかいざとなればデカイことをやってやるぞ、ともう何十年もいいつづけているかのようだ。

そんな自分と同じようなものを、同僚を避けるようにひとりの殻に閉じこもって外に一歩を踏み出そうとしな
いアキヒロに感じたのだ。だからアキヒロをみるとイライラした。まるで自分を見ているかのようであったから。

自分の分身かのようなアキヒロを無視することができなかった。だからアキヒロにいやがらせをした。

一方、カズエは大きな家に生まれ、自由奔放で活発な女の子だが、ひとつのことをやりつづける根気もなく、いっそ結婚しちゃえば楽よね~とも思っている。孤独と向き合ってこれを力として用い、有意義な人生を送ろうという一歩が踏み出せないでいる。

孤独の力を使いこなしているかのようなミチルに嫉妬さえおぼえるカズエは、ミチルに自分の姿をみたのだ。だからこそ、ひとりで外出する練習さえしようとしないミチルを何度も外へ連れ出してみたり、何度も外へ出る練習をするよう促したのだ。

ミチルは家にひとりでいる時間が多いからといって、他人とのコミュニケーションを拒んでいるわけではない。いやむしろコミュニケーションをとりたいと望んでいる。だからこそ杖を取ってひとりで外へ出てみたのだが、なかなかうまく歩けない。その体験から負のデフレスパイラルに陥ってますます外へ出たくない。それはそのままカズエの生き方にもあてはまるのだ。

だからこそカズエはミチルにひとりで外出するよう強く勧める。それをミチルが強く断った時、カズエは一度突き放す。なぜならミチルのことは他人事ではなく、自分の事でもあると感じているからだ。

カズエの突き放し方は他人からみるととても冷たいように見えるのだが、そこには他人事ではない深い思いがあ
るのである。


■ 言葉によらない関係づくり

手紙。はがき。電子メール。歌。

どれも言葉でできている。

言葉はいつも私達の生活の身近なものであり、ときに言葉に傷つけられ、ときに言葉に勇気づけられる。

しかし、小説という言葉で作り上げる作品において、言葉を使わないでふたりが関係を作り上げていくという設定を思いついた作家がいる。

乙一である。

言葉以外ならスポーツを通してだとか、なにかの活動を一緒に行うことで関係を作り上げていくことを思いつくのがふつうだ。

ところが乙一さんは同じ家の同じ屋根の下、全くの他人がひとことも言葉を交わすことなく暮らす状況を作った。
目の不自由が住む家に忍び込んで住み着く男。これだけ聞いたら、身も凍るホラーだ。

ところが乙一さんは、ひとりで生きてきた、似たもの同士のふたりを同じ家で無言で同居させることによってホラーな設定ながらも奇妙な心の交流物語をつくりだした。

まさに脱帽ものである。

人は愛する人を失ったとき涙する。それは、もう愛する人が作り出す空気を感じることができないからだ。

小説や映画でも基本は同じだ。物語の力を使って、いかに愛される「空気」を作り出せるか。

ひとことも言葉を交わさないミチルとアキヒロという状況設定によって「空気」を作り出した乙一さん。その設定を考え付いただけでもすごい。だが思いついたり、考えついたりするだけなら100人に1人ぐらいはけっこうするものだ。

乙一さんがすごいのは、それを物語にしたところだ。思いつく(考え付く)センスと柔軟な思考と、思いつきを形にする技術と勢い。このふたつが揃う人はめったにいない。


■ 恐怖

ミチルとアキヒロにかぎらず、カズエも松永トシオにも共通することがある。

それは「恐怖」だ。

なにに対する恐怖か。――変わることへの恐怖である。

他者とコミュニケーションしたい者たちが、自分の殻を打ち破って一歩踏み出すことへの恐怖。

これはだれにでも経験があることだろうし、だれにでも訪れるであろう感情でもある。

ホラーというジャンルほど人間の感情を描きやすいものはないともいわれる。私もそのとおりだと思う。

ホラーが描き出すもの、それは私たち人間のだれにもある感情だったり、社会の有り様だったりする。

だから私はホラー作品はけっこう好きだ。


■ 光

クライマックスで、ミチルが命の危険に晒されてピンチに陥ったときのこと。
ミチルの視界にボワァとひとすじの光が差し込む。それはわずかな間のわずかな光だが、ミチルが新たに手に入れようとしている未来への光を象徴しているかのようだ。


