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11/25/2006

映画「トゥモロー・ワールド(The Children of Men)」

監督:アルフォンソ・キュアロン
アメリカ・イギリス/2006年/109分
原作:P・D・ジェイムズ『人類の子供たち』

目線カメラとワンショット(長回し)が冴え、一瞬で作品世界へ観客をひき込ませる映像密度の濃さがたまらない。セオがサンダルを履く意味とは? キーが妊娠を明かすのはなぜ牛舎なのか? ヒントはイエスと「人類の救い」。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
人類には18年間子供が生まれていない西暦2027年。イギリスのエネルギー省で働くセオはある日、地下組織FISHに拉致され、元妻で組織のリーダーのジュリアンから、女性・キーのために政府の通行証を手配するよう求められる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△セオ
男性。エネルギー省の官僚。

▽ジュアリン
女性。セオの元妻。地下組織FISHのリーダー。

△ジャスパー
男性。セオの友人。

▽キー
女性。妊婦。

▽ジュアリン
女性。セオの元妻。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
目線カメラとワンショット(長回し)が冴え、一瞬で作品世界へ観客をひき込ませる映像密度の濃さがたまらない。セオがサンダルを履く意味とは? キーが妊娠を明かすのはなぜ牛舎なのか? ヒントはイエスと「人類の救い」。

■「金の卵」「よい大学よい会社」の嘘がバレたあと

希望が見出せない時代。
それは西暦2027年でなく、現在でも同じような状況だともいえる。

特に日本社会では、組織や集団が人々に見せつづけてきた「夢と希望」が嘘であることがもうずいぶん前にバレてしまった。

例えば1960年代の東北の田舎の中学校教師が、どうやって東京の会社のことを知ることができただろうと考えてみよう。

中学を卒業して東京の会社に労働者として就職して辛い仕事でも一生懸命真面目に働けば、やがては報われてよい暮らしができるというならば、なぜその教師は東北の田舎町で安月給の教師を続けているのか?

その教師は東京にあるいくつもの会社のことをどのくらい知っていたのか。おそらく、なんにも知らなかったのだろう。

当時、都会では安い賃金で使える労働者を大量に必要としていた。

そこで、きみたちには光り輝く将来という「夢と希望」がある、といいきかせて、田舎から多くの中卒や高卒の人間を「金の卵」をもてはやして都会へ連れてきた。まるでハーメルンの笛吹きのように。

田舎の次男坊、三男坊や、女子(おなご)は、都会へ働きに出なければ食い扶持がなかった等、さまざまな事情があっただろう。

そういった経済的な事情はもちろんだが、ここでは「夢と希望」に焦点を絞ることにする。

他人が用意した「夢と希望」に乗るのはある意味で楽である。その「夢と希望」がより大きいと感じるところが提供してくれたものであればあるほど、確実で確かなものだと思えるからだ。

1960年代の東北の田舎の中学生や高校生にとっての、より大きく確実だと思える人とはだれであったか。おそらく学校の先生だろう。学校の先生のいうことに間違いはないと、中学生や高校生だけでなく、現在よりもはるかに多くの親も信じていたのではないか。

1960年代に限らずとも、偏差値の高い大学へ入り、有名な大手企業に入りさえすれば輝ける未来があると親も教師も言いつづけ、信じつづけた時代のことは、今となっては笑い話にもならない昔話が「金の卵」ともてはやされた時代と比べても、本質では大差はない。

組織や集団が提供した「夢と希望」が嘘であるとバレてからもう随分経つが、未だ個人で「夢と希望」を見出せるようにはなっていない。

なぜなら、個人で「夢と希望」を見出す作業をやりつづけてこなかったからだ。

30年間車で送り迎えしてもらっていた人が、明日から自分で運転しろと言われても、すぐには運転できない。30年の間に、車の運転技術と交通法規を学んでおき、運転免許を取得しておいたならば、明日から初心者マークを付けて運転することはできる。それでも運転初心者ならのだから、熟練運転手になるにはそれなりの時間がかかることからも容易に想像することができるだろう。


■ SFの使い方

個人の希望を見出せない男がいる。

彼の名はセオ。エネルギー省に勤める彼は、この18年間人類に赤ん坊が誕生ていない西暦2027年のイギリスで、街の皆が世界最年少の青年(18歳)がファンに殺されたというニュース映像に衝撃を受けて呆然と立ち尽くすなか、コーヒーを買ってさっさと店を後にする。

人類に子供が生まれない「希望のなさ」以前に、セオは自分の「希望」を見出せないでいる。

希望なき主人公の世界に観客を引き入れる仕掛け。それが18年間人類に赤ん坊が誕生していない「希望なき」世界というSFだ。

SFはそれ自体が目的になってはおもしろくない。あくまで、ある事柄を鮮明に映し出す「鏡」の役割を担うのがSFである。

くしくも作品内で、妊婦キーを送り届ける行き先であるヒューマン・プロジェクトと連絡をとることができる、ただひとりの者を「鏡」と呼んでいるのは、世界の姿を映し出すのは「SFという鏡」だということを暗示している。

SFという鏡に何を映したいのか。それは「希望」だ。


■ 焦点

親子の愛を扱った「フライトプラン(FLIGHTPLAN)」では子供を題材としたいた。しかし、その強引な舞台設定と展開にアメリカ合衆国の風刺作かと思わせる作風に「希望」という焦点がブレてしまった。

「フライトプラン(FLIGHTPLAN)」作品レビュー

一方「トゥモロー・ワールド」では、18年間にわたり人類に子供が授からない近未来というSF設定によって、しっかりと「希望」に焦点が合っている。


■ ヒーロー

「トゥモロー・ワールド」は「子供を題材とするので、ならば主人公は母親の女性かというとそうではない。セオという男性が主人公だ。彼には守るべきわが子はもういないが、他人の子供をヒューマン・プロジェクトまで送り届けようと命をかける男。それがセオだ。

セオにもかつて子供がいたというバックグランドはある。しかしわが子を失い、愛する妻とも別れて、活動家としての信念さえも忘れたかのように公務員として希望なく毎日を過ごすセオ。

武術が得意なわけでもなく、武器を自由自在に扱うわけでもない、靴だってビーチサンダルだったりするセオ。地下組織と政府軍との戦闘状態に突入した収容所の市街地で戦火のなかでキーとその赤ん坊を守ろうとするセオ。

自分の希望も見出せない男が、丸腰で靴さえも満足に手に入られないなかで他人の赤ん坊を守ろうとする。なぜなら赤ん坊は「希望」の象徴であり、セオ(人類)が生きるための「希望」だからだ。

セオこそヒーローである。


■ 映像

地下組織と政府軍とが戦闘を繰り広げる市街地での8分強のワンショット映像がある。

単純に入って、カットの数が多ければ多いほど撮影は比較的ラクになる。細切れなカットをいくつも撮っておき、あとで編集すれば幾通りものシーンを作れるからだ。それに、アクションシーンでは特に細かいカットを短い時間内にいくつも使えば、スピード感を出せる。

大雑把にいえば、カットが多いほど、いろんな意味でごまかしがきくのだ。

8分強のワンショット。いわゆる長回し。それもアクションを多用する戦闘シーンだ。俳優、監督、スタッフといったあらゆる人たちがひとつにならなければできないのがワンショットである。

ある作品を観る際、どのくらいの長さのワンショットが使われているかで、監督と俳優とスタッフの心意気と技量を計ることができる。

大概、難しいワンショット(長回し)を使っている作品は評判もいい。たとえばタイのアクション映画「トム・ヤム・クン!」には主人公が4階建てのセットを1階から順に上の階へ向かって登り、せまり来る敵を倒していく4分長回しワンカットがある。

「トム・ヤム・クン!」作品レビュー

では、市街戦のアクションを8分強のワンショットで、というのはどうだろう。

これがいかにスゴイことかは観てもらわなければわからない。


■ 目線カメラ

登場キャラクターたちと同じ視線に据えた手持ちカメラによる目線の映像が多用されている。

これによって、物語内の出来事を観る「観客」の位置から、一瞬で作品内のキャラクターと同じ目線の位置まで引きずり込まれることになる。

観客は傍観者ではいられないのだ。

車で移動中に暴徒達に襲われるシーンや、例の8分強の市街戦のシーンで、主人公は銃を持って戦わずに、妊婦キーやその赤ん坊を守ろうと行動する。

戦闘現場に遭遇したらほとんどの人は逃げ惑うことしかできないだろう。そういった普通のひとりの目線としてカメラがあり、そこに守るべき人が存在することで、戦火のなかを必死に移動するセオと同じ目線でその場にいるかのような感覚に陥る。

