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10/29/2006

青春映画のつくりかた―未来へ?過去へ?―


映画「夜のピクニック」のレビューを読み返してみると、あまり誉めていないような印象を受けた方もいらっしゃったかと思う。

だが、私の個人的な感想としては、とてもよかった。

私は青春映画が好きであるからいくらかは甘い評価になりがちかもしれないが、どんな作品のレビューでもなるべく客観的な視点も入れつつ書くので、あのようビューになったのだ。


■ 現役とOB

さて、青春映画というお題で考察するために、同じジャンルの映画「キャッチ ア ウェーブ(CATCH A WAVE)」≪監督:高橋伸之 日本/2006年/116分 原作・脚本:豊田和真「キャッチ ア ウェーブ」(角川学芸出版)≫と比べてみよう。

映画「キャッチ ア ウェーブ(CATCH A WAVE)」作品レビュー

「キャッチ ア ウェーブ」の原作は、原作者の豊田さんが高校1年の夏に書き上げた同名小説である。

ちなに豊田さんは映画『サイン』を観て将来は映画監督になろうと決めたそうだが、まずは原作かなということで小説を書いたという。

男子高校生が夢に描いた青春の1ページがぎっしりと詰まっているのが「キャッチ ア ウェーブ」である。

そこには現役高校生でしか書けないものがある。現役の力に反応した「青春」を共有する読者・観客は彼の作品を応援したくなる。それほど夢・願望をストーレートに描いている作品なのである。

つまり、男子高校生の夢を想像力と物語構築力をもって(荒削りだがそれも青春というテーマにがっちり合致〈笑〉している)作りあげたのが「キャッチ ア ウェーブ」なのである。

もちろん私もそういった男の子の溢れる空想・想像を物語という形にする気合と実行力はとても好きである。

一方映画「夜のピクニック」の原作は、恩田陸さんの同名小説である。恩田陸さんは女性で、実際に歩行祭のようなことが行われていた(いる?)と噂の茨城の高等学校の出身らしい。

とういわけで「夜のピクニック」は実際の行事を元に、そこに女性の目線での想像力を働かせて作った作品といえよう。


■ どんな「感情」が提供されるか


男性目線の「キャッチ ア ウェーブ」は、実際にはまぁ言わないだろうと思わせるセリフが多い。まるで青春ドラマのワンシーンかのような言い回しがほとんどである。

これに対し「夜のピクニック」では、実際の会話に近いかのように思わせるセリフが多い。それがよく活かされていると思ったのは映画のはじめのほうの、歩行祭の出発地点に甲田貴子がやってきたときの長回しのシーンにみてとれる。

まるで映画「スネークアイズ」の冒頭の長回しを思わせるそのワンカットでは、出発地点に到着した甲田貴子の目線を軸に、同級生達が出発前のひとときを思い思いに過ごしている様子が描かれる。そのときの生徒達の振る舞いと会話が普通っぽいのだ。

こういった冒頭の長回しによって「そうそう、学生のときにこんな会話よくしていたよね」という思いと共に、あたかも自分が映画の登場人物のひとりになったかのように歩行祭に参加するかのような気持ちにさせてくれるのである。

では、2作品の比較をまとめよう。

●「キャッチ ア ウェーブ」は想像力を最大限に発揮してより多くの人々の願望・希望という感情を提供する。

●「夜のピクニック」は現実を元に実際に近いセリフを多用して、ほろ切ないノスタルジックな気持ちという感情を提供する。


題材は同じ「青春」でも、一方は「願望」という感情を売り、もう一方は「ノスタルジック」という感情を売る。


■ 方向性―過去と未来―

「キャッチ ア ウェーブ」の豊田和真さんは1988年生まれ。豊田さんが高校1年の夏に書き上げた小説が「キャッチ ア ウェーブ」である。

高校1年の夏。いままさに高校生活がはじまったばかりの夏に書いたのだ。この意味するところはとてもつもなく大きい。いまはじまったばかりの現在進行形の「青春」のなかから生まれた青春小説の矢印は「未来という願望」に向かっているのだ。


「夜のピクニック」の恩田陸さんは1964年生まれ。恩田陸さんが「夜のピクニック」をいつ書いたのかはわからないが、おそらく高校を卒業していくらか経ってからのことだろう。そうでなければ、あのようなほろ
切ないノスタルジックな感情を、狙いすましたかのように呼び起こさせせることはなかなか難しい。なぜなら「青春」と「ノスタルジー」は同居しにくいからだ。

まぁ青春作品といわれているものの大半はおじさんやおばさんが書いているのだから、過去を振り返って自分の青春時代に思いを馳せつつ、資料を集め、想像力を働かせて書くというのがほとんだ。

過ぎ去りし「青春」を振り返って生まれた青春小説の矢印は「過去という記憶」に向かっている。


■ マーケティングの甲斐も宣伝で……。

小説「キャッチ ア ウェーブ」と、第2回本屋大賞を受賞した小説「夜のピクニック」とでは発行部数はどちらがどのくらい多いのだろうか?

おそらく「夜のピクニック」のほうが多いのではいか。

なぜなら「キャッチ ア ウェーブ」にド真ん中の読者層は若者たち(特に男)であり、彼らは小説を読むよりも自分たちの青春を謳歌している最中だからだ。それでも小説が注目されたのは、そういった男の若者の願望がよくわかるおじさんたちの心をも掴んだからである。

「夜のピクニック」にド真中の読者層は20代後半から30代後半といったあたりであろう。彼ら(彼女ら)は、小説を読むことで過ぎ去りし「青春」を追体験して、なつかしくも切ないあの「感情」をほしいと願ったのだ。

本のヒットという点では、そのターゲット絞込みと需要の点において「夜のピクニック」は心憎いほどに上手だ。

本一冊読む時間はなんとか見つけることができて、本一冊買うぐらいの余裕はもちろんあって、かつては10代だった人たちの数というは、現役高校生よりもずっと多いのだから……。

このようにちゃんと研究して上手に書いた「夜のピクニック」も、映画化による宣伝段階でネタバレされてしまうというのは、ほんとうにもったいないなぁと思う。

宣伝担当は恩田陸さんにどんな顔をして会うことができるのだろう。もちろん、宣伝段階でのネタバレを恩田陸さんが了承していのかどうか、そのあたりのことはまったく不明なのだが……。


■ 実はしたたか?

この点においては映画「サイン」を観て映画監督になろうと決めた「キャッチ ア ウェーブ」豊田和真さんのほうが、作品の内容と題材と宣伝については長けていると想像することができる。

「キャッチ ア ウェーブ」の登場人物のひとりである、サーフボードショップの店長役はあらかじめ竹中直人をイメージして書いたというし、一見すると荒削りなところも「青春」というテーマに合致させるためにあえてそうしたかのようにも受け取れる部分がある。

なにせ豊田和真さんは、宣伝のほうが面白いのではいかと思わせるあのM・ナイト・シャマラン監督作品を観て映画監督になろうと決めたのだ。それも「サイン」である。

「サイン」については賛否両論で、これについて語り始めると長くなるのでここではやめておくが、とにもかくにも、作品のプロデュースまで含めた点では豊田和真さんのほうが気を使っている様子がうかがえる。


■ ひとこと

どちらの作品も(たかは映画しか観ていない)青春作品としておすすめできるので、ぜひ両作品を見比べてほしい。

青春系作品における「現役」の力と重要性は、いわゆる少女漫画の作者が10代に近い年齢層であることが多いことからもわかるだろう。

現役だから、現役(とそれに近い層)にしかウケないわけではない。
現役+工夫をすれば、OBのノスタルジィ狙いの作品よりも大きくヒットする可能性はじゅうぶんすぎる程ある。

がんばれ現役生!

