01/01/2012

映画「借りぐらしのアリエッティ」

監督:米林宏昌
日本/2010年/94分
原作:メアリー・ノートン『床下の小人たち』


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「人間に見られてはいけない。」  (引用: 『借りぐらしのアリエッティ』公式サイト


見られちゃいけない? でも、やっぱり見られちゃうんでしょ? 


開かずの金庫があれば、開けてみたいと思うもの。だから見られちゃいけないという設定(金庫を置いたら)をしたら、当然のように見られちゃう(金庫が破られる)であろうことを観客は期待します。


そうすると、見られちゃうまでどうやって観客を引っ張るかが大事なポイントとなります。そのテクニックをみてみましょう。


作品の冒頭。病気療養のために、母親が育った古い屋敷にやってき少年・翔。到着してすぐに庭で小人らしきものを目撃した……かもしれない。そんなシーンがあります。


いきなり見られちゃった? ……かもしれないで留めておくのが大事なポイントですね。


小人の少女・アリエッティは、葉に隠れていたから人間には見られていない、と言うけれど観客は翔が「見た」であろうと思うわけです。


冒頭でいきなり、見れたかもしれない、というように、観客の好奇心をあおるチラ見せがあります。これはなかなかの技ですね。


ほかに注目すべきは、物語の前半の早い段階で人間である翔の事情よりも、まずは小人であるアリエッティの生活や事情の詳細が描かれる点です。


これは「人間に見られてはいけない」というキャッチコピーであらかじめ観客の視点を小人側にに合わせておいたからこそできるものです。


もしも「人間に見られてはいけない。」というキャッチコピーがなかったならば、物語の冒頭から前半においては、普通は人間側の視点で描かれるでしょう。だって観客の多くは人間だから(小人もいるかもしれませんが…)。


あくまで小人側から描くことで、人間に見られる決定的瞬間に至るまでじゅうぶんに観客の興味を引きつけつつ、本来はよくわかっているはずの「人間」のほうをミステリー仕立てにできています。


その様子を盛り立てるのが「狩り」です。物語の早い段階で小人・アリエッティの事情を伝え、続けて彼らの「狩り」の様子が緊張感いっぱいに描かれているのです。


狩りとは、小人たちが人間から必要なものだけをそっと借りてくることをいいます。もちろんこれは「狩り」と「借り」がかかっています。


「狩り」には14歳のアリエッティがはじめて参加することになります。このときの父親と母親の会話に、アリエッティも14歳になったのだからこれからはひとりで生きていく術が必要だ、みたいなやりとりがあります。


これはまるで宮崎駿が、米林宏昌監督といった比較的若い世代に今後の作品づくりを期待するかのようなところを彷彿とさせるセリフでもありますね。


されはさておき、こうしてアリエッティは初めての狩りに父親とふたりで夜中に出発します。


ちなみに父・ポッドは口数が少なく、必要なことしかしゃべりません。冷たいわけではなく、アリエッティや妻にやさしいことばをかけることもある。これも宮崎駿をイメージさせる部分かもしれませんね。


そんな父とふたりでの、初めての「狩り」。観客のだれも見たことがないと思えるような小人の大冒険。そしてもちろん、人間に見られてはいけない……。


――でも、当然のようにこの狩りの途中で人間・翔にバッチリ見られてしまいます。


ここまで一気に物語を進めていくテンポの良さはいったいどこで身につけたのだろうと思えるほどですね。


そして人間にバッチリ見られてしまった後に物語の前面に押し出されるのが……「葛藤」です。

■「葛藤」が物語に活力を与える


物語の登場キャラが魅力的かつ立体的であるために必要なこと。それは変化。


物語のはじめと終わりとでは、登場キャラの内面の変化が行動となって表れるのが良い作品の典型です。


変化→行動→結果こそが、作品のエンディングに観客の心に響く余韻を残せる作品にできるかどうかを大きく左右します。


変化をもたらすためには、安定したままではいけません。不安定にしなければなりません。


不安定にするためには「葛藤」が有効です。葛藤の典型的な例には父と子の関係があります。「スターウォーズ」シリーズがその最たるものですね。


「借りぐらしのアリエッティ」では葛藤を生じさせるために、ぱっと見はおなじ世代の少女・アリエッティと少年・翔のふたりに、滅びゆく種族(小人)と、ますます増え続ける種族(人間)との対比や対立といった構造にしていますね。


ここで、ふたりの会話でのお互いの立場に注目してみましょう。


一見するとやさしい翔は、アリエッティに、君たちは滅び行く種族だ、といったように言います。


ずいぶん冷たい言葉のように感じされるそれは、翔が自分に対して言っているとも考えられます。なぜなら彼は近日中に心臓に関する手術を受ける予定で、それが困難なものであると自覚しているからです。


そもそもアリエッティも翔も、年齢からすれば普通だったらまさに「これから」なわけです。


でもお互いに事情があって未来がないかもしれないと感じてもいる。それでもアリエッティは、だからこそ精一杯生き抜いてやると血気盛んです。なぜなら、小人という種族は消え行くかもしれなくても、アリエッティ自身は14歳であり、若さと活力がみなぎっているから。