こういったドキュメンタリータッチの映像がこの作品の最も特徴的な点だ。


■ イエス

キーが農場の牛舎で妊娠していることを明かし、セオがそれに衝撃を受けるシーンは、イエス・キリストが馬屋で誕生した際に、お祝いに駆けつけた羊飼いたちと3人の博士たちの様子もこんなふうだったのかと思わせる。
なぜ牛舎なのか。おそらく、馬屋だとおこがましいので牛舎にしたといったところだろうか。

セオが靴ではなくサンダルを選んで履くのは、イエス・キリストの時代の日常の履物であったサンダルによるものだろう。イエス・キリストはサンダルを履いて歩き、人間を救うために地上を歩きつづけた。セオもまたサンダルを履き、人類を救う希望であるキーを守るのだ。

またセオは元活動家というが、武器を使わない。武器に手を触れようともしない。攻撃さえしない(車のドアを開けて襲いくる相手にぶつけるぐらいなもの)。収容所に自ら入るときも、兵士の物取りに腕時計を盗られるときに、キーを見失しなわないように急いでいた理由もあるが、自ら腕時計を外して渡す。

そしてラスト、人類の救いの象徴のキーとその赤子を守り通し、安全な場所まで連れてきたセオ。彼は人類を救うために最後はどうなったか。セオの行いは、イエスの生涯を思わせるようになっているのだ。


■ ひとこと

イギリスの名所・土地・ロケ地に詳しい人が観れば、いろいろと趣向を凝らした演出を堪能できるようだ。

西暦2027年の近未来が舞台だが、そこに映し出される出来事や問題や情勢は、現在と変っていないところがあるばかりか、人類の歴史が繰り返されていることを示している。

ファミリー  -
デート   △
フラっと  ○
脚本勉強 △
演出    ◎
リアル   ○
人間ドラマ ○
社会    ○
笑い    -   
映像    ◎  

4150766177トゥモロー・ワールド
P.D. ジェイムズ P.D. James 青木 久惠
早川書房 2006-10

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11/23/2006

「交渉人 真下正義」水戸黄門とニンジンとポイでヒットを狙う方法

「交渉人 真下正義」(本広克行監督 2005年 日本 128分)

テレビで放映され、録画しておいた「交渉人 真下正義」(本広克行監督 2005年 日本 128分)を観た。

この作品は「踊る大捜査線」シリーズのキャラクターのひとりを主人公としたスピンオフ作品だ。

ちなみにスピンオフ作品とは、元になる作品があって、その作品の脇役を主人公としたものをいう。

というわけで「踊る大捜査線」シリーズでお馴染みの室井管理官や雪乃も登場する。しかし今回の主人公は真下正義だ。

「踊る大捜査線」シリーズの主人公・青島とは正反対ともいえる、一見すると控えめな真下を演じたユースケ・サンタマリア。

彼は真下役で注目され、いまやドラマにバラエティに活躍する売れっ子だ。

『踊る大捜査線』シリーズで出世したユースケ・サンタマリア演じる真下が、同じく作品内のキャラクターとして出世して(設定ではたしかキャリアだから出世するのはあたりまえ)活躍する姿を見たいという欲求を刺激するというのがこの作品の唯一といっていいアピールポイントだ。

さて、私は「踊る大捜査線」シリーズは、ドラマを観て、映画は1本観たかな、という程度でよく覚えていない。覚えていない、というか覚えていられないというか、つまりそれがこのシリーズの特徴である。

以前にも話したと思うが「踊る大捜査線」シリーズをひとことで言ってしまうと「演歌」だからだ。

仕事を通してわかりあえる男達。平(ヒラ)だけどみんなでがんばっていこう。といった、日本で生まれ育った人々の「ツボ」を刺激しつづけることに特化したこのシリーズは「演歌でワッショイ」な目的を達成したという意味では成功した。

ツボにはまった観客たちがいることでドラマ→映画とシリーズ化させることができたのだから。


さて、シリーズ化の利点と特徴といえば、ズバリ「キャラクター」である。

青島、室井、真下。

これらの名前を見聞きしただけで、彼らがどんなときにどんな顔をして、どんな行動をとるのかが観客の頭の中ではっきりイメージできるようになると、キャラクターは「ひとり歩き」をはじめる。

「キャラクターが確立されれば物語は勝手に動き出す」

たしかにそのとおりだ。キャラクターさえしっかり確立されていれば、とりあえず物語は動き出す。

車の運転に例えるならば、運転の仕方を知っていれば、とりあえずだれでも車を動かせる。

しかし、運転技術がなければ、急ハンドルや急ブレーキによって乗り心地が悪くなってしまう。

また、田舎の、広くて空いている道を走るだけならよくても、都会の、狭く混んでいる道を走るにはそれなりの運転技術が必要だ。

物語作りにおいても似たようなことがいえる。

観客にカタルシスを与えるには、キャラクターを確立させるだけで終わってはいけないのである。

残念ながら「交渉人 真下正義」は、確立されたキャラクターを使って、シリーズの焼き直しをしたに過ぎない作品だ。

またしても金太郎飴である。どこを切っても断面には金太郎の顔があらわれる。同じように「交渉人 真下正義」のどこを切っても「踊る大捜査線」シリーズが現れる。

オチの決まっている「水戸黄門」みたいなものだ。

だからダメかというと、水戸黄門にも需要があるので、そういった意味ではいいのではないかと思う。

しかし、物語づくりという面では……演歌だからそのあたりの意識は低いのかもしれない……。

では、どこにそれが顕著に表れているか?

それは、犯人が誰かわからないだけでなく、その動機もわからないところである。

映画公開当時に噂ではきいていたのだが、まさかほんとうに犯人がわからないまま終わってしまうとは思わなかった。

犯人がはっきり判明しないまでも、観客には目星がつくようにして、余韻を残す方法を選択たのだろうと想像していたのだが……。蓋を開けてみたら……。

蓋を開けなきゃよかった。と思われても致し方ない。

普通は、犯人についての手がかりを、はじめは観客に気付かれないようにさりげなく散りばめておく。それは、中盤に動きがあったとき、なるほどアレは手がかりだったのか、と思えるようなものだ。

中盤を過ぎると犯人はだれの目のも明らかになり、あとは主人公と犯人との攻防を楽しむ。

または犯人候補を数人に絞ったまま、終盤まで犯人がわからないようにしながら盛り上げる。

このような流れを作るのが普通だ。

しかし「交渉人 真下正義」では手がかりを全く散りばめていない。これは、はじめから犯人がだれかを明らかにしようとしていないことを意味する。

ちなみに終盤に、真下が音楽会に出席するために持っているチケットの番号を犯人が言い当てるシーンがある。これが犯人をつきとめる重要な手がかりではないか? ということは犯人は真下の近いところにいる! などと推理した方もいたと思うが、そんなことをしても意味ないじゃーん、である。

なぜなら、作り手はこれを犯人判明の手がかりにしようなんぞ、これっぽちも考えていないのだから。それはラストで犯人が乗っているかもしれないとされる車がどうなったか観れば一目瞭然である。

おそらく、犯人はだれか? を観客の興味をある程度つなぎとめておくオマケぐらいにしか考えておらずに、真下をはじめとするお馴染みのキャラクターを使って、いつもの方法でいつものようにひとつ作っちゃおうよ。ってなノリだったのだろう。

そもそも、犯人はだれか? という要素が少しでも入っている作品は、たとえそれが推理作品でなくても、観客の興味をつなぎとめておく「旨味」の効果の見返りに、ラストにはきちんと観客に謎解きを提供しなければならない。

それが物語作りの基本以前に、観客への最低限の礼儀である。

例えはよくないかもしれないが、目の前にニンジンをぶら下げて延々と走らせ終えた馬に、目の前のご褒美をあげずに放っておいたらどうだろう?

翌日にまた目の前にニンジンをぶら下げて走らせようとしても……馬はかなり賢いゾ。

犯人の手がかりを提示せずに「交渉人 真下正義」が走りはじめたとき、もしや? とイヤな予感がしたのだが、まさかラストで犯人のものとされる車をあのような形で消し去ってしまうとは!