ってどこかの予備校の宣伝フレーズみたいになってしまった(笑)

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10/25/2006

映画「夜のピクニック」

監督:長澤雅彦
日本/2006年/117分
原作:恩田陸『夜のピクニック』

それでいいのか宣伝。「種明かし→手品」の順序では手品師の苦労が水の泡。ちょっと毛色の違う映画を楽しみたい、純な気持ちを味わいたい、純な気持ちを持っていることを思い出したい、そんな需要に見事に応えた作品。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
24時間かけて80キロを歩く、学校の伝統行事「歩行祭」。
甲田貴子は歩行祭で賭けをしようとしていた。それは、一度も話したことがないクラスメイトの西脇融に話しかけるというものだ。
そんな空気を感じ取った友人たちは、ふたりが好き合っていると思い、なにかとふたりを近づけようとする。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
▽甲田貴子
女性。高校生。

△西脇融
男性。高校生。

△戸田忍
男性。高校生。西脇融の親友。

▽遊佐美和子
女性。高校生。甲田貴子の親友。

▽榊杏奈
女性。高校生。貴子と美和子の親友。NYに転校した。

▽内堀亮子
女性。高校生。西脇融に好意を寄せる。

△高見光一郎
男性。高校生。貴子と融のクラスメイト。
ロック好き。昼が苦手。夜が得意。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
それでいいのか宣伝。「種明かし→手品」の順序では手品師の苦労が水の泡。ちょっと毛色の違う映画を楽しみたい、純な気持ちを味わいたい、純な気持ちを持っていることを思い出したい、そんな需要に見事に応えた作品。

■ 基本情報

80キロの行程のうち、60キロまではクラスごとに列を作って一緒に歩く団体歩行。残り20キロは自由に歩く(走る)自由歩行。

歩行祭は24時間かけて歩く。つまり、昼も夕方も夜も朝も歩くのである。


■ え? それでいいの?

このブログのレビューでは基本的にネタバレはしない方向だ。しかし、そんな気を使わなくてもいいらしい。というのは映画「夜のピクニック」は、鑑賞前の基本情報として肝心な点がネタバレされているからだ。

え? バラしちゃってるけど、いいの? というかんじである。

さては、これは表面的なネタバレで、実はもっとスゴい本質的なネタが仕込まれているのかも。と思ったが、そんなことはなかった。

作品の唯一の謎で観客の興味を繋ぎとめておくべき「秘密」を観る前の人々にバラしちゃっていいのだろうか?

いやいいわけがない。人気小説の映画化とはいえ、原作を読んでいない人もたくさんいるのだから、作品の肝となる「秘密」のタネ明しは、作品中で行わなければならない。

どんなに原作者や脚本家が頭をひねって物語を作っても、その宣伝方法によって作品のおいしいところが味わえなくなってしまう。――こんなに悲しいことはない。

例えるなら「手品をみてから→種明かし」と「種明かしをみてから→手品」のどちらがいいだろう?

う~む。宣伝担当者はいったいなにを狙ったのか? 


■ 秘密

甲田貴子が歩行祭で賭けをする。その元になる「秘密」がどれだけ大きなことか。

まずはこれを観客と主人公が共有しなくてはならない。

実のところ、この「秘密」というのは突拍子のないこと、というわけでもない。

「実は私、宇宙人なの」とか「実は私、高校生じゃなくて先生なのよ~!」などというものでなく、まぁそういうことってめずらしけどあるかもね、という程度のものである。

とはいっても甲田貴子にとってはとてつもなく大きなことであり、これまでの人生、とくに高校生活におけるその秘密が占める割合は大きい。なにせ「秘密」の重要な鍵を握る西脇融は同じ学校の同級生であるばかりでなく、クラスメイトであるからだ。

甲田貴子にとって大きな「秘密」が、観客にとってもおおきな「秘密」になったとき、それは登場人物と観客の間に「共有される秘密」となる。

おそらく原作小説では「秘密が共有」されるまでの描写に、かなりのページを割いているのだろう。だからこそ甲田貴子と「秘密を共有」した読者が彼女と共に80キロを歩きつづける(ページをめくりつづける)ことで感動が生まれたのだ。


■ 原作が小説である場合の苦心点とは?

小説は時間旅行が得意だ。

「時間軸A」を過去から未来へ移動している最中でも、主人公はなにかのきっかけでスゥッと違和感なく過去の記憶・場面へ移動できる。

ところが映像作品の場合はそうもいかない。
主人公が過去へ思いを馳せる場合、過去シーンが長いと「時間軸B」におけるメインのストーリー進行を妨げてしまうからだ。

というわけで、映像作品の場合はいかに回想シーンを使わずに、観客に必要な情報を提供するかに苦心するのだ。


■ 賭けをしていることを観客にどう伝えるか

まずは甲田貴子が歩行祭で賭けをしており、それがどんな意味を持つのかを観客に知らせる必要がある。いったいどう知らせるのか。

賭けは親友にも秘密のため、歩きながらの親友との会話を使うわけにはいかない。そもそも親友たちとの会話は、甲田貴子と西脇融が好きあっている同士なのではいかというミスリードを誘う仕掛けの役割を担っているのであるから、そこに作品の肝となる「秘密」を臭わすわけにはいかないのである。

そこで甲田貴子の「想像世界」で伝えることにした。つまり、観客席に自分とクラスメイトたちがいる場所を用意し、舞台上のキャラクターが甲田貴子の賭けを読み取り、それとなく示唆する、といったものにしたのだ。

原作小説ではこのあたりがどうなっているのか(映画と同じようなかんじなのか)わからないが、映画を観る限りでは、かなり苦心している様子が窺い知れる。

とはいってもこうしたシーンで使われるVFX効果の使い方には意味があるのでOKだ。


■ いい仕事をしてるキャラクター

ただ歩くだけ。しかも80キロ中60キロは列を作って一緒に歩く団体歩行だ。そこにイベントを仕込むとなるとかなり苦心する。

ここで助けとなるキャラクターが、高見光一郎と内堀亮子である。

高見光一郎はロック好きで、いわば夜行性。昼は足元がフラフラでいつ歩行祭をリタイアしてもおかしくないぐらいにヘナチョコだ。しかし夜になると一転して元気一杯。今流行り(?)のエアギターテクバリバリ! というかんじで歌い踊りながらのハイテンション。将来は自分のような人たちを勇気づけたりみんなを元気づけたりする仕事をしたい! と夢まで語ってみせるのだ。

内堀亮子はいわゆる学校のマドンナ的存在で、そのかわいらしさによって男子生徒をメロメロにしてしまう。そんな自分の魅力を十分に知っている彼女は、気になった異性に次から次にアプローチしていく。まるで恋という名のゲームを楽しむかのように。

そして内堀亮子の今回のターゲットは西脇融だ。貴子の友人たちからすれば、内堀亮子は恋のライバルというか
邪魔者である。

そのため、高見光一郎を含む甲田貴子の友人たちは連携して西脇融から内堀亮子を引き離そうとする。

この連携プレーによって甲田貴子は賭けに勝つことができるのだ。

逆をいえば、高見光一郎と内堀亮子がいなければ、歩くだけの中に「きっかけ」を作ることはなかなかできない。
高見光一郎と内堀亮子。キャラクターとしてちゃんと役割を果たしている。いい仕事してますな。


■ 絵に描いた餅

10代の若い男女が登場となれば題材は「恋」。そんな期待をやんわりとしなやかにかわしてみせる「秘密」の設定は、原作者の腕のみせどころなのだろう。読者(観客)の期待をスッと外してみせるあたりは「純愛ブーム」と違う己が道をしっかり持っているようで原作者に興味がわいた。

ところが登場人物たちにパンチがない。

多くの宮崎駿関連アニメに登場するキャラクターを思わせるかのような「無菌培養された純粋無垢な少年・少女」ばかりだ。

例えば宮崎駿関連作「千と千尋の神隠し」は、けっして優等生ではないどこにでもいそうな無気力系少女・千尋を主人公としたことで、それまでの優等生キャラクターが多かった作品群とは違ったものとなった。そういう意味で「千と千尋の神隠し」は宮崎駿関連作では節目となった作品だ。

さて「夜のピクニック」ではどうだろう?
登場人物たちにはみな基本的にいい子たちばかりである。

皆さんも自分が10代の頃を思い出してみてほしい。今思えば、おどろおどろしい、とても人にはいえないような闇の面を持っていたと当時を振り返る方もいらっしゃるだろう。それが普通である。

「夜のピクニック」にはそういった生身の生徒は登場しない。どのキャラクターも物語構築上の表面的な役割は持っているが、作品に深みを与える裏面的な深みは感じない。きれいなところだけを掬い取ったかのようである。

もともと、深みのあるキャラクター設定・構築は苦手なのか?

