ゲド戦記の「?」―物語世界における出来事の意味―
ジブリ映画「ゲド戦記」にこんなシーンがある。
ハイタカが町の武器屋かなにかで、店員と話している。
そこへ背後から魔法使いクモの手下の男が近づいてきてハイタカに声をかける。
手下の男はハイタカを探しているため、とりあえず魔法使い風の格好をしている人に声をかけて回っているのだ。
背後から声をかけられたハイタカが振り返ると、ハイタカの顔が変化している。さっきまで武器屋の店員と話していたいつもの顔ではなく、魔法かなにかで別人の顔に変わっているのだ。
探している男ではないと判断した、クモの手下の男が去っていくと、ハイタカが武器屋の店員のほうに向き直る。――と、そのときは元のハイタカの顔に戻っているのである。
しかし、武器屋の店員は「あ、あんたいったい……」みたいなかんじで驚いてみせる。
さて、武器屋の店員はいったい何に驚いたのだろうか?
カメラワークとしては、だいたい以下のようだったと思う。
○武器屋の店員と話すハイタカの顔を映す。
↓
○背後から近づいてきたクモの手下の男を声をかける。
↓
○振り返るとハイタカとは別人の顔になっている。
↓
○クモの手下が去る。
↓
○武器屋の店員のほうへ向き直ると、元のハイタカの顔が映る。
つまり、観客にはハイタカが自分の身元がバレないようクモの手下にだけ別人の顔をつくってみせた(おそらく魔法によって)ことがわかる。
しかし、武器屋の店員にとってみれば、ハイタカはクモの手下の男と話すために向こうに顔をやって、またこちらに顔を戻したというただそれだけのことである。
ということは武器屋の店員が見ることができたハイタカの顔はひとつ(1種類)であったはずだ。
それにもかかわらず、ハイタカの顔が変化したことに驚いているかのようなリアクションをした武器屋の店員のカットには、きっとなにかの仕掛けがあるのか。はたまた私が気付かなかったショットがあったのかと思っていた。
この点についてジブリ映画「ゲド戦記」を観た知り合いとたまたまこの話になったところ、その知り合いも同じように思っていたことがわかった。
そもそもあのシーンは観客が驚くべきところを、驚きようがないキャラクターが驚いてみせてしまっているのではないか。
仮に武器屋がハイタカの顔の変化を知ることができる状況にあったとしても、わざとらしくビックリするのはいかがなものか。
物語づくりの基本テクニックとしては、キャラクターがビックリしたことを「びっくりした」とセリフにしてしまっては台無しになるので、例えば持っていた物を落す、といったアクションで驚いたことを表現する。
ところがジブリ映画「ゲド戦記」の武器屋の店員がびっくりしてみせたところは、観客に驚いて欲しいという作り手の気持ちが出てしまっている。
その気持ちはわからないでもないが、観客の「驚き」という楽しみを取ってしまうかのようで、たいへんもったいない。
そもそも武器屋の店員はハイタカの顔が変化したことを見ていないのだから一体なにを驚いているのかと、一部の観客に不思議に思われてしまっていては「ハイタカの顔変化」というネタの効果が薄れてしまう。
ネタの効果とは「驚き」であるが、顔変化の前フリもなくいきなり顔変化したので、たぶん魔法で都合よく顔を変えたのだろう、と観客は思う程度でそもそも驚きには至らない。
大抵のストーリー作りでは、顔を変える能力だけを持つ者Aがいて、そのAが重要な場面でその能力を活かすシーンを作ることで、観客に小さなカタルシスを与える。
「X-MEN ファイナルデジション」でいうと、壁をすり抜けられる少女がその能力を使ってどんな活躍をするのか、といったところだ。
▼「X-MEN:ファイナル ディシジョン(X-MEN: THE LAST STAND)」作品レビュー
一瞬で顔を変える(または壁をすり抜ける)という「ありえない魔法(能力)」に一連の流れを付けて「ありえない世界」においても、ある一定の制限(Aというキャラクターは顔を変化させるというひとつの能力しかない。または壁をすり抜けるというひとつの能力しかない)があることを示すことによって、観客に物語世界の枠組みを捉えさせることができるのだが、はたしてジブリ映画「ゲド戦記」ではこの効用を意識しているのだろうか。
ちょっと想像してみよう。もしも物語世界に枠組みがなかったら?
魔法使いだからなんでもできるなら、どんな物語構築上の障害を設定しても、どうぜ魔法でどうにでもるんでしょ、と観客に思われたらおもしろみはなくなってしまう。
「ドラえもん」が1話で1個のアイテムしかポケットから出さないのはこのためである。ひとつのアイテムにはひとつの効果がある。1話でいくつもアイテムが登場してはストーリーが破綻してしまうからだ。
そのためドラえもんの映画では、ストーリーを用意して、その目的を果たす為に複数のアイテムを使うという手法を使っている。
ハイタカは大賢人だという。それがどのくらいすごい魔法使いなのか詳細はわからないが、その呼ばれ方からしておそらく使えない魔法はないというぐらいの大魔法使いなのだろう。
では「ロード・オブ・ザ・リング」の魔法使いがあまり魔法を使わずに、その杖で敵をバンバン叩いていたのはなぜか?
魔法ばかりを使っていたのでは、物語世界の枠組みが薄れるからだ。
さてさてジブリ映画「ゲド戦記」のハイタカ顔変化のシーン。武器屋の店員がハイタカの顔変化を知るカットを私が見逃してしまっただけなのだろうか?
こうった「?」のシーンは、推理モノにはよく使われる。
例えば先日、日本テレビで放送された「名探偵コナン」実写版「工藤新一への挑戦状―さよならまでの序章―」では、バスガイドの西田麻衣(水川あさみ)のセリフに「?」というのがあった。
もちろんこの場合はその「?」が重要な手がかりになっていた。
つまり、観客に「?」と思われる部分があるとすれば、そこには必ず意味がなくてはならないのである。
物語世界では意味もなく雨は降らないのである。雨が降るには必ずなにかの意味がある(主人公の心情を表す。足跡を消す……等々)。
ジブリ映画「ゲド戦記」のハイタカ顔変化のシーン。
そこにはいったいどんな秘密(意味)が隠されているのだろうか?なにかがあるにちがいない。なにせ天下のジブリ作品なのだから……。
(ひとりごと)
名探偵コナン」実写版「工藤新一への挑戦状―さよならまでの序章―」の毛利蘭役の娘。アニメ版と全くイメージが合致しなかったな。ヒロイン役はかなり重要だし、ほかにもっと適任な娘はいくらでもいそうだけど。力ある事務所の強力プッシュで配役が決まったのか? と妙な想像をかきたてられてしまった。
「名探偵コナン」実写版「工藤新一への挑戦状―さよならまでの序章―」は名探偵コナンシリーズの物語がはじまるよりも以前のエピソードだよ。だから工藤新一が高校生の姿であり、まだ江戸川コナンくんではないのだ。
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