用済みはポイしちゃえ、といわんばかりだ。もぅ笑うしかない。

ほかにも、肝心のキャラクターの用い方もありきたりだ。

まずは地下鉄広報の男性職員だ。普通ならばこの広報職員が犯人だったというのが定石かなと思う。だが、彼には地下鉄のしくみを説明するだけの役割しか与えられいない。

ほかにも、頑固者の地下鉄司令室の責任者や、頑固者っぽいが人情味溢れる線引き屋や、口は悪いがいい奴の木島や、ただ待ちつづけるだけの女性・雪乃が登場する。

どれにも、ひとつの役割しか与えられていない。

キャラクターに深みを持たせるには、一見すると相反する要素を組み合わせる必要がある。それは、頑固者の地下鉄司令室の責任者がクリスマスイヴの音楽会に母親と待ち合わせているといったような、チョイチョイと片手間でできるようなものではない。

普通だったらこのような作品に客が付くなんてことはありえない。だがそもそも「踊る大捜査線」シリーズのスピンオフ作品であるから、ファンは付いている。演歌という需要もある。

作り手も「演歌でヒット」しか頭にないようなので、観客もそれは承知済みでしょ、といったところか。

だとしても「ニンジンぶら下げておいて、用済みはポイ」はどうなんだ……?

ん? いやちょっとまてよ。

「交渉人 真下正義」を、いや「踊る大捜査線」シリーズを、映画として捉えるからいけないのだ。

あくまで「水戸黄門」と捉えるのが正解だ。

演歌も水戸黄門も需要はあるのだから、あとはその需要を拡大すればヒットさせることができる。「交渉人 真下正義」(「踊る大捜査線」シリーズ)はまさにそんなかんじである。

好きなアイドルのイメージビデオを見る(観るではない)かのような、お気に入りのタレントが映っていればそれでOK、またはお約束の展開と雰囲気を味わえればそれでOK、という性質の映像作品といったところである。

B000B5M7T6交渉人 真下正義 スタンダード・エディション
ユースケ・サンタマリア 本広克行 寺島進
ポニーキャニオン 2005-12-17

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11/11/2006

ライトとLの「光と影」―映画「デスノート」-

■ 名前~ライトとは~

夜神月と書いて「やがみライト」と読ませる。

MOONではなくライト。その意味とはなんだろう?

犯罪のない理想の新世界づくりを目指すライトは「right」=正しいことをしていると確信している。

そしてライトは偏差値が高いとされる大学に通う優等生であり、学生ながらすでに司法試験に合格している。

家は大金持ちではないがライトは公務員の父を持ち、長男である。さらにイケメン(とされる)だ。

世間一般からみて、陽のあたる場所で光り輝いている青年。それがライト=「light」である。「light」には知識や才能の意味もある。

しかしながら、ライトが活躍したいと思っている場には、父によってまだ早すぎるという理由で立たせてもらえない。

ライトはわかりやすい形で父と喧嘩することはない。わかったよ父さん、といったかんじで父の言うとおりにするポーズをとるライト。

そこには、古今東西の物語に見ることができる「父との葛藤」がみてとれる。

そんなわけでライトはいまだ、捜査の世界では陽の光を浴びたことがないのである。


■ 名前~Lとは~

ではL(竜崎)はどうだろう?

Lとはすなわち「light」とするならば、その意味とはなんだろう?

名探偵として犯罪捜査をしているぐらいだから、犯罪のない社会を良しとする考えはライトと同じだろう。

通称「L」とされるその理由は、難事件という問題の解明のために事実を発見するという意味での「light」からLと名乗っているのか?

世界中の捜査員を使うことができ、最新(と思われる)の捜査電子機器を揃え、高級ホテル暮らしもできて自前の捜査本部の施設も持てるLは、おそらく超の付くお金持ちだろう。

世界中の難事件を解決し、世界中を捜査するための指示を出すことができる「力」を持っているLは、捜査の世界では陽の当たる場所にいる。

しかし親というものを知らないというLは、ほとんど外出することはなく、室内でお菓子を食べながら情報収集と分析と推理をする毎日らしく、ファッションにもこだわらずにいつもだいたい同じ洋服を着ている。

そしてライトの大学に姿をあらわしたときは、ミサに「この人なんかキモこわぁい」といった意味のことを言われてしまう。

彼が名探偵だと知らない一般の人々からすれば、いまだ陽の光を見たことがないかのように見られてしまうのがLなのだ。


■ ライトとL~表裏一体~

ライトもLも犯罪のない社会を目指し、己の知識と才能と分析能力で事件の謎を解くカギを発見するという意味での「light」では同じだ。

ふたりは年齢もほぼ同じであり、同じ性別である。

いわばライトとLは表裏一体なのである。

なぜなら、光は影があるからこそ存在し、影は光があるからこそ存在するからである。


■ ライトにとっての「光」

ライトは少しでも早く自分が活躍できる場がほしいと願っていた。しかし活躍の場を獲得するよりも以前に、自分が活躍する場の理想と現実、そして限界を知る。

そんなときデスノートを手に入れたライトは、絶望から希望へ一気にメーターが振切れたのだ。

ライトはデスノートを手に入れるまでは、自分には光が当っていないと感じていた。光が当る素質と才能を持っているのに、光が当っていない自分を「影」の状態だと思っていた。

だからデスノートを手に入れたとき、新世界を作る「光」になれると思ったのだ。


■ Lにとっての「光」

Lにとっての光とはなんだろう。

捜査の世界で「光」を浴びるLはそれで満たされていたかというと、そうでもない。

過度な甘党でいつもお菓子や甘い飲み物を摂取しているLは、コンピュータに囲まれた部屋でひとり黙々と捜査を続けてきた。

そんなときLはキラ事件を通して、諦めかけていた家族という「光」を垣間見たのだ。具体的には夜神総一郎との出会いがすなわち「光」である。

夜神総一郎との出会いにより、Lにとっての新世界の「光」は日に日に輝きを増していった。


■ 映画「デスノート」のラストのワケ

だが、ライトとLは表裏一体である。

光が消えれば影も消える。影がなくては光もない。

だから、ふたりのラストはあのようになったのだ。


■ キャラクターの作り方

前回の映画「DEATH NOTE デスノート the Last name」レビューでは、Lを中心に取り上げて、Lの成長物語であると書いた。

そのもうひとつの意味は、ライトを仮に「light」とした場合に見えてくる、ライトとLの両者の物語という意味でもあったのだが、実は前号の発行後に、読者のCYDERさんからのメールをいただいた。

そこにはこうあった。

気づいたのですが、デスノートが[L]の物語だとおっしゃるんで気づい たんですけど、[L]も[夜神ライト(L) Light]も両方Lですよね。コイン の表と裏なんじゃないでしょうか?トトロの五月とメイ(May)のように。 湯婆婆と銭婆婆のように。


そのとおりである。
ジブリ作品におけるキャラクターの表裏一体の例までも付けてあり、なるほど☆と思った。

ちなんみにCYDERさんのブログはこちら。

CYDER's"The Movie Lover"


CYDERさんが言うように、ライトとLは表裏一体である。ひとりの人間の表と裏だ。

それをふたつのキャラクターに分けて、それぞれの影の部分を増幅させ、そこに一筋の光を差し込むことで、物語がはじまるきっかけを与えた。

このようにひとりの人間の光と影を設定して、それぞれにひとつのキャラクターを作り、お互いにライバル関係にする手法は、物語をわかりやすく、かつ躍動的にする効果がある。

ジブリキャラクターの他に、例えば「機動戦士ガンダム」のアムロとシャアも全く違うキャラクターのようでありながら、実はひとつのキャラクターの光と影を分けたものとみてとれる。

詳細説明は省くが、アムロもシャアも核(コア)の部分では似たものを持っていたことはララァの出現と死によってわかりやすく提示されている。ガンダム1年戦争を観たことがある方々はあとでそのあたりを思い出してみるといいだろう。


■ ヒットの秘訣は「ひとクッション」

「名前」を知る・知られることについては、日本には「言霊」という言葉があることからもわかるように、名前を知ることは、古来より「力」を得る方法のひとつとされていたことがうかがわれる。