人間の、とくに若者の心の闇をも描けばとてつもなく大化けしそうな予感はあるのだが……。
いや、逆をいえば裏(闇)の部分をばっさり切り捨てたからこそ第2回本屋大賞を受賞することができた、といういい方もできるだろう。


■ ひとこと

おそらく原作者は需要をよぉ~く知っているのだ。懐かしくも胸がキュンとなるような切なく心地よい物語世界を構築することにあえて徹したのだと思う。それも小説という格好の舞台で。

だから、これを映像化するにはいくらか難しいところがある。こうした映像化に多少無理がありことを承知で、さらにアナタが純粋無垢な気持ちをまだ少しでも持っているなら、きっと心がジーンがくるに違いない。

甲田貴子役の多部未華子さんは、ほぼ出ずっぱりである。あまり笑わない役どころだが、それゆえに作品の終盤にみせる笑顔によって一瞬で雰囲気を作り出す力にはハっとさせられた。将来が大いに期待できる女優である。

旬の女優・加藤ローサも出演しているが、NYに引っ越してしまった親友という役どころなので、思ったよりも出演シーンは少なかった。

10代の登場人物たちのセリフやリアクションがリアルちっくで、若者をかなり観察・分析して丁寧に作っているように感じた。

それにしても「秘密」のための「恋」のミスリーディングや仕掛けが、宣伝のネタバレによって台無しになっているのは観ていてツライ(>_<)

たとえどんなにいい作品でも宣伝とうまくリンクさせなければヒットするものもヒットしない。逆をいえば宣伝さえうまくすれば、普通はヒットしないような作品でもそこそこヒットさせることができるのだ。

ちなみに作品と宣伝まで含めた手法でたいへん参考になるのはM・ナイト・シャマラン監督である。

ファミリー  - 
デート    ○
フラっと    △
脚本勉強  -
演出     ×
笑い     -
リアル    △
人間ドラマ △
社会     -
青春    ○

4103971053夜のピクニック
恩田 陸
新潮社 2004-07-31

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10/20/2006

映画「16ブロック(16BLOCKS)」

監督:リチャード・ドナー
アメリカ/2006年/101分

愛されるダメおやじといえばこの人。ヒーローの条件を満たしたバディ(相棒)作品。ふたりの対比で浮き彫りになる、願いを実現する方法とは?

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
夜勤明けの刑事が残業を言い渡される。留置所から16ブロック離れた裁判所まで証人護送の任務を言い渡されたのだ。その道中で証人を狙う一味に襲撃される。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
△ジャック・モーズリー
NY市警刑事

△エディ・バンガー
証人

△フランク・ニュージェント
NY市警刑事。ジャックの元相棒。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
愛されるダメおやじといえばこの人。ヒーローの条件を満たしたバディ(相棒)作品。ふたりの対比で浮き彫りになる、願いを実現する方法とは?

■ 16ブロックって、どのくらいの距離?

ニューヨークの1ブロックのストリートとストリートの間は約80メートル。16ブロックでは約1.6キロメートルになる。

その約1.6Kmの距離を車で証人を裁判所まで護送する。

残業2時間もつければじゅうぶんな任務だ。明日は遅出でいいから。といった意味のことをいわれてしぶしぶ引き受けた刑事。

彼がこの物語の主人公ジャック・モーズリーだ。


■ 愛される「ダメおやじ」といえば

二日酔いで顔色が悪く、足が不自由な男。NY市警の刑事とはいえ、どうみても第一線を退いている。
それがどこでわかるか?

それはセットアップでわかる。

あるアパートの一室に突入したチームが室内で死体を発見する。――さて、制服組が来るまで誰かに現場にいてもらわなくちゃぁならない。

そこで「だれか暇な奴呼んで制服組がくるまでアパートにいさせろ」といった意味のセリフのあとに登場するのが、この物語の主人公ジャック・モーズリーである。

アパートにやってきたジャックは同僚たちが引上げてひとりになると、キッチンの戸棚を開けて酒のビンを取り出し、持っていたコーヒーカップかなにかに酒を注ぐ。これ、一応カモフラージュですな。

勤務中なので制服組がきたときに酒ビンを抱えて待っているわけにもいかないので、コーヒーカップの中に酒を注いで、アパートのソファーに座って新聞かなにかを広げ、読むわけでもなくまどろんでいる。というかそこが地下鉄のベンチかなにかだったら、ぱっと見は酔っ払いが座っているかのようである。

これが主人公の初登場シーンである。

こんな、おもいっきりダメおやじな役どころが妙に板についているのはブルース・ウィリスだ。


■ ヒーローの条件

二日酔いで希望を見出せず、証人護送中に車を停めて酒を買いに店に寄り道するジャック。これのどこがヒーローだ? とあなたは思うかもしれない。

しかし、こんな酔いつぶれ寸前のジャックでも証人エディの命を救う。

お! 意外といい奴かもしれない。

ふとそんなことを思わせるのだが、実のところジャックは、はじめはただの正義感からエディを救ったわけではない。

そして証人エディも、根っからの善人ではないということが徐々に明らかになっていく。

つまり、メインキャラクターの2人はけっして品行方正の模範的な人間ではないのだ。

これがヒーローの条件である。

これを聖書のエピソードで説明しよう。

律法学者やパリサイ派たちが、姦通の現場で捕らえた女をイエスのもとに連れて来た。そして、モーセの律法によるとこういう女は石で打ち殺せと命じていますがあなたはどうお考えになりますか、といった意味にことを言った。

するとイエスはかがみ込みんで地面に何かを書きはじめられた。地面に書かれたものを見ると、ひとりまたひとりとその場を去って、とうとうだれも女を咎めようとする者はいなくなった。
〈新約聖書ヨハネによる福音書第8章1-11節〉

つまり、いままで一度も罪を犯したことがない者はいないということだ。

証人エディは善人のように見えるが、かといって罪を犯したことがない完璧な人間ではない。

だがエディはどんな状況になろうともけっして希望を捨てない。ケーキ屋を開くという夢を、どんなときもケーキのレシピが書かれたノートを持ち歩くことでそれを表している。

一方ジャックは、二日酔いでフラフラになり希望を見出せないでいるが、どんな状況になろうともエディを助けようとする。
すべての希望を失った男が最後に見出した「救い」を求めるかのように。それはまるで助けられているのがジャックのほうであるかのようだ。

ひとりは「希望」を持っており、ひとりは「救い」を求めている。

「希望」と「救い」。
多くに人はこれらを追い求める。その代表選手がエディとジャックなのである。

だから2人はヒーローなのだ。


■ ジャックはなぜエディを助けたか

動機がしっかりしてしなければどんなストーリーも成り立たない。

ジブリ映画「ゲド戦記」でいえば、アレンがなぜ国を出て旅立ったのか? に映画を見終わったときにはそれなりの答えがわかるようになってるかどうか?

映画を観終わったときに、この答えが明確に観客にわかるようになっていれば、レゾリュ―ション(解決)となる。

解決→スッキリ→満足度高し。

こうなれば良いのだが、はたしてジブリ映画「ゲド戦記」はどうだったろう。

さて、ジャックはなぜエディを助けたのか。動機は?

これがジャックが再生してくストーリーの核になる部分であり、ストーリー前へ推し進める原動力である。


■ 動機がサスペンス

ジャックがエディを助けた動機はなにか? これがサスペンスである。

サスペンスとは宙吊り。宙吊りになったままの未解決な問題があると、人は気がかりで不安になる。その問題を解決したいと思う。

その思いを持続させつづけることとはすなわち、物語の世界に引き止めておくことであり、この手法が「サスペンス」だ。

サスペンスとして機能するジャックの動機が、襲撃団からエディを守るという行動(アクション)を起こさせ、ストーリーをパワフルに前へ前へと推し進める。

そして作品の後半でジャックの動機が明らかになったとき、酒びたりだったジャックの心境・心情を想像して観客は深く共感するのだ。


■ 越えてはならない一線

ストーリーの後半に、同僚のバックアップが命ともいえる職業環境にあって、ジャックが同僚を敵に回してまでエディの命を守ろうとするのはなぜか?

それは、たとえ二日酔いのダメおやじであっても、人間としての一番大事なものをまだ失ってはいないからである。

人には越えてはならない一線というものがある。

まともな環境下であったり、まともな状態でひとりであったりした場合はけっして越えないこの一線も、特殊な環境下にあったり、異常な状態の集団のなかにあった場合には感覚が麻痺してこの一線さえもみえなくなってしまう。

酒に溺れ、いつも二日酔いに近い状態であってもジャックはまだこの一線を越えてはいなかったのだ。

だからこそジャックとエディは(ストーリー構築・設定上の)バディ(相棒)となることができたのだ。


■ 願いを現実する方法

おしゃべり男と寡黙な男。バディ(相棒)モノの作品にはありがちな設定だ。

それにしてもエディはよくしゃべる。どんなピンチな状況になっても、ずっとしゃべっている。英語の発音はお世辞にもいいとはいえず聞き取りにくい部分もあるが、英語のネイティブであれば普通に聞き取れるだろう。

このしゃべり方はアメリカ社会での出世は難しいと思わさせるものだが、エディはケーキ屋を開く夢を語りつづける。そしてどんなときもケーキのレシピが書かれたノートを持ち歩いている。

そしてエディはジャックに何度も尋ねる。誕生日のケーキにはなんと書いてほしいか?

