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11/23/2006

「交渉人 真下正義」水戸黄門とニンジンとポイでヒットを狙う方法

「交渉人 真下正義」(本広克行監督 2005年 日本 128分)

テレビで放映され、録画しておいた「交渉人 真下正義」(本広克行監督 2005年 日本 128分)を観た。

この作品は「踊る大捜査線」シリーズのキャラクターのひとりを主人公としたスピンオフ作品だ。

ちなみにスピンオフ作品とは、元になる作品があって、その作品の脇役を主人公としたものをいう。

というわけで「踊る大捜査線」シリーズでお馴染みの室井管理官や雪乃も登場する。しかし今回の主人公は真下正義だ。

「踊る大捜査線」シリーズの主人公・青島とは正反対ともいえる、一見すると控えめな真下を演じたユースケ・サンタマリア。

彼は真下役で注目され、いまやドラマにバラエティに活躍する売れっ子だ。

『踊る大捜査線』シリーズで出世したユースケ・サンタマリア演じる真下が、同じく作品内のキャラクターとして出世して(設定ではたしかキャリアだから出世するのはあたりまえ)活躍する姿を見たいという欲求を刺激するというのがこの作品の唯一といっていいアピールポイントだ。

さて、私は「踊る大捜査線」シリーズは、ドラマを観て、映画は1本観たかな、という程度でよく覚えていない。覚えていない、というか覚えていられないというか、つまりそれがこのシリーズの特徴である。

以前にも話したと思うが「踊る大捜査線」シリーズをひとことで言ってしまうと「演歌」だからだ。

仕事を通してわかりあえる男達。平(ヒラ)だけどみんなでがんばっていこう。といった、日本で生まれ育った人々の「ツボ」を刺激しつづけることに特化したこのシリーズは「演歌でワッショイ」な目的を達成したという意味では成功した。

ツボにはまった観客たちがいることでドラマ→映画とシリーズ化させることができたのだから。


さて、シリーズ化の利点と特徴といえば、ズバリ「キャラクター」である。

青島、室井、真下。

これらの名前を見聞きしただけで、彼らがどんなときにどんな顔をして、どんな行動をとるのかが観客の頭の中ではっきりイメージできるようになると、キャラクターは「ひとり歩き」をはじめる。

「キャラクターが確立されれば物語は勝手に動き出す」

たしかにそのとおりだ。キャラクターさえしっかり確立されていれば、とりあえず物語は動き出す。

車の運転に例えるならば、運転の仕方を知っていれば、とりあえずだれでも車を動かせる。

しかし、運転技術がなければ、急ハンドルや急ブレーキによって乗り心地が悪くなってしまう。

また、田舎の、広くて空いている道を走るだけならよくても、都会の、狭く混んでいる道を走るにはそれなりの運転技術が必要だ。

物語作りにおいても似たようなことがいえる。

観客にカタルシスを与えるには、キャラクターを確立させるだけで終わってはいけないのである。

残念ながら「交渉人 真下正義」は、確立されたキャラクターを使って、シリーズの焼き直しをしたに過ぎない作品だ。

またしても金太郎飴である。どこを切っても断面には金太郎の顔があらわれる。同じように「交渉人 真下正義」のどこを切っても「踊る大捜査線」シリーズが現れる。

オチの決まっている「水戸黄門」みたいなものだ。

だからダメかというと、水戸黄門にも需要があるので、そういった意味ではいいのではないかと思う。

しかし、物語づくりという面では……演歌だからそのあたりの意識は低いのかもしれない……。

では、どこにそれが顕著に表れているか?