一方の翔は人間という種族はまだまだ増えていくかもしれなくても、自身は体の調子がよくはないために、血気盛んというわけにはいかない。


ただ、困難であろう手術が成功して元気になれる可能性が全くないないわけじゃないようです。調子が優れないために前向きな気持ちになりにくく、また周囲に彼を精神的にサポートする者(人間)があまりいないことなどから、生きる希望の灯火が消えつつある。


そんなふたりが出会い、対立することでお互いに変化が生まれる。その変化が観客にもわかりやすいよう、アリエッティに対するネコの態度に変化をつけるなど、なかなか細かいアシストもしていますね。


また、変化はふたりだけに生じたものではありません。アリエッティの父ポッドにしても、足を怪我するなど徐々に老いを感じつつも、家族のために住み慣れた家を離れる準備を着々と進めていきます。


母ホミリーにしても、心配性で住み慣れた家を離れたいとは思わないものの、娘のため、夫のため、なんだかんだ言いつつも家族と新天地へと旅立ちます。


これは小人の少年・スピラーに出会ったことで、まだ自分たちと同じ種族がほかにもどこかで生活していることを知って希望を持てたことも大きいのでしょう。


葛藤を通して変化し、その結果として長年住み慣れた家を離れ、新たに旅立つシーンで終わる本作品は、北野武監督の『キッズ・リターン』を思い出させます。


いろいろあったけど、まだ終わっちゃいない。これからだ! という自身を鼓舞するかのようなメッセージですね。


そういった意味で『借りぐらしのアリエッティ』は、まるで宮崎駿のリハビリのようでもあります。

■ やればできるじゃないか


それにしても原作が良いのだろうと思いますが、たとえそうであってもその良い原作を選び取るセンス(何十年も前に企画していたものらしい)もいいですね。


脚本は宮崎駿氏だそうですから、物語に思い入れ過ぎずに素直にやりさえすれば、観客に広く受け入れられやすい作品を作れることを改めて知らしめましたね。


これにはちょっとホッとしました。というのは、宮崎駿監督作品のいくつかは、おそらく本人の思い入れや力(りき)が入りすぎてけっこうはチャメチャになってしまった作品がいくつかあるからです。


また、比較的若い監督に作品を作らせても『ゲド戦記』のように、物語づくりのノウハウを伝えることをしてこなかったのか、またはしようとしないのか? と首を傾げたくなるような例があったからです。


▽関連記事
『ゲド戦記』で露呈か!ジブリの悲劇?
~宮崎駿作品群の「ムラ」のワケ~ver3.0

賛否両論の理由がピクサー短編作品との比較で明らかに!?


まぁ親子(父と子)っていうのはいろいろと難しいところもあるのでしょうけれど『ゲド戦記』でいろいろと学んだのでしょう。もしそうなら『ゲド戦記』にもそれなりの意味があったのではないでしょうか。


あえてエラそうに言えば「やればできるじゃないか」といったかんじです。


より正確には、やればかなりできるじゃないか、ですね。


ジブリ作品には(個人的には)アタリとハズレが大きいですが、宮崎駿個人の天才的(?)才能だけに頼ることなく、それなりの人物なら誰でもヒット作を作れる物語づくりのノウハウの蓄積と若手監督などの育成に今後も力を注いでいってもえたらいいなと思います。


そんなわけで個人的には、ちょっとホッとした作品でした。


<ブブリ関連作品>

▼「ゲド戦記」作品レビュー
  スタジオジブリの「悲劇」を露呈しつつも、名前・言葉・言霊の題
  材が興味深い。必要なのはストーリーづくりのノウハウ。

▼「崖の上のポニョ」作品レビュー  
  まんまキリスト教の影響受けまくりのド真ん中直球勝負作。
  オトン涙!不良家出娘の嫁入り珍道記。キリスト教色をカラフルに
  ベタ塗りか? 実は超ホラー?

▼「千と千尋の神隠し」作品レビュー

▼「ハウルの動く城」作品レビュー

原作:メアリー・ノートン『床下の小人たち』

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07/16/2011

『ゲド戦記』で露呈か!ジブリの悲劇?~宮崎駿作品群の「ムラ」のワケ~ver3.0

  
この記事の内容は、あくまで感想・推測・推論の域を出ない。記事を読み、ジブリ作品群をじっくり観てどう感じるかはアナタ次第である。

(この記事は『ゲド戦記』公開当事に書いたものに、一部加筆・編集したものです)

●『ゲド戦記(TALES from EARTHSEA)』

監督:宮崎吾郎
日本/2006年/115分
原作:アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記』

                            
■ バックグラウンドを匂わしただけ


「ゲド戦記」のアレンにしてもハイタカにしてもテナーにしても、彼らのバックグランドはどこにも描かれていない。匂わしているだけだ。


おそらく、日本では原作を読んだことがない人が多いであろう。そんな作品の登場人物のバックグランドをどこにも描かずに匂わすだけというのは……これを斬新というべきか。


「名探偵コナン」の江戸川コナン君が難事件を解決しようとするのはなぜか。それは天才高校生探偵(姿は小学生)だからだ。――探偵だからである。もしふつうの男子高校生が見ず知らずの難事件を解決しようとしたら、観客の頭には疑問が浮かぶ。なぜこの男子高校生は難事件を解決しようとしてるのか――と。