■ ひとこと

ミチル役の田中麗奈さんがとてもいい。作品の前半で、父親の葬儀にきた母親を自宅の窓から何度も呼ぶシーンがジーンとくる。

田舎の駅。家。工場。

どこにでもある3つの場所で、これほど奥深い作品が作れるとは、原作者の力量はホンモノだ(とかいいつつ原作は未読)。

作品のクライマックスでミチルが謎解きをしたシーンは金田一くんみたいだな、と思ったが、ミステリーの仕掛けだけで終わらせることなく、きちんと謎解きをしたところは好感が持てる(といっても謎解きは基本。だがそれさえしていない作品もある…それはこちら

また、登場人物たちに幸せが訪れたとは一概にいえないエンディングが絶妙だ。

アキヒロは殺人事件の容疑は晴れたが、だからといってヒーローになったわけでもない。むしろ、ますますよくない噂が広まってしまった。

ミチルにしても視力が回復したわけでもないし、すぐにひとりで外出できるようになったわけでもない。

それでも、ミチルとアキヒロはともに一歩を踏み出したのだ。一歩を踏み出す変化への恐怖をともに克服したのだ。

この先のふたりの歩みを知りたいと思わせる余韻を残したエンディングもなかなかうまい。

5分に一度派手なイベントが起こらないと退屈して寝てしまう人や、映画はなにも考えずにぼけぇ~と頭をカラにして笑って観れればいいという人にはまったく向かない。

観ているときも、観終わったあとも、深くいろいろと考えさせてくれる作品だ。

ファミリー -
デート   ○ラブストーリーでもある
フラっと  ◎予備知識なしで観たほうが意外にいいかも
脚本勉強 ◎原作者のセンスと技術はなかなか真似できないが参考に
演出    ○
リアル   △
人間ドラマ ◎
社会    ○
笑い    ―
俳優    ◎佐藤浩市の作業着姿は貴重

4344402146暗いところで待ち合わせ
乙一
幻冬舎 2002-04

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12/02/2006

映画「アジアンタムブルー」

監督:藤田明二
日本/2006年/110分
原作:大崎善生『アジアンタムブルー』

登場人物の心情を反映するカメラ・写真の使い方がいい。若手女優注目度NO.1の松下奈緒松の魅力を堪能し、さらなる可能性と将来を探って楽しむ作品。巷に美男美女のカップルが少ないのはなぜ?

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
編集者の隆二は親友の妻と不倫するなど、投げやりともみえる日々を送っていた。
そんなとき、仕事を通して知り合ったフォットグラファーの葉子と付き合うが、彼女は病に倒れる。葉子の短い余命を共に生きようと、ふたりはニースへ行く。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△山崎隆二
男性。雑誌編集者。

▽続木葉子
女性。フォットグラファー。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
登場人物の心情を反映するカメラ・写真の使い方がいい。若手女優注目度NO.1の松下奈緒松の魅力を堪能し、さらなる可能性と将来を探って楽しむ作品。巷に美男美女のカップルが少ないのはなぜ?

■ 美男美女のカップルが少ないのは

美男美女のラブストーリーって実はむずかしいんです。

ほら、アナタの知り合いのカップルでもいいし、街でみかけるカップルでもいいから思い出してみて。
いわゆる美男美女のカップルって意外と思いだせないものでしょう?

その理由のひとつは「人は自分が持っていないものをほしがる」から。裏をかえせば、人は自分が持っているものはほしくないんです。

だれからも「綺麗だね」と言われ続けてきたAさんにとって「綺麗」は当たり前のこと。なるべく清潔にするよう気づかうことはあったとしても、綺麗になろうと力を入れて努力するなんてことはほとんど必要ないわけです。なぜなら、綺麗は当たり前ですから。

Aさんがたとえ不潔していたとしても、不潔に見えない。不潔でも男ならワイルド系に、女ならカッコいい系だと言われて羨望の的になるんです。

そんなAさんが恋人に求めるものは、自分がもっていないもの。つまり「綺麗」以外のものというワケ。

だから「あんなイケメンに、あの娘ってなんで~??」とか「伊東美咲さんに似ているあの人が、なんで電車男を地でいくような男と??」なんて思ってしまうカップルが実際にいるんですね。