そもそも言霊とは、古代日本で言葉に宿っていると信じられていた不思議な力のことをいう。

ある言葉を発すると、その言葉のとおりになるというのは、現代でも目標を掲げてそれを毎日口に出して言うことで目標達成を願うという行為にみることができる。

相手の本当の名前を知るということは、相手を意のままに操ることもできるということにもなるというわけだ。

では、ある名前を思い出していただきたい。その名はハイタカ。

そう、映画「ゲド戦記」のゲドが使う通称名である。「ゲド戦記」でも名前が重要な要素として使われていたが、その使い方が映画「ゲド戦記」ではもう一歩、二歩であった。

その点、一見すると「名前の効用・言霊」という題材を使っていないよにみせて、ひとクッション入れて巧みに使っているのが「デスノート」である。

ひとクッションとはアイテムとしてのデスノートだ。

顔を見れば本名と余命がわかるという「死神の目」によってデスノートに名前を書かれた者は……。

いやはや、原作者は「名前」を題材にすごいアイテムをよくぞ思い付いたものだなぁと思う。


■ ひとこと

映画「DEATH NOTE デスノート the Last name」のオープニング週末の興行成績が出た。

今年公開された邦画の1位を記録。公開初日の11月3日から5日までに97万人を動員。興収は12億円を突破したという。

頭ひとつもふたつも出たフジテレビの大捜査線関連シリーズがドル箱ならぬ円箱になったので、いまやどこのテレビ局も映画でヒットを飛ばすことに躍起になっている。

日本テレビはヒットのために映画の前編と後編の公開時期を近づけた。

この方法に賛否両論あるが、ヒットはした。

そのあたりのことはこちら↓

ついに出た!飛び級の変化球―映画「デスノート」―


その他関連記事

映画「DEATH NOTE デスノート 前編」作品レビュー

映画「DEATH NOTE デスノート the Last name」作品レビュー
 

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11/08/2006

ついに出た!飛び級の変化球―映画「デスノート」―

映画「デスノート」が公開3日間で観客動員数約97万5000人、興行収入約12億円に達した。


公開3日間は3連休だったので、通常の土・日とは違うが、「LIMITOF LOVE 海猿」の9億6500万円)を抜いたとみていい。


ここで、両作品の公開までの道のりをふりかえってみよう。


LIMIT OF LOVE 海猿」は三部作から成る。
第1作は映画「海猿」。第2作は連続テレビドラマ。そして第3作が映画「LIMIT OF LOVE 海猿」。


フジテレビと東宝を中心とした伊藤英明、加藤愛主演の「海猿」は、映画2本によって真中のドラマを挟む、いわばサンドイッチ型だ。


映画「LIMIT OF LOVE 海猿」公開までに、映画とドラマを通して作品世界と登場キャラクターにじゅうぶんに馴染んでもらうといった、観客熟成タイプの方法でヒットさせた。


映画「デスノート」は二部作から成る。
第1作は、映画「DEATH NOTE デスノート 前編」。これは6月に公開されたばかりで、まだDVD・ビデオになっていないが、10月27日に日テレ系の金曜ロードショーで放映された。


通常よくある、

(1)映画公開→(2)DVD・ビデオ→(3)有料放送→(4)テレビ放映

の順序を、一気に(1)の次に(4)へと飛び級した格好だ。


こうして映画「DEATH NOTE デスノート 前編」がテレビで放映された約1週間後に、映画「DEATH NOTE デスノート the Lastname」を公開した。


まだDVDにもなっていない前編がテレビで放映され、後編の公開が近いために、視聴率は良かったようだ。


そして、ひとたび前編を観れば、当然のように続きが観たくなる。


例えば大好きな連続ドラマが週1回の放映で、次週が待ち遠しいときに、ドラマ全巻が揃って手元にあれば、明日の仕事が朝早くても、つい次の回のドラマを観たくなってしまうもの。いわば推理ものタイプでヒットさせたのが映画「デスノート」なのである。


つい先を知りたくなる。まさにそんな気持ちにさせるのが、後編公開1週間前に前編をテレビで放映するという「変化球技」なのだ。


ということは「デスノート」は連続ドラマ向きなのだ。(実際に2006年11月8日現在、日本テレビで深夜に「デスノート」のアニメ版が放映されている)


例えば全12巻のDVD作品というのが最も適した形だが、それを前編・後編に分けて映画にする「変化球技」を使ってまで、欲しかったもの。


それは「映画のヒット」だ。


「踊る大捜査線」シリーズや「海猿」シリーズや漫画・アニメ「ワンピース」でヒットを飛ばしつづけるフジテレビを尻目に、他のテレビ局はなんとしてもヒット作がほしい。


どうしたらヒットさせることができるか。


その答えのひとつが日テレが投げた「飛び級の変化球」だ。


これには賛否両論あるだろうが、なんでもやってみるのもひとつの道だ。


視聴率さえ取れれば、ヒットさえさせれば、なんでもOKの風潮は、なにもテレビ局に限った事ではない。


ユーザーが増えれば、会員数が増えれば、アクセスが増えれば、なんでもOKといったようなことは、どこの業界にもある。


大事なのは、そのである。


「デスノート」前編・後編の観客が、次の日本テレビ関連の映画だからという理由で、映画館に足を運ぶかどうか。


たとえ、原作が面白いから、話題作だからという理由で映画「デスノート」を観た人たちであっても、面白い原作をさらにおもしい映画にするところといえば日テレ、という認識を彼らに持ってもらえたかどうかだ。


その答えは、日本テレビが関わる次回作で明らかになるだろう。


★なんでもやってみるのもひとつの道

★たとえ入り口は作品自体の魅力のみであったとしても、出口では、
 作品をどこが作ったのかを意識してもらえるようにする。
 →【ブランディング】


映画「DEATH NOTE デスノート 前編」作品レビュー


映画「DEATH NOTE デスノート the Last name」作品レビュー

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11/04/2006

映画「DEATH NOTE デスノート the Last name」

監督:金子修介
日本/2006年/140分
原作:大場つぐみ 作画:小畑健 『DEATH NOTE』

Lの成長と、父子の愛と、究極の愛・自己犠牲の物語。コンソメ味のポテトチップには意味が2つある。重要なのは2つめの意味。ヒントは甘~いお菓子にアリ。変化したLの目的とは? 原作はいいのだろう。だが監督は単に「萌え」なシーンが撮りたかっただけと思われてもいたしかたない。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
デスノートを手にしたライトは、恋人の死をきっかけにキラ事件捜査本部に乗り込む。
すでに捜査本部入りしていた名探偵Lはライトを受け入れつつ、キラとの頭脳戦を繰り広げる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△夜神月(やがみライト)/キラ
男性。大学生。デスノートを拾う。

△L/竜崎
男性。キラを追い詰める名探偵。

△夜神総一郎
男性。キラ事件捜査本部長。夜神月の父親。

▽弥海砂(あまねミサ)/第2のキラ
女性。アイドル。

▽高田清美/第3のキラ
女性。さくらテレビ局報道アンカーウーマン

▲リューク
死神

▲レム
死神


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
Lの成長と、父子の愛と、究極の愛・自己犠牲の物語。コンソメ味のポテトチップには意味が2つある。重要なのは2つめの意味。ヒントは甘~いお菓子にアリ。変化したLの目的とは? 原作はいいのだろう。だが監督は単に「萌え」なシーンが撮りたかっただけと思われてもいたしかたない。

■ はじめに

前編のレビューでも書いたが、私は原作を読んでいない。そのため、映画作品としてレビューする。また、少しネタバレもある(結末が予測できそうな文が一部あるといった程度だが)。以上2点をご了承いただきます。

映画「DEATH NOTE デスノート 前編」作品レビュー

↑レビューをサッと読み返してみると、これを数日前に書いた時点では、夜神月(ライト)を主人公として、これにいかに感情移入できるか? を中心に考察していたのがわかる。しかしこの時点で私は「デスノート」シリーズのより魅力的な「みかた」を見つけられないでいたこともわかる。

これが映画制作側による「映画のみかた」の発見を楽しんでもらうための意図した仕掛けだとしたらあっぱれだが、おそらく原作にその要素が入っていたに過ぎないのではないか。

まずは「より魅力的なみかた」とはなんなのかをご説明しよう。


■ 父と息子の物語

古今東西、あらゆる物語によく登場するのは「父と息子」のテーマだ。オイディプス王からスターウォーズシリーズ、その他多くの物語において「父と息子」は重要なキーワードとして登場する。

L(竜崎)は親というものを知らないという。執事のような役割をしているワタリという年配の男性といつも一緒にいる。Lの身の上は明らかにされないので、おそらくLはワタリを家族のように大事に思いながら、ふたりで生活してきたのだろう。

では、ワタリはLにとっての父親か?
いやそうではない。あくまでLはワタリの家族のように思っていたということであり、そもそもLは親を知らず、家族がどんなのかも知らないのだから、父親がどんなものかもわからずにいた。

そんななか、キラ事件によってLが出会ったのが捜査本部長の夜神総一郎だ。

Lの年齢はわからないが、おそらく彼の父親ぐらいの年齢であろう夜神総一郎は、はじめはLの捜査方法に己の信念と相容れないものを感じながらも、捜査のために彼の力を借りることにした。

だが前編において、やがて捜査が行き詰まり、捜査本部とLの間の信頼関係が崩壊しそうになる。それはLがパソコンを通じて語るだけで、皆の前に姿を現していないからという理由によるものだ。

そこでLは捜査本部員たちと顔を合わせる。これがLと夜神総一郎の初顔合わせだ。

メール → 出会い

なんだか出会い系みたいな流れがイマドキっぽいゾ。


■ きっかけは毛布

前編の内容を思い出してみよう。

Lの捜査と推理によってキラの可能性が最も高い者として浮上したのが夜神月(ライト)だ。そこで彼の家での生活を徹底的に監視することにする。こうして他の捜査員からみれば執拗と思えるほどにLはライトに注目する。

それはなぜか?