言葉には力がある。

願いを言葉にする。人に話す。紙に書く。願いを他人と共有するよう努める。

すると、言葉が現実になる。

人間の世界は言葉で成り立っているからだ。

とはいえ、ほんとうに願いの実現に向けて行動している者でなければ「言霊」の力ともいえる言葉の効用は望めない。安酒場で女のコを口説き落とそうと、心にもない夢を語ってみせるポーズには言葉の力は宿らないのである。

エディは数時間の間に何度も命の危険にさらされながらも、ケーキ屋を開く夢を語り続ける。やがてその力はジャックにも伝わる。

それはエディのケーキレシピ本を落としてしまったのをジャックが拾ってあげるさりげないシーンによってわかる。どこにそのシーンがあるか? しっかり観てみつけてみよう。


■ ひとこと

こういった種類の作品は、ある人々にとっては見るに耐えないものだ。

しかし、見るに耐えないと感じるのはまだ「越えてはならない一線を越えていない」証である。だから最もジャックに共感する観客層かもしれない。

すでに一線を越えてしまった者は、まともな感覚が麻痺してしまっているので、なんにも感じない。

そういった意味で「16ブロック」を観てどう感じたかをそれとなく聞いてみると、その人の人間性の一端が見えてくるのである。

ちなみに「16BLOCKS」。末尾に「S」が付く。複数である。

こんなにシンプルなタイトルでも、邦題にすると「16ブロック」となり、数の概念が無くなる。

これが英語の世界と日本語の世界の違いである。

ちなみにシャマラン監督の邦題「サイン」も、「SIGNS」だ。

そうそう、ジャック・モーズリー役のブルース・ウィルスは左利きなんだな。

ファミリー  -
デート     △
フラっと    ◎
脚本勉強  ○
演出     ○
笑い     -
リアル    ○(集団における人間心理)
人間ドラマ ◎
社会     ◎
感覚麻痺  ×


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10/16/2006

劇場版アニメ「時をかける少女」

監督:細田守
日本/2006年/100分
原作:筒井康隆『時をかける少女』角川文庫

いい意味で敷居が低い、物語づくりにおけるビックキーワードをしっかり練り込んだ「走れ真琴」の良質アニメーション作品。これなら評判がいいのもごもっともだ。

ストーリー(概要)
―――――――――――――――――――――
ある放課後。紺野真琴は学校の準備室で転び、タイムリープ(時間跳躍)できるようになる。

ちなみにタイムリープとは、時間と場所を一気に跳躍して現在とは別の
時間・場所にとんでいく超能力のこと。


主な登場人物の紹介
―――――――――――――――――――――
▽紺野真琴
女。高校生。成績は中の下あたり。得意なスポーツがあるわけでもなく、暇つぶしにキャッチボールをするぐらい。

△間宮千昭
男。高校生。紺野真琴のクラスメート。数学だけが得意。

△津田功介
男。高校生。紺野真琴のクラスメート。医学部志望の秀才。スポーツもできて、女子生徒にもモテる。

▽芳山和子
女。紺野真琴の叔母。30代後半未婚。美術館で絵画の修復を担当。真琴いわく「魔女おばさん」。

▽藤谷果穂
女。高校生。紺野真琴の後輩。ボランティア部所属。津田功介に恋心を持つ。

▽早川友梨
女。高校生。紺野真琴のクラスメート。間宮千昭に気がある。

▽紺野美雪
女。中学生。紺野真琴の妹。


コメント・レビュー(Comments・Review)(論評、批評、意見)
―――――――――――――――――――――
いい意味で敷居が低い、物語づくりにおけるビックキーワードをしっかり練り込んだ「走れ真琴」の良質アニメーション作品。これなら評判がいいのもごもっともだ。

■ 身近な主人公

主人公・紺野真琴は17歳の高校2年生。ごくふつうの高校生だ。そろそろ進路を決めなければならない。けれどもまだ決まらない。

女友達がまだ進路を決めていないのにちょっぴり安心しつつも、いつも一緒にいる秀才の津田功介は医学部進学を決めており、夏休みは勉強するという。けれど、もうひとりいつも一緒にいる千昭はまだ進路が決まっていないみたいだ。

多くの人がこういう時期を経験する。進学か就職か。はたまた留学か。ほかにとりあえず上京して思い描いた自分になるべく歩き出すか。

周りのクラスメートはどんどん進路を決めていく。けれども自分は特に何か得意なことがあるわけでもなく、特にやりたいことがあるわけでもない。

がんばって勉強すればどこかの大学や短大に進学できるだろう。就職を希望して探せばどこかに勤めることもできるだろう。

でも、自分がどうしたいかまだわからない。でも決めなくてはならない。

こういった時期というのは多くの人が経験してきたことである。たとえ端からみれば早々と進路を決めた者であっても、いろいろと考え、悩んだ末の進路だったはずだ。

もしも主人公が14歳からモデルとして活躍しており、高校在学中から週末は新幹線や飛行機を使って東京に飛び、モデルの仕事をバンバンこなしているとしたら? 

高校卒業を機に海外でショーモデルとしてデビューすることが決まっていたら?

そんな主人公は特別であり、とても自分(観客)とは重ね合わせることはできないだろう。

主人公・紺野真琴17歳の高校2年生。ごくふつうの高校生だ。

キャラクター設定ですでに基本をしっかり抑えている。

これが観客の主人公への感情移入の第1段階である。


■ 半径3メートルの世界

タイムリープ能力を身につけた真琴がそれを何を使うか。真琴は自分の欲望と都合のためにこれを使いまくる。

もしも、能力のはじめての使い方が世界を救うだったら?

ふつはありえないことだ。なぜなら、そもそもどうやったら世界を救うことができるのか? と考えるところからはじめなければならないからだ。

たいていは、人が「世界」というときの「世界」とは「自分を取り巻く半径3メートル以内」のことである。

家族・友人・学校・職場・趣味のサークル。これがいわゆる半径3メートルだ。

住んでいる町。これが半径1キロメートル。住んでいる区・市。これが半径100メートル。住んでいる度道府県ともなるといったいどのくらいか。

では半径3メートルの中心はどこか?

世界の中心で「世界の中心はアタイよ~」と叫ぶ、というわけじゃないが、世界の中心は自分である。

身に付けた能力を何に使うか。まずは世界の中心にいる自分のための使うのである。それが最も自然で最も頷きやすい使い方である。

紺野真琴はタイムリープ能力を、多くの人々が頷ける「自分のために使いまくる」のである。

これが観客の主人公への感情移入の第2段階である。


■ 能力を何に使うかを考える

はじめは自分の欲望と都合のために能力を使っていた真琴だが、やがてあることに気づく

自分が能力を使うことによってだれかが損・被害を被っていることに気づくのだ。

そこで今度は自分の行いを修正するために(他人を不幸にしないために)能力を何度も使うが、なかなかうまくいかない。

これを映画「タイムマシン(THE TIME MACHINE)」(サイモン・ウェルズ監督/2002年/アメリカ)作品レビューと比べてみよう。

映画「タイムマシン」では、主人公アレクサンダーは愛するエマを取り戻したいがために、過去だけでなく未来へも旅をする。

アニメ映画「時をかける少女」では、まずは自分のために「時をかけ」て、次に自分の行いを修正するために(他人を不幸にしないために)能力を使う。

時間を旅する能力は同じでも、一方は愛する人を取り戻すために時間旅行をして、やがて大事なことに気づく。

もう一方は自分のために能力を使い続けるうちに、徐々に自分の外へ視野が広がっていき、やがて大事なことに気づく。

時間旅行のはじまりは異なっても、ゴールはほぼ同じだ。


■ いい意味で敷居が低い

注目すべきところは、時間旅行のはじまりとその過程が普通の人の行動っぽいところがアニメ映画「時をかける少女」の、いい意味で敷居が低いという点だ。

いうなれば、タイムリープ能力を身に付けた紺野真琴の目線は多くの観客と同じ目線である。だから、たとえ今は心から愛する人がいないかもしれない人でも、紺野真琴の行動には共感しやすいのだ。

いま愛する人がいる人は映画「タイムマシン」が向いている。映画「タイムマシン」の場合は、まずは主人公アレクサンダーがいかにエマを愛しているかを観客にわかってもらわければならい。だから作品の冒頭でアレクサンダーはエマにプロポーズしようとして、そこで暴漢によってエマが倒れるのだ。