そういった、一見すると不釣合いなカップルというのは、人々の「そうあってほしい」という願望であると同時に「人はないものねだり」の理由によって、けっこうあるものなんですね。

「願望」と「現実」の距離が近く、よりリアルに感じられる「電車男」が人気だった理由はそこにあるのです。


■ 美男美女が付き合うきっかけ

さて「アジアンタムブルー」の課題は、美男美女が惹かれあうきっかけをどうするかです。

葉子は若い美女です。世の中の男は彼女をほおってはおきません。一般の人からは恵まれた条件が揃ったとみなされる葉子がなぜ、かなり年上のエロ雑誌の編集者に惹かれたのか。その疑問を解消してあげなくてはなりません。

そこで、葉子が幼いときに両親が離婚したという、一般的には不幸とみなされるバックグラウンドを持っています。

また、どんどん身長が伸びていったので、子供の頃は「大女」や「デカ女」などと言われて傷ついていたのかもしれません。

そんな葉子が感じている、現実の辛さや空白をよく表したセリフがあります。

「ほんとの世の中よりも、水に映った世界のほうがきれいでしょう?」

そういって葉子は水たまりの写真を撮りつづけます。

辛い現実に直面したとき、人はもうひとつの世界を作ります。それを願望や理想をして持ちつづけることで、逆境や苦境を生き抜こうとするのです。葉子の場合は水たまりの写真を撮りつづけることが、生き抜く手段であったわけです。

その後成長してからは「下心ある親切」には遭遇しても、ほんとうに親切にしてもらったのは隆二さんがはじめて、という葉子。

家庭の事情。身長コンプレックス。かなり年上のエロ雑誌の編集者。これら「隆二に惹かれるための環境づくり」は平均点といったところでしょう。

一方、隆二は親友の妻と不倫しています。エロ雑誌の編集者をしていながら、いま一歩割り切れない。かといって自分の道を切り開いていこうという気迫はない。不倫は別にしても、まぁいわゆるどこにでもいる普通の人です。

どこか人生をあきらめたような無気力系の隆二。そんな彼の生き方になにか理由があるのではないかと探りたくなる人もいるでしょうけれど、容姿にめぐまれた隆二みたいな男性は、そもそも自分が恵まれていることを認識しずらいのです。

テレビのリモコン(松たか子の家庭ではズバコンというらしい)がなくなったら、たいへん不便だと感じるでしょう。人は、失ってはじめてそのありがたみを実感します。

とはいっても、ある程度の経験を積んで人生を歩んでくれば自分が一般と比べてどのような境遇にあるのかはある程度わかるようになります。

隆二もそれはわかっています。でも、他人からみてどんなに恵まれていると思われたとしても、本人にとって大事なものが手に入らなければ恵まれているとは感じられません。

目の前にあるのに、けっして手に入れられない、手の届かない幸せ。

親友。最愛の人。不倫。そんな日々に疲労感が募る隆二。

葉子に癒しを求めた隆二は、いつしか彼女をかけがえのない存在と思うようになります。

隆二が「葉子に惹かれるための環境づくり」も平均点といったところでしょう。

このように葉子には他人と関わりたいという欲求があり、隆二には癒されたいという欲求があるのです。

これが美男美女が付き合うきっかけですね。


■ カメラと写真

水たまりの写真を撮りつづける葉子。それは生き抜く手段であって目的ではありません。

なぜなら、葉子は急遽入ったエロ雑誌の撮影の仕事を喜んで引き受けるからです。

その前にも、はじめてエロ雑誌の撮影現場に見学に行ったとき、自分から写真を撮らせてもらってもいいかと隆二に許可を求めています。

このことから、葉子は水たまりしか撮らないポリシーを持った個性的な作家という地位を求めてはいことがわかります。

はじめて隆二と会って仕事の話をしたとき、葉子は自分の名刺を作っていませんでした。また、写真でお金を稼いだことはありません、とはっきり隆二伝えます。

もちろん、写真の仕事をしたいという願いはあるのだけれど、水溜りの写真を撮ることが目的ではなく、写真という手段で他人と関わりたい、コミュニケーションを図りたいという願いが基本にあるのです。