観客が感情移入できるだけの理由を提供する。これが映画に限らず、物語の基本だ。しかしながら「ゲド戦記」ではアレンがなぜ父王を刺して国を出たのかが描かれていない。
                             

満ち足りた環境にありながらなにかが足りないと感じる、だから生きている実感を得るために、父王の世界から自由になりたい。というのがアレンの動機なのだろうが、映像作品ではたとえ短いシーンであってもきっちりと父と子の関係を描かなければならない。


そうでなければ、はじめて登場していきなり父王を刺すアレンにいったい誰が感情移入できよう。ただなんとなくそういう若者の心の闇の一端もわかるような気もするよ、とやさしい人は言ってくれるかもしれないし、はたまた物語の根底にはよく登場する「オイディプスコンプレックス」という言葉を聞いたことがある人には「おそらくこれはオイディプスなんちゃらってことで処理してほしいのだね」と寛大な理解を示してくれるかもしれない。


だが、観客にそんな気を使わせる作品でいいのだろうか? 観客の感情移入が先ず必要だ。感情移入されない主人公がどんなに活躍しようとも観客は応援はできないからだ。残念ながら「ゲド戦記」はこのもっとも大事な部分が抜けてしまっているのだ。


                             
■ スタジオジブリ作品群の「ムラ」のワケ


なにをアタリで、なにをハズレとするかは人それぞれだが、たとえ観客動員数が好調でもスタジオジブリ作品にはその出来においてムラがある。


個人的に好きなのは「天空の城ラビュタ」「千と千尋の神隠し」「魔女の宅急便」といった作品群だ。逆にちょっと首を傾げてしまうのは「もののけ姫」「ハウルの動く城」である。


もちろんどの作品も映像はきれいだし、独特のジブリワールドがあって好きな作品だ。しかし、わかりやすさとストーリーという点からいうと「もののけ姫」や「ハウルの動く城」は奥が深すぎる。


もし、子供も大人も楽しめるのがアニメーション作品の成功だとするならば「もののけ姫」と「ハウルの動く城」はかならずしも成功とはいえない。


それでも人気があって観客動員も好調なのはジブリブランドのおかげだ。スタジオジブリの代名詞にもなっており、ジブリブランドの象徴の巨匠がいるのはいいことだが、もし巨匠が作品を作らなくなったらどうなるのだろうか。
 
                            
そのあたりをプロデューサーの鈴木敏夫氏は考えてのことだろう、後継者を育てはじめた。それは宮崎駿氏の長男の宮崎吾郎氏のことだ。


父親の宮崎駿氏は「ゲド戦記」製作においては原案に名があるだけで、直接の制作には関わっていないようだ。


親子というのはいろいろとあるだろうが、息子にさえ作品づくりのイロハを手取り足取り教えてあげないのはたいへんもったいない。とはじめは思ったのが、どうやらそうでもないかもしれないと思いあたった。


というのも、そもそもスタジオジブリの映画作りの方法に、そのヒントがるように思うのだ。


スタジオジブリの映画作りの多くは、宮崎駿監督がおおまかな全体像をすべてひとりで決めて、スタッフにそれぞれ仕事を振り分けるというやり方だという。宮崎駿監督は、だれかからヒントを得てそれがいいと思ったら、それまで1年ほど準備していた企画をすぐにやめて、一気にストーリーの全体像を作り上げてしまう、そんな人らしい。

                             
直感と思いつきを一気に物語にできる瞬発力を持った宮崎駿監督の作品は、みんなでアイデアを出し合ってストーリーを作り上げるといった性格のものではないのだろう。宮崎監督の想像力で構築された世界を表現したものだ。


そういうわけで、スタジオジブリ作品の出来のほとんどは宮崎駿氏にかかっているのであって、ストーリーづくりのノウハウが蓄積されてはいないのではないか、と思う。


天才のひらめきと猛烈な仕事量ですばらしい作品を作りつづけてきたスタジオジブリには、優秀なアニメーターが集まった。しかしひとりの天才が引っ張るが故にストーリーづくりという意識は薄く、そのためストーリーづくりのノウハウも蓄積されない。


ノウハウがないのでそれを共有・強化していくこともできない。それを決定的に露呈したのが「ゲド戦記」だ。


コンテンツ作りにおいても「背中を見ろ」なんてことを言ってる場合でも時代でもないことは誰の目に明らかである。息子にさえ伝えるノウハウがないとするならば、これをカーレースで例えるならば、最高のエンジンが載ったF1マシンがありながら、レースでの運転テクニックを知らない新人ドライバーがひとり誕生した、といったところだ。
                             

「ゲド戦記」を観て、宮崎吾郎監督の人柄や気持ちは伝わってきた。優秀なアニメーターたちという、レースでいれば優秀なメカニックがそろっているだけに、もしほんとうに運転テクニックのノウハウが蓄積されていないのだとすれば、それはまさに悲劇としかいいようがない。