もちろんLの推理によるとライトが最もキラの可能性が高いからだ。だがそれだけではない。なぜなら、ライトの父親が夜神総一郎だからだ。

夜神総一郎は自分の息子がキラではないと信じて、自分の家のいたるところに隠しカメラとマイクを仕掛けることを了承する。

父親が子を信じる姿にいくばくかの嫉妬に似た感情を感じていたことも、執拗と思えるほどにLがライトを監視する理由の一部になっていたと思う。

そして寝る間も惜しんで監視モニターに食い入るように見入るLがふと眠りに落ちたとき、それに気づいた夜神総一郎はそっとLの肩に毛布をかけてあげるのだ。

息子(ライト)を信じている父親は、息子を追い詰めようとしている相手(L)にさえ、そっと毛布をかける。

それができるのも、夜神総一郎はライトのことを信用しているからだ。

繰り返しになるが、他の捜査員からみれば執拗と思えるほどにライトに注目する。それはなぜか?

ライトが最もキラの可能性が高いからという理由に加え、はじめは夜神総一郎とライトの親子の愛に嫉妬していたのかもしれない。

Lは類まれなる分析・推理能力と世界の捜査員を動かせる力も持っている。おそらくLは、ライトも自分と同じくらいの能力があると評価しているはずだ。しかしライトが持ってい自分が持っていないものがある。それは親子の愛だ。

はじめは心の片隅にあった、親子愛への欲求と嫉妬。
しかし、毛布をかけてもらったことをきっかけに、父親の息子(ライト)への深い愛に触れたLに、変化が訪れるのだ。


■ Lの変化

Lはいつもお菓子を食べている。他の捜査員にはお菓子を分けることはせず、ひたすらひとりで食べている。しかし、一度だけLはケーキの串刺しを人に差し出したことある。

その相手は夜神総一郎だ。ケーキの串刺しを受け取った夜神総一郎は甘いものが苦手なのか、それを部下の捜査員にあげてしまう。なにはともあれ、串刺しケーキの贈呈が、Lの変化の兆しである。

次に最も重要なLの変化を紹介しよう。
前編のクライマックス。Lは部屋を出て、事件が起きた美術館に姿を現す。いつも自分が食べている甘~いお菓子ではなく、コンソメ味のポテトチップをかじりながら。

Lとライトの初対面のシーンである。
これが映画「デスノート」シリーズ(といっても前編・後編のみだが)で最も重要なシーンだ。すべてはこのシーンのためにあるといってもいい。コンソメ味のポテトチップには意味が2つある。その前にLの行動について考えてみよう。

Lはこれまで自分の家や部屋から出ることはなかったはずだ。世界中の捜査員を使って情報を集め、それを元に分析・推理して世界中の難事件を解決してきたLは、これまでは部屋の外に出る必要がなかったし、本人も外出は苦手なようで、おそらくほとんど外出することはなかったのではないか。

仮にLを「ひきこもり」としてみよう。

外出。ひきこもりにとってこれが意味することとは?

ひきこもりなんて遠い見知らぬ他人の問題、というわけでもない。仮に、ここにAさんがいたとしよう。Aさんの1週間はざっとこんなかんじだ。

日曜は、昼はパチンコ。夜は友人と行きつけの飲み屋で一杯。
月曜~金曜は、昼は会社に出勤。夜はたまに同僚と会社近くの飲み屋で一杯。
土曜は、昼は近所の打ちっぱなしのゴルフ練習場へ。夜は家で晩酌。

こんな1週間が1年、3年、5年、10年と続く。
決まった場所と自宅を行き来する毎日。同じ点を結んだ線をグルグル。
給料は月給30万円。

ある、ひきこもりとされるBさんは、自宅と近所のコンビニ数軒を行き来する毎日。3ヶ月に一度は大好きな沖縄にスクーバダイビングに行く。同じ点を結んだ線をグルグル。稼ぎはネットビジネスと株で月平均300万円

さて「同じ点を結んだ線をグルグル」ということでは、どちらが「ひきこもり」だろうか。

Lが部屋を出て美術館に姿を現したのは「同じ点を結んだ線をグルグル」の外へ出たことを意味する。

Aさんは自分の1週間の枠外に出なくても、だれにも文句をいわれることはない。だれもAさんをひきこもりとはいわないし、少しは外の空気を吸って他の世界を見ること必要よ、なんてことも言われることはない。

Lも世界中の難事件を解決しているのだから、だれも彼に甘いものを控えて外に出て運動しなさいとはいわない。
それにもかかわらず、Lはいつも自分が食べている甘~いお菓子を持たずに、コンソメ味のポテトチップスを持って「外」へ出たのだ。

さきほど、コンソメ味のポテトチップには意味が2つあると書いた。ひとつめの意味はだれにでもすぐわかるであろう。そう「君のトリックに使われた物がコンソメ味のポテトシップスだということはわかっているぞ」というLからライトへの暗黙のメッセージだ。

まぁあれだけバレバレの使い方をしているだから、Lでなくてもすぐにわかる。だからコンソメ味のポテトチップスのひとつめにはたいした意味はない。あるとすれば、ふたつめの意味を御膳たてするスターターのようなものである。

まさに前編の最後に、Lが変化したことを表して、後編への期待感を膨らませる、そんな重要な役割を担っているのがコンソメ味のポテトチップスのふたつめの意味と役割のうちの前半分なのである。

Lとライトの初対面のシーン。そこには親子愛に触れたことによるLの変化が顕著に表れているのである。

それで、肝心の、コンソメ味のポテトチップスのふたつめの意味の後ろ半分の役割とは?
その前に、なぜLはいつもお菓子を食べているのかを考えてみよう。


■ 甘~いお菓子の意味

Lはメッチャ甘いお菓子をいつも食べている。ケーキの串刺しを甘いタレに漬けてベロベロ。砂糖がいっぱい入った紅茶をズルズル。

甘いものという嗜好品に象徴されるものは何だろう。
心理学的にいうなら、それには意味があり、それにはなにかしらの症状名があるのではないか。

皆から愛されるスーパースターだが、タバコがやめられない(http://fm7.biz/8tr)アルコールを絶てない、といった話はどこかできいたことがあるだろう。

偏愛・嗜好に裏には、満たされぬ欲望と不安があるのだと思う。

Lの場合は親・家族の愛情を知りたいと願い、欲している。その表れが甘いお菓子という記号で表されていたと見てとれる。


■ キャラクターが活きるとは? 

Lが外出するようになった。これがどれだけ重要か。

第2のキラは顔を見ただけで死に至らしめることができるとわかっているにもかかわらず、Lはライトが通っている大学に姿を現す。

もちろん、顔が見られないよう万全の対策で(笑)。

Lが大学にやってくる。このシーンが一番おもしろかった。私にとっては。

たか的に楽しめたのは、キャラクター作りの効用だ。
よく、キャラクターがしっかり構築されていれば、彼らは勝手にしゃべって勝手に動き出すと言われる。

こんなときあのキャラクターだったらこんなリアクションをとるにちがいないと観客(読者)がイメージできたとき、キャラクターが一人歩きを始めたといっていい。

そうなれば、あとは物語の筋を大まかに決めるだけで、ある程度物語が進んでいく。

そんな様子を楽しめるがのが、Lが大学に現れるシーンだ。

万が一にも第二のキラに顔を見られないよう「万全の対策」をとったL。ネタバレはなるべくしない方針なので「万全の対策」と表現しているが、そこには「笑い」がある。

この「万全の対策」効果によって、劇場は笑いに包まれ、一番盛り上がった。

さて大学にやってきたLはいつものキャンディーを持っている。外に出るようになってまだ日が浅いLにとって、人が多い大学に行くというのはかなりのストレスだったにちがいない。いつもの甘いお菓子・キャンディーは、小さな子供がぬいぐるみを持つかのように、Lの緊張を和らげるお守りの効果があるに違いない。