隆二と付き合い始めた葉子はひとりで地方(松本)へ写真を撮りにでかけたりして写真を撮ることを続けていました。けれど余命1ヶ月とわかってニースにやってきたときは自分のカメラを持ってきていませんでした。

なぜなら、他人とコミュニケーションを持ち、関係を作り上げていくきっかけ・手段として機能したカメラは、隆二という家族を得た葉子にはもう必要ないものだったからです。


■ カメラを手にするのが誰か注目しよう

やがてふたりがニースにやってきたとき、市場で隆二がカメラを手に入れます。ここで注目すべきところは2点です。

ひとつは、ニースでカメラを手にするのは葉子ではなく隆二であること。
なぜなら、葉子は写真を撮るという手段でコミュニケーションを図り、家族を手に入れたのでもうカメラを手にすることはないからです。

ふたつめは、被写体は水たまりではなく人間であること。
「ほんとの世の中よりも、水に映った世界のほうがきれいでしょう?」 と言っていた葉子だけれども、隆二と出会ってからは、水に映った世界よりも隆二がいるほんとうの世の中を精一杯生きるようになったから、もうカメラを手にせずに、水たまりも撮らないのです。


■ 水たまり以外のものを撮るターニングポイント

葉子が水溜り以外のものを撮るようになった瞬間があります。それはひとりで松本に写真を撮りに出かけたときのこと。雨宿りをした軒先に鳥の巣をみつけます。鳥に詳しい隆二を思いながら、鳥の巣とそこにいる鳥たちをファインダーに収めたとき、葉子の身体に痛みがはしり、倒れます。

水たまりに映る世界から「鳥=隆二のいる世界」への転換点で病に倒れる葉子。ここが「病気」と「気持ちのシフト」両方のターニングポイントです。

さて、ニースに来た葉子は、自分が病だとわかったとき、これで隆二さんと一緒にいられると思って喜んだ、という意味のことを隆二に言います。

ということは、病だとわかる前、松本にひとり旅に行った時点ではまだ心のどこかで隆二が去っていってしまうのではないかという不安を持っていたのですね。

だから松本では水たまりの写真も撮っていた。でも隆二への想いがあり、隆二が詳しい鳥をファインダーに収めたのです。


■ 撮る撮られるから、被写体へ

ニースにやってきた隆二と葉子。海が見渡せるベンチに座ったふたりの写真を撮るシーンがあります。

カメラを三脚にセットするのは隆二です。被写体は隆二と葉子のふたり。シャッターはタイマーで切れます。

撮る側と撮られる側の関係ではなく、同じファインダーに収まる関係へ。

関係をつくるために機能したカメラから、関係の瞬間を記録するために機能するカメラへ。

実は、この様子はふたりがはじめて出会うシーンに暗示されています。

葉子が水溜りにカメラを構えシャッターを切る瞬間に、その水溜りを踏んでいく隆二の靴がファインダー内に入ります。その瞬間にパシャリ。

水に「映った世界=内的世界」にいた葉子。その象徴だった水たまりを踏んで葉子の世界に入ってきた隆二。そこに「人との関係=外的世界」のきっかけを得た葉子は、やがて隆二という家族を得ます。

ほかにもこんなシーンがあります。葉子がはじえめて隆二の写真を撮った時のこと。
隆二の背中と水たまりが一緒に映った写真。まだこのときは付き合っていないので、水たまりという葉子の世界に、隆二の後姿が入ってきた状態でした。あくまで水たまりと一緒に映っている隆二。葉子の世界に隆二が入ってきたことを示しているというわけです。

ところがふたりが付き合いはじめ、葉子が病に倒れ、ニースにやってふたりで映った写真もまた後姿(横顔)です。

ほら、あなたが旅行先で写真を撮るとき、たいていは景色を背景にカメラのほうを向くでしょう? それは、カメラの向こう側に、後にこの写真を見るであろう自分や家族や友人や知人を意識しているからです。

でも隆二と葉子はカメラに背を向けてベンチに座っています。

自分がその写真を見ることがないとがわかっていて、見せる相手もこの世にもいないことをふたりは、特に葉子はわかっているから……。でもこの海の先にあるものの方向へ向いているふたりの、ニースの海が見えるベンチのショットは、海外、海、後姿というちょっとオシャレな感じも手伝って、象徴的なものとなっています。