メカニックのためにも、一輪車にエンジンを積むことなく、せめてぜひストーリーとの二輪車にエンジンを積んでカッ飛ばしてもらいたい。


スタジオジブリのブランドは強力だ。だが強力だからこそ一度信用・信頼を失うと、そのダメージははかりしれなく大きくなる。


宮崎吾郎監督の登場で踏み出した新たな一歩を、大いに応援したい。まずはピクサーが技術の実験・検証の場としてはじめて、その後に新人の力試し・育成の意味あいが大きくなってきた短編部門をおおいに参考にしてほしい。


特に「カーズ」と同時上映の短編映画「ワン・マン・バンド(One Man Band)」に最近のアニメ作品を取り巻く状況が風刺的かつ魅力的に描かれている。ここからはすこしCGも含めたアニメーションの話になっていく。

                             
「ワン・マン・バンド」では、ふたりのストリートミュージシャンが、少女ティッピーのもつ一枚のコインを得るために演奏で競い合う。ふたりとも多くの楽器で音楽を奏でることがでるのだが、その目的はコインだ。一枚のコインを得るためにがむしゃらにがんばって演奏する。

■ こう考えてみよう(「ワン・マン・バンド」)


ストリートミュージシャンは映像制作会社。楽器は映像表現技術、ここではCGとする。そして楽器の数や種類はCGをはじめとするビジュアルエフェクト技術の数々としよう。


多くの楽器(CG技術)を駆使して次から次にライバルと競い合ってがむしゃらに演奏(CG作品制作)するワンマンバンドがいるとする。


コイン1枚というご褒美をめぐって過熱する演奏(CG作品制作)対決がはじまる。対決は激しさを増し、ついにはふたりのワンマンバンドが同時に演奏(作品制作)をはじめる。


すると演奏(CG作品)は騒音(駄作)へと変わり、おもわず両耳をふさぐ少女ティッピー。……すると小さな手からこぼれたコインは地面に落ちてコロコロと転がっていく……。
                             


■ 少女ティッピーの願いはなんだろう(「ワン・マン・バンド」)


CGという新しい表現技術を手に入れ、年々高性能になっていくコンピュータによって、それまで不可能とされていた映像をつくれるようなるにつれて、我先に最新のCG技術を使って作品を作りつづけてきたCG業界(みたいなもの)の有様を風刺的にあらわしたワンマンバンドの対決は、観客(少女ティッピー)がはたして何を求めているのかを読み取る作業を忘れているのでないかという大事なことに気づかせてくれる。


そもそも、少女ティッピーは1枚のコインをもって広場になにをするためにやってきたのだろうか。


ストリートミュージシャンの演奏を聴きにきたのではない。広場の噴水にコインを投げ入れて願い事をしようとやってきたのだ。少女ティッピーの願いごとはなんなのかと想像することもなしに、コイン目当てに少女の気を惹くために演奏合戦を繰り広げるワンマンバンドの姿はあなたの目にどのように映るだろうか。
                             


■ ちょっとした演奏なら誰でもできる(「ワン・マン・バンド」)


少女ティッピーは小さな弦楽器のひとつを手にとると、さっさとチューニングを済ませてすぐに演奏をはじめる。なかなかの腕前だ。すると見知らぬ通りすがりの人がコインがぎっしりと入った袋をドサッと置いていく。


これはシャレのきいたシーンだ。楽器の演奏、つまりCGを使った映像制作にかぎらず、アニメ制作もちょっとの手間とパソコンとCGソフトさえあれば小さな子供だってはじめられる。子供が作ったにしてはスゴい! 未来のCG作家・アニメ作家現る! などととりあげられて、それを観た投資家が融資してくれるなんてちょっとアリそうと思わせるところがシャレている。

■ 結婚式で例えるなら(「ワン・マン・バンド」)


どっさりとたくさんのコインを手に入れた少女ティッピーが2枚のコインをちらつかせてワンマンバンドたちの注意を惹き付ける。はたしてワンマンバンドたちは念願のコインを手に入れることができるのか。
  
                           
そして作品のラストシーンでワンマンバンドたちがとった行動こそが、結婚式で例えるならケーキ乳頭(ナイティナイン岡村さんのギャク)、あ、いやケーキ入刀(はじめての共同作業)だ。


ワンマンでがむしゃらに演奏(CG)技術を競い合ってきたきた者同士のはじめての共同作業とは?ひとついえることは、とってもオチャメで、江戸っ子でいうなら「粋」な風刺画といったところだ。

■ 「ワン・マン・バンド」のメッセージとは?


「ワン・マン・バンド」という作品を、CG作品として作る。これこそピクサーのメッセージなのだ。


CG技術(多数の楽器と演奏技術)をがむしゃらに競い合って一枚のコイン(数字上だけの作品順位トップ)を手に入れる競争を続けていくことの滑稽さをCG作品で描いたピクサーの思いやメッセージはどんなものなのか。


それは、ストーリーの重要性だ。

                             
ピクサーの作品づくりでは通常、台本や絵コンテを作成しながらはじめにストーリーを組み立てる。ピクサーがひとつの作品を完成させる期間は4年間。そのうち半分の2年間をストーリーとキャラクターづくりに費やすという。作品のはじめにするのはストーリーづくり。それも2年。


「ワン・マン・バンド」のメッセージとはズバリこれだ。「ピクサーはCG屋ではない。ストーリーテラーである」


そしてこのメッセージをCGを使った物語で伝えていることが、作ればヒット!の常勝軍ピクサーのチョットばかり、いや、かなり超越しちゃった感アリのオチャメさも忘れない貫禄といったところなのだ。


さて、スタジオジブリは何屋なのか? 