アニメ映画「時をかける少女」では、主人公・紺野真琴には明確に意識している愛する人はいない。将来どうなりたいかのもわからない。将来についての漠然とした不安があるだけだ。

漠然とした不安。これこそ時代を象徴する言葉であり、青春とセットで使われる言葉でもある。


■ キャッチボールの役割・効果

真琴の状況をもっともよく表現しているのが、作品の冒頭(セットアップ)のキャッチポールのシーンだ。

キャッチボールと野球の遊び(3人しかいないためバッター、キャッチャー、センターぐらいなもの)に象徴される、コミュニケーションを図ろうとしつつも、よそ見をしたりでうまくボールをキャッチできないでいる主人公たちの様子は、真琴たちの現状をうまく表現している。

○プロポーズと死

○キャッチボール

どちらがより身近かといえば(生と死は表裏一体という意味では最も身近なのは「死」だが)ここでは一般的な意味でいうと、キャッチボールだろう。

どんな作品も冒頭、つまりセットアップを観ればだいたいわかってしまう。

キャッチボールはベタだが、それでも使う意味がきちんとある。ストーリーが進むにつれてキャッチボールの人数を変化させることで、主人公たちに気持ちの変化を表現もできるし、はじめとおわりをキャッチボールで挟む(サンドイッチにする)ことで、まとまり感も演出できるのだ。


■ 物語づくりにおけるビックキーワード

サバイバル。恋心。未来。不安。青春。

だれもが、あるある! と思わず頷いてしまう青春の1ページが、地味だが丁寧に織り込まれている。

たとえば真のクラスメートの早川友梨が間宮千昭に気があるところだ。本当は真琴も千昭のことが気になっている。けれどそれをはっきり意識したことがなかったけれど、早川友梨に千昭のことを聞かれる度に、自分も千昭のことがどんどん気になっていく。たとえ真琴がそれをはっきり意識していなくてもだ。

また、千昭は進路が決まっていない。真琴と功介と3人で毎日キャッチボールする毎日が居心地が良くて、ずぅっとそんな毎日がつづけばいいと思ってしまうあたりは、気の合う仲間と朝まで語り明かした若かりし日々を目を細めてなつかしむ者にとっては大いに共感できるところである。

このように、未来への不安・恋心→青春がきっちり織り込まれているのである。

さて、この青春の1ページにはサバイバルも加わる。

「サバイバル」は強力な欲求だ。
真琴は作品の早い段階で、己のサバイバルでタイムリープ能力を覚醒した。そして、作品の後半では大事な人のサバイバルのために奔走する。

「青春」というビックキーワードで感情移入をしっかりさせてから「サバイバル」というビックキーワードで一気に緊張感を高めているのである。


■ 走れ真琴

真琴はイマドキの高校生っぽいが、映像作品に合うようになっている点をあげるとすれば、よく動くことだ。

そもそも、語るより見せろ、が基本の映像作品はアクションと相性がいい。

真琴は毎朝のように遅刻ギリギリで家を飛び出す。坂を自転車で下り、踏み切りの手前ギリギリと止まったり、チャイムが鳴るギリギリに教室に着いたりと、作品のはじめからよく動く。

また、作品の後半で友人を助けたいために一生懸命に走るシーンがある。ここではとにかく走る。走る。走る。

サブ監督の「弾丸ランナー」を思い出させるほど走るのだ。しかも走っている真琴のカメラ位置がおもしろい。

走っている真琴の顔のアップを真横から撮る位置にカメラがあり、走り続ける真琴の顔がカメラのフレームよりも遅れて外れてしまいそうになるが、もっとがんばって加速して再びカメラのフレーム内に入ってくる、といった撮り方をしている。

走っているキャラクター(真琴)の横顔のアップを長回し(30秒以上はあったと思う)しているだけなのだが、カメラのフレームのちょっとした使い方で必死に走る様子がよく伝わってくるのだ。

物語の舞台は、都内とその近郊を中心としたいくつかの場所を元に設定された町。住宅地のロケハン先は中井、谷中、上野、荒川、千葉、幕張、荻窪といったところだ。

ということは、実際は30秒以上おもいっきり走り続けられるような町ではないはずだ。なぜなら、信号機がたくさんあるからだ。

もし、町中の風景が入った走るシーンを作ろうとすると、どうしても他の通行人や信号機の問題が出てくる。

信号機で止まってばかりでは「走る」というアクションが途切れて台無しになってしまう。

この点、キャラクターの横顔アップのカメラフレームを使った撮り方はなかなかおもしろいなぁと思う。


■ ひとこと

なるほど。これなら評判がいいのがわかる。

原作や過去に作られた映画とは、タイムリープ能力は同じでも、内容は違う。

大林宣彦監督、原田知世主演の「時をかける少女」を観た人でも、新鮮味を持って観られるようになっている。

今回ご紹介した劇場版アニメーションでは、原作の芳山和子が叔母として登場しているぞ。

最後に、アニメとして、劇場版アニメ「時をかける少女」とジブリ映画「ゲド戦記」のドライバーの腕(脚本)を比べると、例えるならF3000ドライバーとゴーカートドライバーぐらいの差がある、と付け加えておこう。

ファミリー  ○
デート    ◎
フラっと   ◎
脚本勉強 ◎
演出    ○
笑い    △
リアル   ○(キャラクター設定)
人間ドラマ ○
社会    ○

4041305217時をかける少女 〈新装版〉
筒井 康隆
角川書店 2006-05-25

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B000FGG80K時をかける少女 オリジナル・サウンドトラック
吉田潔 サントラ
ポニーキャニオン 2006-07-12

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B000IU3A2M時をかける少女
筒井康隆 大林宣彦 原田知世
角川エンタテインメント 2006-10-20

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10/13/2006

ゲド戦記の「?」―物語世界における出来事の意味―


ジブリ映画「ゲド戦記」にこんなシーンがある。


ハイタカが町の武器屋かなにかで、店員と話している。


そこへ背後から魔法使いクモの手下の男が近づいてきてハイタカに声をかける。


手下の男はハイタカを探しているため、とりあえず魔法使い風の格好をしている人に声をかけて回っているのだ。


背後から声をかけられたハイタカが振り返ると、ハイタカの顔が変化している。さっきまで武器屋の店員と話していたいつもの顔ではなく、魔法かなにかで別人の顔に変わっているのだ。


探している男ではないと判断した、クモの手下の男が去っていくと、ハイタカが武器屋の店員のほうに向き直る。――と、そのときは元のハイタカの顔に戻っているのである。


しかし、武器屋の店員は「あ、あんたいったい……」みたいなかんじで驚いてみせる。


さて、武器屋の店員はいったい何に驚いたのだろうか?


カメラワークとしては、だいたい以下のようだったと思う。

○武器屋の店員と話すハイタカの顔を映す。
 
  ↓

○背後から近づいてきたクモの手下の男を声をかける。

  ↓

○振り返るとハイタカとは別人の顔になっている。

  ↓

○クモの手下が去る。

  ↓

○武器屋の店員のほうへ向き直ると、元のハイタカの顔が映る。


つまり、観客にはハイタカが自分の身元がバレないようクモの手下にだけ別人の顔をつくってみせた(おそらく魔法によって)ことがわかる。


しかし、武器屋の店員にとってみれば、ハイタカはクモの手下の男と話すために向こうに顔をやって、またこちらに顔を戻したというただそれだけのことである。


ということは武器屋の店員が見ることができたハイタカの顔はひとつ(1種類)であったはずだ。


それにもかかわらず、ハイタカの顔が変化したことに驚いているかのようなリアクションをした武器屋の店員のカットには、きっとなにかの仕掛けがあるのか。はたまた私が気付かなかったショットがあったのかと思っていた。


この点についてジブリ映画「ゲド戦記」を観た知り合いとたまたまこの話になったところ、その知り合いも同じように思っていたことがわかった。


そもそもあのシーンは観客が驚くべきところを、驚きようがないキャラクターが驚いてみせてしまっているのではないか。


仮に武器屋がハイタカの顔の変化を知ることができる状況にあったとしても、わざとらしくビックリするのはいかがなものか。


物語づくりの基本テクニックとしては、キャラクターがビックリしたことを「びっくりした」とセリフにしてしまっては台無しになるので、例えば持っていた物を落す、といったアクションで驚いたことを表現する。