■ 松下奈緒

隆二役の阿部寛さんと葉子役の松下奈緒さんは、ふたりとも日本人にしては背が高いんです。

日本の町をふたりが並んで歩くシーンでは、あたまひとつ飛び出た巨人がいるかのような、ちょっと不思議な映像になっています。

ドラマ「結婚できない男」が阿部寛さんのためにあった作品というならば、映画「アジアンタムブルー」は松下奈緒さんのためにある作品といえるでしょう。

松下奈緒さんはTVドラマ「タイヨウのうた」や「恋に落ちたら~僕の成功の秘密」や「人間の証明」に出演した女優さんで、3歳からピアノをはじめた現役の音大生でもあり、作曲家・ピアニストとしてもデビューしました。

若手女優さんのなかで、松下奈緒さんはズバ抜けています。ちょっとカワイイ、ちょっと綺麗というのではなく、明らかに「素材」が他と違います。

よく100年に一度の逸材といいます。けれど100年なんて大袈裟で、かえって薄っぺらく聞こえます。ほんとうの逸材をあらわすには、リアルに思える数字が威力を発揮します。

リアルな数字とは具体的には「20年にひとりの逸材」というものです。

松下奈緒さんはまさに20年にひとりの逸材です。皆さんも彼女のオーラをひしひしと感じるからこそ、ドラマにCMに作曲に映画に活躍の場がどんどん広がっているのですね。

松下奈緒さんがどのくらいオーラを持っているか。ドラマ「タイヨウのうた」で、いまや飛ぶ鳥を落す勢いのある沢尻エリカさんと共演したときのことです。

ふたりの共演シーンでは、あの沢尻エリカさんが、コンビニに買物に来たジャージ姿のヤンキーおネェちゃんに見えてしまったほどです。ふたりの共演シーンが少なかったのが沢尻エリカさんにとっては幸いでしたね。

つまり、松下奈緒さんが画面に現れると、空気が変わるのです。

「隆ちゃん、松本は田舎じゃないよ」といったような意味のセリフを葉子がいうシーンがあります。このシーンはけっこうシリアスなところなのですが、あえて葉子はこんなことを言って場を和ませたのか、単に天然なのか。
そんな葉子のキャラクターをわずかひとことのセリフで表現することができる松下奈緒さんは、もしかしたらバラエティにも向いているかのかもしれませんね(バラエティ番組「ぷっすま」にゲスト出演していましたネ)。

そんなふうに松下奈緒さんの今後の活躍の場を想像したり、今度はあんな役を演じてみたらいいかもと思ってみたり、といったことができるんですね。

「アジアンタムブルー」は物語を楽しむというより、松下奈緒さんの魅力を堪能し、さらなる可能性と将来を探って楽しむ、そんな作品です。


■ ひとこと

葉子は病気によって信じられないほど痩せていくという設定です。病気が進行してから葉子が服を脱ぐシーンがあります(背中が見えるぐらいですが)。

いやはや、スレンダーというか、ほんとうに痩せていますね。生で見て痩せている人でも、テレビや映画に登場するとちょっとふくよかに見えるといいます。だから、女優さんのなかにはなるべく痩せるようにしている人もいるそうです。

そうすると、松下奈緒さんはスクリーンで観ても、超スレンダーなのですから、実際ははたしてどのくらい痩せているのかと思ってしまいます。

今が旬の昇り調子の若手女優といえば沢尻エリカさんや長澤まさみさんだといわれていますが、松下奈緒の注目度はとても高く、まだまだ未知数の部分も多く、今後の成長が大いに期待されます。

松下奈緒さんにも阿部寛さんにも興味がないという人は、まちがっても観に行ってはいけません。途中で寝てしまうでしょうから。

キャラクターの心情を表すアイテムとしてのカメラ・写真の使い方はいいですね。

カメラ・写真が好きで、主演ふたりに興味ある方にオススメです。

ファミリー -
デート   ○
フラっと  △
脚本勉強 -
演出    ○ 写真の使い方が秀逸
リアル   -
人間ドラマ △
社会    -
笑い    -  
映像    -
俳優    ◎