そしてライトとのキャラクターの対比で、キャンディーを持ったLの「万全の対策」の効果が増幅され、結果として劇場は大爆笑に近い状況になった。

この「笑い」はキャラクターが活きた瞬間を象徴している。

そしてここに、コンソメ味のポテトチップスのふたつめの意味と役割が明らかになった。

外出が苦手なLが、お守り代わりにお菓子を持っているとするならば、前編の最後に家を出て美術館に現れたLは、できることならいつものキャンディーを持ちたいはずだ。

しかしお守りともいえるキャンディーを持たずに、コンソメ味のポテトチップスを持った。そこにLの決心の大きさと変化が集約されているのだ。


■ デスノートの正しいみかた

正しいみかたといっても、映画はそれを観た人の数だけ物語があるのだが、より楽しめるみかたというのがある。
結論からいうと「デスノート」は「Lの物語」だ。

ライトを中心として、ライトの視点に立って物語が進行するように見せておきながら、実は原作者が描きたいのはLにちがいない。

だからこそ、一見すると主人公だと思えるライトの、キラとしての行動に駆り立てる事情が描かれていないのだ。

ここで、物語に登場する悪者の、一般的な描かれ方を思い出してみよう。

悪者は悪者として描かれる。もし、悪者の事情を描けば、善と悪という強力な構図を崩しかねない。そのため、必要なキャラクターとして悪者が登場する際には、悪役に同情しそうなエピソードや事情はあえて描かないのだ。

映画「デスノート」では、はじめはライトの視点で物語が進行する。そのため、観客はライトを主人公として捉え、彼に感情移入するための「事情」を知ろうとする。まさに私が前編で試みたように。しかしライトの「事情」は描かれない。

第二のキラことミサの事情(バックグラウンド)は提示されるのに、第一のキラことライトの事情(バックグランド)は提示されないのは意味がある。

つまり、ミスリーディング、いわば「引っ掛け」である。作品のエンドクレジットでもたしかライト役の藤原竜也さんが一番はじめにクレジットされるので、当然のようにライトが主人公だと思う。たしかしライトは主人公ではあるのだが、おそらく原作者が描きたいことを担っているのは松山ケンイチさん演じるLである。

ほんとうの主人公はLである。
原作はどうだかわからないが、Lの心情を彼の内語に頼らずに、あくまでキラとの攻防を通して、内面の成長を行動(アクション・美術館へいく・大学へいく)を通して描いているのである。

Lの成長とはなにか?

それこそ、冒頭にいうとおり「父親との遭遇」による変化である。


■ 変化するLの目的

ほんとうの親子ではないが、Lは夜神総一郎を父親とみるようになっていた。それは最後のLの決断によってわかる。

夜神総一郎の父親としての深い愛を垣間見たとき、Lは彼を助けよと決心する。夜神総一郎を助けるとはすなわち、彼の息子であるライトを救うことでもある。

だからある時期からLの目的は変化する。キラ事件を解決することから、夜神親(父)子を救うことに変化するのだ。

親というものを知りません。といった意味のことをLがいうシーンがある。Lは自分に親(父)の愛を教えてくれた夜神親(父)子を救いたいと思っていた。そのために自分の……。

これこそ究極の愛の形である。

これは、死神レムとミサの関係にもみることができる。いつもそばにいて見守っている者。それがたとえ死神でも、そこに自己犠牲の愛がある。

死神の自己犠牲の愛さえも予測して利用するライトも、さすがにLの愛は予測できなかった。

「デスノート」は親子の愛の物語である。


■ 「特殊能力と頭脳戦」の百貨店といえば

「特殊能力と頭脳戦」でいうなら、荒木飛呂彦氏の漫画「ジョジョの奇妙な冒険」というスゴい作品があるので、それと比べてしまうと不利かなと思う。

「ジョジョの奇妙な冒険」パート1、パート2に登場した特殊能力「波紋」は衝撃的であった。その後パート3で、波紋は「幽波紋(スタンド)」となった。

スタンド能力者たちの戦いは、どんでんかえしの連続であり「特殊能力と頭脳戦」の百貨店だ。

「ジョジョの奇妙な冒険」と「デスノート」には共通点がある。

○ジョナサン・ジョースターとDIOの対決。ジョースター家とDIO。特殊能力「波紋」「幽波紋(スタンド)」

○夜神月とLの対決。夜神家とL。特殊能力「デスノート」

「特殊能力と頭脳戦」が好みの方は「ジョジョの奇妙な冒険」を読んでみてはいかがだろう。私のおススメはパート1、2,3、それにパート5だ。


■ ひとこと

監督よ、アンカーウーマン高田清美役の片瀬片瀬那奈さんのセクシーショットの演出に、やたらと力を入れていないかぁい?

高田清美のセクシーショットには物語構築上の意味はない。そもそも自宅の部屋であんな格好をしている人はまずいないので、ただのサービスショットか、単に監督の趣味・好みだろう。

ミサ役の戸田恵梨香さんや、高田清美のライバルのキャスター役の上原さくらさんのシーンも足を強調した撮り方をしている。これでは物語構築上たいして意味もなくそこだけ気合を入れて「浮かせて」しまう。ロマンポルノ出身というから、なるほど上戸彩を撮るのは楽しかったことだろう。だからといって、デスノートという作品にその特技を活かしても意味はないどころか、内容と関係ないところに注目を集めてしまい、足だけに、作品の足を引っ張ることになる。

まぁ、皆さんもそうだと思うが、私もきれいな女の人は好きだから、まんざらでもないが、もっとほかに演出するところがあるのでは? 優香や上戸彩のプロモーションビデを撮っているほうが本人もノリノリなんじゃないだろうか。

ちなみに優香の役者としての可能性と力量がぞんぶんに発揮されているのは「輪廻」だ。

映画「輪廻」作品レビュー

そうそう「デスノート」の映像化なら、連続ドラマがちょうどいい。
映画では細部がおろそかになりがちなので辻褄が合わなくなることも増える。連続ドラマで引っ張って回数を重ねるほうが向いているだろう。

私も日テレで前編が放映されなかったら、後編を映画館で観ることはなかっただろう。

日テレの宣伝にまんまとのせられたわけである。

デスノートが父子の物語であったことがわかり、原作への興味が沸いたのでそれはそれでよしというところか。

デスノートは、「父」との遭遇、葛藤、親の愛に触れ、愛に応える。そんな父子の成長と愛の物語である。


ファミリー  △ 親子愛の物語だが描き方が子供にはどうなのかな。
デート    - お互いに作品が好きなら
フラっと   △ やはり原作読んだほうがいいのか
脚本勉強  × なかだるみ感アリ
演出     × 女の子を撮るときだけ力が入ってるやん
リアル    × ひとりごとの多い人はレムと会話してる?
人間ドラマ △ L/竜崎視点なら
社会     × 
笑い     ○ 意外性を突いた笑いはなかなか
ヒット性   ○ こういうのがウケる時代なのだね
話題性   ○ 話のネタにはなる
父子愛   ◎ 

▼関連記事
ついに出た!飛び級の変化球―映画「デスノート」―

ライトとLの「光と影」―映画「デスノート」-


こちら↓はオススメレビュー
Kinetic Visionさんの「DEATH NOTE デスノート the Last name」

――――

ひさしぶりに長いレビューになった。

ほんとうはほかにも名前や、兄弟と父親の関係でカインとアベルやエソウとヤコブのエピソードも紹介したかったが、それはまたの機会としよう。

いつ、思い立ったときにブログの記事にするかわからないし、もしかしたらメルマガのほうにUPするかもしれない。

サイドバーを見てもらうとわかるように、映画のメルマガを発行してる。本ブログにUPしない記事も、メルマガに掲載されることもあるし、本メルマガにUPされる記事も、まず先にメルマガに掲載されることがほとんどだ。

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11/03/2006

映画「父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers)」

監督:クリント・イーストウッド
アメリカ/2006年/132分
原作:ジェイムズ・ブラッドリー『硫黄島の星条旗』

アメリカ映画を読み解く最重要キーワード「ヒーロー」を題材に、プロパガンダに利用するために「英雄にされた」若者たちの姿を冷静に力強く描いた力作。プロパガンダによく利用される戦争映画の構造と内幕を、戦争映画で浮き彫りにした手法がズバ抜けている。日米双方それぞれを一作品ずつ描くという、イーストウッドにしかできないであろう二部作の第一作。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
第2次世界大戦期の硫黄島の戦い。
摺鉢山に星条旗を掲げた米軍兵士たちの写真を使い、米国はこのときの兵士たちを帰国させ、アメリカ合衆国の国民たちの士気を高め、国債を買わせるために彼らを英雄に仕立て上げる。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ジョン・“ドク”・ブラッドリー
衛生下士官

△レイニー・ギャグノン
伝令兵

△アイラ・ヘイズ
海兵


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
アメリカ映画を読み解く最重要キーワード「ヒーロー」を題材に、プロパガンダに利用するために「英雄にされた」若者たちの姿を冷静に力強く描いた力作。プロパガンダによく利用される戦争映画の構造と内幕を、戦争映画で浮き彫りにした手法がズバ抜けている。日米双方それぞれを一作品ずつ描くという、イーストウッドにしかできないであろう二部作の第一作。