ところがジブリ映画「ゲド戦記」の武器屋の店員がびっくりしてみせたところは、観客に驚いて欲しいという作り手の気持ちが出てしまっている。


その気持ちはわからないでもないが、観客の「驚き」という楽しみを取ってしまうかのようで、たいへんもったいない。


そもそも武器屋の店員はハイタカの顔が変化したことを見ていないのだから一体なにを驚いているのかと、一部の観客に不思議に思われてしまっていては「ハイタカの顔変化」というネタの効果が薄れてしまう。


ネタの効果とは「驚き」であるが、顔変化の前フリもなくいきなり顔変化したので、たぶん魔法で都合よく顔を変えたのだろう、と観客は思う程度でそもそも驚きには至らない。


大抵のストーリー作りでは、顔を変える能力だけを持つ者Aがいて、そのAが重要な場面でその能力を活かすシーンを作ることで、観客に小さなカタルシスを与える。

「X-MEN ファイナルデジション」でいうと、壁をすり抜けられる少女がその能力を使ってどんな活躍をするのか、といったところだ。

「X-MEN:ファイナル ディシジョン(X-MEN: THE LAST STAND)」作品レビュー


一瞬で顔を変える(または壁をすり抜ける)という「ありえない魔法(能力)」に一連の流れを付けて「ありえない世界」においても、ある一定の制限(Aというキャラクターは顔を変化させるというひとつの能力しかない。または壁をすり抜けるというひとつの能力しかない)があることを示すことによって、観客に物語世界の枠組みを捉えさせることができるのだが、はたしてジブリ映画「ゲド戦記」ではこの効用を意識しているのだろうか。


ちょっと想像してみよう。もしも物語世界に枠組みがなかったら?


魔法使いだからなんでもできるなら、どんな物語構築上の障害を設定しても、どうぜ魔法でどうにでもるんでしょ、と観客に思われたらおもしろみはなくなってしまう。


「ドラえもん」が1話で1個のアイテムしかポケットから出さないのはこのためである。ひとつのアイテムにはひとつの効果がある。1話でいくつもアイテムが登場してはストーリーが破綻してしまうからだ。


そのためドラえもんの映画では、ストーリーを用意して、その目的を果たす為に複数のアイテムを使うという手法を使っている。


ハイタカは大賢人だという。それがどのくらいすごい魔法使いなのか詳細はわからないが、その呼ばれ方からしておそらく使えない魔法はないというぐらいの大魔法使いなのだろう。


では「ロード・オブ・ザ・リング」の魔法使いがあまり魔法を使わずに、その杖で敵をバンバン叩いていたのはなぜか?


魔法ばかりを使っていたのでは、物語世界の枠組みが薄れるからだ。


さてさてジブリ映画「ゲド戦記」のハイタカ顔変化のシーン。武器屋の店員がハイタカの顔変化を知るカットを私が見逃してしまっただけなのだろうか?


こうった「?」のシーンは、推理モノにはよく使われる。


例えば先日、日本テレビで放送された「名探偵コナン」実写版「工藤新一への挑戦状―さよならまでの序章―」では、バスガイドの西田麻衣(水川あさみ)のセリフに「?」というのがあった。


もちろんこの場合はその「?」が重要な手がかりになっていた。


つまり、観客に「?」と思われる部分があるとすれば、そこには必ず意味がなくてはならないのである。


物語世界では意味もなく雨は降らないのである。雨が降るには必ずなにかの意味がある(主人公の心情を表す。足跡を消す……等々)。


ジブリ映画「ゲド戦記」のハイタカ顔変化のシーン。
そこにはいったいどんな秘密(意味)が隠されているのだろうか?なにかがあるにちがいない。なにせ天下のジブリ作品なのだから……。


(ひとりごと)
名探偵コナン」実写版「工藤新一への挑戦状―さよならまでの序章―」の毛利蘭役の娘。アニメ版と全くイメージが合致しなかったな。ヒロイン役はかなり重要だし、ほかにもっと適任な娘はいくらでもいそうだけど。力ある事務所の強力プッシュで配役が決まったのか? と妙な想像をかきたてられてしまった。

「名探偵コナン」実写版「工藤新一への挑戦状―さよならまでの序章―」は名探偵コナンシリーズの物語がはじまるよりも以前のエピソードだよ。だから工藤新一が高校生の姿であり、まだ江戸川コナンくんではないのだ。


ジブリ映画「ゲド戦記」作品レビュー


ゲド戦記考察~脚本講座の生徒でもふつうはこうする~

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10/09/2006

最適な伝える方法とは~「フラガール」~

人に何かを伝える方法はいろいろある。


映画「フラガール」にこんなシーンがある。


福島県いわき市の炭鉱町にフラを教えるためにやってきたダンス教師・平山まどかが、いろいろあって常磐ハワイアンセンターオープンを目前に町を去ろうと夜の駅にやってきて、発車を待つ電車の座席に座っているときのことである。


その駅へ、教え子のフラガールたちが走ってやってきくる。平山まどかが乗っている電車が止まっているプラットホームの向かいのプラットホームに駆け込んできた教え子たちは、すぐに線路を渡って先生もとへ行こうとする。先生に町を離れることを思いとどまってもらうためだ。


しかしフラガールのリーダー・紀美子はその場のプラットホームにとどまって、向こう側の列車の中にいる先生にむかってフラを踊り始める。


実はかつてフラのフリは手話のようなものであり相手を大事に想う気持ちをダンスで表したものだという教えを受けていたのだ。


そこで紀美子はフラを踊ることで先生・平山まどかを大事に想う気持ちと自分たちのもとを去らないでほしいという願いを届けようとしたのだ。


すぐに線路を渡って先生の近くへ行こうとする気持ちもわかるが、先生から教えてもらったフラでメッセージを伝える紀美子のこの選択は、相手にとってどうしたら最もよく伝わるかをよく考えた結果による行動なのだ。


★ダンスも手話もコミュニケーションの手段であるから、相手や状況によってそれらを使い分けよう。


★ひとつの手段にこだわる必要はありません。


B000GLKMU6フラガール
ジェイク・シマブクロ サントラ ナレオ
ソニーミュージックエンタテインメント 2006-08-23

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4840115982フラガール
白石 まみ
メディアファクトリー 2006-08

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10/08/2006

映画ヒット作に共通のキーワード

先日、米ペンシルベニア州のキリスト教系一派「アーミッシュ」の学校で襲撃事件があった。


アーミッシュ(Amish)とはアメリカ合衆国のペンシルバニア州やオハイオ州に居住するキリスト教の一派であり、近代以前の生活様式を営む人々のことをいう。


電気や電話を使用せずに、動力としては風車や水車や馬車を使う。ボタン類のない質素な服装でいることが多いようだ。また、写真を撮ったり撮られたりすることを避けることが多いともいう。


映画に登場するアーミッシュとして有名なのは、ハリソン・フォードが出演している映画『刑事ジョン.ブック/目撃者』である。


事件を目撃した子供がアーミッシュであったため、刑事役のハリソンフォードは村に身を寄せるというストーリーで、事件とそれ追う刑事という「暴力」と、質素な共同生活をするアーミッシュの村という「非暴力」の対比を際立たせた秀作となっている。


アメリカ合衆国と、そこで暮らすアーミッシュの人々というのは、わかりやすい対比の構図を作ることができる。


ではどのような対比か。
それは「暴力と非暴力」「都市と村」といったものである。


これらキーワードを用いた作品に、シャマラン監督の『ヴィレッジ』がある。

映画『ヴィレッジ(THE VILLAGE)』作品レビュー


『ヴィレッジ』の村がアーミッシュだとはされていない。だが、村の生活様式はアーミッシュを彷彿とさせる。


アーミッシュとは違うであろうところのひとつは、外部との交流である。


アーミッシュの成人は車を運転しないが、旅行等では車や飛行機も利用するというから、共同体の外との交流は普通にあるようだ。


一方、映画『ヴィレッジ』の村は、共同体の外とは一切関係を持たない。外から村へ人がやってくることもないし、村から外へ人が出て行くこともない。


また『ヴィレッジ』の村では貨幣を使わないことからも、森に囲まれた村人たちは外部との交流を絶っていることがわかる。


アーミッシュにしても、映画『ヴィレッジ』の村にしても、世俗とはかけ離れたかのような共同体に象徴される「対比の構図」は映画づくりにはよく用いられる。


じつは対比の構図は多くのヒット作に用いられているのだ。


例えば以下のようなものだ。

●大企業の御曹司と普通の娘(身分違いという対比)
 【韓流ドラマにありがち】

●大富豪と娼婦の恋(身分違いという対比)
 【「プリティ・ウーマン」】

●一流企業勤務の美しいお嬢様とアキバ系ヲタクの
(系の違いという対比【映画「電車男」作品レビュー】

●過去からやってきた貴族と現代NYキャリアウーマンの恋
(時代・身分の違いという対比)【「ニューヨークの恋人」】

●会えばけんかの、身長が高めの女の子と身長が低めの男の子の恋
(身長差という対比)【映画「ラブ☆コン」作品レビュー】


もっと身近なものでは、いわゆるバディ(相棒)モノと呼ばれる作品がある。西部劇や刑事ドラマにおける相棒といったものだ。


ほら「海猿」シリーズでも、2人1組として活動する潜水士が、お互いのことをバディと言っていたのを覚えている方は多いだろう。


こういった作品では、主人公ふたりはとうてい相容れないかのような正反対のキャラクター設定となっていることが多い。


これをお笑い芸人で考えてみよう。


日本のお笑い芸人は、たいていコンビで活躍する。コンビの片方はボケ。もう片方はツッコミだ。もし両方ボケ、または両方ツッコミであったならどうだろう。なにかとやりにくいにちがいない。