真似をしようとはいわないが、スタジオジブリも短編部門を作って優れたストーリーテラーを発掘してはどうか。それがいずれストーリーづくりのノウハウを蓄積していくことにつながり、スタジオのためにもなるにちがいない。
                             

個人的には「ゲド戦記」はかなり楽しめた。だからこそ、ノウハウがないかのような部分がもったいなくてしょうがなくなってしまうのである。


スタジオジブリが宮崎駿という屋号かのように思われている現状から脱却するために踏み出した新たな一歩を、ぜひとも応援したい。

 
そこでもう少し踏み込んで、どうすればもう少し良くなるのかを考えていきたいと思う。

■ アレンの旅立ち


作品の冒頭、父王を刺したアレンはすぐに旅に出ている。って早ッ!思い出してほしい。スターウォーズシリーズエピソード4でルークは田舎の星で叔父夫婦と暮らしている。


すぐにでも冒険に出たいと思っているが、なかなかそんなチャンスがない。ロボットを買ったことがきっかけでオビ=ワンに出会い、やっとのことでレイア姫救出のために星を出ることができる。


スターウォーズシリーズが古今東西の神話の形式を取り入れているのは有名だ。ということは、あらゆる神話・物語の基本においては、主人公はすぐには旅立たないのである。

                             
すぐにでも旅立ちたいと思っていても、なんらかの設定上の障害(コンフリクツ)があってそうもいかない。


そこへ外部からってきたある人物がきっかけで、障害(コンフリクト)またはカセといわれるものを取りはらい、やっと主人公が旅立つ。


このように、旅立つまでをきちんと描かなくてはならないのだ。なぜなら、主人公がなぜ旅に出たいと思っているのか、旅にでてどうするのかがわからなければ観客は主人公を応援できないからだ。


主人公が旅立つ動機と目的をはっきりさせて、それがいかに大事かを伝え、旅立つ前の困難を一緒に乗り切って魅せる(魅力的にみせるの意味)ことで観客は主人公を応援したいと思うのだ。これを観客による主人公への感情移入という。


アレンがなぜ旅立たったのか(動機)


アレンはどこへなにをしにいここうとしているのか(目的)


まずはこれをじっくり描くべきなのだ。
 

                            
■ やさしさをにじませよう


クライマックスで少女テルーは、魔法使いクモ(いわゆる悪役)に、闇は闇に帰れ、といった意味のことをいう。


これには驚いた!


思い出してほしい。「千と千尋の神隠し」で千となった千尋が油屋で働いているとき、フラッと現れたカオナシに千はなんと言ったかを。


油屋の縁側の外の庭にぼぉ~と立っていて一向に中に入る様子を見せないカオナシに向かって、あっちへ行けよ、なんてことは千は言わなかったはずだ。


ここ、開けておきますね。


といった意味のことを言って、縁側の扉を開けたままにして自分の仕事に戻ったはずだ。すなわち受け入れたのである。


「ハウルの動く城」で魔法をかけれておばあさんになってしまったソフィーがハウルの動く城にやってきたとき、ハウルはソフィーを追い返しただろうか。

                             
いやそんなことはない。ソフィーはカルシファーとうまく話をつけて火を使えるようにして卵とベーコンを焼いてみせた。それがきっかけで動く城の掃除や食事づくりなどをするようになったのだ。


ハウルもカルシファーも、ハウルの動く城の住人はソフィーに出て行けなんてことはいわずに受け入れたのである。そしてソフィー自身も、荒地の魔女を受け入れて世話をしたのだ。


闇は闇に帰れ。


このセリフを聞いたときに、これはマズいぞ、と思った。なぜなら、たとえ悪役でもこれを受け入れることで主人公の成長が描けるのに、これをバッサリ切り捨ててしまったのでは、さてほかにどのように成長を描くとっておきのものがあるものやら、と思ったからだ。


実際には「とっておきのもの」は見当たらなかったわけだが……。


悪役はあくまで主人公を引き立たせるためにあるのであって、悪は悪として叩き潰すだけでは物語に奥行きは出せない。ぜひ受け入れる姿勢と心意気を示してほしかった。
                             


■ ゲド戦記の「?」―物語世界における出来事の意味―


ジブリ映画「ゲド戦記」にこんなシーンがある。


ハイタカが町の武器屋かなにかで、店員と話している。そこへ背後から魔法使いクモの手下の男が近づいてきてハイタカに声をかける。


手下の男はハイタカを探しているため、とりあえず魔法使い風の格好をしている人に声をかけて回っているのだ。


背後から声をかけられたハイタカが振り返ると、ハイタカの顔が変化している。さっきまで武器屋の店員と話していたいつもの顔ではなく、魔法かなにかで別人の顔に変わっているのである。


探している男ではないと判断した、クモの手下の男が去っていくと、ハイタカが武器屋の店員のほうに向き直る。――と、そのときは元のハイタカの顔に戻っている。


しかし、武器屋の店員は「あ、あんたいったい……」みたいなかんじで驚いてみせる。


さて、武器屋の店員はいったい何に驚いたのだろうか?