■ 題材と内容が絶妙にマッチしている

映画はプロパガンダによく利用される。
たとえば、アメリカ合衆国は軍事行動の節目に必ずといっていいほど戦争映画を製作する。映画『ティアーズ・オブ・ザ・サン』(2003年 アントワーン・フークア監督)は、典型的なアメリカ合衆国万歳プロパガンダ映画だ。

これはナイジェリアでクーデターが起こり、米海軍特殊部隊の大尉がアメリカ人の救出任務を遂行するとい
った内容の作品であり、こういった作品の役割は、その映画の製作国の行動(軍事行動)を正当化し、観客(国民)の支持と協力を獲得することにある。

そのため(方法)には英雄・ヒーロー(方法)が必要だ。『ティアーズ・オブ・ザ・サン』では米海軍特殊部隊の大尉はヒーローとして描かれていることからもわかるように、ヒーローとプロパガンダは常にコンビで使われると考えてもいい。つまり、目的と方法の二つを揃えることが典型的なプロパガンダ映画を作るうえでの基本なのでる。

目的のために作られるヒーロー。それが戦争映画の典型であり、その構造を物語の力でわかりやすく、戦争映画の体裁で描いているのが「父親たちの星条旗」なのである。

題材(戦争映画・ヒーロー)と内容(ヒーローの作り方)を、戦争映画で描いるところに、この作品の監督クリント・イーストウッドの凄さの一端が垣間見れるのだ。


■ ハリウッドはヒーローを描きつづけてきた

ハリウッド映画の歴史とは、ヒーローの歴史といってもいい。各時代を象徴するのは映画で描かれてきたヒーローたちだ。

ヒーローには正統派ヒーローとアンチ正統派ヒーローがある。

くしくもイタリアに招かれて撮った「荒野の用心棒」にはじまるマカロニウェスタンの主人公であり、アンチヒーローのひとつの形として70年代にヒットした人気シリーズ「ダーティー・ハリー」の主人公(ハリー・キャラハン役)でもあるの人物こそ「父親たちの星条旗」の監督を務めるクリント・イーストウッドである。

彼の俳優とてのキャリアと「ヒーロー」は切っても切り離せない関係にある。それがよく表れているのがアカデミー作品・監督賞を受賞した「許されざる者」である。

この作品に登場する町の実力者の保安官ビル(ビルときいて思い出す大統領はだれか考えてみよう)は、はたしてヒーローなのか。許されざる者とはいったい誰のことなのか。映画制作・公開当時のアメリカ合衆国の政治と
重ね合わせてみれば、イーストウッドがいうところの「ヒーロー」誰なのか、ヒーローのフリをしている者はだれなのかが浮かび上がってくるだろう。


■ マイノリティや弱者とされる者たち

イーストウッドが制作に関わった作品の主人公はたいていマイノリティや弱者や裏社会の住人たちとされる人々だ。

「許されざる者」の主人公は引退した老人。

「ミリオンダラー・ベイビー」の主人公はアイリッシュ系の年老いた名トレーナー30歳を超えたアイリッシュ系の女性ボクサー。

「目撃」の主人公はプロの泥棒。

そして「父親たちの星条旗」の主人公は一兵士、それも伝令係ネイティブアメリカン(インディアン)居留区出身の兵士だ。

マイノリティや弱者とされる人々の生き様を、中立的な視点で冷静かつ力強く描いてきたイーストウッド監督が、ヒーローと最も相性がいいといえる戦争映画を作った。それが「父親たちの星条旗」なのである。


■ 硫黄島二部作の意味とは

「父親たちの星条旗」は二部作のうちのひとつで、アメリカ合衆国側の視点による作品だ。そして後に公開される「硫黄島からの手紙」は日本側の視点による作品である。

アメリカ合衆国と日本のふたつの視点でそれぞれに作品を作り、二部作とするというのは、普通はまず無い。
先にもふれたように、戦争映画の典型はプロパガンダに利用される性格を持っているからだ。稀に相手国の視点を持った作品「(例「K-19」)が作られることもあるが、それは特別である。

映画「「K-19:THE WIDOWMAKER」作品レビュー

井筒監督が「ブラックホーク・ダウン」を観て、もうこの監督の作品は観たくない、と言った意味のことを言った理由は、アメリカ軍と敵対するソマリア側の兵士や住人たちの様子が全くといいほど描かれていなかったことによる。

このように、プロパガンダ映画の視点はひとつ、というのが常識である。

ところがイーストウッドの戦争映画は硫黄島の戦闘を中心に日米双方の視点からそれぞれを描く二部作だ。これだけでイーストウッドのことを全く知らない人でも、この二部作が普通のプロパガンダ映画でないことはわかるだろう。

そう、普通ではないのである。

プロパガンダ映画を題材にして、作られたヒーローを描き、それぞれの視点による作品をひとつづつ作り、しっかりと双方の視点を取りれる。いわば「ドキュメンタリーとしての映画」の究極形ともいえるのが硫黄島二部作なのだ。

二部作というのはほんとうにスゴいことだ。相手国に配慮したというレベルではない。まるまる1作品を相手国の視点用に作ったのだ。それは「配慮しているというポーズ」にすぎない幾多の作品群との違いをより鮮明に浮き彫りにする。これこそがイーストウッド作品の醍醐味である。


■ 歴史は歴史家によって作られる

歴史とは勝者の歴史である。

戦いに勝った側が自分たちの都合のいいように書いたものが残り、それが歴史となっていく。
無数の出来事の中から、その時代の権力者が選び書かせたものが「歴史」となって残るという言い方もできる。

硫黄島に上陸したアメリカ軍が摺鉢山の頂上の勝利の象徴として星条旗を掲げる。そのときに撮られた有名な写真は、実は星条旗を掲げ代えたときのものである。しかも星条旗を掲げて戦闘が終結したわけではなく、その後も戦闘は続いていたのだ。

しかしながら、この一枚の写真によって勝利のイメージが増幅され、やがてそれが歴史の一部となっていく。まさに、歴史はそれを記す歴史家という名の政治家によって作られていく様子が力強くも冷静に描かれているのである。


■ ひとこと

クリント・イーストウッドがハリウッドで異色ながらも今では巨匠とさえ言われ、高い評価を得ているのも、その監督作を観れば、きっとあなたも「なるほど」と頷けるにちがいない。

歴史・映画というものの姿を、ヒーローを題材に私たちに見せてくれる、ほかではまずお目にかかれない作品、それが「父親たちの星条旗」だ。

ちなみに硫黄島は東京都である。現在は一般人は立ち入りできないという。

ファミリー  -
デート    -
フラっと    ○
脚本勉強  ○
演出     ◎
リアル    ◎
人間ドラマ ◎
社会     ◎

4167651173硫黄島の星条旗
ジェイムズ ブラッドリー ロン パワーズ James Bradley
文藝春秋 2002-02

by G-Tools

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11/01/2006

映画「DEATH NOTE デスノート 前編」

監督:金子修介
日本/2006年/126分

最大の謎はライトの「事情」。まとも(?)な死神リューク目線で「力」を持った人間の成り行きをちょっと悪趣味風に観るのが正解か。擬似作家体験で描かれるのは人間の弱さ。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
デスノートを拾った男子大学生が、自分が思い描く理想的な世の中を作るために次々にノートに名前を書き込んでいく。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△夜神月(ヤガミライト)
男性。大学生。デスノートを拾う。

△L
男性。キラを追い詰める名探偵。


▽秋野詩織
女性。夜神月の恋人。

△レイ・イワマツ
男性。FBI捜査官。

▽南空ナオミ
女性。レイ・イワマツの婚約者。元FBI捜査官。

▲リューク
死神

▽リサ
女性。アイドル。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
最大の謎はライトの「事情」。まとも(?)な死神リューク目線で「力」を持った人間の成り行きをちょっと悪趣味風に観るのが正解か。擬似作家体験で描かれるのは人間の弱さ。

■ プレミス(Premise)はデスノート

プレミス(Premise)とは、ストーリーが発展していくための基礎となるアイデアのと。

そこに名前を書かれた人間は死ぬという「デスノート」はプレミスである。


■ 原作抜きの映画作品のみで

原作がある作品の映画化では、原作との比較というのが楽しみのひとつである。だが私は原作を読んでいないので、当然ながら原作との比較という楽しみ方はできない。

というわけで、ひとつの映画作品をして捉えてコメントする。よって、このレビューは基本として原作漫画を読んでいない人向けであることをご了承いただきたい。


■ 夜神月に感情移入しにくいワケ

物語の主人公は夜神月(以下、ライト)である。物語はライトの視点を軸に進む。

ならば、ライトがデスノートをどのように使うかについて、観客にある程度は納得してもらわなければならない。
「○○なのだから、ライトがあのようなデスノートの使い方をするのはわかる気がする」といった程度の納得は必要だ。

ところが以下(2点)の疑問が沸き起こる。

(1)大学で法学を学び、司法試験にも合格したライトは、法の限界を知って落胆しながらも、なぜ法を学び続けているのか?