4048734105アジアンタムブルー
大崎 善生
角川書店 2002-09

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12/01/2006

プロダクト・プレイスメントと「メッセンジャーPC講座」

映画やテレビ番組の中に商品の広告を入れ込む手法にプロダクト・プレイスメントというのがあります。

プロダクト・プレイスメントをわかいやすく描いた映画に「トゥルーマンショー(THE TRUMAN SHOW) 」があります。

アメリカ市民であるトゥルーマンは生まれたときから24時間隠しカメラによってTV番組「トゥルーマン・ショー」として世界中に放送されていました。

彼が住む町も住民も家族さえもすべてフィクションであり、これを24時間放映するテレビ局の収入源のひとつが、トゥルーマンの日常生活の中でさりげなく(ともいえないかも)紹介される商品です。

ハリウッド映画ではプロダクト・プレイスメントを取り入れるのはよくあることです。

例えば「X-MEN2」ではマツダのRX-7。

[アイ・ロボット」では主人公が履く靴にコンバース、トンネル内でのカーチェイスで主人公が乗る車にアウディ。

特に意識して観ていなくても、お気に入りの主人公が着る服や使う道具を自分もほしくなったことはあるでしょう。

映画やテレビでよく使われるこの手法は、実はインターネットと相性がよいのです。

ネット上のコンテンツの画像やテキストをクリックすると、それに関連した商品やサービスの案内ページに飛ぶというのはよくありますね。

ネット上でのプロダクト・プレイスメントの利点は、コンテンツ内にちりばめた商品・サービス紹介へのリンクを埋め込むことで、興味を持った人にダイレクトにアプローチできる点にあります。

映画やテレビだと、作品を見終わったあとにあらためて印象に残ったアノ品物を調べて、気に入ったら買うというように、時間に空きが生じます。

しかしネットでは興味を持ったそのときすぐにリンクをクリックすることで知りたい商品・サービス情報を得ることができるのです。

では、プロダクト・プレイスメントを行う場合、映画やドラマなどの作品と、ネット上の記事形式のコンテンツと、どちらがより高い効果を期待できるでしょうか。

映画の場合はストーリーという強力な装置によって商品をより魅力的に印象深く演出することができます。

一方、ネットの記事形式の場合は興味を持った商品・サービスにすぐにアクセスできるという即効性・利便性があります。

どちらを利用するかは、商品・サービスの質や内容によって変える必要があります。


でも、どちらの利点もある程度活かしたい場合は?

その答えの参考になるのが「ストーリー性を持ったプロダクト・プレイスメント」です。

例えばネットにストーリー性のある記事コンテンツをつくり、そのなかで記事内容と連動した形で商品やサービスを紹介・提示するのです。

ポイントは、連続したストーリー性です。それはまるで連続テレビドラマのように、次回が楽しみとなるような仕掛け=ストーリー性を持たせるのです。

ネット上での商品紹介というのはもう履いて捨てるほどあります。そのため、読み手はそれが商品・サービス案内や紹介ためだけに、その場限りで作られたコンテンツかどうはすぐにわります。

プロダクト・プレイスメントはすでに「日常」となっている現在、たとえ商品・サービスの案内や紹介だとモロバレでもいいのです。

読み手にとってそれが有用で、なおかつ楽しみながら得る情報ならば、むしろ歓迎されるでしょう。

では具体的にどんな「型」が考えられるのか?

その例としては「メッセンジャーPC講座」が参考になります。

タイトルからも想像がつくとおり、メッセンジャーを使うという状況設定で行うPC関連の講座です(無料)。

これは、モバイルコンテンツのひとつで、男性社員と派遣女性がメッセンジャーを使ってやりとりするなかで、PCの技(ショートカットキー)を学べるというものです。

週2回更新。1回の分量は1000文字程度。
最大の特徴は、1回完結ではない、連続性のあるストーリーとなっている点です。

モバイルコンテンツですので、1回に多くの分量はありませんが、連続ドラマのように続けて読むと楽しい仕掛けがいろいろと施されています。

映画やドラマといった(連続性のある)ストーリーに、PC技という名の商品・サービスを盛り込む。

ネットとプロダクト・プレイスメントについて大いに参考になる事例はぜひ抑えておきましょう。


※公式モバイルサイトにて約1年3ヶ月連載していた【メッセンジャーPC講座】は、載終了しました。


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