さらに、芸人同士でキャラクターがかぶらないようにすることも大事だ。
「歌って踊れるデブ」というおいしいポジションを得た芸人(タレント)はそれで仕事が入ってくるようになるが「歌って踊れてモノマネができる芸人」がいつ現れるともわからないので心配する。


なぜ心配するのか?


それは、際立ったポジションを確立することで、他と対比して自分を売り込むチャンスが奪われるかもしれないと考えるからだ。


つまり「対比」される一方というポジションを確立したい、確立したら奪われたくないと思うからである。


AときたらB。BときたらA。AかBのどちらかに真っ先に自分の名(コンビ名)があがればしめたもの。


お笑い芸人にみるのと同じように映画でも「対比」というのはたいへんよく用いられている。


わかりやすい対比を設定して、キャラクターに肉付けすれば、あとは勝手にストーリーが進んでいく、という言い方もあながちうそではない。


そのくらい「対比」設定というのは有効だということだ。


映画を観るときに頭の片隅にでも「対比」というキーワードを入れておこう。意外な作品も対比をうまく使っていることに気付くことだろう。

B000B84MOQ刑事ジョン・ブック 目撃者
ピーター・ウィアー ハリソン・フォード ケリー・マクギリス
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2005-10-21

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10/07/2006

円周率と映画のみかた


突然ですが、円周率をどのくらい言えますか? 


3.14159……


円周率暗唱の世界記録を持つ千葉県の男性が記録更新に挑み、これまでの記録をおよそ1万6,000けた更新する10万けたで記録を更新しました。


記録更新にかかったのはなんと16時間以上。3人の立会人が間違いがないかチェックしました。


スゴすぎます。


記録を更新した男性はうれしそうにビールを飲んでいました。


どうやったらそんなに覚えられるのかとの問いに男性は、円周率の数字が私には物語になって見えるといったようなふうに答えていました。


ただの数字の羅列だったらとても覚えきれません。皆さんも電話番号やなにかの暗証番号をなにかの単語やイメージになぞらえて覚えていませんか?


番号を思い出すときにイメージして思い出した状況を単語に変換し、その単語から語呂合わせで数字にたどり着く。


これをもっと広がていけば、単語 → イメージ → ストーリーとなるのです。


一見するとバラバラにみえる物事にも、組み合わせてイメージすることでひとつの筋ができます。


この筋をストーリーといってもいいでしょう。


ストーリーを形作る能力というのは重要です。


あなたが生まれてきた意味を、あなた自身が作り上げることができるかどうかで、人生は大きく違ってくるからです。


なんだかデカイ話になってきたなぁと思った方へ。


実は、これは映画ヒットの秘訣でもあるんですよ。


「あなたが生まれてきた意味を~」云々。というのはいわば「自分さがし」です。
だれしも自分が生まれてきた意味を求めて苦悩・葛藤するときってあるものです。だから共感できる。だから需要がある。自分の物語をすぐに作り上げることが難しいと思っている人にはドンぴしゃりな題材なのです。


だから映画において「自分さがし」というのはたいへんおいしいキーワードなんです。


「めぐりあう時間たち(The Hours)」(作品レビュー)なんて、このキーワードを上手に用いていますよ。


さて、今回はたまたまストーリーを形づくる能力の表れとして円周率の暗唱をご紹介しました。


生命の誕生、成長といった流れにまつわる、一見するとバラバラにみえる出来事や事柄についても、自分でイメージして組み立てることができれば、人生の意味というストーリーをつくり上げることができます。


おそらく、円周率の暗唱記録を更新した男性は、自らのストーリーもまた作り上げることができるでしょう。


だからこそ、記録更新の後のビールをあんなにおいしそうに飲んでいたのです。


では、自分で自分のストーリーを作れない人はどうするのか?


実は自分でストーリーを作れない人というのはけっこういます。


そこで、そういった人々にストーリーを提供する人もいます。それはどんな人?


もう皆さんには察しがついているでしょう。


そうです。政治家や作家や映画制作者です。


政治家は、理想の国家、政治、生活というストーリーを説いて人々の支持を集めます。


作家は、小説という物語世界に読者を取り込みます。


映画製作者は、映画という物語世界に観客を取り込みます。


他人に物語を提供できるというのはたいへんな「力」なのです。


自分のストーリーを作れない・持てない人は、他人がつくったストーリーを選ぶことはできますが、それはあくまで受身です。


一方、ストーリーを提供できる人は自分の都合のいいストーリーを相手に与えることができます。(はたらきかけ、アクション)


自分でストーリーを作ることはけっこう大変だといって、だれかが提供してくれるストーリーをもらいつづけていては、いつまで経っても自分のストーリーを作ることはできません。


これは映画のみかたを考えるうえでとても大事なことです。


どうして幼い子どもは毎晩寝る前に同じ絵本を読んでくれとせがむのか?


どうしてハリウッドは映画産業が盛んなのか?


どうして日本の映画産業も勢いづいてきいたのか?


その答えを考えてみることであなたの映画のみかたが明らかになります。


あなたはストーリーを作れる人ですか? 


それともストーリーをもらい続ける人ですか?

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会社とスタッフが共に歩む~「フラガール」~

映画「フラガール」作品レビュー


石炭を掘っていた会社が温泉集客施設を作る。なんとも大胆なシフトだ。しかしやらないわけにはいかない。会社の存続と労働者の生活がかかっているのだから。


映画「フラガール」には描かれていないが、フラダンスの伴奏を担当するバンドマンも元炭鉱で働いていた人たちだったという。


炭鉱夫で楽器が演奏できた人がどのくらの割合でいたのかわからないが、いたとしても楽器演奏は趣味のレベルだったのではないか。


毎日シャベルやツルハシを持って穴を掘っていた人が、弦楽器の弦を指でおさえなければならない。演奏のまえに楽譜の読み方から学ばなかればならなかったかもしれない。


しかも当時(昭和40年代)はフラがどんな踊りなのかを知る人は田舎町では皆無に等しかったようだ。


半裸で腰を振ってヘラヘラ笑うおかしな踊りとしか思われていなかったフラの伴奏をする決心をすることが、炭鉱で働いてきた者にとってどれほど大変だったことだろう。


男は汗水たらして穴を掘り、女は男を助けて家を守る。という生活を長く続けてきた男達にとって、女たちの踊りを楽器の演奏でサポートするいわば脇役(実際は音楽と踊りは対等であるはずだ)かのような伴奏をしなけらばならないというのを屈辱と感じた人もいたかもしれない。


楽器を演奏するよりも炭鉱で穴を掘っていたほうが何倍も楽だと心底思ったかもしれない。


それでも楽器を練習した。


自分にはとうていできないと思っていたことでも、必要に迫られればできるのだ。


とはいってもどうしても楽器の演奏が向かない者もいる。そういう人は植物担当として南国の木々を世話した(映画「フラガール」には炭鉱夫からハワイアンセンターの植物担当になった男が登場する)。


植物担当のほうが楽器を演奏するよりも楽かというそうでもない。


東北の田舎町の寒さに、オープン前で給湯設備がうまく機能しないときなど、炭鉱町をリアカーを引いて周り、ストーブを借りてきて、南国産の木々の周りに置いて暖めたという。


このように、フラダンスの伴奏となる演奏も、南国風情を醸し出す南国木々の世話も、元炭鉱夫がしたのである。


炭鉱から温泉レジャー施設運営へ。


とうてい無理だと思うことでも会社はシフトした。炭鉱労働者をただ「きる」のではなく、元炭鉱労働者をハワイアンセンターの従業員として採用するよう努めたのである。そのために一から楽器の練習をさせ、炭鉱町の娘たちにフラを教えたのだ。