推測してみるに、それはデスノートを手に入れてそれを使っていることをバレないよう、普段の生活のリズムを崩さないでいるにすぎないのか。


(2)いくら法の限界を知ったからといって、自分とデスノートの存在がバレるのを阻止するためにノートに名前を書き込み続けるライト。彼をそこまで駆り立てるものはなんなのか?

推測してみるに、それは……力を手に入れた者の驕り・勘違いにすぎないのか。

以上2点の疑問の答えを推測はしてみたものの、それが疑問を解消するじゅうぶんな答えになっておらず、あくまで推測の域を出ていない。

そもそもこのような疑問点を抱かせてしまい、それが作品の最後まで解消されないというのは、主人公ライトの行動に納得がいきにくいということだ。

主人公ライトの行動に納得がいきにくいとはつまり、ライトへの感情移入がじゅうぶんにできていないということである。


■ 秋野詩織の死のはてな

ライトはデスノートを使って恋人の詩織を死に至らしめた。
……ってなぜ恋人を?

詩織は知っていたから。南空ナオミがライトをキラだと確信していたことを。

つまり、詩織は信じている、いないかに関わらず、ライトとキラの関係性を知りすぎていたから殺されたということなのだろうか?

またはライトが告白するように、キラ事件の捜査本部に入るためなのだろうか?

ということは、ライトにとって詩織は恋人でもなんでもなかったということなのだろう。たとえ恋人でなく、普通の人であっても、ちょっとでも自分に疑いを持つ人間の名前を片っ端からデスノートに書き込んでいくライトを、あなたは心の底から応援したいと思いますか?


■ 見える見えないのリューク

リュークは普通の人には見えない。デスノートを触った者だけにみえるのが死神リュークだ。リンゴが大好きでライトの傍を離れない彼は、かといってライトの味方ではない。人間ライトの行動に興味を持っているだけで、中立的な立場を維持している。

デスノートの所有者となったライトは当然にリュークが見える。そしてリュークと会話する。

リュークが見えない普通の人が、ライトがリュークと話している姿を見たとしよう。はたしてどんなふうに思うだろうか。

ひとりごとをブツブツ行っているアブない奴。

さらに、もしライトがこんなことを言ったらどうだろう? 

知っているかい? 死神はリンゴしかたべないんだよ。(映画では文字を使ってこれと似たような内容のことが表現されている)

○ひとりごとをブツブツ

○死神はリンゴがどうのこうの

↑かぁなぁりヤバいね。と思うのが普通だろう。

そうである。ライトは一般的にみれば、かなり「いっちゃってる」のである。

だが、かなり「いっちゃってる」ことを周囲の悟られないよう、ライトはいつもと変らない真面目な大学生を演じている。

よくテレビのワイドショーで聞くことがあるだろう。
「いつも愛想のいい挨拶のする人で、まさかそんなことをするような人には見えませんでしてけどねぇ……」
てなかんじである。

だから、たいていの人はライトの「いっちゃってる」には気が付かない(オヤジさえも)が、名探偵Lはさすがに気付く。

実はライトが「いっちゃってる」度MAXだと一番よくわかっているのはリュークだ。

リュークは死神というぐらいだから、かなりの悪(ワル)だろう。そのリュークが、おまえは死神以上の悪(ワル)だと太鼓判を押したのがライトなのだから。


■ 愛されるダメ人間と、愛されないダメ人間

映画「16ブロック」の主人公ジャックもアル中のロクデナシだが、人間としてのデッドラインを踏み越えてはいなかった。だからこそダメおやじなのに観客に愛されるキャラクターになれたのである。

映画「16ブロック(16BLOCKS)」作品レビュー

ダメ人間というのは、実は愛される第一条件といっていい。

さて映画「デスノート 前編」の主人公ライトはどうだろう?

主人公ライトは若く優秀な学生できれいな容姿をしている。世間一般的にはダメ人間ではなく、優等生だ。

けれどものその内面は、死神にも太鼓判+あきれ驚かれるほどの悪(ワル)である。ダメ人間というレベルではなく、人としてヤバくない? といった次元である。

はたして、そこまでヤバいライトの事情が後編で明らかになるのだろうか?

ライトの事情とは、彼の家庭の事情ともいえとすると……。

「八神くんの家庭の事情」? 

いやちがうがな。「やがみ」違いやん。「八神くんの~」はまったく違う漫画のタイトルやんか。

おほん……。などど遊んでいる場合ではない。

「観客が納得できるライトの事情」が明らかにされない限り、デスノートというプレミスだけでどんどん話が進んでいき、観客は乗り遅れた電車が離れて小さくなっていくのをただ眺めることしかできないままとなってしまう。

私がもっとも関心を寄せる後編でのポイントはこの「ライトの事情」であるが、おそらくそんなことは明らかにならないのではないかとも思っている。

映画「デスノート」シリーズの作り手は、愛される主人公の作り方なんぞに、これっぽちも考えていないように感じる。なぜなら映画「デスノート」シリーズの監督は映画『あずみ2 Deathor Love』と同じ人物だからだ。

映画「あずみ2 Death or Love」作品レビュー


■ トリックになってないし……。

ライトが名探偵Lとその他を欺くために使ったポテトチップスのトリックはわかりやすすぎる。

たとえトリックに使うアイテムはひとつでも、ミスリーディングのためのアイテムをほかに2、3個は散りばめておかなければならない。

そうでなければ、新しく登場したアイテム=ポテトチップスが画面(スクリーン)に映った時点で、手品がはじまるまえに種明かしを見せられたかのようなものとなってしまい、トリックの意外性も驚きもあったものではない。


■ 「しかけ」はひとつにしよう~擬似作家体験付~

そのノートに名前を書かれた者は死ぬというデスノート。

それだけならプレミスとしてはいい。

ところがデスノートに書き込む内容によって、ほぼ書き手の意のままに相手を操ることができるという。多少書き方に工夫が必要だが、ターゲットとする人物の行動をかなり細かく指定できるのだ。

これは、死神の落し物のデスノートというより、ドラえもんのポケットといったほうがいいもしれない。そのノートに書けば、なんでもアリだからだ。

以前にも書いたが、ドラえもんでさえふつうは1話にひとつのアイテムしかポケットから取り出さない。なんでもアリでは物語世界が崩壊するからだ。

デスノートに書けば、ほぼなんでもアリである。
こう考えてみよう。無重力状態を3分体験するのは楽しいかもしれない。だが24時間無重力状態では辛い。

しかけはひとつにする。これが基本である。

ところで、なんでもアリのデスノートを使うライトの体験は、実は作家体験でもある。作家はそのペンひとつで物語世界をどのようにもつくることができる。(実際は確立されたキャラクターによって制限が出てくる)。

デスノートを手に入れたライトは、いわば作家の疑似体験(ドラえもんのポケットを手に入れた)に夢中になってしまったのであり、そういった「力」を手に入れた人間がどのように驕り堕ちていくかを楽しむデュークの視点を通して描く人間の姿というのが、おそらく原作者の描きたいところなのではないだろうか(繰り返すが原作は未読である)。


■ ひとこと

もしも道で100万円拾ったら?

「デスノート」の基本のアイデアはこれと同じようなことである。
シンプルだが強力かつ魅惑的である。

そこから広げていつの間にかドラえもんのポケット状態にしたゾ、といったかんじで「それなり」に観れるのは、人間の弱さを体現するライトがけっして超人でもなく、普通の人間だと思えるからだ。

だからこそ、ライトの事情を丁寧に描けば……と思うのだが、皆さんはどう思われるだろう。

そういうもんだ、と割り切って観ればそれなりに観れる。なにせプレミスはたいへん魅惑的なのだから。
とまぁそんな作品である。

さてさて、原作ではライトの事情をどのように描いているのだろう?

後編の「DEATH NOTE デスノート the Last name」はヒットするだろう。

それだけプレミスの力というのは大きい。

逆をいえば、映画のヒットはプレミスにかかっているといってもいい。

強力なプレミスを持つ映画はヒットの確率も高くなるのである。

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