カメラワークとしては、だいたい以下のようだったと思う。


○武器屋の店員と話すハイタカの顔を映す。
 
  ↓

○背後から近づいてきたクモの手下の男を声をかける。

  ↓

○振り返るとハイタカとは別人の顔になっている。

  ↓

○クモの手下が去る。

  ↓

○武器屋の店員のほうへ向き直ると、元のハイタカの顔が映る。


つまり、観客にはハイタカが自分の身元がバレないようクモの手下にだけ別人の顔をつくってみせた(おそらく魔法によって)ことがわかる。


しかし、武器屋の店員にとってみれば、ハイタカはクモの手下の男と話すために向こうに顔をやって、またこちらに顔を戻したというただそれだけのことである。


ということは武器屋の店員が見ることができたハイタカの顔はひとつ(1種類)であったはずだ。


それにもかかわらず、ハイタカの顔が変化したことに驚いているかのようなリアクションをした武器屋の店員のカットには、きっとなにかの仕掛けがあるのか。はたまた私が気付かなかったショットがあったのかと思っていた。


この点についてジブリ映画「ゲド戦記」を観た知り合いとたまたまこの話になったところ、その知り合いも同じように思っていたことがわかった。


そもそもあのシーンは観客が驚くべきところを、驚きようがないキャラクターが驚いてみせてしまっているのではないか。


仮に武器屋がハイタカの顔の変化を知ることができる状況にあったとしても、わざとらしくビックリするのはいかがなものか。


物語づくりの基本テクニックとしては、キャラクターがビックリしたことを「びっくりした」とセリフにしてしまっては台無しになるので、例えば持っていた物を落す、といったアクションで驚いたことを表現する。


ところがジブリ映画「ゲド戦記」の武器屋の店員がびっくりしてみせたところは、観客に驚いて欲しいという作り手の気持ちが出てしまっている。


その気持ちはわからないでもないが、観客の「驚き」という楽しみを取ってしまうかのようで、たいへんもったいない。


そもそも武器屋の店員はハイタカの顔が変化したことを見ていないのだから一体なにを驚いているのかと、一部の観客に不思議に思われてしまっていては「ハイタカの顔変化」というネタの効果が薄れてしまう。


ネタの効果とは「驚き」であるが、顔変化の前フリもなくいきなり顔変化したので、たぶん魔法で都合よく顔を変えたのだろう、と観客は思う程度でそもそも驚きには至らない。


大抵のストーリー作りでは、顔を変える能力だけを持つ者Aがいて、そのAが重要な場面でその能力を活かすシーンを作ることで、観客に小さなカタルシスを与える。


「X-MEN ファイナルデジション」でいうと、壁をすり抜けられる少女がその能力を使ってどんな活躍をするのか、といったところだ。


▼「X-MEN:ファイナル ディシジョン(X-MEN: THE LAST STAND)」作品レビュー


一瞬で顔を変える(または壁をすり抜ける)という「ありえない魔法(能力)」に一連の流れを付けて「ありえない世界」においても、ある一定の制限(Aというキャラクターは顔を変化させるというひとつの能力しかない。または壁をすり抜けるというひとつの能力しかない)があることを示すことによって、観客に物語世界の枠組みを捉えさせることができるのだが、はたしてジブリ映画「ゲド戦記」ではこの効用を意識しているのだろうか。


ちょっと想像してみよう。もしも物語世界に枠組みがなかったら?


魔法使いだからなんでもできるなら、どんな物語構築上の障害を設定しても、どうぜ魔法でどうにでもるんでしょ、と観客に思われたらおもしろみはなくなってしまう。


「ドラえもん」が1話で1個のアイテムしかポケットから出さないのはこのためである。ひとつのアイテムにはひとつの効果がある。1話でいくつもアイテムが登場してはストーリーが破綻してしまうからだ。


そのためドラえもんの映画では、ストーリーを用意して、その目的を果たす為に複数のアイテムを使うという手法を使っている。


ハイタカは大賢人だという。それがどのくらいすごい魔法使いなのか詳細はわからないが、その呼ばれ方からしておそらく使えない魔法はないというぐらいの大魔法使いなのだろう。


では「ロード・オブ・ザ・リング」の魔法使いがあまり魔法を使わずに、その杖で敵をバンバン叩いていたのはなぜか?


魔法ばかりを使っていたのでは、物語世界の枠組みが薄れるからだ。


さてさてジブリ映画「ゲド戦記」のハイタカ顔変化のシーン。武器屋の店員がハイタカの顔変化を知るカットを私が見逃してしまっただけなのだろうか?