それは、犯人が誰かわからないだけでなく、その動機もわからないところである。

映画公開当時に噂ではきいていたのだが、まさかほんとうに犯人がわからないまま終わってしまうとは思わなかった。

犯人がはっきり判明しないまでも、観客には目星がつくようにして、余韻を残す方法を選択たのだろうと想像していたのだが……。蓋を開けてみたら……。

蓋を開けなきゃよかった。と思われても致し方ない。

普通は、犯人についての手がかりを、はじめは観客に気付かれないようにさりげなく散りばめておく。それは、中盤に動きがあったとき、なるほどアレは手がかりだったのか、と思えるようなものだ。

中盤を過ぎると犯人はだれの目のも明らかになり、あとは主人公と犯人との攻防を楽しむ。

または犯人候補を数人に絞ったまま、終盤まで犯人がわからないようにしながら盛り上げる。

このような流れを作るのが普通だ。

しかし「交渉人 真下正義」では手がかりを全く散りばめていない。これは、はじめから犯人がだれかを明らかにしようとしていないことを意味する。

ちなみに終盤に、真下が音楽会に出席するために持っているチケットの番号を犯人が言い当てるシーンがある。これが犯人をつきとめる重要な手がかりではないか? ということは犯人は真下の近いところにいる! などと推理した方もいたと思うが、そんなことをしても意味ないじゃーん、である。

なぜなら、作り手はこれを犯人判明の手がかりにしようなんぞ、これっぽちも考えていないのだから。それはラストで犯人が乗っているかもしれないとされる車がどうなったか観れば一目瞭然である。

おそらく、犯人はだれか? を観客の興味をある程度つなぎとめておくオマケぐらいにしか考えておらずに、真下をはじめとするお馴染みのキャラクターを使って、いつもの方法でいつものようにひとつ作っちゃおうよ。ってなノリだったのだろう。

そもそも、犯人はだれか? という要素が少しでも入っている作品は、たとえそれが推理作品でなくても、観客の興味をつなぎとめておく「旨味」の効果の見返りに、ラストにはきちんと観客に謎解きを提供しなければならない。

それが物語作りの基本以前に、観客への最低限の礼儀である。

例えはよくないかもしれないが、目の前にニンジンをぶら下げて延々と走らせ終えた馬に、目の前のご褒美をあげずに放っておいたらどうだろう?

翌日にまた目の前にニンジンをぶら下げて走らせようとしても……馬はかなり賢いゾ。

犯人の手がかりを提示せずに「交渉人 真下正義」が走りはじめたとき、もしや? とイヤな予感がしたのだが、まさかラストで犯人のものとされる車をあのような形で消し去ってしまうとは!

用済みはポイしちゃえ、といわんばかりだ。もぅ笑うしかない。

ほかにも、肝心のキャラクターの用い方もありきたりだ。

まずは地下鉄広報の男性職員だ。普通ならばこの広報職員が犯人だったというのが定石かなと思う。だが、彼には地下鉄のしくみを説明するだけの役割しか与えられいない。

ほかにも、頑固者の地下鉄司令室の責任者や、頑固者っぽいが人情味溢れる線引き屋や、口は悪いがいい奴の木島や、ただ待ちつづけるだけの女性・雪乃が登場する。

どれにも、ひとつの役割しか与えられていない。

キャラクターに深みを持たせるには、一見すると相反する要素を組み合わせる必要がある。それは、頑固者の地下鉄司令室の責任者がクリスマスイヴの音楽会に母親と待ち合わせているといったような、チョイチョイと片手間でできるようなものではない。

普通だったらこのような作品に客が付くなんてことはありえない。だがそもそも「踊る大捜査線」シリーズのスピンオフ作品であるから、ファンは付いている。演歌という需要もある。

作り手も「演歌でヒット」しか頭にないようなので、観客もそれは承知済みでしょ、といったところか。

だとしても「ニンジンぶら下げておいて、用済みはポイ」はどうなんだ……?

ん? いやちょっとまてよ。

「交渉人 真下正義」を、いや「踊る大捜査線」シリーズを、映画として捉えるからいけないのだ。

あくまで「水戸黄門」と捉えるのが正解だ。

演歌も水戸黄門も需要はあるのだから、あとはその需要を拡大すればヒットさせることができる。「交渉人 真下正義」(「踊る大捜査線」シリーズ)はまさにそんなかんじである。

好きなアイドルのイメージビデオを見る(観るではない)かのような、お気に入りのタレントが映っていればそれでOK、またはお約束の展開と雰囲気を味わえればそれでOK、という性質の映像作品といったところである。

B000B5M7T6交渉人 真下正義 スタンダード・エディション
ユースケ・サンタマリア 本広克行 寺島進
ポニーキャニオン 2005-12-17

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