常磐ハワイアンセンターが今日まで営業しているのは(現在は「スパリゾートハワイアンズ」と名称変更している)、外からフラダンサーを連れてくることなく、外からバンドを連れてくることなく、自社の従業員を育てあげ、一緒に成長してきた歴史があるからだ。


あなたの(あなたが勤めている)会社は、自社の従業員を大事にしているだろうか。


あなたでなくてはならないと思わせるものが会社にあるだろうか。


明日から会社がこれまでとは別の新形態のビジネスに転換するとき、全くの素人となるあなたを引続き使ってくれるだろうか。


★ 顧客のほうを向くには、まず会社で働く人々の心を掴まなくてはならない。

★ 会社とそこで働く者は、共に歩むこと(供ではない)。

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10/03/2006

映画「タイヨウのうた」はお涙頂戴モノではない


オタスケマンの病気を使っているから映画「タイヨウのうた」はお涙頂戴モノかというと、そうではありません。


映画「タイヨウのうた」は、サラっと音楽系青春恋愛物語です。


さらに薫ちゃんと幸治くんの恋愛物語というのではなく、薫ちゃんをとりまく家族・友人・恋人の「愛の輪」の物語といったほうがいいのです。


つまり、病気というオタスケマンで泣かそうなんてはじめから考えていないようなのです。


これが意外性となってかえって好印象ですね。


私は、お涙頂戴モノなんだろうなぁと思いつつも、音楽という題材と岸谷五郎というキーワードに惹かれて観に行きました。


しかしそこに、オタスケマンを使ったお涙頂戴モノのイヤラシさはありませんでした。


いくら病気という設定だからといってずっと泣いているわけにもいきません。XPという設定の雨音薫が毎日泣き暮らしているだけなのを観るのは観客にとっては辛いものだからです。


観客は、雨音薫が好きな歌を歌いつづけ、恋もして精一杯生きる姿を観たいのです。


泣いてばかりの、泣かしてやろうという匂いプンプンだったら観客は離れていってしまうでしょう。


もちろん、オタスケマンを使いまくりのひたすら泣かしてくれマーケットというのもあるので、それにマッチした作品も作られています。「アルタの中心で愛を叫ぶ(←タイトル違うっしょ)」みたいに。


ひたすら泣かしてくれマーケットだけを狙うのも戦略ですが、私は幅広い層に観てもらいやすい映画「タイヨウのうた」や映画「フラガール」のほうが好感が持てますね。


★ 涙が目的ではなく、感動の結果として涙が出るというのが望ましい。


映画「タイヨウのうた」作品レビュー

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10/02/2006

映画「フラガール」の涙がイヤラシく感じないのはなぜ?

映画「フラガール」はお涙頂戴の演出のオンパレードで辟易(ひどく迷惑してうんざりすること。嫌気がさすこと。閉口すること)したとう声もチラホラきこえるようだ。


たしかに涙を誘うシーンが連続するので、私はウルウルしっぱなしであった。


とはいえ私は、いわゆるお涙頂戴作品ではまず泣かない。


韓流映画「連理の枝」でも、職人技でんな~と感心しても泣きはしなかった。


アルタの中心で愛を叫ぶ、みたいな作品は……予告編だけでお腹一杯で観てもいない。観てもいないのだからあまり語ってはならないのでアルタの中心で~(←タイトル間違ってるヨ)についてはココまでにしよう。


「いま、会いにゆきます」は一箇所だけ澪が永瀬みどり(巧の同僚)と喫茶店で話すところで泣いた。


澪は永瀬みどりに、自分がいなくなったら巧と佑司のことをよろしくと頼むのだが、そのときの澪が流す涙……。というシーンがけっこうグッときた。


あとはSFちっくな仕掛けに思わず「こういう使い方もいいね」と思ったぐらいで泣きじゃぐるなんてことはなかった。


なんて冷たい奴だ。


と思われたかもしれないが、涙を誘う物語づくりにおいては「3つのオタスケマン」をどのくらい使っているかによってハードルが上がったり下がったりするので、あまりに低いハードルは泣くどころではなくなっ
てしまうためである。


3つのオタスケマンとは「子供、病気、死」だ。


どれかひとつだけでも観客の涙を誘うには大きな効果が期待でき、涙を誘うことはそんなに難しいことではない。


「連理の枝」「アルタの中心で愛を叫ぶ(←だからタイトル間違えてるって!)」「いま、会いにゆきます」に3つのオタスケマンのうちひとつでも当てはまるかどうか考えてみよう。


「連理の枝」……病気・死

「アルタの中心~」……病気・死

「いま、会いにゆきます」……子供・死


ちゃんと当てまっているね。


では映画「フラガール」はどうだろう?

たしかに「フラガール」でも「死」の要素が入っている。だがそれは炭鉱の落盤事故によるものである。炭鉱の仕事はいつも危険と背中合わせだ。


そういった危険を承知で炭鉱労働に従事している人々というのは涙を誘うためのオタスケマンではなく、前提だ。


それはフライトアテンダントの仕事が常に飛行機墜落の可能性をゼロにできないのと本質ではほぼ同じである。


飛行機が墜落するかもしれないということだけを切り取って涙を誘うためのオタスケマンにするのではなく、そういった可能性がゼロではないなかでいかに感動物語にするかが腕のみせどころなのだ。


なぜなら、たとえ職場が炭鉱や飛行機でなくても、どんな仕事をしていても100%安全というのはないのだから、職場によって危険度の差はあっても、そういった仕事を含めた「日常」でいかに感動を与えられるか。


涙はあくまで感動の結果として流れるものなのである。


さて炭鉱町の物語・映画「フラガール」に「3つのオタスケマン」のうちひとつでも当てはまるだろうか?


その前に、そもそもオタスケマンを使ってもいいのである。感動を与える有効なオタスケマンを使わない手はないのだから。


重要なのはオタスケマンの使い方である。
オタスケマンを使いながらも、あたかも使っていないかのようにみせることもできるのである。そういう技ができるようになると玄人だなぁと思う。

これでもかというお涙頂戴モノのイヤラシさとは、言い換えれば工夫せずにオタスケマンを素のまま使っているところからくる体臭のようなもので、そういう作品はニオうので予告編だけでもある程度はスグにわかってしまう。


話を「フラガール」に戻そう。
オタスケマンはいうつみつかっただろうか?


子供……フラガールのひとりはたしか子持ちだったなぁ。

病気……みあたらない。

死 ……炭鉱の落盤事故による死はあるが、それは先に話したとおり。


こうしてみると、あからさまな「3つのオタスケマン」は使っていないのである。


オタスケマンは涙を誘うための文字通りの「オタスケマン」だ。ということは映画「フラガール」はオタスケマンなんぞなくても、自力で涙を誘えているということだ。


これは実話を元にしているのも大きな要因だ。


実話を映画化するとたいていはあまり面白くはない。実話はその本人にとっては劇的でも、広く一般の人にとってはどうでもいい場合が多いからだ。


それに実話を元にすると、通常なら物語構築上ここで第二ターニングポイントを持ってきて、サブプロットも配置してとするところを、実話に遠慮して好き勝手に変えることもできない。したがって、あまりおもしろみのない作品になってしまうことが多い。


しかし映画「フラガール」はひとりの人間だけの実話ではない。常盤炭鉱とそこで働き、生活していたすべての人の実話である。


いったいどこまで演出しているのかはわからないが、常磐ハワイアンセンターオープンまでの苦労は実話であって、そういった大きな括りでの実話の力を上手に用いたといえよう。


実際、3つのオタスケマンを使っていないにもかかわらず「人が生きる姿」にちょいと映画的な演出(音楽付けたり編集したり)を施すことでこれほど涙を誘う作品をつくりあげてしまったのだ。


オタスケマンに頼らない、自力・自立したオトナの作品。


それが映画「フラガール」だ。


余談だが「フラガール」はアメリカ合衆国でヒットするだろう。


日本人のハワイ好きはなぜ? という問いで注目を集められそうであり、再生の物語はストーリー構築の基本として広く世界中にあるから、需要もあるというわけだ。


お笑い芸人コンビ「南海キャンディーズ」のしずちゃんも、キャラクターとして目立つ。こうしたわかりやすい特徴あるキャラクターはウケる。しずちゃんのハリウッド進出もありえないことじゃぁないかもしれないぞ。

▼スパリゾートハワイアンズ

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