こういった「?」のシーンは、推理モノにはよく使われる。


例えば日本テレビで放送された「名探偵コナン」実写版「工藤新一への挑戦状―さよならまでの序章―」では、バスガイドの西田麻衣(水川あさみ)のセリフに「?」というのがあった。


もちろんこの場合はその「?」が重要な手がかりになっていた。


つまり、観客に「?」と思われる部分があるとすれば、そこには必ず意味がなくてはならないのである。


物語世界では意味もなく雨は降らないのである。雨が降るには必ずなにかの意味がある(主人公の心情を表す。足跡を消す……等々)。


ジブリ映画「ゲド戦記」のハイタカ顔変化のシーン。そこにはいったいどんな秘密(意味)が隠されているのだろうか? なにかがあるにちがいない。なにせ天下のジブリ作品なのだから……。

■ 脚本講座の生徒でもふつうはこうする


この際、原作「ゲド戦記」は棚に上げて(まったく関係なく)脚本講座の生徒でもふつうはこうするというのを提示してみることにする。


好き勝手やっているやんちゃ兄王子(長男・主人公)弟王子がすこぶるまじめで人望も厚く次期王にとの声が多い。そのためやんちゃ兄王子は弟王子を憎んでいる。
 
 ↓

遊びたくて、一旗上げたくて無理を言って父王の財産を分けてもらい旅立つ兄王子。
 
 ↓

分けてもらった財産で傭兵団を作り、父王の名を借りずに自分の名を上げようとする。しかし腕は立つが野心が強くて部下の信頼を得られず、大事な戦で部下の裏切りにあって敗戦。やがて資金が尽き、傭兵団は消滅する。
 
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傭兵団でやんちゃしたツケで首に懸賞金をかけられてひとり逃げる日々。やがて食べるものにも困り、奴隷になる。

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奴隷の漕ぎ手として商船に乗り込まされた主人公は、それまで偏見を持っていた異国の青年奴隷に助けられ、危険が伴ったいくつもの航海を乗り切る。

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ある航海で嵐にあい、船もろとも置き去りにされそうになったところで異国の青年奴隷と力を合わせて奴隷見張員から鍵を奪い自由の身になる。このとき他の奴隷も解放する。船は沈没。嵐の海を生き延びて島へ漂着。

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生き残った元奴隷たちと共に島で暮らす。共同作業を通して異国人への偏見をなくし、友人を得る。島の娘と恋に落ち、愛情を育む。友情と愛情を得た主人公は、遠い噂で弟王子が戦地で窮地に陥っていることを知る。
                             
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元奴隷で友人になった者のなかには元軍人や没落貴族がいた。そこで船を調達して没落貴族の隠し財産がある島へいき、資金を手に入れ、元軍人たちが声をかけて集めた猛者たちと共に義勇軍を結成する。
 
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義勇軍を率いた兄王子は、弟王子を救うべく救援に向かう。
 
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弟王子の軍を助け、大勝利を収める義勇軍。助けてくれた義勇軍の長が兄王子だと知った弟王子は、たいそう喜んで駆け寄る。するとかつてのやんちゃ兄王子(主人公)は弟王子の足元にひざまづいてこう言う。「自分は勝手に国を出た身。あなたの家来にしてください」すると弟王はこう答えた。「父は1年前に亡くなりました」そして主人公を立たせてその手を高く掲げる。「わが兄、わが国王に祝福を! 万歳!」
                             

タイトルは「王の帰還」。


っておもいっきりパクリではないか!(笑)


タイトルだけではない。この展開は主に3つの有名な物語の要素をふんだんに取り入れている。ひとつは「ベン・ハー」。さらに「グラディエーター」。「グラディエーター」は「ベン・ハー」を研究して、ほかに旧約聖書のヨセフの物語なども取り入れた作品であることはピンとくる作品だ。


そして3つめは「放蕩息子の話」である。「いなくなった息子」ともいわれるこの物語は、新約聖書のルカによる福音書第15章にある。


「放蕩息子の話」では弟息子が主人公だ。彼は財産を分けてもらって町に行き、さんざん遊んでいたらお金がなくなり、友達もいなくなり、飢饉になって豚の世話人になった。お腹が空いて豚の餌を食べたいと思ったときにようやく我にかえり、父の家に帰って使用人として使ってもらおうと出発する。
 
                            
父は、息子がまだずっと遠くにいるのにその姿をみとめ、走って迎えにいって、帰ってきた息子のために祝宴を開いた。


こういった有名な物語をつなぎ合わせてみたのだが、いかがだっただろうか? ほかにも奴隷となった主人公が、それまで偏見を持っていた異国の青年に助けられて友人になるというのは、エドワード・ノートン、エドワード・ファーロング出演の映画「アメリカンヒストリーX」に似たようなプロットがあるのを思い出したので取り入れてみた次第である。

■ スタジオジブリの悲劇!?


思いつきでサッと書いてみた「脚本講座の生徒でもふつうはこうする」は、ちょっとでも脚本を読んだことがる人なら、いやちょっとした映画好きならだれでも思いつくことだ。


まして、ヒット作をいくつも制作しているスタジオがこうした物語構築上のお約束(基本形)を全くといっていいほど無視するとは、普通ならば考えられないことだ。


あるとすれば、とんでもないドンデン返しのためにあえて基本をすっ飛ばしたと考えるしかないのだが……どうもそうでもないらしい。これはスタジオジブリの悲劇といってもいいのではないか。
                             


■ スタジオジブリに必要なこと


それは、優秀なアニメーターという腕のいい職人さんたちが存分に力を発揮できる環境を未来にわたって構築していくことを、いますぐにでもはじめることだ。


「ゲド戦記」を観て切にそう思った次第である。


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06/22/2011

映画「アリス・クリードの失踪」


「アリス・クリードの失踪(THE DISAPPEARANCE OF ALICE CREED)]

J・ブレイクソン監督 2009年 101分


Comments(論評、批評、意見)
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満員の客席。映画が始まった。


ふと、視界の隅がチカチカする。


どうやら隣の席の人が手に持ったケータイが光っているようだ。着信アリのお知らせなのだろう。


数十分後。隣の席の人はやっと気づいたようだ。チカチカとしたその光はおさまった。


暗い映画館のなかで手に持ったケータイの光に気づかないほどに冒頭10分間のシーンにその観客は吸い込まれていたのである。
(ケータイの電源は切ってほしいのはいうまでもない)


さて、3人と一室。基本はたったこれだけで観客を夢中にさせる映画をつくれるか。


もしもそれができる自信を持てなければ、きっと他人を楽しませることは一生できない。


そんな意気込みや希薄がビシバシ感じられる本作のJ・ブレイクソン監督は、短編映画を自主制作して高い評価を得たのち『ディセント2』の脚本を共同執筆。そして自主制作になっても自ら監督するために書いた「アリス・クリードの失踪」で長編監督デビューを果たす。


冒頭の約10分間。アパートの部屋や車に黙々と細工を施し、アリス・クリードを誘拐してベッドに縛り付けるまで、ふたりの男は一切しゃべらない。聞こえる声はアリスの悲鳴のみ。


それは、200万ポンドを手に入れるための用意周到な誘拐計画のはじまりだった。


だが、生き抜く希望をけっして捨てないアリスのとっさの行動をきっかけに、誘拐犯との関係がめまぐるしく変化していく。


物語の内容についてこれ以上は「何も言えねえ」(北島康介選手ふう)


さて、この作品のテーマやそこで描かれるものは多々あれど、私がひとつだけ取り上げるとするならば、覚悟と意気込みだ。


冒頭10分間、登場人物はだれも言葉を発しない映画。登場人物は3人。舞台は8割ほどアパートの部屋。


まるで意地悪な制約がある罰ゲームのようだが、これを監督は自らに課した。


一見するとそれは悪条件だが、考え方を変えるとそうではない。鉄は熱いうちに打たねばならないというから、過酷な状況や条件のなかで鍛えられてこそ、タフな作品が出来上がることをこの監督は知っているだけでなく実践したのである。


冒頭10分間。ふたりの男が黙々と作業する様子は「映像は語るより見せろ」の基本に忠実だ。観客はアクションの中から物語世界の約束事を理解しようと目を凝らし何が起きようとしているかを見極めようとする。


登場人物にひとこともしゃべらせないうちに、こうして観客は早い段階ですんなりと作品世界の住人となる。


そもそも物語の約束事は観る前の予備知識として観客は持っている。誘拐の話だというのがそれだ。たいへんわかりやすいお題が先に「どーん」と与えられているので観客は迷うことはない。


迷わないから安心できる。それでいてドキドキしながらこれからはじまる物語世界へ足を踏み入れていくことができるようになっているのである。


こういった作品で重要なのは、観客に伝える情報量をいかに調整するかである。


はじめてアリスと誘拐犯の関係が変化した瞬間に、観客は物語世界の登場人物との秘密を共有することになる。これは「情報における共犯関係」の成立にほかならない。


観客との共犯関係を築けるかどうか。映画がヒットするかどうかはここにかかっているといってもいい。共犯関係が成立したとき、物語は一気に動き出す。


さて登場人物は3人だ。ふたりではない。3人集まればトライアングルを形成することできる。


恋愛でも三角関係というのはよくある(?)もの。どんな恋愛作品だってトライアングルを基本に展開する。


『アリス・クリードの失踪』もその例に漏れないのだが、はじめはそうとわかりにくいようにしている。それは犯人が男ふたりだからだ。


ふたりというのは「0か1」の世界である。非常にハッキリした関係だ。だからそこに隙間が生じにくい。つまり、物語が動き出しにくいのだ。


犯人がふたりだから仲間割れも起こりにくく、まったく硬直したように物語は動きようもないと思えるのが普通だ。それに登場人物の数は決まっているから、ますます何がが起きるとは思いにくい。でも、何かが起きるから映画になった。


タネも仕掛けもあるはずなのに、とうていマジックが成立するとは思えないと感じさせる。そんな挑戦状を叩きつけれた観客は、ならば監督のお手並みを拝見させてもらおうという気にもなる。


観る側の準備運動をこれほどしっかりやってくれる作品だから、観客は冒頭10分を過ぎる頃にはますます内容が気になっている。


こんな冒頭10分間をつくれる度量を持つには、それ相当の覚悟と意気込みが要る。


監督はこの作品で、登場人物3人だけのほぼ限定された空間という条件でこれほどのことができるということを、これ以上ない方法で証明してみせた。


内容について話すことができない(そういう種類の作品な)ので、ここではひとりの人間の覚悟と意気込みを垣間見れる貴重な機会を与えてくれる作品とだけ伝えておこう。


もちろんこれはモンモノのダイヤの原石であり、それは自ら磨いてこそ輝き、人目につくようになる。そんな作品である。


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